皇室祭祀の秘儀-大嘗祭(壱) 【『皇室と論語』(二十三)】

 令和の御代で第百二十六代を数える歴代天皇の事跡は六国史を中心とする各史書に明らかです。皇室の本質を知るうえで最も重要なのは『日本書紀』と最古の史書『古事記』ですが、これらの書にあって皇祖皇宗の事跡は初代神武天皇をさかのぼると神代となり、やがて日向の高千穂峯から天に昇って高天原が舞台となります。
 歴代天皇の事跡を学ぶのは天皇の御学問にとって必須の科目で、それによって大御心は養われるのですが、皇室の儒学受容の伝統に則り「忠恕」の心で「祭るには在すが如くし、神を祭るには神在すが如くす」と教育されてきた天皇が、日常・非日常の祭祀を通じて皇祖皇宗の神霊(鬼神)の存在を感じるようになるのは必然だと思われます。
 祭祀による神々との繋がりを存在の根拠とする歴代の天皇にとって、神霊とは、『中庸』の中の孔子の表現を借りれば、まさに次のようなものであったに違いありません。

 「子曰く、鬼神(神霊)の徳たる、それ盛んなるかな。これを視れども見えず、これを聴けども聞こえず、物を体して遺すべからず。天下の人をして、斎明盛服して、以て祭祀を承(う)けしむ。洋洋乎としてその上に在るが如く、その左右に在るが如し、と。詩に曰く、神の格(きた)るは度(はか)るべからず、いわんや射(いと)うべけんや、と。」

 これは後世の者が孔子に仮託して述べたものですが、呪術的世界に生きた孔子の鬼神観はまさにこのようなものであったでしょう。
 歴代天皇もまた、神霊(鬼神)の盛んなる徳を肌身に感じながら、日常・非日常の祭祀を継承してきたのではなかったか。少なくとも、祭祀の最中だけでもそのように感じられる瞬間はなかったでしょうか。
 筆者は歴代天皇が神霊の存在を信じてこの国を治めてきたことを疑いません。

 天皇の一日が神事に始まるのは、古代はもとより、帝王学としての漢学の影響が強まってからも変わりません。
 以下は所功氏の著作『皇位継承の在り方』からの孫引きです。
 平安前期、藤原氏の摂関政治と対決し、菅原道真を抜擢して、親政を行った宇多天皇が十三歳の醍醐新帝に書き与えた『寛平御遺誡』も、その冒頭に、次のように記しています。

 「昧旦(早朝)…服を整へ盥嗽(かんそう;手水を取り、身を清めること)して神を拝す。又、近くに公卿を喚(よ)び、議すことあらば洽(あまね)く治術を問ひ、亦、…侍臣を召して六経の疑ひを求む。聖哲の君、必ず輔佐に依り、以て事を治む。…」(…は欠文)

 つまり、天皇の一日は神事に始まり、次いで徳を以て君臣一体となって天下の統治を行うとの戒めが書かれているのです。天皇親政が専制独裁とは全く異なるものであることは明らかでしょう。

 次に、鎌倉時代初期の承久三年に、天皇親政を目指して討幕の挙兵に踏み切った後鳥羽天皇と行動を共にした順徳天皇が書き残した『禁秘御抄』「賢所の条」には次のように記されています。

 「およそ禁中の作法、神事を先にし、他事を後にす。旦暮、敬神の叡慮、懈怠なかるべし。あからさまにも神宮ならびに、内侍所の方(神鏡を祀ってある賢所の方角)を以て御跡の方となさず。…」

 禁中においては神事、なかんづく天照大神への奉仕を優先せよ、と説かれているのです。そして同書「恒例毎日次第の条」には、宇多天皇が触れた昧旦の神拝について具体的に次のように記されています。

 「早旦、御湯を供じ、次に御手水を供ず。次に石灰の壇(清涼殿東南隅の遥拝所)に着く。主上、御心を正しくして巽(たつみ;東南)向きに着御し、神宮・内侍所已下に御祈請なり。毎日の御拝、夜半の後、一切の不浄を止む。」

 学問については「諸芸能の事」条に触れられています。徳川家康が定めた「禁中並公家諸法度」の第一条に引用されているくだりです。

 「第一、御学問なり、それ学ばざれば、即ち古道に明らかならず。…第二、管絃なり。…和歌、わが国の習俗なり、…詩情・能書なども、同じく殊能なり…」

 『寛平御遺誡』も『禁秘御抄』も天皇となられる方必須の教科書として皇室に読み継がれてきた書物です。
 優先順に神事、道の学問、諸芸能。
 これら天皇としての修養を一以て貫く統合的な価値規範こそ、『論語』であっただろうことは、これまでの記述からもおおよそご理解いただけるのではないかと思います。
 宮中祭祀は色々ありますが、天皇にとって最も重要な祭祀儀礼とされているのが大嘗祭です。
 大嘗祭は天皇即位後、初めて行われる新嘗祭のことですが、一年に一度行われる新嘗祭と違い、一代に一度限りということで特別な位置づけがなされています。 
 新嘗祭の起源は、大嘗祭よりかなり古く、農業にまつわる祭りとして特に変わった祭ではありません。新穀を神に供し、その御下がりを頂く。古来、広く民間で行われてきた祭で、『常陸国風土記』に「新粟(わせ)の初嘗(にひなめ)」あるいは「新粟嘗(にひなへ)」、『万葉集』の東歌にも「早稲を爾倍(にへ)すとも」と見えます。現在でも石川県の奥能登地方には「あへのこと(饗事)」と呼ばれる古くからの民俗行事が残っていて、ユネスコの無形遺産に登録されています。

 戦前、新嘗祭は毎年十一月二十三日を祭日として祭りを行われてきました。現在の「勤労感謝の日」がそれです。「勤労感謝の日」は祝日法に「勤労を尊び、生産を祝い、国民たがいに感謝しあう」日と定められていて、神事としての性格はわれわれ国民の眼から覆い隠されていますが、わが国の勤労精神を培養してきた稲作文化とのつながりを根底では失っていないのです。
 史料において、この民間の古俗が宮中に取り入れられたのは、『日本書紀』仁徳天皇四十年の条に「是歳、新嘗の月に当たりて、宴会の日を以て、酒を内外命婦等に賜ふ」とあるのが初見とされますが、すでに神代巻で、高天原において素戔鳴尊(すさのおのみこと)が暴状を働いた際、「天照大神の新嘗(にいなへきこ)しめす時を見て」との表現があります。ちなみに『古事記』では「その大嘗(おおにへ)聞こしめす」との表現になっていて、記紀が編纂された時代には神代に由来するものとして認識されていたことが窺えるのです。
 神話によると、天照大神は保食神(うけもちのかみ)の死体から五穀の種子を得て、それを高天原の御田に植え、大嘗を行って食していた。そして、その種「吾が高天原に所御(きこしめ)す斎庭(ゆには)の穂(いなのほ)」を地上に降臨する天孫・瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)に授けた。初代神武天皇の祖父に当たる瓊瓊杵尊は火瓊瓊杵(ホノニニギ)とも言われ、稲穂が賑々しく実ることを表す名です。

 おそらく、これらの神話を祭儀化したのが、伊勢神宮で毎年行われる神嘗祭(かんなめのまつり)と宮中で行われる新嘗祭です。
 神嘗祭は、伊勢(宇治)の御神田で収穫された初穂で作られた神饌(みけ)を、外宮の豊受大神と内宮の天照大神に供じ、これを食していただく御祭です。明治初年以降は、これに加え、天皇が皇居吹上御苑で自ら田植えを行い、刈り取られたばかりの初穂を伊勢に送り、全国の篤農家から奉納された初穂、いわゆる懸税(かけちから)と共に、内宮の瑞垣に懸け奉られるようになったといいます。この祭は旧暦の九月の十六日(外宮)、十七日(内宮)に行われてきましたが、明治十二年より新暦の十月の同日に改められました。
 祭の当日には、宮中の賢所においても祭が行われ、天皇は伊勢神宮を遥拝されます。
 神宮では、毎朝毎夕、古式に則った素材と製法で作られた御水・御塩・御飯を主とする神饌(しんせん)を神に供ずる大御饌祭(おおみけさい)が行われていますから、これをさらに盛大にした神嘗祭は初穂を捧げるところに祭の意義があるのは明らかです。

 この神嘗祭が、夏が過ぎ、太陽の威力、すなわち天照大神の霊力の衰えが誰でも肌で感じられるようになる旧暦の「長月(語源は一説には夜長月)」に祝われるのに対して、新嘗祭は、すでに触れたように明治六年の改暦以来、十一月二十三日に行われてきました。しかし、それ以前は、律令に旧暦の「十一月下卯日(しものうのひ)」と定められているように、冬至近くに行われてきたのです。冬至の頃は、十一月が旧暦で「霜月(語源は文字通り霜が降りる月)」と表現されるように、天照大神の霊力が最も弱まり、大気や大地がめっきり冷え込む頃です。
 この時期に、民間では一年の農業行事の締めくくりとして新穀献上の祭が行われると同時に、皇居においても、天皇御一人が神嘉殿に出御され、新穀を中心にして作られた神饌を、天皇自ら竹の御箸で柏の葉に盛り付けて供した後、同じものを神々と召し上がられる神人共食の祭儀、新嘗祭が行われるのです。
この祭儀を次代に皇位を御継ぎになられる皇太子が南庇の間中央の拝座にて学ばれます。
 この間、神楽歌の演奏が絶え間なく流れ、庭燎が焚かれています。

 「ともしびの 静にもゆる 神嘉殿 琴はじき うたふ声 ひくく響く」

 平成天皇が皇太子時代の昭和三十一年、昭和天皇の新嘗祭を御覧になって詠まれた御歌です。

 高森明勅氏の『天皇と民の大嘗祭』によれば、神話上はともかく、初めての新嘗の記事が見える『日本書紀』仁徳天皇の段の即位前紀に、伝承として、垂仁天皇の御代に、皇太子(後の景行天皇)に命じて、「倭(やまと)の屯田(みた)」を定めさせたとの記事があるといいます。これは天皇のお召し上がりになる穀物を産する田んぼのことで、皇子といえども皇位を継いだ上でなければ掌ることは許されない天皇直属の神聖な御田でした。後の「大宝令」では「屯田」、「養老令」では「官田」と表記されます。
 『古事記』には景行天皇の御代に「倭の屯倉(みやけ)」を定めたと記されていて、新嘗祭の起源が景行天皇の御代であると朝廷では伝承されていたことになります。『古事記』雄略天皇の段には次のような「天語歌」が採録されています。「あまがたりうた」とは天語連(あまがたりむらじ)などが伝承した神話を題材とした物語風の歌のことです。

 「纏向(まきむく)の日代(ひしろ)の宮は、朝日の日照る宮、夕日の日がける宮、竹の根の根垂る宮、木の根の根蔓(ば)ふ宮、八百土(やほに)よし い築(きづ)きの宮、真木さく 檜の御門。
新嘗屋(にいなへや)に生い立てる 百足(ももだ)る槻(つき)が枝(え)は、上枝(ほつえ)は天(あめ)を覆へり、中つ枝は東を覆へり、下枝(しづえ)は鄙を覆へり、…」

 「纏向の日代の宮」とは景行天皇の宮のことで、新嘗の神事との深い関係を思わせる歌です。
 実際、崇神・垂仁・景行天皇が宮を構えた纏向の遺跡からは、新嘗の原型となる祭が行われたと考えられる祭祀遺跡も発掘されており、出土品は延喜式・大膳職式の「御膳神(みかしはでのかみ)」「竈神(かまどのかみ)」「新嘗祭」の条にある祭器と一致するものが多いとのことで、考古学的にある程度の裏づけがなされているといいます。

 さて、その新嘗祭の内、天皇即位後、初めて行われる一代に一度の祭が大嘗祭です。
 平成の大嘗祭に際して、政府の統一見解が出されましたが、その意義は次のようにまとめられています。

 「大嘗祭は、稲作農業を中心とした我が国の社会に古くから伝承されてきた収穫儀礼に根ざしたものであり、天皇が即位の後、初めて、大嘗宮において、新穀を皇祖及び天神地祇にお供えになって、みずからもお召し上がりになり、皇祖及び天神地祇に対し、安寧と五穀豊穣などを感謝されるとともに、国家・国民のために安寧と五穀豊穣などを祈念される儀式である。それは、皇位の継承があったときは、必ず挙行すべきものとされ、皇室の長い伝統を受け継いだ、皇位継承に伴う一世に一度の重要な儀式である。」

 大嘗祭は史料上確認できるところでは、毎年行われる新嘗祭に改革を加え大嘗とした天武天皇の御代(即位二年・六七三年)にその原型となる祭儀が行われたのを初めとして、次代持統天皇の御代に儀式が整えられ、以後、継続して行われました。天武朝最後の孝謙天皇の御代の「養老神祇令」に、新嘗祭・大嘗祭ともに「大嘗」といい、「毎世」と「毎年」の「大嘗」で区別されていたからややこしいですが、要するに、「毎世」のものが践祚大嘗祭、「毎年」のものが新嘗祭に当たると推測されています。
 戦国時代の後土御門天皇の大嘗祭(文正元年・一四四六年)を最後に、秩序が安定した江戸時代の東山天皇の御代に復活するまでの二百二十年間、中断を余儀なくされましたが、それ以外の時代はずっと行われてきました。この中断した時代についても、歴代天皇は望んで果たせないやむをえない事情があったからで、それは朝廷の衰微と世の乱れが原因でした。
 後奈良天皇は朝廷が衰微のきわみにあった時代の天皇でした。朝廷の財政の逼迫により、天皇は三十一歳で践祚してから十年間即位の礼を行うことが出来なかったのです。その即位式でさえも大内・今川・朝倉・北条ら有力大名の献金によってようやくであり、大嘗祭は断念せざるを得なかった。

 皇位継承資格は神武天皇以来の男系の血統を受け継いでいることですが、それだけなら通常、条件を満たす皇族は多数います。では、それらの有資格者と天皇の存在を別格のものとしているのは一体どういった条件なのでしょうか。その謎を解く鍵が大嘗祭にあるとされています。
 古くは「おおにえのまつり」「おおなめのまつり」「おおむべのまつり」と呼ばれた大嘗祭(だいじょうさい)は、即位後、朝廷お膝元の畿内以外の百姓(おおみたから…公民)の耕作する土地の中から、卜占によって定められた悠紀国(ゆきのくに)と主基国(すきのくに)で収穫、献上された稲の初穂を、天皇親ら天照大神を中心とする天神地祇に供し、それと同じものを召し上がられる祭です。
 この祭のために、掘立茅葺きの簡素な二つの祭殿からなる「大嘗宮」(東に悠紀殿、西に主基殿)が御所内に建てられます(明治・大正・昭和は京都御苑、平成は皇居内)。本儀はそこで行われます。悠紀殿供饌の儀、主基殿供饌の儀、間に休息を挟んで午後六時から明け方までの間で計六時間余り、二殿に御こもりになられて、二つの祭儀に臨まれるのです。これに供奉を許されているのは小忌(おみ)の奉仕者たちです。占いで選ばれ、厳重な物忌みを行った小忌の親王・納言・参議、小忌服を着た大臣、祭祀関係氏族である中臣・忌部・御巫(みかむなぎ)・猿女などから成ります。
 天皇は御座に着いて、親ら神饌を神に献じ、告文を奏して、五穀豊饒を感謝され、国家の繁栄と大宝(おおみたから)である国民の福祉を祈願される。その後、神饌と同じものを神々と向かい合って召される。

 この時の祝詞の一例として、元文三年の桜町天皇の大嘗祭の祝詞を『伯家部類』から挙げることにします。
 ちなみに神祇伯を代々世襲してきた白川家では、古来から朝廷に伝わる祭祀の作法を神道らしく、口伝で継承してきましたが、戦国時代から主流となった吉田神道への対抗上の必要から、家伝を整理しました。延宝八年(一六八〇年)のことです。それが『家説略記』ですが、その直後、東山天皇の御世、貞享四年(一六八七年)に、大嘗祭は復活しています。『家説略記』をさらに改訂したのが、宝暦四年(一七五四年)の『伯家部類』で、その中に元文三年の桜町天皇の大嘗祭における祝詞が記録されています。これは神食薦(かみけこも)の上に天皇が神饌を並べ終えてから唱えられる祝詞です。

 「伊世(伊勢)の五十鈴川の河上に湯津磐村(ゆついわむら)の如く鎮りまします天照大神を初奉り、天つ神・くにつ神・八十万(やそよろず)の神のあら御玉(みたま)・和(にぎ)御玉・三はしらごとに申て申さく、朕、すめ神たちのの擁護給ふがゆゑに、宝祚つゞきて動ことなく、天が下平らかに、年穀ゆたかにみのりて、うつくしき蒼生(たみくさ)をも救ひ、上下ゆたかに楽しめん。かるがゆゑに今年の新のたなつ物、八握穂(やつかほ)にしなひたるを御食(みけ)に奉りて、弥増(いやまし)の守護をのみいのり申す由を聞しめしてうけ幸ひて、諸の災をさけ、千早ぶる悪心を払ひ、朝家おこりさかへんに神の威をかゞやかし守り幸ひたまへと申す、…」

 祝詞は「言の葉」による表現です。古代において「言の葉」とは「事の端」であり、物事の一端を示すに他なりませんが、ここに大嘗祭の本質の一端は表されている見るべきでしょう。これから天皇になられる御方の言霊がこれらの「言の葉」には込められている。しかし、われわれにとってはともかく、客観的には、祭の主役は本来なら祭られる対象のはずです。大嘗祭の場合、われわれ国民の眼は天皇陛下に注がれますが、天皇になられる御方の御魂は祭られる対象、すなわち天照大神その他の神々に集中しているのです。
神道には本来、表立った教義が存在しませんから、「言の葉」によって祭の意義が説かれることはありません。
 大嘗宮における神事についても、儀式に奉仕する極少数の者を除いて、陪席者がいないことに加えて、過去の記録のほとんどがここで行われる核心部分について詳しく触れていないため、儀式の詳細は秘密のベールに包まれてきました。そこで大嘗祭の意義について様々な解釈が行われてきたわけです。
 戦国の混乱を経て大嘗祭が復活してから幕末まで神祇官として奉仕した、中臣を始祖とする鈴鹿家に伝わる詳細な記録が、平成の大嘗祭を前にして、高鴨神社宮司・鈴鹿冬三氏によって公にされました。平成二年正月のことです。そこには儀式の記録や図面のみならず、実際に卜定に用いられた亀甲や悠紀・主基両国の抜穂の実物までが保存されていたのです。
 鈴鹿家の記録によると、祭殿内陣中央には寝座として「八重畳(やえだたみ)」が置かれ、敷布団と掛布団が敷かれ、その上に「坂枕(さかまくら)」という枕が置かれています。また、さらに沓・扇・櫛までが用意されています。
 内陣の桁行は三間(約5・5メートル)、八重畳の長さは一丈二尺(約3.6メートル)で、中央に堂々と設えられています。枕は八重畳の南端、沓は北端に置かれていて、「坂枕」とは死者に用いられる北枕の「逆枕」という意味でしょう。つまり、生を象徴させているということになります。
 神人共食の儀式は、内陣の東南隅に設けられている神座と御座で行われます。天皇の御座は神座に東南方向に相対している。これは京都御所から見て伊勢神宮のある方角です。
 内陣の配置を見る限り、儀式の中心は「八重畳」にあるはずですが、復活以降の大嘗祭ではここで何も行われない。しかし、かつてはそうではなく、むしろ儀式の本質はこちらにあったのではないか、というのが一般的な見解です。
 
 まずは高森明勅氏の語るところの大嘗祭の本質を紹介しておきたいと思います。
 高森氏は従来の新嘗祭と大嘗祭の共通性から大嘗祭の本質に迫ろうというアプローチではなく、両祭の著しく異なる点に、大嘗祭を大嘗祭たらしめているその本質を見ようとしたのです。それがまとめられているのが、平成の大嘗祭を前にして世に問われた『天皇と民の大嘗祭』という著作ですが、歴史学的見地からの堅実な検証が行われていて非常に説得力があります。
 氏が提示するのは、「民の大嘗祭」という視点です。先に見たように、大和朝廷における新嘗祭の起源は景行天皇の頃にまで遡り、『日本書紀』の伝承によれば、垂仁天皇の命令により皇太子時代の景行天皇が定められた天皇直属の「御田(屯田)」の産する穀物で行われました。一方、大嘗祭の起源は当時の先進的な大国・唐を意識して中央集権の大改革事業を行った天武天皇までさかのぼることが出来ます。天武天皇は代初めの新嘗祭で、畿外に悠紀・主基の両地方を卜定し、そこから取れる穀物で「大嘗」を執り行いました。重要なのはこの両地方が「百姓(おおみたから)」の耕作する土地から選ばれるということです。「百姓」とは天下の公民との含意があります。すなわち大化の改新以前の前国家的な個別的支配地からの個別的収取を前提とする官田(屯田・屯倉)ではなく、公的・国家的収取による神事の執行です。律令の制定を命じ、公地公民制を確立した天武天皇にして初めて可能な、画期的な出来事であったのです。
 大嘗祭における稲以外の献上物、すなわち海産物を中心とする御贄(由加物)は紀伊・淡路・阿波、繒服(にきたへのみそ)・麁妙服(あらたへのみそ)などの斎服は三河・阿波、語部は美濃・丹波・丹後・但馬・因幡・出雲・淡路、神盾(かむたて)・戟(ほこ)などの祭器は丹波・紀伊の諸地方から献上されました。いずれも畿外の諸地方の非稲作民の奉仕です。祭器を献上する河内・和泉・尾張・参河・備前の内、後者三地方、尾張・参河・備前も畿外です。
 以上のように、大嘗祭における公民「おおみたから」の奉仕という性格は徹底していて、新嘗祭が朝廷内の諸官司の奉仕によって行われたのに対し、これを執り行ったのは国司、すなわち地方に中央から派遣された官吏でした。「養老令」の「凡そ大嘗は世毎(よごと)に一年、国司事を行へ。以外は、年毎(としごと)に諸司事を行へ。」とはそのことを定めたものです。この国司の下で、地方生え抜きの郡司が地方民を束ねて奉仕の実務に当たったのです。皇位継承儀礼である大嘗祭はもっぱら「おおみたから」の奉仕によって成立する国家的祭祀だったのです。

 次に例外的事例を見てみると大嘗祭にはさらに別の特徴があるのが見えてきます。
 祭器を献上する五国の内、河内・和泉の二地方は畿内です。この両地方は、わが国で最古最大の須恵器の生産地であり、これは他の非稲作民の奉仕にも言えることですが、それらの地方は、大化の改新以前からの朝廷への奉仕の歴史と伝統を持っています。
 また、大嘗祭には吉野の山の民・国栖(くず)と日向・大隅・薩摩地方の海の民・隼人の奉仕があります。いずれも、稲作に根ざした朝廷文化からは異族視されてきた民です。国栖の服属は神武天皇の御代にまで遡り、これに対し隼人の服属は大嘗祭成立の時期からみて極々新しいことですが、後にも度々反乱を起こしていることから見ても、都からは辺境に位置するまつろわぬ民でした。
 国栖・隼人は大嘗祭に限らず、朝廷の様々な儀式に奉仕し、群臣が式場入場の際、門外において、国栖は歌笛を奏し、隼人は犬吠(犬の遠吠えを真似た声)を発しました。(ただし、外国使節がいる前ではこれらの奉仕が行われなかったといいます。)ところが大嘗祭の神事の時のみは、門内での奉仕を許されたのです。
 大嘗祭の神事のとき、大嘗宮南門の外の庭上で行われる行事は、順に、国栖の古風(ふるぶり)奏上、悠紀または主基地方の歌人の国風(くにぶり)奏上、諸地方の語部の古詞奏上、隼人の風俗歌舞、そして皇太子以下の八開手の拝礼へと続きます。
 その順序は服属の歴史と時間的に符合しているのです。
 以上のことから、彼ら非稲作民の大嘗祭における奉仕は国家の歴史性―国家の機構的・人的な構造を担保する歴史性―を象徴させている、というのが高森氏の見解です。すなわち総括して言えば、大嘗祭とは国家の構造性とそれを支える固有の歴史性を象徴する祭儀ということになります。新嘗祭に代表される農耕儀礼が皇位継承儀礼に転化したのではなく、公の理念を含んだ律令国家の成立過程で、皇位継承儀礼が必然的に農耕儀礼を含みこんだのです。
 以上で、高森氏の多面的な論証を覆いつくせるものではありませんが、なるほど説得力のある見解であり、そういった特質を持つ祭儀であることは間違いないように思われます。
 大嘗祭の本義について、従来の大家の説が祭儀における天皇の振る舞いに注目していたのに対し、高森氏は天皇と民の関係という視点からその全体像を捉え直し、その意義を問い直したのです。
 一方で、氏は大嘗祭の本義に対する従来の「密室の秘儀」という見方を矮小と批判しています。
 しかし、それはどうでしょうか。

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