王政復古討幕の真相-明治維新(弐) 【『皇室と論語』(十二)】

 斉彬が自身の後継者と目していたのは、藩主就任に際して競争相手であった異母弟の久光でした。父斉興の正嫡で世子として届けられた斉彬が蘭学かぶれということで嫌われたのに対し、愛妾由羅の子として愛された久光でしたが、彼本人は学問好きで、藩主の地位に対する野心もなく、この兄を深く尊敬していました。一方で、斉彬の方も、彼の資質を見抜いて「志操方正厳格」と評し、強く信頼していました。同じ価値規範に立っているのでなければ、このような関係は起こりえないでしょう。
 死を悟った斉彬は、薩摩藩の人心の一致一和の観点から、藩主の地位を久光の息子忠義に継がせることにし、久光に後見するよう遺言しました。
 藩の実権はしばらく、斉彬の開明的政策に対し否定的な斉興が握ることになりますが、彼が没すると、久光は斉彬の遺策、朝廷奉護のための率兵上京を実行する機会を窺います。その際、彼の政治思想の規範となったのがやはり『孟子』だったのです。彼もまた、尊王、そして道理に基づく人心の一致一和を心がけたことは彼の書簡類に明確に表れています。
 久光は、無位無官で、藩外における政治的経験もありませんでしたから、斉彬の政策実行に手足となって携わった人物を多く起用します。また、斉彬の崇拝者の集まりである誠忠組の面々も起用し、その首領格で、斉彬が大抜擢し、手足として使った西郷隆盛を起用することにします。当時、西郷は幕府の追及から逃れるため、奄美大島に潜伏生活を強いられていましたが、召還され、久光と対面する事になります。
 召還された西郷は英気勃々としていて、久光の政治経験不足、根回しが不十分であることを挙げて、上京に反対しました。斉彬の慎重さに比べての常識的見解でしたが、非常の決断で臨んでいた久光は見切り発車します。事をここまで推し進めてきた大久保たっての願いで協力する事になった西郷は上方の状況視察のため先発しますが、命令違反や、言動が誤解されて伝えられたこともあって、久光の逆鱗に触れ、捕縛されることになります。結局、久光が、人望篤い西郷の死刑により藩論が割れることを慮ったため、極刑を免れますが、死一等減罪による沖永良部島への遠島処分に処されました。自然環境の苛酷な島送りの上、牢入りという厳しいものでした。
 彼はこの過酷な環境の中で学問を、信仰を深める事になるのです。

 一方で、久光の方は相次ぐ困難を克服しながら、孝明天皇の信頼を得、江戸では目的であった幕政改革にも一定の成果を上げました。その帰途、一種の攘夷事件である生麦事件も起こしていますが、斉彬の遺策を継いで開国主義者であった久光がこの事件を起こしたのは、日本の法を厳正に執行したためで、志操方正厳格な彼の性格によるものと考えられます。英国政府は賠償を求めますが、久光は譲らず、後に事件を起こした藩士を庇って、鹿児島で英国艦隊と戦争までしています。いわゆる薩英戦争がそれです。
 久光は孝明天皇の信頼に応えて、会津と組んで、天皇が嫌う長州を追い落とすという、いわゆる八月十八日の政変を主導するなど活躍しますが、彼の幕政改革の結果開かれた参与会議で、開国主義者であることが徐々に判明し、天皇の信頼は一橋慶喜や会津の松平容保に移っていくことになります。行きづまった久光は、藩士の間で起こった西郷召還運動に突き動かされる形で、西郷の召還を認めます。説得に当たったのは高崎正風で、彼の回想によると、西郷は、彼が神と崇める斉彬が抜擢し、信頼した人物であり、久光は「左右国人皆賢というわけか」と『孟子』の言葉を引用して、再考を約したということです。久光は西郷を謀叛人と決めつけていて、賢明であるという世評について、いくら考えても納得いかなかったようですが、後に息子の藩主忠義に書き送っているところによると、この件で人心沸騰に困り入っていて、西郷が改心して尽すならよいが、その逆ならば国乱は必定、すなわち藩論の一致一和は破綻すると考えて、赦免を決断したことが分かります。彼が斉彬から引き継いだ人心の一致一和を重視する政治姿勢はあらゆるところに顔を出していて、薩摩藩を王政復古討幕の方にまとめていきますから非常に重要です。
 以降、久光は独立不羈の西郷を藩論の一致一和の点で警戒しながら、一方で腹心として重用していくことになります。また西郷の方も、人情の点では斉彬に対するようにしっくりとはいきませんでしたが、彼が深めた学問における忠義、義理の点で彼に仕えていくことになります。彼が深めた学問とは一言で言えば朱子以降の儒教で、特に『孟子』を中心とする四書に対し学識を深めた形跡があります。これは長州の吉田松陰が獄中、『論語』『孟子』に対する学識を深めたのと共通しています。
 斉彬を神のように崇敬する両者は、道理にも基づく一致一和という政治信条の下、君臣一体となって日本を王政復古討幕に向けて一致一和していくことになるのです。
 八月十八日の政変を経て、長州人は「薩賊会奸」を唱えて、薩長は犬猿の仲になりますが、政変の反動で起こった長州の朝廷奪還運動である「禁門の変」(禁門は御所の門。激戦地の名を取って「蛤御門の変」とも)で、彼らがこっぴどく敗退すると両藩の関係は最悪になります。
 薩摩藩は勤皇を唱えながら御所に向かって発砲した長州兵に対し、幕命ではなく、朝命によって動くという方針を堅持し、これを奉護し、勇戦撃退したのですが、今度は道理をさらに一歩推し進めて、長州に対する処罰としての征伐が実施となるよう朝廷や幕府に働きかけます。これも長州贔屓の勢力が朝廷の内外にあって、なかなか実施が難しかったのです。当初長州に対する過酷な処分を主張していた西郷・大久保らでしたが、久光の主張に感服し、翻意します。要するに久光は豊臣秀吉の島津征伐の例を挙げて、長州に対する寛典論を唱え、西郷や大久保はこれに同意したのです。
 これに関しては、この時期に西郷と面会した勝海舟が翻意させたとの説もありましたが、あまり真相が語られていない久光が大きな役割を果たしていたのです。実はこの件に関しては歴史に埋もれた「久光親話記」という史料があります。西郷南洲顕彰会機関誌『敬天愛人』第二十二号、芳即正氏論文末尾に紹介されている史料で、明治十八年頃、薩長不和の遠因について忠義とその弟忠斉が父久光に問い質した際の談話を記録したものだとのことです。その中で、久光は長州征伐時の事情について情理を尽して語っているわけですが、とても興味深いことを語っています。

「…初めより内を治めて後に外国の処分取り掛かりになり度との見込みにて、慶喜殿へは小松(帯刀)より談合に及びし事なり。外国の御処置も初め上京の時分より建言したる通り、無謀の攘夷は下策なるは勿論、時勢止むを得ざる訳なれば、御国威のたつようにいたして開港するとの此方治論なれど、当時天下皆攘夷の論ばかりで、開港論と云えば賊臣のよう唱え立る折柄なれば、決して色に出さず時の至るを待とうとは、小松・大久保・西郷などと秘策にしたることなり。それ程色にも出さざるにゆえ、薩には開港論なりと落書や流言など多くあり、初めより無謀の攘夷と名を付け、内よく治まり兵備も十分整いたる上に、攘夷と云う事を唱えるでも、開港論を立るでも、その上の事と決したる訳なり。このよう内策ありしことを今生きて居る者に知って居るは岩下(方平)と吉井(幸輔)の両人どもならん。その時分、小松・大久保・西郷・中山(尚之介)の両三人の外知る人なく、その後、吉井・岩下両人には趣意極内申し聞かせ度と申したることあり。…」

 薩摩藩の内外において議論は割れていたため、藩首脳部の内策を秘しておいた、というのです。ですから討幕までの薩摩藩首脳部の方針、事情を理解するには、久光・西郷・大久保・小松を中心に、初期は中山(薩英戦争時のしくじりが原因で失脚)、後期は岩下・吉井の言動を加味し、総合的に分析していく必要があるということです。そして、久光の談話を読めばわかるように、そこに斉彬が『孟子』の「天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かず」に学んだ方針、道理に基づく一致一和が活かされていることは一目瞭然です。
 西郷は慶応三年頃、桐野利秋にその真意を打ち明ける際、攘夷は討幕の口実と言ったそうですが、彼らがそれを唱え、煽ったという痕跡はなく、攘夷論が優勢であったため、あえてそれを遮るでもなく、勢いに任せて置きましたが、攘夷論が開港を推し進める幕府を追い詰める根拠になるとの現状認識を持っていたようです。だから自らの開港論は深く秘しておいた。
 しかし、久光の主張に耳を傾ける限り、薩摩の藩論としては開港を是とするが、日本全体で攘夷か開港かは、内を治めて、兵備をよく備えた上で、最終的に是非を公論に決すべし、ということであったようです。

 薩摩藩首脳部は以上の方策によって幕末の騒乱に対処していこうとします。
 外交当局者として西洋列強との交渉を行い、それに基づき、内を従わせていこうとする幕府と、内を治めてから、もっと言えば国内を道理に基づいて朝廷の下で一致一和させ、兵備を整えてから、公議に基づいて外交問題に当たろうという薩摩藩の主張は対立するものでした。
 西郷は久光の方針に則って、長州を恭順させ、諸藩の連合軍である征討軍をさっさと解兵したため、戦争には至りませんでしたが、直後に長州では高杉晋作の蜂起により政権は勤皇派の牛耳るところとなります。これに不満の幕府は再征を決意しますが、薩摩藩はこれを拒絶します。そうした中で、薩摩と長州は密かに手を結びます。西郷は桂小五郎が主張する長州冤罪論を受け入れ、彼らが幕軍に徹底抗戦する決意を確認した上で、幕府との対決も辞さず、長州の赦免を朝廷に訴えることを約束したのです。
 結局、長州は征討軍を勇戦撃退し、薩摩藩は赦免を訴えますが、朝廷は幕府や会津に対する配慮からこれを受け入れません。幕府は将軍家茂が薨去したこともあって和平を模索しますが、うまく行きません。慶応二年十二月、膠着状態が続く中で、慶喜が将軍職を継ぎますが、直後に孝明天皇が崩御します。
 これを維新の時と捉えた薩摩藩は最後の機会として、雄藩に働きかけて諸侯会議を催します。集まったのは当時四賢侯と呼ばれていた越前福井藩老侯松平春嶽、土佐藩老侯山内容堂、宇和島藩老侯伊達宗城、そして薩摩の島津久光です。
 薩摩藩はこれを王政復古の最後の機会ととらえていましたから、強情に彼らの道理を押し通そうとします。
 長州冤罪論に基づき、まず長州を赦免し、雄藩である彼らも加えて公議を尽くし、勅命により外交問題を解決すべし、という意見です。ここには幕府が大政奉還を行い、一諸侯として評議に参加するべきだという含みがありました。会議開催中の西郷・大久保の久光に対する建言書に、将軍に大政奉還を勧めるようにという意見が書かれています。
 これに対し、慶喜は、当然のことながら長州有罪論に立脚し、寛典に処すのに異論はないが、それは後回しで、兵庫開港の勅許を先にすべし、という意見でしたから、議論は平行線をたどり、結局、朝廷は慶喜の意見を採用したため、薩摩藩首脳部は評議の結果、長州と示し合わせての義挙を決断します。板垣退助を首領とする土佐の王政復古討幕派も合流しますが、そこに後藤象二郎が上京し、土佐の藩論をまとめて大政奉還の建議を行うから、義挙を待ってほしいと申し入れがあり、西郷はこれを受け入れます。久光は個人的には反対意見でしたが、評議の結果これを受け入れました。長州藩も戦機を逸すということで反対です。
 西郷は天命に従って殷の紂王を討った周の武王の故事に倣って、公議をもう一歩尽くすことで、幕府に対してではなく、義挙に加わる諸侯が増えることを期待して後藤の上京を待ちましたが、トラブルがあって大幅に遅延し、義挙の準備を再開することにします。八月十四日の事です。九月に入ってようやく後藤は上京したものの、約束した兵は帯同せず、容堂が許したのは一片の紙切れによる建白というものでした。両者は連絡を取りながら、並行して進められる事になりましたが、薩摩では出兵反対論が渦巻き、藩論をまとめるのに暇取ったため、戦機を逸したということで義挙は延期となりました。そこに慶喜が大政奉還を受け入れるとの知らせがあり、彼らは作戦を練り直すことにします。
 この練り直しまで彼らの作戦は、京・大坂・江戸で日時を決めて一斉蜂起し、後に討幕派の公卿に討幕の綸旨を奏請してもらうというもので、楠木正成の千早赤阪の戦いを叩き台にしたものでした。幕府や会津が朝廷を独占している現状ではこのようなやり方しかないという判断が元になっています。しかし、大政奉還が成った以上、徳川家は一諸侯に過ぎなくなります。彼らは先の雄藩の連合で、御所の門をこれらの兵で固め、朝廷に対する徳川家の干渉を排除した上で、王政復古の大号令を天下に渙発し、公議を尽して勅命により天下の事を決めていくことにしたのです。彼らは慎重に準備を進め、十二月九日、朝議において長州の赦免が決定すると、御所を兵で固め、王政復古の大号令を渙発しました。
 ここに至るまで事を運んだのは薩長の不退転の覚悟と政治的力量によるものでしたが、やはり政治的対立者であった慶喜の功績を挙げておかなければなりません。彼はそもそも水戸の貴公子で、水戸学の申し子です。水戸学の祖である義公こと光圀は彼の祖先であり、彼の父斉昭は、御三家として宗家である徳川家を補佐するのは当然のことながら、もし徳川宗家と朝廷が対立し、弓矢に及ぶことがあるならば朝廷に味方せよ、との光圀の訓戒を彼に申し含めておりました。しかも彼の生母は皇族である有栖川宮家の出身であり、その宗家に当たる皇室に対する尊王心は本物であったのです。彼は大政奉還という英断を行い、政治的活動を謹慎しましたから、王政復古の大号令渙発まで大きな混乱も来すことがなく、内戦と言っても戊辰戦争のあの程度で済んだのです。
 問題は彼自身、長州の肩を持つ薩摩の正義など信じておらず、彼らの野心を疑っていたことでしょう。

 ともかく、薩摩藩は彼らが信じる公議をさらに強情に押し通そうとします。王政復古の大号令の日に行われた新政府最初の会議であるいわゆる小御所会議において薩摩藩主従は、まず内を治めるとの立場から、徳川家の辞官納地を主張します。これは徳川家をさらに追い詰めるためというよりも、水戸学的國體観に基づき、徳川家に王土王民思想を受け入れさるということに焦点が当てられていました。多くの人士にとって慶喜の自己犠牲的な大政奉還の英断によって、徳川家のこれまでの失政の罪は償われたと考えていましたが、薩長にとっては恐らく、それは政権担当能力、すなわち征夷大将軍の職務担当能力を失ったことによる当然のことでしたが、それではこれまでの皇室に対する不敬行為や失政の数々の罪を償ったことにはならない、と考えていたのです。もちろん現代的視点から言えば徳川家に多くの功があったのは誰もが認めるところです。もちろん当時の人々、薩摩藩首脳部も徳川家に二百五十年の太平の功があることは十分弁えていました。しかし、彼らは水戸学的國體論により、儒教的王土王民思想により、皇室の下一致一和して国難に当たることがこの国本来の在り方であり、将来の日本のあり方であると固く信じて疑わなかったのです。幕府でもそれを教養として理解している人は多くいましたが、あくまでもそれは教養にとどまり、幕府がそれらの土地人民を支配していることには歴史的正当性とでもいうべきものがあり、神祖家康に人望が帰することで体制が出来上がった経緯があり、朝廷からそれを奪ったわけではない、と考えていたのです。それは歴史的事実ですが、仮に薩摩の主張を認めるにしても、徳川家だけがそれを剥奪されるのはいわれはなく、不公平である、だから朝廷の御用として費用を献上するから、諸藩もそれに倣って、石高に応じてそれを分担すべきである、と主張しました。要するにここで激しく争われたのは國體観だったのです。
 ところが薩摩藩としては議論の前提として、罪を犯したわけでもない諸藩ではなく、まず罪を犯した徳川家からこれを正していくべきだとの「政とは正なり」という儒教的発想から、正義を押し通そうとします。彼らは公論に基づく政治を理想として事を運んでいましたが、大きく心配したのが、このまま物事を曖昧にして公議政體に移行して、多数決で事を議決するような事になってしまっては、徳川家の係累が多く、長年徳川家が御恩を施してきた諸藩が多数で、保身から時勢に鈍感にしか反応して来ることが出来なかった、これら因循な諸藩が平等の発言権を持つようでは、因循な国家とならざるを得なくなる、ということでした。それを避けるには、王政復古運動の根源となった國體観に基づく道理を徹底していくしかない。
 一方で、朝廷の側につきながら、徳川家の立場に理解があった御三家の一つ尾張の徳川慶勝、親藩の越前福井藩の松平春嶽、藩祖山内一豊の家康に対する御恩を想い、徳川家に対する同情的立場にあった土佐の山内容堂らは何とか腹に一物ありげな薩摩の強情理屈を切り崩し、慶喜の上京、参議就任に漕ぎつけようと周旋する間に三週間が経過し、その内に、激昂する徳川方の将兵と薩長軍の間で鳥羽伏見の戦が勃発する事になるのです。朝廷に弓を引く気など毛頭ない慶喜も薩摩藩に対する弾劾ではこれらの将兵と共感していましたから、彼らの統制を諦めていましたから、衝突は時間の問題でした。

 ここで一つ触れておかなければならないのは、意外かもしれませんが、薩摩藩による江戸撹乱工作などなかったという単純な事実です。久光の談話にあったように、薩摩藩首脳部の機密に参画していたのは、当時、藩主父子のほか、西郷・大久保・小松・岩下・吉井です。彼らの書簡類を精読する限り、彼らの方策に、浪士の工作により江戸を撹乱して挑発し、戦争に持って行く、という発想はありません。大政奉還に前後する作戦の練り直し以降、彼らはあくまでも水戸学的な國體観に基づく道理によって國内の一致一和を目指すべく政治的に正していくと、徳川家がこれを受け入れるはずがなく、戦争にならざるを得ないという見通しを立て、それに対する準備をしていたのです。これは作戦に対する分析だけでなく、指令や連絡文書や事実の経過によっても裏付けることが可能です。  詳細は拙著『十人の侍』に譲りますが、一つ事実を挙げておくと、大政奉還が成った後と、王政復古の大号令が渙発された直後、吉井幸輔が江戸藩邸に送った指示があるまで鎮静しているよう指示した文書を挙げれば十分でしょう。要するに、浪士たちはこれらの指示を無視して、関東で乱暴狼藉を働いたのです。それが結果的に徳川家の強硬派を挑発する結果となった。
 しかし、それはあくまでも結果であって、徳川家の強硬派の方でもこれを奇貨として、弱腰の在京幕閣をして開戦に追いやるべく、反対意見を強引に押し切って、フランス陸軍教導団の支援を得て、薩摩藩邸砲撃に及んだのです。彼らの思惑通り、薩摩藩邸砲撃の報はいち早く大坂城の強硬派に伝えられて、彼らは、勝てば名義は自ずと定まるということで、「討薩の表」を掲げて京都へと進軍を開始しました。それに呼応するように、江戸ですでに開戦し、戦時中であることを理由に、万国公法に則って、大坂湾では旧幕海軍が兵庫港に停泊中の薩摩藩の船を砲撃しています。元旦の事です。大坂を制圧されている朝廷がこの事件を知ったのは五日の事でした。
 つまり、正月三日夕刻、鳥羽伏見で薩軍が最初に発砲したといっても、勅命に反して彼らが強引に入京しようとしたからで、それは真珠湾の奇襲と同じことで、先に敵の方から意図的に一方的に攻撃に及んでいたのですから何をかいわんやです。徳川方では薩摩藩邸攻撃を以て開戦と考えていましたが、彼らより後で事件の情報を入手した西郷・大久保は、これは一大事、と慌てたものの、これを以て即開戦とは考えておらず、そこから情報収集を始める有様で、備えも十分ではありませんでした。これでは挑発の意図も、撹乱工作であったとも言えません。しかし、薩摩藩はこの時点で、親徳川勢力の切り崩しに遭い、朝廷内でじり貧の政治的孤立状態にありましたから、西郷は鳥羽一発の砲声を、朝廷の腰を据わらせるものとして、百万の見方を得たよりうれしかった、と喜んだのです。
 結局、戦は慶喜に戦意が全くなかったこともあって、薩を主力とする長州との実質的連合軍である官軍が十倍の敵を破るという古今まれな大勝で、戦闘中、肥後や土佐の兵が前線で戦っている薩長軍を背後から攻撃する可能性もあった官軍は、朝廷同様、これによって一気に固まったのです。

 官軍である以上、朝命に従って作戦行動を行うのは当然です。
 江戸で薩摩藩首脳部の指示を無視して、江戸市街を撹乱した浪士たちの首領の一人相楽総三は、陰謀をもみ消すため、西郷の指示によって粛清されたという見方がありますが、撹乱工作など存在しなかった以上、別の見方が必要です。彼は事件後上京して浪士を集めて赤報隊を結成し、官軍に属しましたが、偽官軍とのレッテルを貼られ、処刑されました。しかし、彼らは統制から自由であった浪士時代の癖が抜けきらず、命令違反を繰り返したともいいますから、天下の支持を得るためにも軍規を確立しなければならない中央からの指示によって処刑されたと見るのが軍隊の常識に適っていると思われます。鳥羽伏見の戦勝によってパラダイムは大きく変わっていたのです。
 
 戦の一段落した七日、朝廷は徳川家が将軍という天下人の資格で支配してきたところの天領の没収を宣言します。ここにも薩摩が公論として掲げるところの國體思想「王土王民思想」が執行されています。天領は政府直轄地に組み込まれ、閏四月にはいち早く知府事・知県事が置かれました。廃藩置県への政治的方向性がここにすでに表れています。
 江戸に逃げ帰った慶喜は恭順の意思を表明しますが、弁解がましい彼の態度は不徹底で、叱責にあって恭順を徹底するため、上野寛永寺に謹慎し、あらゆる手づるを使って朝廷に嘆願しました。大義名分を離さず、勝利した官軍に箱根以西の諸藩は一気に恭順し、征討軍は東海道他の三道を進軍し、一気に江戸に迫ります。官軍の正義を理解しない江戸は、すわ戦じゃ、ということで恐慌状態に陥ります。慶喜から全てを託された勝海舟は、官軍が何が何でも徳川家を攻め滅ぼすつもりなら江戸で焦土作戦を敢行する準備をして、西郷との談判に懸ける作戦でした。勝も儒教的王道主義者です。西郷もまた儒教的王道主義者ですから直談判によって最終的に、比較的あっけなく話がついたのはこれが原因です。王道思想に基づき、謀叛を起こした徳川家から私領としての江戸を接収した官軍はやがて関東および東北地方経営の必要性からここを首都にすることにしました。
 後は不満分子の残賊掃討の段階に入っていきます。会津や長岡藩の悲劇が起きますが、西郷が王道に則って戦後処置に関与した庄内と、彼の戦後処置を見習った黒田清隆が取り仕切った函館戦争は恭順の実効が立てば寛大に処するという王道に則っていたため、後々まで感情的しこりを残すことはありませんでした。西洋近代文明の洗礼を受けた現代の価値でいろいろ批判することは可能ですが、当時の価値観で見れば非常に堂々とした手順を踏んで、維新回天は行われたのです。もちろんこれは下剋上である革命ではありません。
 幕末公武合体という運動がありましたが、これは概ね幕府と朝廷の一体化を意味していました。しかし、王政復古運動はむしろ公武合体の徹底を目指す運動で、それは王政復古の大号令の「公卿・武士・堂上・地下の区別なく至当の公議を尽くし」、御誓文の「上下心を一にして」「官武一途」と言った文言に現れています。要は天皇の下で公武が合体するには、諸法度に定められた江戸時代の國體とでもいうべき、幕府および摂関体制が大きな障害になっているとの認識に至ったのが、王政復古討幕派であったといいうるのです。
 明治維新がその後、世界中で起きた革命と異なるのは、前体制を全否定するのではなく、これをある程度認めつつ、それを乗り越えて上の次元で統一を達成しようとしたところにあると言っていいでしょう。天下の公議を尽くし、勅命により万機を執り行い、国難に対処していく。その理想、ヴィジョンを用意したのが、江戸時代を通じて深化発展を遂げた、この国の根源にまで達する学問的成果にあった。その学問の深化発展の触媒、あるいは背骨となったのが神道的なるもの、皇室と結びついた『論語』を中心とする国風化された儒教であったことを論ずるのがこの稿の主題です。

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