皇室と論語の出合い 【『皇室と論語』(七)】

 しばしばラジカルな問題提議を行ってきた西尾幹二氏の著作に、『皇太子さまへのご忠言』(平成二十年出版)という問題作があります。
 現在皇室が直面している本質的危機に注意を喚起する内容で、氏の皇室に対する危機感と心配が、この、皇室に関する本としてはかなり刺激的な内容の本を生んだのです。
 この本のまえがきの書き出しは西尾氏の皇室に対する感想です。

「私は日常生活のうえで、天皇の存在を必要としていません。それは普通のことだと思います。自分を陛下の臣下だと意識したこともありません。最近自分を『臣下』と呼ぶ保守系知識人がいて、言葉遣いのアナクロニズムに驚きました。最近の風潮がそういうところまできている現われですが、私はその種の感傷的な流れに掉さしておりません。」

 これを読んだ外務省チャイナスクールのある官僚は、これではシナの理想の政治じゃないですか、という趣旨のことを言っていましたが、実は、この文章を読んだときの筆者の感想もそうだったのです。
 筆者の頭に思い浮かんだ言葉は、シナの古い言葉である「鼓腹撃壌(こふくげきじょう)」でした。
 『十八史略』にある故事です。

 古代の伝説的聖天子・堯は天下を治めて五十年。
 宮殿は粗末であったが、何事もなく治まっているように見える。
 不安になった堯は、現状をこの眼で確かめるために、お忍びで街に繰り出した。
 すると街では子供たちが歌っていた。「私たちは識らず知らずの内に帝の教えに従って、お陰で生活を無事立てることが出来ています」と。
 また、老人がいて、食べ物を口に入れ、腹づつみをうち(鼓腹)、大地を踏み鳴らしながら(撃壌)、歌っていた。
「日が昇れば耕し、日が落ちれば息う。井戸を掘っては水を飲み、田を耕しては食べる。帝の力など、私には何の関係もない(帝力何ぞ我に有らんや)。」

 西尾氏は、歴史家として、評論家として、臣下ではなく一国民としての関心を皇室に対してお持ちですが、日頃「帝力何ぞ我に有らんや」としか思っていないのは日本国民の大半がそうだと思われます。
 皇室廃滅を企む輩が、そういった現状につけ込んで跳梁跋扈しているのが現代日本の宿痾です。そもそも「天皇制」とは、彼らが使い始めた、「モナルキー」の訳語でコミンテルン用語ですが、一般用語として定着してしまった感があります。
 そんな彼らも大半は日常生活を見れば「鼓腹撃壌」の民であり、その一変態と見て差し支えないでしょう。マルキズムというイデオロギーに被れてしまった、かつて福沢諭吉が揶揄したところの心酔者流、開化先生の昭和平成版ですが、彼らは年老いても、革命という若き日々の夢を捨てきれず、豊かな日本で職にありついて、たらふく食い、腹づつみをうち、大地を踏み鳴らしながら「帝力何ぞ我に有らんや。」と嘯いてきたのです。
 彼らの狙いは、そんな皇室などいらぬ、われわれこそが大衆を支配すべき前衛で、皇統の危機にかこつけて、国際化の名の下、飽食で太った平和ボケでお人好しの国民をだまし、女系天皇を誕生させ、この国の背骨を抜いてしまえ、ということにあります。その起源は、ロシアの皇帝一家を無惨に処刑して共産党政権樹立を達成し(ロシア革命)、日本の共産化を目指していたスターリンがその下部組織である日本共産党に発した二七テーゼ(一九二七年・昭和二年)にまで遡ります。
 統一戦線方式により打倒自民党を達成した民主党政権時代、日本は中国共産党による人民解放の危機に晒されました。日本列島は日本人だけのものではないと言って、辞職後も事あるごとに北京詣でを繰り返す元首相や、中華帝国に身命を捧げる覚悟を表明した元中国大使も輩出しました。非常に危うい時代でした。
 その危機は自民党が政権を取り戻した今でも続いていますが、これは逆説的に、古くから堯舜の治を理想としてきた皇室の統治の伝統が、発祥の地であるお隣の国では、理想ではあっても、一度も実現したことのないその伝統が、日本においてみごと実を結んだ皮肉な結果とは言えないでしょうか。
 つまり、この君臨すれども統治せずの緩やかな統治の伝統が、彼らに付け入るスキを与え、皇室存立の基盤を危うくしているのではないか、ということです。
 現代では男女平等の見地から、国連人権委員会などが男系継承を批判しましたが、これは見当違いも甚だしく、他からの男系の血統が排除されているという点で、万世一系の男系継承の伝統は実は男性を厳しく差別しているのです。
 西尾氏が指摘したように、皇室が危機に直面している今日、われわれ日本人は歴史・伝統をうまく思い出し、自覚していく必要があるでしょう。 
 期待できるのは、鼓腹撃壌の老人ではなく、これからの若者です。
 大事なのは、「私たちは識らず知らずの内に帝の教えに従って、お陰で生活を無事立てることが出来ています」と素直に、皇室に象徴される日本の歴史や伝統に感謝できる子供たちを育てることです。筆者に目を開くきっかけを与えてくれた、西尾氏が主導した「新しい歴史教科書を作る会」の教科書改善運動の意義はそこにあったと理解しています。

 さて、西尾氏は『国民の歴史』文庫版「上巻付論」の中で、近代に入っての日本人の歴史観、歴史叙述の問題点として、明治以来の「本来的自己」の喪失を挙げています。
 この大著は、それを取り戻し、その視点から世界を見ようとの壮大な試みであり、筆者が目を開かれたのはそこです。そして、その「本来的自己」を取り戻すには、やはり明治維新を見直す必要があるのではないか。そう思うようになったのです。
 そのためにはやはり維新最大の功臣で、謎に覆われた人物であり続けている西郷隆盛の謎を解くことがその手がかりとなる、との確信から、史伝を書こうと決意したのでありました。

 西郷は、津田左右吉から「慶応の功臣、明治の賊臣」と呼ばれ、維新の大立者となりながら、いわゆる「征韓論破裂」で維新政府分裂の大きな要因となり、西南戦争という日本史上最大規模の内戦の主役となった人物です。文芸評論家江藤淳の『南洲残影』はこのテーマに取り組んだ作品ですが、文学書としてはともかく、歴史書としては手抜き作品であるのは明らかです。「保守」の西郷認識がこのレベルに止まるとすれば非常に残念なことです。

 「征韓論破裂」、「西南戦争」とは一体何だったのか。
 盟友・大久保利通との政治的対立は一体どのような意味を持つのか。

 その問いかけが、拙著『(新)西郷南洲伝(下)』となりました。
 この作品は、西尾氏の言葉を借りれば、日本人の「本来的自己」を取り戻す試みであり、『国民の歴史』から出た一つの芽なのです。芽吹いた草木は、日本の歴史・文化という土壌がしっかりとさえしていれば勝手に育つでしょうが、より意識的に、より丁寧に、根気よく育ててゆけば、さらに大きく成長するでしょう。 反日自虐史観、唯物史観、浅はかな合理主義の輩は、その土壌を汚してきました。今必要なのは、この汚染された土壌を掘り返して、洗浄することです。近著『十人の侍』は十年かけて、丁寧に育ててきた、その自分なりの成果と言えるものです。

 ここでは日本の根幹をなす「皇室」という視点から話を進めていくことにしますが、これは、明治維新とは何だったのか、日本人の本来的自己とはなにか、という問いについて、手探りでつかみだした、この国の多くの先人達が、孔子を愛し、『論語』を人生の規範として生きてきたという事実を、皇室の歴史の中に探っていく試みです。シナ儒教の話ではありません。
 
 現在では、堯舜などの古代シナの聖人の事跡は、孔子より後世の諸子百家の時代に作られた説話であったことが判明しています。つまり、「鼓腹撃壌」の話は賢しらなシナ人による後世の作り話、ということです。
 そもそも堯舜禹は神でしたが、彼らの賢しらな理想をこれらの神々に仮託して、聖人という完成された人間の行為として伝えてきたのです。
 ここでもやはり、神話を神話として伝えて来た日本とは正反対です。
 朱子学的合理主義者であった江戸時代の新井白石は「神とは人なり」と言って、浅はかな近代合理主義的神話解釈のさきがけとなりましたが、古代シナの聖人伝説では逆に「人とは神なり」という逆説が成立することが判明してきたのです。つまり、漢学の中核には人為的に創作された一種の神話があるのです。
 これは西尾氏の『江戸のダイナミズム』で学ばせていただいきましたが、堯舜説話が後世の創作であることは白川静著『孔子伝』ですでに知っていました。これも日本とシナの違いを考える上で核となる非常に重要な要素なのですが、日本の皇室は、統治域の拡大につれて、天皇の統治のあり方の理想として、このシナ伝来の説話を受け入れてきたのもまた事実です。
 一方、皇室の正統性の核心となる神話との結びつきは、『古事記』や『日本書紀』が編纂されるまでは、もっぱら口承伝承と祭祀を通じて保たれてきました。これはいまだに秘儀として、皇室の祭祀の中に保たれていて、われわれ一般庶民はそれを容易に窺うことを許されていません。「帝力何ぞ我に有らんや」の輩、無関心の民にはなおさらです。 
 しかし、細胞の核がそれ自体で存続し得ないように、皇室のこの核心にも、事(こと)・業(わざ)しげき世の中となって、民に対して、あるいはシナや朝鮮半島との関係において、核を覆う膜が必要になってきたとき、仏教のみならず、儒教が取り入れられてきました。これが盛んに行われたのが、隋・唐の勃興と重なる時代で、東アジアに起きた大きな変動が日本を動かしたのです。
 統治の原理として不完全ながらも当時の先進文明である隋・唐から律令体制、延いては儒教が取り入れられることとなりました。これは明治維新の原型となる経験だったといえるでしょう。
 森鷗外の指摘するところの一説によれば、この大変動の時代の主役であった天智天皇は殷の暴君紂に、天武天皇は易姓革命を行った周の武王に準えて、諡号が択ばれているといいます(『帝諡考』)。『周書』によれば、「天智」とは紂が討伐を受け死んだときに身につけていた玉の名、「天武」とは天命を受けて紂を討伐した武王を表すというのです。
 天武天皇自身が易姓革命を意識していたらしいことは、壬申の乱の際、漢の高祖に倣ってのことでしょうが、配下の兵に紅い布を付けさせていることからも窺えます。以降、天武天皇の男系継承が八代続きますが、この間、シナ文明の摂取は盛んに行われました。正史である『日本書紀』や『古事記』が編纂されたのはこの時代のことです。そして、天武天皇男系最後の天皇、称徳孝謙女帝は自ら「皇帝」を名乗り(宝字称徳孝謙皇帝)、有名な僧・道鏡への禅譲を行おうとして挫折しました。
 禅譲とは放伐(追放討伐)によらない自発的易姓革命です。聖人堯舜が行ったとされる徳行がこれです。つまり、これもシナでは一度も起らなかった人為的神話です。シナの國體(國と言っていいなら)はどこまでも放伐による易姓革命によって成り立っているのです。

 ところが、わが國ではどうでしょうか。
 女帝の禅譲の意志は和気清麻呂が持ち帰った宇佐八幡の神託によって挫折を余儀なくされました。女帝の後を継いだ天智天皇男系の光仁天皇から皇太子である桓武天皇に皇位が継承された時、その正統性の根拠が男系としての天智天皇系にあることが強調され、シナの皇帝に倣って、天を祀る式典が執り行われました。その意味するところはなかなか示唆に満ちているように思われます。

 儒教の聖典『論語』の受容は応神天皇の御代にまで遡ります。
 それを日本にもたらした百済の王仁(和邇…わに)が、応神天皇の命で皇太子・菟道稚郎子(うぢのわきいらつこ)の師となり、学問を授けたのは、『日本書紀』の記すとおりですが、われわれが天皇統治の理想像として想起し、東北大震災の際もよく取り上げられた「民の竈(かまど)」の話で有名な仁徳天皇(大鷦鷯尊(おおさざきのみこと))は、この皇太子の兄に当たります。
 西尾氏は『国民の歴史』「日本語確立の苦闘」の中で、次のように記しています。

「さて、王仁による『論語』の到来は四世紀末と伝えられる。もっともこれ自体が不確かであって、もっとずっと早い話かもしれない。四世紀末には日本は朝鮮半島に進出し、百済や新羅を破って、さらに北上して高句麗に敗退したことが高句麗好太王碑文に示されており、任那日本府の支配を確立するなど、かなり積極的な行動を展開しているのであるから、当然のことながらそれよりもはるか前に正式な体系的文字の導入があったと考えるのが常識ではないだろうか。
 しかし通例は、漢字の使用、儒教の伝来は歴史書によると五世紀の初頭ということになっている。今初出がいつであるかは明らかに証明はできない。専門家の間でも前述のとおり、かなり大きな年代幅があるので、ここではさしあたり問題にはしない。」

 これは漢字導入による書き言葉としての日本語確立の話ですが、皇室と『論語』という新たな価値規範との出会いの記憶が、王仁の名とともに口承伝承の中に刻印されたのだ、と考えれば、その歴史的意義は自ずと別の光を帯びてくるでしょう。
 日本人と漢字の出会いが王仁の渡来に先立つものであったのは当然の話で、大陸との交渉が活発であった西日本には、すでに文字の渡来もあったはずです。新文明への関心から、あるいは交易上の必要から、これを読み、これを使用する者もいたことでしょう。あるいは、彼らの中には『論語』に触れた者もすでにいたかもしれません。
 しかし、統治の主体であった皇室が、その意志として受容を決めた経緯が口承伝承の中に刻印された、とすれば、応神天皇の御代の王仁による『論語』『千字文』の渡来の意味は大きいのではないでしょうか。四世紀末に渡来した王仁によってもたらされた『論語』が、五世紀初頭の文字の使用、儒教の伝来となった、という通説の流れとも矛盾しません。
 『古事記』によると、百済の第六代照古王は朝貢使として阿知吉師(あちきし)(『日本書紀』では阿直岐・あちき)を送ってきて、貢物を捧げた。阿知はこのまま残って阿直史等の祖となった、との注釈があります。さらに、応神天皇は百済に、もし賢(さか)しき人があれば貢上せよ、と命じました。そこで百済が献上したのが、「和邇吉師」すなわち王仁であり、この王仁が携えてきた『論語』であり『千字文』であったのです。
 『続日本紀』や『新撰姓氏録』によると、桓武天皇の時代、子孫である左大史・文忌寸最弟(ふみのいみきもおと)らが、漢高帝(高祖)の末裔「鸞」の子孫「王狗」が百済に渡来し、その子孫が先祖の王仁である旨を奏上したといいます。
 「鸞」は盛世に現れる瑞鳥で、鳳凰の一種です。「王」はやはり漢の帝室に連なる家系に由来する姓、あるいは名なのでしょう。だとすれば、和邇固有の名は「仁」ということになります。孔子以来、儒教で最重要徳目とされる「仁」を名に含む人物であったのです。

 一方の『日本書紀』の方では、阿知はよく経典を読んだので、応神天皇はまずこの阿知を皇太子・菟道稚郎子の師とした。天皇はさらに阿知に「お前よりも優れた博士がいるか」と尋ね、王仁を推薦したため、天皇は百済に使いを送って召したことになっています。翌年、王仁は来朝し、皇太子はこの王仁を師として、諸典籍を学び、精通するに至ったといいます。
 応神天皇はこの菟道稚郎子への皇位継承を強く望みました。

 膨大な漢籍の中で、初めて皇室が出会ったと記憶されたのが、『論語』であり、『千字文』ですが、後者の成立はもっと後世であったことが立証されていますから、『論語』をもたらしたとされる王仁にさかのぼって結びつけられたのかも知れません。
 『論語』も『千字文』も、出土した律令期から奈良時代にかけての習書木簡の中に多く見られるといい、中には、『古今和歌集』「仮名序」に引かれて有名な王仁の和歌「難波津に咲くやこの花…」の習書木簡も存在するといいます。
 これら王仁のもたらしたとされる書物が漢籍の手習いの教材に用いられたのは大きな意味を持つでしょう。当時、シナ儒教において『論語』は副読本的扱いで、五経こそが学ぶべき聖典でした。『論語』を中心とする四書を聖典としての高い地位に置いたのは、宋学の出現からです。
 また、現在では儒教・仏教と明確に分類されますが、日本人は漢字を通じてこれら海の向こうの聖典を学んだのであり、当時の人々にとって分類は後世ほど明確ではなかったでしょう。
 仏教の信者であった聖徳太子も明らかに『論語』を読んでいましたし、時代は下って、親鸞も、『教行信証』の中で『論語』の言葉で「鬼神(神霊)」について考えをめぐらしています。
 「あるべきやうは」で有名な栂尾高山寺の明恵上人は、春日明神を信仰した上、小乗・大乗のみならず、孔・孟、老・荘の教えも、如来の「定恵(じょうえ)」から発したものと信じていたといいます。「定恵」とは仏道修行の基礎となる三つの大切な事柄である戒・定・恵(悪を止める戒、心の平静を得る定、真実を悟る恵)のうちの二つです。ちなみに明恵上人は「承久の変」で鎌倉方の指揮を執り、変後「貞永式目」と呼ばれる慣習法を発布した北条泰時が師と仰いだ人物です。
 また、建武の中興で有名な後醍醐天皇も、儒教、特に宋学に通じながら、同時に仏教、特に密教への造詣が深かった。

 宋学はそもそも禅宗に付属して渡来したものです。
 古代においてこれらの境界線は曖昧であり、皇室を中心に、『論語』は古人曰くの形で、賢者の言葉として重んじられてきたのです。日本はシナの儒教を受容してこなかった、の一言で済ましていては、この国の伝統を深く理解することはできません。日本流に受容して、日本の歴史を創り上げてきたのです。批判すべき点があったとしても否定すべきことではないはずです。
 
 時代は下って、皇室男子の諱(いみな)には必ず、「仁」の一字が授けられ、「ひと」と訓ずるのが慣わしとなりました。これは筆者の知る限りでは、第五十六代清和天皇(惟仁)に始まりますが、慣習として定着するのは第七十代後冷泉天皇(親仁)の御誕生からです。ここには、仁たれ、との、総体としての皇室の願い、すなわち大御心が込められているとしか解釈しようがありませんが、なぜ大和言葉で「仁」を「ひと」と読み慣わすかと言えば、そこに『孟子』の「仁とは人なり」との言葉を介在させればすんなりと腑に落ちます。

 『孟子』は易姓革命を肯定した書物だから、これを載せて日本に向かう船は沈む、との迷信がシナ明代の船乗りには広く行き渡っていたといいますが、実際には、遅くとも寛平三年(八九一年)には『孟子』が日本に伝えられていたことが史料的には確認されています。つまり、渡来はそれ以前ということです。寛平三年と言えば、第五十九代宇多天皇の御代であり、清和天皇の時代からそう遠くありません。初めて御名に「仁」の一字が用いられた清和天皇の生年は嘉祥三年(八五〇年)、没年は元慶四年(八八〇年)です。

 「仁」とは儒教における最重要徳目です。
 聖徳太子の「十七条憲法」の内、五条に『論語』の影響は見られますし、冠位十二階の制度では冠位が「大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大義・小義・大智・小智」となっていて、順序は違いますが、中身は儒教の五常と一致しています。約一世紀後の律令の学制には『論語』『孝経』が必修と定められ、官吏の採用試験でも、この二科目は必修とされています。
 貞観二年には孔子を祭る式典が立法化し、翌三年、初めて宮中で『論語』の講義が行われました。清和天皇の御代です。(以上、貝塚茂樹『世界の名著 孔子・孟子』解説、林泰輔『論語年譜』参照)

 この流れの中から、後に学問の神様と呼ばれることになる菅原道真が登場します。後世、天皇親政の理想時代とされた宇多天皇、続く醍醐天皇はこの和魂漢才の忠臣を重用し、菅公は位人臣を極めましたが、藤原氏の陰謀によって失脚し、大宰府に流されました。
 渋沢栄一『論語と算盤』によれば、菅公は大いに『論語』を愛誦し、王仁が応神天皇に献上した物と朝廷に伝えられてきた『論語』『千字文』を筆写して伊勢神宮に奉納したものが、世に言う「菅本論語」として現存しているといいます。
 朝廷において非常に重んじられてきた古典であったことがわかるでしょう。

 その伝統に則って孔子をこよなく愛した江戸時代の国学者・本居宣長は『古事記伝』総論の「直毘霊(なおびのみたま)」の中で、わが国の古は「実(マコト)は道あるが故に道てふ言(コト)なく、道てふことなけれど、道ありしなり」と喝破しましたが、わが国の「道」の痕跡はあるところまで辿っていくと、神代にたどり着く手前でいつの間にか姿を消します。しかし、それは霞がかった山々の風景に溶け込んでしまって見えなくなってしまうということであって、なくなったということではない。むしろ、空気のように、意識されないほど満ち溢れていたということです。霞の向こうには澄んだ空気が充満していたのです。
 この、「道」と名づけられた意識的な生き方と皇室の出会いという、画期を成す出来事が王仁による『論語』との出合いの記憶なのです。そして、おそらくそれは文字の出合いとセットになって記憶された。
 確かにこれは口承伝承による記憶であって、記録ではありません。
 つまり、主観であって、客観ではない。
 しかし、西尾氏が文庫版『国民の歴史』の「まえがき」で述べているように、主観がなければ客観も存在しないのです。
 筆者がここで問題にしたいのは、この記憶、主観の問題です。

「道」は過去と己を結ぶものであると同時に、未来へと続くものです。
 現在はその間に存在する。
 そして、現在にあって「道」は生きるしるべ(導・標・知る辺)となる。

 この『論語』との出合いから、われわれ日本人は豊かな口承伝承の世界を土壌にして、自覚的に歩き始めるひとつのきっかけを得ました。
 考えてみれば、われわれ日本人ほど、「道」という観念が好きな民族はいません。
 何でも「道」にしてしまいます。
 歌道、茶道、華道、書道など芸道全般。
 剣道、柔道、弓道など武道全般。
 文武両道という言葉もあります。
 今でも様々な分野で、人々の行き方、生活と密接に重なり合いながら、「道」の開拓は進んでいることでしょう。
 日本の歴史を振り返ってみれば、「道」は多様で一本ではありませんでしたが、空間という横軸で広く、時間という縦軸で長く捉えたとき、現在のわれわれと過去の間を結ぶ大きな「道」が存在することに気づくはずです。
 その中心を一以て貫くのが皇室の御存在です。
 皇室の歴史は遡っていくと、いつの間にか神話へと繋がっていく。
 一応は初代天皇神武天皇とそれ以前の神代は分けられていますが、名においてはともかく、内容的に截然と分けられるわけではなく、神武天皇以後も神話的記述は続き、徐々に歴史時代へと入っていくことになります。
 逆に、この大道は遡っていくと、人が歩くうちに踏み固められて自然に出来上がった道を通り過ぎるうち、ある附近で、獣道がそうであるように判然としなくなってくる。そして、記録の外にある人跡未踏の領域、すなわちその一部が伝承として残された神々の世界に踏み込んでいくことになる。
 そして、やがて舞台は高天原という天空の世界へ昇っていく。
 この道は徐々に大きな道として整備されていったのであって、遡れば遡るほど、その痕跡を辿るのが難しくなるのは当然でしょう。
 荻生徂徠は「世は言を載せて遷り、言は道を載せて遷る、道の明らかならざる、もとより之に由る」と「道」を知ることの難しさを端的に表しましたが、幸いにも、わが民族はその「道」という観念との出合いの記憶を伝承の中に保存していたのです。
 おそらく、それは文字という書き言葉としての「言」との出合いと一体になったものでした。

 それをもたらした王仁が「天皇」の大御号を考案したのではないか。『古事記伝』において本居宣長はそのような解釈を述べていますが、王仁がもたらした『論語』渡来の意味を前述のように受け止めるなら、これは自然に受け入れられる解釈です。
 確かに、これは可能性の一つであり、宣長という一個人の解釈に過ぎないかもしれません。
 何せ、古い時代のことです。確証を挙げることは不可能で、推論に止まるのはやむをえません。現に宣長も断定しているわけではなく、一つの可能性としてあげているに過ぎません。しかも、仮に彼の推論が正しかったとしても、この「天皇」の大御号がすぐに受け入れられて広く使用されたということでもありません。かなり確実に使用されたといえるのは、推古十六年、第三回遣隋使が携えていった国書まで待たなければなりません。有名な「東の天皇、敬みて西の皇帝に白す」がそれです。
 推古二十八年には聖徳太子と蘇我馬子が『天皇記』『国記』などをまとめたことが『日本書紀』に出て来ます。『論語』を読んでいた聖徳太子ならありそうなことです。太子の薨去後、妃の一人橘大郎女が推古天皇の許しを得て作成した「天寿国繍帳」の銘文にも「天皇」の大御号は出て来るといいます。「天皇」の大御号はこの時代か、それ以前に考案されたと考えるのが自然ですから、王仁説も可能性のひとつとして十分にありうるのです。在位中、「天皇」と称された最初の人物はシナの思想や制度を大幅にとり入れた第四十代天武天皇です。この天武天皇の男系継承による奈良時代、言わば天武王朝時代に、『日本書紀』『古事記』の国史の編纂が行われ、律令制も取り入れられ、詔書における「天皇」号の使用が正式に定められました。天武天皇の孫、文武天皇の御代の事です。
 諡号の選定は少し下って、天平宝字六年、八代続いた天武王朝最後の女帝である孝謙称徳天皇(第四十六及び四十八代、宝字孝謙称徳皇帝)が一度譲位し、重祚するまでの間の第四十七代淳仁天皇(「淳仁」は明治天皇による追贈号で、当時は廃帝(はいたい)あるいは淡路廃帝(あわじはいたい)と呼ばれた)の御代で、淡海三船によって神武天皇にまでさかのぼって一括選定されたものです。天武王朝時代はシナ思想・文化・制度の移入が行き過ぎ、女帝の時代はそれが中毒を起こした時代と言え、皇帝になろうとの野心で反乱を起こした藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)や女帝自身による僧道教への禅譲など、易姓革命の危機に直面した時代でした。
 以降も、諡号奉上の儀は継続されましたが、第五十八代光孝天皇以来、少しの例外(崇徳・安徳・順徳の各天皇)を除いて行われなくなり、御在所などに由来する追号が贈られることになります。その際の称号は「院」が用いられました。
一方、「天皇」の大御号は第六十二代村上天皇以来、少しの例外(安徳・後醍醐両天皇)を除いて用いられなくなります。
 皇室の権威は、建武の中興の一時期を除いて低下の一途をたどり、戦国時代の後奈良天皇の御代に衰微を極めた後、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康が朝廷の再興に努めたことによって一応の安定を得ます。家康以後も、徳川将軍家と朝廷の関係は概ね良好でした。
 そうして、江戸時代後期の第百十九代光格天皇崩御後、第百二十代仁孝天皇が諡号奉上の儀を復活させ、その選定に際して「天皇」号は復活を遂げたのです。
 光格天皇は朝廷の復古に尽力された、江戸期の中では特筆に値する天皇で、新嘗祭(にいなめさい)や大嘗祭(だいじょうさい)を名実ともに復古しました。また、天明の大飢饉の際、民間で起こった自然発生的な御所千度参りの際は、民の救済を、京都所司代を通じて幕府に申し入れました。これは「禁中並公家諸法度」違反でしたが、天皇はそれを弁(わきま)えた上で敢えて、関白に命じてこれを行わせたのでした。幕府は非常事態と見て、千五百俵の米を放出し、法度違反については不問に付しています。
 久しく用いられてこなかった「天皇」の称号および諡号をこの代において復活されたことは、われわれ後世の日本人にとっては非常に重要です。光格天皇が崩御されて七十年の生涯を終えられた時、その復古の功績を振り返って「光格天皇」と諡(おくりな)されたのですが、それはおそらく武家勃興以前の朝廷の姿を取り戻そうとされた光格天皇の大御心(おおみこころ)に叶っていたと拝察されます。
 光格天皇は、印章に「学孔孟」、『論語』から引用した「一以貫之」、ほか『書経』からの引用を御用いになられ、皇室の伝統を受け継いで、後桜町上皇への御書には

「人君は仁を本といたし候事、古今和漢の書物にもしばしばこれ有る事、仁はすなわち孝忠、仁孝は百行の本元にて誠に上なき事、常に私も心に忘れぬ様、仁徳の事を第一と存じまいらせ候事に候」

と書いておられます。
 この天子としての心得が、御所千度参りの際の人民救済の申し入れに現われたのです。
 ここにも応神天皇の御代の渡来以来、皇室に受け継がれてきた孔子の教えは草莽の知らぬところで脈々と生き続けているのです。
 そして、それは草莽の儒教の流れと合流して、明治・大正・昭和・平成の御代も継続していくのです。

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