今なぜ皇室と『論語』について書くのか

『西郷南洲伝』「維新初政」編 「薩摩藩邸焼き討ち」をブクログにて追加配信いたしましたのでお知らせいたします。


 http://p.booklog.jp/users/yamatogokoro


 テーマは旧幕・陸軍方主導の薩摩藩邸焼き討ちをどのように評価するかですが、大事なのは、江戸撹乱工作の意図を持たなかった薩摩藩首脳と、焼討ちを決定した旧幕府内における政治的意思決定の経緯との比較です。
 この比較を通じてむしろ、勝てば官軍、と考えていたのが徳川方であったことが理解できるはずです。
 結果的に敗れた彼らが、幕末史を振り返って、自らの発想を王政復古討幕派の行動に推しあてた。言い方は悪いですが、いわば邪推、下種の勘繰り、というやつです。
 それが佐幕派の主張する維新史であり、これを支えているのが庶民の敗者、失敗者に対する判官びいきの感情なのです。

 対立する双方に正義と非があり、開戦は時の勢いだったとしか言いようがないのですが、その内容を腑分けし、比較考量しなければ、高度に文明的、かつ政治的であった維新史が、安易で幼稚な明治礼賛の裏返しとしての江戸時代暗黒史観、その反作用としての薩長陰謀史観に陥ってしまいます。
 
 そして、そういった安易で幼稚な史観は、現在進行中の政治を見る眼も歪めてしまうのです。


 さて、ここのところ西尾幹二氏の一言をきっかけに、「皇室と『論語』」というテーマで記事を書いてきましたが、この多事争論のご時世に何と迂遠なことを書いているのか、とお思いの方もおられる事でしょう。
 実際、現在の日本は厳しい東アジア情勢の中で、米中のくびきを絶って、自主独立の道を歩むか否かの岐路に立たされています。安倍政権はその試金石となるでしょう。
 私の関心もそこに集中しております。

 様々な人々が同じ関心から見解を述べ、情報を発信しておりますが、それが紛擾雑駁、まとまって公論とならないのは、議論の本位が定まらないからです。
 福沢諭吉が『文明論之概略』の初章で「議論の本位を定る事」と題して次のように論じています。

 「都(すべ)て事物を詮索するには、枝末を払いてその本源に溯り、止まる所の本位を求めざるべからず。」

 「議論の本位を定めざれば、その利害得失を談ずべからず。」

 これが紛擾雑駁の原因です。

 わが国が現在直面する難問を論じるに当って、まず問われなければならないのは、まずはわが国の本源、すなわち国體なのです。

 この抽象的で言葉に表しにくい国體という観念を論じると、どうしても一般の方には迂遠と感じられるでしょう。

 『論語』にも同じような問題が語られています。


 ある時、政治的センスの鋭い弟子の子路が師である孔子に尋ねたことがあった。
 
「衛の君主が先生を迎えて政治を為すとしたら、まず何から始めますか。」

「きっと、名を正すことから始めるだろう。」

「これだからな、先生の迂遠なことといったらありゃしない。何でそんなことから始めるのですか?」

「がさつだねえ、お前は。君子は知りもしないくせに余計なことを言ったりしないものだ。
 いいかい。
 名が正しくなければ、言っていることが支離滅裂でおかしくなる。
 言っていることがおかしくなれば、事(仕事・事務・事業・政事)は捗らず成らない。
 事が成らなければ、礼楽(今で言う文化、秩序)は盛行しない。
 礼楽が盛行しなければ、刑罰も適当でなくなる。
 刑罰が適当でなくなれば、民は安心して暮らせない。
 だから君子は正しく名づければこれを言わなければならないし、言ったなら必ず実行しなければならない。
 君子は自分の言葉においていやしくするところがあってはならないのだ。」



 この孔子の思想は現在の欧化した政治思想の中では迂遠に位置づけられるものでしょうが、時代の寵児、橋下徹氏の発言を例に挙げればわかりやすいでしょう。

 橋下氏の「大阪都構想」という名のおかしさは、石原慎太郎氏の指摘を待つまでもなく、そもそも日本において都とは天皇陛下の在ますところを指す言葉である事からして論外であるし、地方分権ならともかく、地方主権も言葉そのものがおかしい。
 最近の憲法改正に関する発言では、弁護士として憲法を学んだ経験からか、日本国憲法的発想から、憲法とは権力を縛るものであり思想書ではない、としてますが、もちろんそういった面があるにしても、この「憲法」という言葉を英語の「コンスティチュション」の訳語とするなら、国體を表現したものとするのが正しいし、聖徳太子以来の「憲法(いつくしきのり)」の名を継承したものとするなら、その中心に国のあり方に対する理想や思想が織り込まれていても、何ら問題ないはずです。

 弁護士からバラエティ番組での人気を梃子に成り上がった、口達者な今太閤・橋下氏と、その彼が政治的手法を真似ているように見受けられる、小説家から政治家に転身した石原氏では文学の素養が全く違う。
 今のところ彼には政治における名を正し、言順なることの重要性を認識しているようには見えません。

 彼の挑発的で大衆受けを狙った発言は、一時的な大衆の支持は受けても、長く継続的な庶民の支持を受けて、事業として成ることはないでしょう。
 賞味期限切れと書いた週刊誌にぶちきれたのも、あるいはそのことへの強い焦りが既にあり、図星だったからではないかと勘繰ってしまいます。
 いずれにしても彼は彼の前に立ちはだかるこの言葉の壁を破らなくては、日本の未来を背負って立つ政治家として大成は難しいのではないでしょうか。
 余計な事ながら、時代の徒花で終わるのではないかと心配してしまいます。
 そのことは時間の経過とともにおいおい明らかになっていくでしょう。

 今、日本は国外に向けて、韓国や中国と歴史問題における名を正していかなければなりません。捏造に基づく実体のない「従軍慰安婦(セックス・スレイヴ)」、「南京大虐殺」の名。
 国際的に承認されてきた「日本海」か韓国がにわかに主張しだした「東海」か、「竹島」か「独島」か、「尖閣諸島」か「釣魚島」か。
 またアメリカに対しては「大東亜戦争」か「太平洋戦争」か、などなど様々な名を正していかなくてはならない。

 大東亜戦争の敗戦時、占領政策によって、わが国の立場を表す、多くの名の使用が禁じられたことを思い出す必要がある。
 「大東亜戦争」も、「国体」もこの時奪われた名の一つです。
 また、戦後の「日中友好」の名のもと、「チャイナ」と同義の「支那」という名もマスコミから消されてしまったことを想起すべきでしょう。

「そもそも、皇家は連綿として万世一系、礼楽征伐、朝廷より出で候て、純正淳朴の御美政万国に冠絶たり。…それ国家綱紀の弛張、人心の離同は、名を正すに始まり候は古今の通論に候処、…」

 慶応三年十月、岩倉具視の王政復古の奏聞書の一部です。
 『論語』が彼の王政復古の主張に重要な論拠を与えている。

 正しい政治を行って、人心の和を成すには、皇室のもと、名を正すことから始めなければならない。それは古今の通論であり、古来皇室の純正淳朴の御美政もそこにある。
 『論語』は独立国家日本の一員としての日本人の精神を屹立せしめる上で、維新期同様、現代的意義を失っていないのです。

 その『論語』のわが国における受容の歴史を辿っていくと、それはわが国古来の「やまとごころ」に深く根を張っており、それを癒着と捉え、西洋由来の外来の思想で、外科的に無理に引き剥がそうとすれば、わが国の伝統そのものも傷つきかねない、そういった危険を孕んでいるように思えます。

 我々にとって今必要なのは、中国、支那が嫌いだから、「からごころ」という漢学受容の伝統を否定する、というようなことではなく、その受容の歴史も含めて、日本の歴史・伝統を大らかに受け止めて、これを再び生長せしめ、生かすことではないでしょうか。これはもちろん、「洋心」を否定せよということでもありません。
「洋心」だって、明治以来、我々の先人がそれこそ一所懸命摂取に努め、受容してきた文化なのです。

 今書いている「皇室と『論語』」という記事はそれを明らかにし、わが国の国体とは何か、その手がかりを得ようとする試みです。

 現代の子路達にとってこういった態度は迂遠に映るでしょう。
 しかし、遠回りのように思えても、急がば回れで、これこそ、日本再生の本道であり、わが国の王道(皇道)政治といえるのではないでしょうか。
 そして、そのことが本源に溯って本位を定め、紛擾雑駁する議論を公論としてまとめることになる。


 武士(もののふ)の やまと心を よりあわせ ただひとすぢの おおつなにせよ


 これは幕末の勤皇尼・野村望東尼(もとに)の詠んだ歌ですが、幕末の紛擾雑駁した人心を縒り合わせ、大綱に仕立てた大立者の一人は、次のような歌を詠んだ武士(もののふ)でした。


 みだれたる 糸のすぢすぢ 繰返し いつしか解(とく)る 御世となりけり


 この武士とは西郷南洲翁のことです。
 その翁の行動の規範となっていたもの、それが『論語』を中心とする漢学、本居宣長の言うところの「からごころ」でした。「堯舜を手本に、孔夫子を教師とせよ」とは翁の遺訓の言葉です。
 「やまとごころ」は我々のうちに在るものであって、自覚的、積極的な行動の規範とはなりにくい。武力を伴った文化侵略に対し対抗する術を持たない。
 明治維新を見る限り、それは「からごころ」によって自覚的に守りえた。「洋心」はそれを補強する手段として取り入れられたにもかかわらず、やがてそれが目的と錯覚されるなった。
 そもそも起源を異とする「洋心」と「やまとごころ」を直接的に結びつけること自体に無理があるのではないでしょうか。


 そこひなき 淵やはさわぐ 山河の 浅き瀬にこそ あだ浪はたて

 

 あだ浪の立つ浅瀬はそこひなき淵の表層で起きる現象にすぎません。以上の話は日本の浅瀬の話ではなく、静まったそこひなき淵の話です。

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