皇室と『論語』 (参)  

 「道」は過去と己を結ぶものであると同時に、未来へと続くものである。
 現在はその間に存在する。
 そして、現在にあって「道」は生きるしるべ(導・標・知る辺)となる。

 この『論語』との出合いから、我々日本人は豊かな口承伝承の世界を土壌にして、自覚的に歩き始めるひとつのきっかけを得た。

 考えてみれば、我々日本人ほど、「道」という観念が好きな民族はいない。
 何でも「道」にしてしまう。

 歌道、茶道、華道、書道など芸道全般。

 剣道、柔道、弓道など武道全般。

 文武両道という言葉もある。
 今でも様々な分野で、人々の行き方、生活と密接に重なり合いながら、「道」の開拓は進んでいることだろう。

 日本の歴史を振り返ってみれば、「道」は多様で一本ではかったが、空間という横軸で広く、時間という縦軸で長く捉えたとき、現在の我々と過去の間を結ぶ大きな「道」が存在することに気づくはずである。
 その中心を一以て貫くのが皇室の存在である。

 皇室の歴史は遡っていくと、いつの間にか神話へと繋がっていく。
 一応は初代天皇神武天皇とそれ以前の神代は分けられているが、名においてはともかく、内容的に截然と分けられるわけではなく、神武天皇以後も神話的記述は続き、徐々に歴史時代へと入っていく。
 逆に、この大道は遡っていくと、人が歩くうちに踏み固められて自然に出来上がった道を通り過ぎるうち、ある附近で、獣道のように判然としなくなってくる。そして、記録の外にある人跡未踏の領域、すなわちその一部が伝承として残された神々の世界も大きくなってくる。
 やがて舞台は高天原という天空の世界へ昇っていく。

 この道は徐々に大きな道として整備されていったのであって、遡れば遡るほど、その痕跡を辿るのが難しくなるのは当然だろう。

 荻生徂徠は「世は言を載せて遷り、言は道を載せて遷る、道の明らかならざる、もとより之に由る」と「道」を知ることの難しさを端的に表したが、幸いにも、わが民族はその「道」という観念との出会いの記憶を伝承の中に保存していた。
 おそらく、それは文字という書き言葉としての「言」との出会いと一体になったものであった。

 それをもたらした和邇が「天皇」の大御号を考案したのではないかという、『古事記伝』における本居宣長の解釈を一例として挙げた。
 これは確かに、可能性の一つであり、宣長という一個人の解釈に過ぎないかもしれない。
 何せ、古い時代のことだ。
 確証を挙げることは不可能で、推論に止まるのはやむをえない。
 現に宣長も断定しているわけではなく、一つの可能性としてあげているに過ぎない。
 仮に彼の推論が正しかったとしても、この「天皇」の大御号がすぐに受け入れられて広く使用されたということでもない。

 かなり確実に使用されたといえるのは、推古十六年、第三回遣隋使が携えていった国書まで待たなければならない。
有名な「東の天皇、敬みて西の皇帝に白す」がそれである。
 推古二十八年には聖徳太子と蘇我馬子が『天皇記』『国記』などをまとめたことが『日本書紀』に出て来る。
太子の薨去後、妃の一人橘大郎女が推古天皇の許しを得て作成された「天寿国繍帳」の銘文にも「天皇」の大御号は出て来るという。
 「天皇」の大御号はこの時代か、それ以前に考案されたと考えるのが自然であるから、和邇説も可能性のひとつとして十分にありうるのである。

 やがて日本人が漢字を通じて学んだ学問では、仏教を克服する形で儒学が主流になる。
 江戸時代のことである。
 その刺激によって国学も隆盛を極めることになる。
 これらは「道」を載せて現世まで遷ってきているはずの古人の「言」から、現在を生きるための「道」を見つけようという試みであった。その中から、あるがままの本来の「道」を再発見しようとの大胆な試みをするものが現れたのである。
 その代表的な人物が伊藤仁斎であり、荻生徂徠であり、本居宣長であった。

 儒教による日本の起源解釈はひとつの伝統であり、後世から見て伝統の草創期にあった日本の古代が持つ懐と謎の深さを示しているとも言えよう。
 古学の眼を研ぎ澄まし、遠くに霞む日本の山々を凝視した宣長のこの見解は、絶対化できないにしても、決して無価値とは思えないのである。


 『古事記』ではその音から「和邇」と表記される百済からの渡来人が、支那を意識して編纂された『日本書紀』では、なぜ「王仁」と支那風に表記されたのだろう。
 『字通』によれば、「王」は「ワウ」、「仁」は「ニン」とも発音されるというから、当時の日本人がこれを聞いて「ワニ」と聞こえたとしても不思議ではなく、とすれば「王仁」こそが正式な字(あざな)ということになる。
 『続日本紀』や『新撰姓氏録』によると、桓武天皇の時代、子孫である左大史・文忌寸最弟(ふみのいみきもおと)らが、漢高帝(高祖)の末裔「鸞」の子孫「王狗」が百済に渡来し、その子孫が先祖の王仁である旨を奏上したという。
 「鸞」は盛世に現れる瑞鳥で、鳳凰の一種であるという。
 「王」はやはり漢の帝室に連なる家系に由来する姓、あるいは名なのだろうか。
 だとすれば、和邇固有の名は「仁」ということになるが、この辺のところは素人だからよくわからない。少なくとも孔子以来、儒教で最重要徳目とされる「仁」を字に含む人物であったことは確かだろう。



 時代は下って、現在の皇族男子の諱(いみな)には必ず、和邇の支那表記にも用いられている「仁」の一字が授けられ、「ひと」と訓ずるのが慣わしとなった。
 これは自分の知る限りでは、五十六代清和天皇に始まるが(惟仁親王)、慣習として定着するのは第七十代後冷泉天皇(親仁親王)の御誕生からである。
 ここには、仁たれ、との総体としての皇室の願い、すなわち大御心が込められているとしか解釈しようがないが、なぜ大和言葉で「仁」を「ひと」と読み慣わすかと言えば、そこに『孟子』の「仁とは人なり」との言葉を介在させればすんなりと腑に落ちるはずである。

 『孟子』は易姓革命を肯定した書物だから、これを載せて日本に向かう船は沈む、との迷信が明代支那の船乗りには広く行き渡っていたというが、実際には、遅くとも寛平三年(八九一年)には『孟子』が日本に伝えられていたことが史料的には確認されている。
 寛平三年とは、宇多天皇の御世であり、清和天皇の時代からそう遠くない。初めて御名に「仁(ひと)」の一字が用いられた清和天皇の生年は嘉祥三年(八五〇年)、没年は元慶四年(八八〇年)である。

 「仁」とは儒教における最重要徳目である。
 聖徳太子の「十七条憲法」の内、五条に『論語』の影響は見られるし、約一世紀後の律令の学制には『論語』『孝経』が必修と定められ、官吏の採用試験でも、この二科目は必修とされている。
 貞観二年には孔子を祭る式典が立法化し、翌三年、初めて宮中で『論語』の講義が行われた。清和天皇の御代である。(以上、貝塚茂樹『世界の名著 孔子・孟子』解説、林泰輔『論語年譜』参照)

 この流れの中から、後に学問の神様と呼ばれることになる菅原道真が登場する。後世、天皇親政の理想時代とされる宇多天皇、続く醍醐天皇はこの和魂漢才の忠臣を重用し、菅公は位人臣を極めたが、藤原氏の陰謀によって失脚、大宰府に流された。
 渋沢栄一『論語と算盤』によれば、菅公は大いに『論語』を愛誦し、和邇が応神天皇に献上した物と朝廷に伝えられてきた『論語』『千字文』を筆写して伊勢神宮に奉納したものが、世に言う「菅本論語」として現存しているという。

 
 以後、『論語』を中心とする四書五経の学習は皇室とともにあり、近代で言えば、明治天皇は肥後の老儒・元田永孚の『論語』の御進講を長年にわたって受けられた。
 そもそも横井小楠の弟子であった彼を侍講に推薦したのは、西郷南洲翁の盟友・大久保利通だった。
 明治十一年、大久保が紀尾井坂において凶徒に襲われたとの報が宮中に達した時、元田は侍補として明治天皇に『論語』の御進講をはじめたばかりで、「御前に出て『論語』の一章を講じ、未だ二、三言を終らざる」うちに異変は伝えられたのである。

 元田が説いた帝王学は、横井の思想と同じで、要するに、堯舜のようになられよ、と言うことに尽きる。
 元田はその方針に沿って、開化政策を推し進める政府と確執を生じるが、明治天皇は元田を信頼され、それが教育勅語の発布へと繋がっていくのである。この元田と、同じ肥後出身の井上毅が教育勅語の起草を担当した。

 欧化政策を推し進める政府の言いなりとなっていた明治天皇がこの伝統に目覚める大きな契機となったのが、南洲翁の決起である西南戦争であり、この逸史は拙ブログ記事「明治天皇と西郷隆盛(その壱)~(その四)」で略述しておいた。
 そもそも、「征韓論政変」から「西南戦争」にいたる一連の事件が、明治維新を内発的に推進した『論語』を中心とする伝統的規範と、政府を媒介して流入してきた欧化の勢との対立であったのだ。
 

 我々にとって大きな課題である大東亜戦争を論じるには、やはり最低限、明治維新の理解から始めなければならないだろう。
 林房雄もそのように論じたし、中村粲『大東亜戦争への道』、鈴木敏明『大東亜戦争は、アメリカが悪い』も明治維新から説き起こしている。
 ところが以前、日本文化チャンネル桜の討論番組で、保守系雑誌『正論』の編集者が、明治維新を扱うと読者の人気がない、という趣旨のことを言っていた。これはいわゆる「保守」というものを考える上で、何か示唆的である。

 明治維新は外圧で開かされたものだというイメージで語られることが多いが、それは一面の真実であっても、ある重要な面、すなわち我が文明の内発性を見落としている。
 明治維新は、阿片戦争の衝撃に始まる西洋文明の刺激に、日本の伝統が内発的に応じた結果達成された文明再生の偉業だったのだ。
 明治幕末を動かした志士達の天命の教科書は儒教、要するに『論語』『孟子』であり、彼らは、天命を受けて、この国を統治してこられた京の天子様を再び国政の中心に据え、その上で国内が一致団結して、国難を乗り越えようとしたのだ。

 長州で言えば、吉田松陰は『孟子』の言葉を実践して刑死したし、高杉晋作は『論語』の一節に着想を得て、匹夫の志によって成り立つ軍隊「奇兵隊」を創設した(「奇兵」という言葉自体は『孫子』に由来するが)。

 薩摩で言えば、島津斉彬の政治思想の中心には『論語』『孟子』があったし、島津久光も、西郷南洲翁も、それを継承した。「堯・舜を以て手本とし、孔夫子を教師とせよ」とは翁の遺訓中の言葉である。

 彼らの教養の基礎を成した学問はもっぱら儒者の手になるものであった。
 彼らの学問の前提をなした江戸期の学問は、やはり儒学を中心に展開された、日本版諸子百家による百家争鳴である。これを日本版ルネッサンスとしてとらえるにしても、儒学を中心に展開したことは変わりない。
 その最も深いところまで突き詰めた思想家といえる本居宣長でさえ、本人が否定したとは言え、徂徠学の影響が垣間見え、終生、孔子をよき人として敬愛して止まなかったことを思えば、例外ではない。
 彼らの多くは、日本こそ中華(世界の中心)と考え、その根源を問い、「本来的自己」を手放す事はなかった。

 そもそも戦国時代を終息させた徳川家康自身が学問好きで、林羅山を近づけて『論語』を講じさせていた。
 彼の天下統治の教師であり、反面教師でもあった織田信長は、鳳凰と並んで聖天子の出現の兆しを著す瑞獣「麒麟(きりん)」の「麟」字の草体を花押とし(佐藤進一説)、周王朝発祥の地である「岐山」にちなんで、その居地を岐阜と名づけ(「阜」は丘を意味する)、堯舜を含む三皇五帝や老子・孔子など支那の聖人賢人を超える存在となって、天下一統を図ったのである(『信長公記』「安土山御天主の次第」)。

 つまり、日本の近代への歩みは、戦国時代という旧秩序の徹底崩壊した時代に、民の側から始まった、支那思想の影響を多分に受けた秩序再生の運動とともに始まったのであり、これが三百年の歳月をかけて熟成し、明治維新という形で集大成されたのである。

 この、戦国という始まりの時代から既にキリスト教を中心とする西洋文明は触媒としての刺激を我が文明に与えている。
 信長はルイス・フロイスら宣教師を近づけて西洋文明を摂取しようと努めたが、その天下一統構想にキリスト教的世界観を決して組み入れようとはしなかった。

 これらの英雄が活躍した時代に、禅宗の僧侶からキリシタンに転じ、挙句の果てに棄教した不干斎ハビアンの思想遍歴は、家康のブレインが著したとされる『本佐録』(本田正信)、『心学五倫書』(神龍院梵舜)などに影響を与え、キリスト教に対抗するものとしての天道思想の形成発展に寄与することになる。『本佐録』などは新井白石をして、「王道の最上の書物」「天下第一の書」と言わしめた書物だ(小堀桂一郎『日本に於ける理性の傳統』)。
 それらの思想運動に重要な一つの価値規範を与えたのが、『論語』であった。

 とは言え私は、『論語』を絶対化しようなどと主張したいのではない。
 『論語』を深く知ることが、日本人としての己を深く知ることに繋がるということを言いたいだけである。
 また、そのことが日本とはあまりにも異なる支那文明を知ることにも繋がる。
 私自身にとってそれは、たまたま、西郷南洲翁の深い理解がきっかけとなった、ということである。
 その点、小堀桂一郎氏が「天道攷」「超越者の思想の系譜」との原題を持つ大著『日本に於ける理性の傳統』の最後に、南洲翁の「敬天愛人」の思想を位置づけたのはまさに我が意を得たりという感じであった。

 南洲翁の「敬天愛人」の思想が、漢籍、なかんづく『論語』『孟子』を骨格とするものであったのは、拙著でしきりに論じたところであるが、一方で、翁は漢訳聖書を読んだことがあった。慶応二年のパークスの鹿児島訪問に際してのことらしい。
 南洲翁が、素朴な理解に止まったにせよ、西洋文明に対する批判精神を持ち合わせていたことは、「西洋は野蛮じゃ」とか、「天は人も我も同一に愛し給うゆえ、我を愛する心を以て人を愛するなり」といった遺訓の言葉にも現れている。
 そういった批判精神から、

「広く各国の制度を採り開明に進まんとするならば、まず我国の本体を据え、風教を張り、しかして後、しずかに彼の長所を斟酌するものぞ。」

「漢学を成せる者はいよいよ漢籍に就きて道を学ぶべし、道は天地自然の物、東西の別なし」


 との言葉が出て来たのである。 



 それを否定するにしても肯定するにしても、漢学、なかんづく『論語』理解の問題、それはあたかも、我々近代日本人にとって重要な課題であり続けている西洋文明を理解する上で、キリスト教やギリシャ哲学やローマの歴史の理解が欠かせないようなものである。
 これらは西洋人にとって、他文明に由来するという点で、我々にとっての漢学と同じである。
 聖書は古代パレスティナの地で生まれたものだし、古代ギリシャ文明も古代ローマ文明も滅んだ。後世勃興した西欧文明とは起源的には関係もない。

 その点、維新の元勲中では、才子として軽く見られた伊藤博文が、憲法制定過程において、わが国における、西洋の宗教キリスト教に比すべきものとして、神道を引っ張り出してきたことがそもそもの誤りであっただろう。
 彼にはそもそも国体と政体の区別が曖昧だったという。
 明治国家の由来を考えれば、キリスト教に比すべきものは儒教とするのが至って自然である。

 伊藤自身、維新の原動力は『日本外史』を著した頼山陽であったと述べ、幕末、井上馨とロンドンに密留学した際も、子供の頃からの愛読書であった頼山陽の『日本政記』を携行している。
 この書から王政復古論が頭にしみ込み、版籍奉還・廃藩置県に繋がる中央集権郡県論の建議を早期に行った、とは本人の述懐である。(このことからも「維新」の看板を掲げながら、道州制という分権論を唱える連中のいかがわしさもわかろうというものだ。)

 これらは南洲翁の愛読書でもあった。
 頼山陽はもちろん儒者で、これらの書も『論語』や『孟子』の価値規範で書かれている。
 その点、わが国における西洋の宗教キリスト教に当たるものとして、『論語』を押し出そうとした渋沢栄一の見識は注目に値する。

 彼は明確にそのような意識で、日本の産業界育成に努め、国家運営に役立てようと、漢学の保存再生に尽力したのである。彼の口述を本にまとめた『論語と算盤』はあまりに有名である。

 昭和に入って国際共産主義運動の脅威を自覚した日本に国体明徴運動が起こる。その一つの成果が、文部省が当時の学者の力を結集して作成した『国體の本義』である。
 この中で我が国體に対する漢学の影響もちゃんと触れられている。

「我が国に輸入せられた支那思想は、主として儒教と老荘思想とであつた。儒教は実践的な道として優れた内容をもち、頻る価値ある教である。而して孝を以て教の根本としてゐるが、それは支那に於て家族を中心として道が立てられてゐるからである。この孝は実行的な特色をもつてゐるが、我が国の如く忠孝一本の国家的道徳として完成せられてゐない。家族的道徳を以て国家的道徳の基礎とし、忠臣は孝子の門より出づるともいつてゐるが、支那には易姓革命・禅譲放伐が行はれてゐるから、その忠孝は歴史的・具体的な永遠の国家の道徳とはなり得ない。…要するに儒教も老荘思想も、歴史的に発展する具体的国家の基礎をもたざる点に於て、個人主義的傾向に陥るものといへる。併しながら、それらが我が国に摂取せられるに及んでは、個人主義的・革命的要素は脱落し、殊に儒教は我が国体に醇化せられて日本儒教の建設となり、我が国民道徳の発達に寄与することが大であつた。」

 これは正確な認識だろう。
 だが、当時支那と戦争中ということもあったかもしれないが、やはり日本のオリジナリティが前面に押し出され、漢学の影響は付属的扱いである。

 敗戦後、皇国史観が非難攻撃の矢面に立たされた時、護教論を持たない神道は大きな傷を被ることになった。
 そこには[GOD]を「神」と訳したことによる大きな誤解があり、占領軍はこの「神」としての天皇および「神」道を破壊しようとしたのである。
 「神道指令」は敗戦数ヵ月後の十二月十五日には早くも発せられている。
 いわゆる「人間宣言」としての昭和二十一年元旦の詔書を誕生させたのも同じ精神からである。
 
 昭和天皇は、占領軍の意向を受け入れて、[GOD]=「神」としての「天皇」および「神道」は否定したものの、日本本来の神々、およびそれとつながるものとしての皇室を守ろうとした。
 それが『五箇条の御誓文』を第一義とする昭和二十一年元旦の詔書の御言葉とあいなった。
 「人間宣言」とは、表面的には言わば「非[GOD]化宣言」ではあっても、その暗示するところの深い大御心を汲み取らなければ、日本人として、一知半解の見識に止まるといわざるを得ないのである。

 
(「西尾幹二氏への数言」 【その四】 終わり)

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