敗戦革命の脅威と国体論-スターリンの野望と尾崎秀実の転向 【「皇室と論語」(2)】

 昭和を代表する批評家である小林秀雄によれば、「文化」とはそもそも、武力を使わずに民を教化することを指すといいます。
 幕末の騒乱の結果、徳川幕府が倒れ、明治に御代替わりして西洋文明を積極的に受容して「カルチャー」という言葉が入ってきたとき、われわれの先人はその訳語として「文化」という言葉を当てました。「カルチャー」とは、「アグリカルチャー」が「農業」を表すことからもわかるように、「栽培する」という意味の言葉です。

「果樹を栽培して、いい実を結ばせる、それがcultureだ、つまり果樹の素質なり個性なりを育てて、これを発揮させることが、cultivateである。自然を材料とする個性を無視した加工はtechniqueであって、cultureではない。techniqueは国際的にもなり得よう、事実なっているが、国際文化などというのは妄想である。意味をなさぬ。」(小林秀雄「私の人生観」)

 その通りでしょう。
 国際化をグローバリゼーションに置き換えれば現在でもそのまま通用しそうです。確かにグローバリズムはtechniqueに支えられて、各国、各民族のcultureを破壊しているのが国際情勢という見方が出来るでしょう。だとすれば、戦後の日本とはずっと妄想にとらわれた社会だったということになりはしないでしょうか。
小林秀雄はcultureの訳語に「文化」を当てたために、その英単語が本来持っている語感が失われてしまったといいますが、必ずしもそうではないでしょう。
 
 「文化」という漢語は、シナの古代王朝周の始祖文王の事跡が元になっています。伝説によれば、文王はその徳により人望を集めましたが、当時シナを支配していた王朝殷の暴君・紂には武力で逆らわず、後世ますますその徳を慕われました。これに対し、跡を継いだ息子の武王は、紂に対し武力討伐を行い、新たに王朝を開きました。これを易姓革命といいます。そして、武王を補佐した弟の周公旦は、夏王朝、殷王朝の礼楽を土台に、高度な礼楽(今で言うところの文化)を創始し、周は栄え、王朝文化が花開いたのです。やがて周王朝は衰退しましたが、この周公旦を理想化し、その礼楽文化の意味を問うて、これを再興しようとしたのが孔子でした。

 ところが戦国の世に終止符を打った秦の始皇帝による統一以来、シナの歴代王朝は韓非子に代表される法術による専制体制を採用し、礼楽による民の教化、すなわち「文化」はその専制体制維持のための道具となり果ててしまいました。その教化に属さぬ土地の者をシナでは化外の民といいます。歴代シナ王朝が台湾を化外の地としてきたことを想起して下さい。かの地は幸いなことに、今でも文化的に中国の化外の地です。だからこそ、今、中国に飲み込まれようとしていることが彼らにとっての不幸なのです。
 ちなみに毛沢東は「批林批孔」をスローガンに専制体制維持の道具としての儒教まで否定し、『韓非子』を推奨、現在の皇帝習近平は再び孔子の名を利用し、「孔子学院」という工作機関を各国に設置して、世界中の顰蹙を買っています。全く道義性の欠片もない帝国として、金と他国から盗んだ先端技術の力だけで覇権を確立しようとしていますが、そんなものがうまく行くはずがありません。ただ鄧小平以来の改革開放路線という、西洋からの大量の資本投下によって膨れ上がった彼らは、膨大な人口を移民にして各国への影響力拡大に利用しようとしていて、これはユダヤ人のディアスポラという歴史経験を戦略的に取り入れたようにも見受けられ、これから移民政策の導入によって中国からの移民の大幅増が予想されるわが国では特に警戒が必要です。

 さて、「文化」という漢語は彼らが完全に失った古代文明、周王朝の事跡を踏まえています。
 小林の言う「文化」という漢語は、統治者の側から見たとらえ方です。
 しかし、孔子に栽培という意味での「文化」観があったのは、「苗にして秀でざる者あり、秀でて実らざる者あり」という『論語』の言葉からも明らかでしょう。孔子にとっての周公旦とは、夏、殷という伝説的な王朝によって引き継がれてきた礼楽を栽培し大成した聖人だったのです。
 誰かは知りませんが、おそらく明治初期の人々、つまり幕末育ちの人士は、そういった意味での語感を踏まえて、cultureという渡来語に「文化」という漢語を当てたものと思われます。 「文化」本来の語感が失われたのは、平成を代表する保守評論家の一人西尾幹二氏の言葉を借りれば「明治以来の本来的自己の喪失」が原因でしょう。

 戦前、日本に共産革命を起こそうと暗躍したソ連コミンテルンのスパイに尾崎秀実(ほつみ)という人物がいます。ヒトラーの言葉を借りれば、ロシア型ボルシェビズムの手先です。表向きは朝日新聞の記者でしたが、近衛内閣に接近した有名なゾルゲ諜報団の一員で、開戦直前に逮捕され、戦時中に処刑された人物です。
 小林秀雄より一年早く生まれた、彼の名「秀実」は、先の『論語』の言葉に由来していると思われますが、彼が、伝統破壊の衝動を秘めた共産主義にかぶれ、国際化(インターナショナライズ)の野望をもったコミンテルン(共産主義インターナショナルの略称)の手先となって、日本を英米との対立、そして戦争という奈落の底に陥れて、伝統文化破壊の張本人となったことを思えば何と皮肉な名前だろうと思ってしまいます。彼はコミンテルンの第六回大会で採択されたいわゆる二八テーゼに則って、日本を南進政策に誘導して米英との対立に導き、戦争の混乱の中で革命を成就するのを目的とする工作を近衛内閣に対する働きかけや世論工作を通じて行い、これにかなりのところまで成功したのです。
 戦前戦中の衆議院議員で、戦前に内務省警保局に勤めたことのある三田村武夫『大東亜戦争とスターリンの謀略』によると、レーニンが首唱した「敗戦革命論」とは次の内容であったと言います。

「帝国主義相互間の戦争に際しては、その国のプロレタリアートは各々自国政府の失敗と、この戦争を反ブルジョワ的内乱戦たらしめることを主要目的としなければならない。…
 帝国主義戦争が勃発した場合における共産主義者の政治綱領は、
(1) 自国政府の敗北を助成すること
(2) 帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめること
(3) 民主的な方法による正義の平和は到底不可能であるが故に、戦争を通じてプロレタリア革命を遂行すること。
…帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめることは、大衆の革命的前進を意味するものなるが故に、この革命的前進を阻止する所謂「戦争防止」運動は之を拒否しなければならない。
…大衆の軍隊化は『エンゲルス』に従へばブルジョワの軍隊を内部から崩壊せしめる力となるものである。この故に共産主義者はブルジョアの軍隊に反対すべきに非ずして進んで入隊し、之を内部から崩壊せしめることに努力しなければならない。…」

 日本の戦争突入、そして敗戦はこの工作の結果であった、という面が確かにあるのです。日本の革新官僚や少壮軍人の中にはこの恐ろしい思想に被れたものが多くいて、日本は、確信犯的に、あるいは知らず識らずの無意識的に、自己崩壊の内乱戦へと誘導されていったのです。軍部のせいにされる、今となっては不可解な無謀な作戦のどこまでがこの陰謀の結果であったのかはわからないのが現状です。

 美濃・苗木藩の郷士で代々庄屋を務めてきた尾崎家は楠木正成の三男・正儀(まさのり)を祖先に持つ家柄であり、祖父・松太郎は、平田篤胤の養子から国学を学び、維新開国の際には廃仏毀釈運動に加わった人物でした。その子、すなわち秀実の父・秀太郎もまた、平田神道を信奉しましたが、学業は儒学を主としていた。
 皮肉なものです。尾崎の出現は、明治以来の本来的自己の喪失が生んだ悲劇的結末の一つだったといえるのではないでしょうか。そして、獄中の上申書に見られる彼の転向は、投獄によって、そしてまた、大東亜戦争の開戦以来日本人が見せた国民的団結によって、若い頃から囚われてきた立身出世主義、長じての知的エリート主義から解放された彼が、自己の内奥、源泉を深く問い直した結果生まれたものではなかったでしょうか。
 つまり、グローバルな国際的人脈と強制的に遮断されることによってようやく、唯一の国民国家としての自我に立ち返ることが出来たのではなかったでしょうか。
 彼は上申書の中で言っています。

「顧るに、私の多年の国際主義の迷夢を打破して、宙に浮いていた足を本来の国土の上につけることに役立ったものは、家庭への愛情、家族との意外にも強い目に見えざるつながりでありました。…実に私自身の全存在が具体的に、手近には家族というものを通じて、悠久の古からまた永遠にこの国土に生きていたのであります。このことは私一個が死亡するというごとき事実によって消滅することの無い、もっと深い事実なのでありました。」

 尾崎はこの深い事実を敷衍して次のように説明しています。

「私一個には両親があり、その両親にはまた更に各々の両親があった。かくして数代、数十代、更に数百代を遡って思うときに、私一個には実に幾億とも知れぬ無数の生霊の流れが集中されていることを感ずるのであります。私を出発点として来るべき遠き将来を思う時、また同様のことに気付くのであります。この当然のことに一度思いを致すことは私に不思議な感情を起こさせます。私は実に歴史の長きに亘ってこの国土に生きて来、また、この国民の中に生き続け来り、生き続けて行くのでありました。
 私一個の個体は、この国土にある時期をもってたまたま生を受け、またやがて死んで行くのであって、まことに自然な去来に過ぎないために、その生命の深い意義を忘れがちでありますが、深く思えば、家族の一員としてまた国民の一人としてこのめでたき日本国家に生きた意義を思うべきでありました。」

 この、多くの先人たちが一度は思いを馳せてきた生命の奥深い意義を忘れがちな、国際文化にとらわれた知識人が現代ではなんと多いことでしょう。尾崎もまたその一人だったわけですが、国家権力による拘束によってようやく国際共産主義の迷夢から目を覚ますことができたのです。
 そして、尾崎はようやく覚り得た国体の本義を次のように述べています。

「日本はその永(とこし)えに美なる国土と優秀な民族との血肉として、その万世一系の天皇を戴く国体を骨格として永遠に栄えるでありましょう。この世界的大動乱の時期こそは、かえって日本が二千六百年前肇国に当たっての大理想を世界に向かって実現すべき唯一無二絶好の機会を与えられたものと観ずべきものでありましょう。」(以上 尾崎秀実『ゾルゲ事件上申書』岩波現代文庫)

 ここに言う「肇国に当たっての大理想」とは初代神武天皇の詔「八紘を掩(おお)いて宇(いえ)となす」のことです。彼が上申書で述べている国体はほぼ水戸学の伝統や教育勅語の精神と重なってきます。
 以上は、東京刑事地方裁判所に昭和十八年六月八日付で提出された一回目の上申書からの引用ですが、同十九年二月二十九日付で提出された二回目の上申書の方では、より豊富な言葉で、より精緻にその主旨が述べられています。
 他の共産主義者の転向手記を読んだことはありませんが、尾崎の記述は当時の転向手記の典型的な内容だといいます。この一左翼ヒーローの到達した国体論は、左翼闘士にとっては、減刑嘆願のための偽装転向であり、読むに堪えない代物らしいですが、国際共産主義の盲点、欠陥を突いたものとして冷静に読まれるべきものだと思われます。それまで彼が国際共産主義運動に挺身する中で捨象してきたものがここで真摯に取り組まれているのです。典型的な内容なのは、日本人にとってそれが至極当たり前の事実にほかならないからでしょう。
小林秀雄の言葉を借りるなら、尾崎は今更ながら、国際文化というものの無意味さに気づき、カルチャーとテクニックの本質的な問題に逢着せざるを得なかったことになります。尾崎は家族との絆、自己の源泉を種とする果樹を栽培し、処刑までの限られた時間でいい実を結ばせることに心血を注ぎました。そして、日本という土壌の豊かさを再認識せざるを得なかったのです。

 尾崎は立身出世に凝り固まって、知的エリート意識旺盛な日本の近代知識人の典型的な軽率さ、浅はかさを一身に体現していると思われますが、その観念的・空想的な理想の実現に命懸けで取り組んできたことは確かであり、それだけに国際共産主義勢力に利用されただけで、取り返しのつかぬ過ちを犯してしまったことが痛ましいのです。そして、これは国際派のインテリ、グローバリズムの信奉者全般にも言える事なのです。

 尾崎は二回目の上申書の中で、日本の国体を次のように表現しています。

「…日本の特徴は何であるかといえば、私はやはり富士山の姿に最も端的に表現されているというに躊躇しません。…(中略)…富士山の美しさを何よりも早く認識したのは上代の我々の祖先でした。いかに多くの富士山を詠じた秀歌が万葉以来の歌集の中に残されていることでしょうか。
 だが富士山の美しさの象徴するものは、ただに日本の国土だけではないと思われます。富士山の象徴するものは実にまた我が万邦に比類なき国体の姿でもあるのであります。遥に大地にまでなだらかに広い裾野を引きながら、あくまで孤り高く、美しい気高い線を描いて中空高く聳え立つ富嶽の姿こそは、我が天皇陛下の万民の中に御立ちになる御姿そのものに譬えることが出来るでありましょう。
 富士山は遠く隔てて仰げば天空高く屹立し、まことに人界を絶して崇高にして近づき難くすら思われるにかかわらず、その姿はまた限りなく優しく総てを包容し招き寄せるかのようであります。しかもそれに近づくに及んでは、広い裾野は低く周囲に及んでおります。まことに我が皇室が尊厳無比でありつつも、親しく人民の中にその根を置いておられるという事実に相あたるものではありますまいか。」

 外部から遮断され、限られた情報しか得ることができなかった尾崎には、その限られた情報の中で、英米の東アジア侵略に対しついに決起した大東亜戦争開戦後の日本の姿がまさにこのように映ったのであり、戦後の言語空間、情報空間に生きるわれわれは、現在の日本の状況を見て、このような国体観を直観的に得ることはなかなか難しいでしょう。
 数年前の話になりますが、平成二十五年六月、富士山はユネスコの世界文化遺産に登録されました。当初「自然遺産」登録を目指したこの運動は、登山客による汚染が問題視され、「文化遺産」への登録に方針を切り替え、「富士山と信仰・芸術の関連遺産群」との名称で目的を達成しました。結局、登録が成し遂げられるまでに二十年の歳月を要したことになります。その過程で、関係者の環境保全の意識が高まり、近年、登山客のマナーも向上しつつあるといいます。
 この日本を象徴する霊峰富士を汚してきたのも大半は日本人観光客なのであり、ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)という、日本を敵国扱いする連合国の専門機関のお墨付きを得ようとしたことがきっかけとなったことは少々情けない気もしますが、国際標準を気にする日本人の気質の表れでもあり、ともあれ、そのことが日本人にとっての富士山の価値を再認識することにつながり、関係者の努力が功を奏して、登山客のマナーが向上し、本来の清潔さを取り戻しつつあるのは喜ばしいことであります。
 このことは富士山に象徴される日本の国体についても言えるでしょう。
 信仰心に欠ける近代合理主義社会においては、国体にも保全のための意識的努力が必要であり、登山客のマナー向上に取り組んで行かなければなりません。登山客の中だけでなく、関係者の中にも、「市民」、極端になると「地球市民」「世界市民」とかいう夢想家・空想家たちがいて、この日本固有の名山を汚そうと企んでいるから厄介なのですが、もちろん登山客のマナー向上、環境保全に取り組むべきは、その裾野に住む日本国民です。その取り組みのきっかけとなるのが、価値の再認識であり、これがいわゆる歴史認識の問題です。歴史認識の問題で、中国と韓国・北朝鮮が盛んに日本を攻撃し、アメリカが「歴史修正主義」とレッテルを貼って慎重隠微に再認識の試みを牽制するのは、日本が、彼らにとって都合の悪い、本来の自己認識である歴史認識を取り戻すことをなんとしても阻止したいからです。

 歴史・伝統から抽出される日本という国のあり方、日本人としての心や死生観、そして世界観、これら一切を含む概念が「国体」です。
 西尾幹二氏は「国体」という概念について次のように解説しています。

「では、国体とはいったい何なのか。
 この言葉は現在ほとんど使われることがありません。今では『死語』といってよく、みなさんの使用語のなかにも国体という言葉はほとんどないと思います。読んで字のごとく【国の体】という意味ですが、そこには簡単には言えない哲学や理念や感情が混沌として渦巻いています。しかし、あえてひと口でいいますと―国のかたち、そしてそれを支える皇室のあり方、いいかえれば天皇のご存在を頂点に置くわが国のあり方、歴史へのその顕われ方、ということになるかと思います。したがって裾野が非常に広く、奥行きが深い。それが『死語』になっていること自体にわが国の運命の転変があり、あの戦争で旧敵国が何を抹殺の対象として狙いを定め、何を実現したかの帰結、すなわちわが国の悲劇を示しています。」(『GHQ焚書図書開封4 「国体論」と現代』 徳間書店)

 氏の『GHQ焚書図書開封』シリーズは、大東亜戦争敗戦後の日本を占領統治したGHQが、検閲と併せて隠密裏に行った蛮行「焚書」の対象となった図書の紹介を通じてわが国本来の歴史認識を取り戻す試みです。
 シリーズ第4巻は国体を論じて焚書になった本の紹介解説で、そこで扱われている焚書図書は、辻善之助著『皇室と日本精神』、山田孝雄著『國體の本義』、文部省編『國體の本義』、田中智学『日本國體新講座』シリーズ、白鳥庫吉著『國體眞義』、杉本五郎著『大義』、焚書ではありませんが、検閲により部分的に削除・改変を余儀なくされた太宰治の『パンドラの匣』などです。
 同書によると、GHQに焚書された「国体」に関する本は百四十二点に達するといいます。

 そもそも戦後社会において「国体」という言葉はタブー視され、死語となっていましたが、それは意味を失ったからではありません。それは高度経済成長期の日本人論や文明論の盛行を見てもわかります。それらは戦後の言語空間で封じられた「国体論」の代償行為であることが多く、中道を装って本質から目をそらした、本来的自己喪失の浅薄なものが多い。氏は解説の中で、現代人に分かりやすいように、飲み込みやすいように、「国のかたち」という言葉を使用していますが、それは戦後を代表する国民的作家の一人、司馬遼太郎が好んで使った言葉でした。近年指摘されるように司馬遼太郎はいわゆる東京裁判史観に立つ作家であり、いわゆる司馬史観はその影響を多分に受けています。つまりGHQの洗脳工作の影響を受けていて、それと真摯に向き合うことをしなかったがゆえに、「国体」の問題からは目を背けたということです。現に日本の国柄を論じた随筆風の文明論『この国のかたち』では日本の国柄を論じる上で最も重要な皇室の問題が真摯に取り組まれていない。まさに日本の神(こころ)を欠いた「この国のかたち」を論ずるにとどまっているのです。
 現在一般国民にとって「国体」といえば、「国民体育大会」を思い浮かべるという笑えない話もありますが、敗戦までの日本にあって国体論は、既に触れたように、われわれ日本人の在り方、生き方、家族観、社会観、国家観、歴史観、世界観などを論ずる極めて重要な学問でした。極めて奥深く裾野の広い学問であり、論者それぞれの資質や立場や環境に影響されて、皮相浅薄な議論から深沈重厚なものまで様々です。

 英文学者の故渡部昇一氏によると「国体」という言葉は英語ではconstitutionという単語に相当するといいます。いま手元にある辞書で調べてみると―constitution 1.構成、構造、組織、骨子、本質、2.体格、体質、3.素質、気性、4.〔政〕憲法、国権、機構、政体、5.制定、設立、設置―となっていて、概ね「国体」という言葉と重なるようです。

 本来なら、その国の構造・本質・骨格などを表す「国体」を条文化したものが憲法なのですから、特にタブー視されるような言葉ではありません。むしろ、いま議論の俎上にあがることが多い憲法改正論議がなされる上で、真っ先になされなければならないのが国体に関する議論なのです。であるにもかかわらず、その言葉がタブー視されていることが問題なのですが、そのことは現日本国憲法そのものが粗製濫造のアメリカによる押しつけ憲法であり、国際条約に違反して、占領期間中にGHQに強制されたものであることに象徴的に現れています。もちろん狡猾にも彼らは日本政府による明治憲法の自発的改正という体裁を取ったから、問題をややこしくしているのです。

 旧字体で「国体」は「國體」と表記されます。
 「國」という漢字の初文は「或」で、「戈」と「口」から成ります。都邑の城郭を表す「口」を、武器を意味する「戈」で守るから「或」です。それにさらに外郭「口」を加えたのが「國」で、国都や国家を表します。
 そして「體」の方は、ご覧のとおり「骨」と「豊」から成ります。「骨」は上部が胸部より上の骨格、下部が肉を表します。古代シナの辞書である『説文解字』には「體の質なり、肉の核なり」との解説があるそうです。現代でも「コツ(骨)をつかむ」という言葉は、物事の要点・本質・核心・要領を掴んで離さないことです。一方の「豊」は、食器である「豆」に禾穀がたっぷりと供えられている様を表します。
この、外と内を区分し、武力で守るべき範囲を表す「國」と、中身や実りの豊かさを表す「豊」、およびそれを支える「骨」から成る「體」を組み合わせた「國體」という言葉で表されるものは大体想像できると思います。
 それに比べれば、「国体」という現代表記はいかにも貧弱な印象を与えます。それもそのはず、字体の改変は、焚書同様、日本の精神文化の貧弱化を狙って、占領軍の指示によって行われたからです。
 漢字の碩学、故白川静博士は次のように述べています。

「敗戦後の五十年にわたって、わが国の文教政策は、占領軍の指示するままに、極めて貧弱な当用漢字表の規制を受けて、古典や漢字形式の資料の全体が、国民教育の場から姿を消した。古典はもとより民族文化の象徴であり、新しい文化はその土壌の上にのみ生まれる。自らの土壌を失った文化が、新しい発展に向かうことはもとより不可能である。国語の乱れ、国語力の低下は、戦後五十年に及ぶこの文教政策の上から、当然に予想される結果である。」(『文字講話』)

 これはもちろん、わが国が二度とアメリカに楯突くことがないよう占領軍が実施した政策で、神道指令・検閲・焚書などと同趣旨の洗脳工作です。事実、GHQ内部には占領当初、漢字の使用を禁止し、カタカナに統一すべき、あるいはローマ字が採用されるべきである、という意見もあったのです(山村明義『GHQの日本洗脳』光文社)。そこには日本人の使用言語の英語化とキリスト教徒化という衝動が存在した。もちろんGHQスタッフは表向きそのほとんどがキリスト教徒です。そのボスであるマッカーサーからしてキリスト教徒であり、マニフェスト・ディスタニー(明白なる使命)と呼ばれるアメリカ人特有のはた迷惑な使命感を持ち、日本人のキリスト教徒化を目論んでいたのです。そして、それはGHQに紛れ込んだ、伝統破壊による日本の革命を目論む共産主義者たちにとって大変好都合だったのです。そして、さらに厄介なのは、すでに触れたように、背後に隠れて姿は見えませんが、ディアスポラ系ユダヤ人による最後の国民国家日本の解体の意志が存在したことです。

 彼らのバイブルにはすでに触れたようにバベルの塔の物語があります。
 この物語は、人間の高慢さや不遜のしるしとしての塔と神の物語ということになっていますが、これは戦前、尾崎秀実が獄中で述べた国体のように、一つ言葉で、官民一体となって近代国家への発展を遂げたように外部から見えた日本に対して西洋人が感じた脅威や敵意の根底に横たわっていたイメージでしょう。
彼らは、一つ言葉、一つ民が築き上げた国家「大日本帝国」を無差別爆撃や原爆を投下してまで破壊しつくし、力で打ち負かした後、検閲・焚書などの言論統制、東京裁判などあらゆる手段を尽して日本人の言葉を乱し、ばらばらに解体しようとしたのです。
 そして、マッカーサーは、昭和天皇が「神」ではないという宣伝をするとともに(いわゆる人間宣言)、当時皇太子だった今上陛下の家庭教師に敬虔なクリスチャンであるクエーカー教徒のエリザベス・ヴァイニング婦人をつけたり、キリスト教の普及のために聖書を一千万部配布したりした。これは当時七千万だった日本の人口の実に十四%以上を改宗させようとの意図を持っていたことを表し、聖書を読めるような大人に限ればこの割合はさらに大きなものとなります。マッカーサーは、皇室のみならず、日本全体の改宗を企てていたのです。

 グローバリズムの主体は国際金融資本家たちですが、その錬金術師たちの中心は英国のシティやアメリカのウオール街を中心に活躍するディアスポラ系ユダヤ人で、彼らの聖典はやはり聖書、それも旧約聖書です。彼らが創造主「ヤハウェ」を信仰しているか知りませんが、選良意識は受け継いでいるように思われ、世界を彼らにとって都合のいいよう変えようとしているように思われます。日本で進められている移民政策はその総仕上げの意味合いを持っています。

 「この国のかたち」という言葉は、司馬遼太郎本人は戦後的な合理主義的立場に立ってそう表現したつもりかもしれませんが、そこで生活を営み、そして死んでいく人間にとっては、愛情や精神性を欠いた、他人行儀な、形骸化した表現に感じられるでしょう。
 洗脳され、貧弱化した精神ではそれさえ感じ取ることができないかもしれませんが、それこそ占領軍の思うつぼです。占領はサンフランシスコ講和条約が発効した昭和二十七年四月二十八日に終了したのではありません。現に、日本はアメリカに占領されたままです。東アジアにおける重要戦略拠点である沖縄のみならず、首都圏を中心に、いやむしろ皇居と政府がある首都圏にこそ集中的に米軍基地が置かれているのは、占領が続いている証拠なのです。米軍基地は東アジアに睨みを利かすと同時に、わが国にも睨みを利かせている。支配が一見緩やかなのは、既になすべき術策を施し切って、これが効果を発揮しているからで、それが持続するよう監視を怠ってはいないのです。
 
 平成一八年(二〇〇六年)北朝鮮の核実験を受けて核武装論議を国内に喚起しようとした第一次安倍政権時代の自民党政調会長、故中川昭一氏の発言内容に慌てたアメリカのライス国務長官は急遽、それも翌日に日本にすっ飛んできて、アメリカの核の傘は有効である、と言って火消しに躍起になったことがありました。この時、当時のブッシュ大統領は「中国が心配する」と日本と中国のどちらが同盟国なのだがわからない迷言、いや本音を漏らしました。その後の日本の財務省官僚とその天下り先である読売新聞の女性記者が関与した中川氏の失脚から、変死に至る一連の流れの背後に、アメリカの影がちらついているのは知る人ぞ知る話です。敗戦国日本はいまだアメリカにはめ込まれたくびきを脱していない。そしておそらく、そのくびきとしての役割を果たしているのが、ここ二十年以上にわたって、日本経済の成長を抑えてきた、絶大な権力を誇る財務省なのです。

 アメリカが封印した「国体」という、広大かつ大地に深く根を張った思想・学問を現代に蘇らせたい立場から言えば、古く、厳しい字面に感じられるかもしれませんが、力強さと豊富さを併せ持つ「國體」という表記の方がしっくりきます。ここからはこちらの表記を用いて話を進めていくことにしましょう。

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