皇室と『論語』 (四)  

明治大帝を模範とされた昭和天皇は、この祖父が天地神明に誓われた「五箇条の御誓文」の精神を重んじられ、敗戦後、初めての国民への詔書(いわゆる「人間宣言」)で、新生日本建設の指針として「五箇条のご誓文」を掲げられたが、そのご誓文の原案の起草者であった由利公正は、それが四書の思想に由来することを自伝で告白している。

 若き日の昭和天皇、すなわち裕仁親王の倫理学を担当した杉原重剛は、御進講の大体の方針を次のように述べている。

 一つは三種の神器に則り皇道を体し給う事、
 一つは五箇条のご誓文を以て将来の標準と為し給うべき事、
 一つは教育勅語のご趣旨の貫徹を期し給うべき事。

 後者二か条は要するに明治大帝を模範とされよ、ということであるが、一つ目の三種の神器(鏡・玉・剣)はただ皇位の御証としてだけでなく、それぞれ知・仁・勇の三徳を表すものである。北畠親房、中江藤樹、山鹿素行、頼山陽など、皆説いてきたところであり、支那の古典『中庸』はこの三者を天下の達徳とし、『孟子』の五倫五常もこの三徳なしでは為しえない。これは西洋で言えば知・情・意に当るもので、東西説くところは同じである。
 杉原はこのように説いた。
 これは明治維新の精神の継承といってよい。
 ここで神話という古代日本人の精神の記念碑に、多くの人々が生きる規範としてきた儒教徳目が重ね合わされる、という重層性に注意を喚起しておきたい。


 昭和天皇の御心に杉原の帝王教育が生きていたことは、日米開戦前の御前会議で明治天皇の御製「よもの海 みなはらからと 思ふ世に など波風の たちさわぐらむ」を詠み上げで再考を促したことでも拝察できるし、敗戦後、日本の復興に向けての指針として「五箇条の御誓文」を示された昭和二十一年元旦の詔書(いわゆる「人間宣言」)にも表れている。

 また、ポツダム宣言の受諾を決意された、いわゆる御聖断のこころを詠んだ御製にも明らかだ。

 「身はいかに なるともいくさ とどめけり ただたふれゆく 民をおもひて」

 これは『論語』の言葉で言えば「身を殺して以て仁を為」したということだ。
 昭和天皇の知・仁・勇はここに凝縮したといっても過言ではないだろう。
 これが口先だけの奇麗事でなかったのはマッカーサーとの初会見で証明されている。
 
 昭和天皇が同じく被占領期に国民に対する願いを詠んだ次の御製にしてもそうだ。

「降り積もる 深雪に耐えて 色変えぬ、松ぞ雄々しき 人もかくあれ」

 この御製の本歌(?)は『論語』の一節

「子曰く、歳寒くして、然る後、松柏の彫(しぼ)むに後(おく)るを知る」

であると拝察される。

 実は『論語』のこの条の次は次のようになっている。

「子曰く、知者は惑わず、仁者は憂えず、勇者は懼れず。」

 御聖断の時の昭和天皇は、まさに知・仁・勇を行った。
 日本の国體はこの時まさに昭和天皇の両肩に圧し掛かっていたといえるだろう。
 昭和天皇の偉大さ、延いては皇室伝統の偉大さがこの時発揮されたのである。


 皇太子時代の今上陛下も五十歳の御誕生日(昭和五十八年)に記者から座右の銘を尋ねられて、『論語』の一節をお答えになられている。

「好きな言葉に忠恕があります。『論語』の一節に『夫子の道は忠恕のみ』とあり、…自己の良心に忠実で、人の心を自分のことのように思いやる精神です。」

 今上陛下は、漢学者の宇野哲人を東宮御所に招いて、現皇太子殿下・浩宮徳仁親王に、七歳からの学習院初等科時代の六年間、『論語』の素読を学ばせている。「浩宮」「徳仁」を四書の一つ『中庸』から択んだのは、この宇野哲人であることからも今上陛下のご信頼の程が拝察できるだろう。

 宇野哲人は明治中期の欧化思想の盛んであった時代に、時流に逆らって、わが国の漢学の伝統を滅亡の危機から救おうとの悲愴な決意をした学者である。渋沢栄一晩年の『論語』の先生でもある。

 現皇太子殿下の中等科の二年間は、同じ漢学者で息子の宇野精一が御進講を行った。
 精一は今上陛下への『論語』の御進講を担当してきた漢学者でもあった。

 西尾氏は「孔子が『怪力乱神を語らず』と言って、人間以上の力を持つものの存在を認めなかった儒学の伝統に従い、江戸の儒学もまた合理主義に傾く傾向が強かった」と書いておられるが、それは朱子学的伝統ではそうはいえても、少なくとも我国体に醇化された日本儒学の伝統、なかんづく皇室の儒学受容の伝統ではそうでなかっただろう。

 福田恒存は次のようなことを書いている。

「宇野精一氏に聴いた話だが、孔子が重んじた『禮』とは人間の窺知し難い自然や神霊のタブー(禁忌)に近づきその怒りや祟りを鎮めるための手段、儀式であったといふ。それならタブーの無くなった文明社会では「禮」は存在理由を失ったのだらうか。さうは言へまい。」(「東風西風」)

 
 これが今上陛下に『論語』の御進講を行ってきた宇野精一の「禮」に対する認識である。当然『論語』を進講するに当って、「禮」の意義をそのように説明したであろう。
 そもそも、皇室の本質とは祭祀・祭礼にあるのだ。


 古来、皇室には怨霊信仰があり、その祟りを鎮めるために祭祀を重んじてきた事実がある。これは神霊の存在を前提としたものであり、古来支那では「鬼神」と表現されてきたものであった。
 皇室は怨霊を鄭重に祀る事で、その祟りを鎮め、逆に守り神にしようとした。これを御霊信仰という。

 菅原道真が怨霊として恐れられ、手厚く祀られたのはよく知られるが、その最も有名な事例が、崇徳上皇であろう。
 崇徳上皇は皇室を恨んで配流地である讃岐において憤死し、史上最大の怨霊として恐れられた。上皇が舌を切って滴る血で五部大乗教の写本に書き付けた「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」との『保元物語』の呪詛はよく知られる。
 この呪詛が事実であったかどうかわからないが、上皇の崩御後、世が乱れ、源平の争覇が進行する中で、上皇の怨霊が朝廷で意識されるようになったのは事実である。
 上皇の呪詛は鎌倉幕府の成立、そして、いわゆる「承久の変」における北条氏という地方武士による上皇・天皇の配流によって実現した。
 以来、崇徳上皇の怨霊は最大の怨霊として、まさに大魔縁として恐れられるようになった。
 そして、世が乱れるたびに想起されたのは『太平記』にも表れている。
 これらの事は竹田恒泰氏の『怨霊になった天皇』(小学館)に詳しい。

 幕末の騒乱期、孝明天皇はやはり崇徳上皇の霊を想起された。事実、朝廷において、崇徳上皇の霊を京にご還幸いただくことが議された。元治元年のことである。
 元治元年と言えば、天狗党の義挙、池田屋事件、禁門の変(蛤御門の変)、四国連合艦隊下関砲撃事件、長州征伐との事件が相次いだ年である。
 ちなみに沖永良部へ死罪一歩手前の遠島に処されていた南洲翁が召還され、本格的に活動を開始するのもこの年である。

 明治天皇は先帝の御遺志を継いで、崇徳上皇の命日に当たる慶応四年八月二十六日、讃岐白峰にある崇徳上皇の御陵に勅使・源通冨を派遣した。
 勅使の目的は、崇徳上皇の霊を慰めるとともに、京都へのご還幸を請うことにあった。
 明治天皇の即位の礼は、その願文が讃岐白峰で読み上げられた翌日、八月二十七日に行われた。
 そして、九月六日、崇徳上皇の霊は、ご還幸のために新たに建立された京都の神社にご還幸になり、天皇親ら迎拝し、二日後の八日、明治への改元は行われている。
 つまり、明治改元へのスケジュールは、記憶される限り最大の「神霊のタブー(禁忌)に近づきその怒りや祟りを鎮めるための手段、儀式」である「禮」の進行に沿って定められたのである。

 怨霊の祭祀を通じての維新事業に対する守護神化、すなわち怨霊の鎮魂による御霊信仰がこれら一連の事件の根底にはある。
 明治天皇は、その意味での祭礼を決して怠らなかった。
 もちろん、祭祀は崇徳上皇に対してのみ鄭重に行われたわけではなく、この内乱期の多忙混乱の中で、祭礼は決して疎かにはされなかった。

 例えば明治への改元に先立つ慶応四年三月十四日、「五箇条の御誓文」が、天皇御親ら天地神明に誓われる祭礼を行ったのは、天皇が群臣に誓う形式にしては支那皇帝流の覇道に堕してしまうとの批判が内部から起ったからである。
 つまり、「礼」はわが国体を意識して行われたのである。


 また、皇室の重んじることの一つに和歌がある。
 今でも歌会始は重要な皇室行事の一つであるが、この詠歌にも同様の作用が認められる。

 紀貫之撰の『古今和歌集』「仮名序」は和歌について次のような説明がなされている

「和歌は、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける。世の中にある人、事・業しげきものなれば、心に思ふ事を、見るもの聴くものにつけて、言ひ出せるなり。花に鳴く鶯、水に住むかはづ声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。力を入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼_をもあはれと思はせ、男女のなかをもやはらげ、猛き武士の心をもなぐさむるは、歌なり。」(『古今和歌集』岩波文庫)

 漢文で書かれた「真名序」では下線部は「動天地、感鬼神、化人倫、和夫婦、莫宜於和歌」となっている。

 和歌の作用の一つに、鬼神をあはれと思わせる、つまり感動せしむる、というのがあるのである。

 日本最初の勅撰和歌集『古今和歌集』が編纂されたのは、後世、天皇親政の理想時代とされ、維新の一つの源流となった「延喜・天暦の治」の前者で、醍醐天皇の時代である。和魂漢才の忠臣・菅原道真が活躍し、失脚したのも、この延喜帝の時代である。醍醐天皇の崩御は菅公の怨霊の仕業ではないかと都では恐れられた。

 この時代は、戦後の歴史家によって、律令政治の最終段階であるとともに、王朝国家体制への移行期とされ、その理想視に水を差されたが、挫折したとは言え、いや挫折したからこそ、天皇親らの復古的改革への意欲が、後世、非上流貴族の理想とされ、継承された、と理解すべきではないかと思う。
 前回触れたように、この時代、「道」という自覚的な生き方を日本人に教えた『論語』の価値が非常に高まった時代であった。 

 「仮名序」によると、当時は漢学が隆盛を極めた時代で、和歌は「色好みの家に埋れ木の人知れぬ事となりて、まめなる所には、花すすき穂にいだすべき事にもあらず」という有様だったという。
 これを救おうとしたのが、醍醐天皇の御心だった。

 醍醐天皇の勅命は、「仮名序」では「いにしへの事をも忘れじ、古(ふ)りにし事をも興したまふ」「今もみそなはし、後の世にも伝はれ」となっていて、「真名序」の同じくだりを書き下すと「既に絶えたる風を継がしむことを思ほし、久しく廃れたる道を興さむことを欲す」と表され、明確に「道」という漢語で表現されている。
 大和言葉では「道」という漢語の使用が避けられたということだろうか。ということは「道」という観念は当時、まだ外国から渡来したものと明確に意識されていた、ということだ。


 この大御心を受けた紀貫之はこの「仮名序」、『土佐日記』の作者でもあることからもわかるように、仮名による大和言葉の表記に対する思い入れの強かった人物だ。

 実は紀貫之の「貫之」の名は『論語』「里仁」篇の「一以て之を貫く」に由来している。

 孔子は若い弟子の曾子(参)に言った。
 「参よ、吾が道は一以て之を貫く。」
 参「はい」とのみ答えた。
 やがて、孔子は出て行った。
 すると参の弟子が「どういうことですか」と尋ねた。
 参が答えて言うに、「夫子の道は忠恕のみ」と。

 つまり、今上陛下が感銘を受けた一節は、孔子の言葉ではなく、「吾が道は一以て之を貫く」という孔子の言葉に対する曾子の解釈なのである。 

 孔子は吾が道は一以て之を貫くと言ったが、何を以て貫くとは言っていない。
 荻生徂徠は、言わなかったのではなく、言えなかったのだと解釈している。

  
 もちろん、紀貫之にとって、一以て之を貫く吾が道とは、和歌を起点とする一つの道であっただろう。
 それが『古今和歌集』編纂および「仮名序」の執筆、そして副産物として『土佐日記』を生んだ。そして、見事に和歌を自覚的な歌の道として再生せしめた、と言っていいだろう。

 その「仮名序」の中で貫之は、『論語』をわが国にもたらした和邇の難波津の歌と『万葉集』に収められた、不機嫌だった葛城王(橘諸兄)をなだめるために采女が詠んだ和歌を挙げ、「この二歌は、歌の父母のやうにてぞ、手習う人のはじめにもしける」としている。つまり、和邇の難波津の歌は和歌の父のようなもので、母である采女の詠歌とともに、手習いの始めに習うものであったという。古代において『論語』をもたらした和邇は、文字や和歌の世界においても特別な存在に位置づけられて記憶されていたのである。

 貫之はこの難波津の歌は「帝(みかど)の御初(おほむはじ)めなり」としていて、『詩経』六義の「風」に当る「そえ歌」であるとしている。
 『詩経』は孔子が学問の初歩として最も重んじた書物だ。
 このように、『論語』は和歌の自覚化、歌の道としての再生に密接に絡み合っているのである。

 
 以上、『論語』がいかに我国の文化の土壌に深く根を下ろし、からみついて、ともに支えながら生長してきたものであるかを念頭に置きながら書いてきた。
 西洋由来の「保守」思想から見て、これらは本来、支那と日本を起源とする別のものであるべきはずで、癒着ということになるのかもしれない。
 だが、外科手術でこれを無理に引き剥がそうとすれば大変な出血をともなうことになる。現に戦前のいわゆる皇国史観によって、前面に押し出された惟神の道は大きな傷を被ったのではなかっただろうか。
 

(「西尾幹二氏への数言 五」終わり)




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