西郷隆盛

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zoom RSS インテリジェンスについて A 皇室における日本化された儒教

<<   作成日時 : 2018/07/10 17:08   >>

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 さて、これだけではありません。
 前回は草莽における日本化された儒教の伝統の話でしたが、皇室における日本化された儒教の伝統は、より古く、より深くまで洞察しなければ見えてこないのです。

 古く、しかも深く、ということは歴史事象の皮相だけ撫でていても目に見えないということです。
 これは多くの識者が、史料が豊富なはずの維新史をあまり深く考えもせず、偽りだとか、過ちだとか言って、その実、面倒だから、あるいはやったところであまり自分に利益がないからと横着して、陽明学も含む日本化された儒教の影響を深く考察せず、手前勝手にして適当な解釈を行っているところにもよく表れていますが、史料の少ない古代ともなると、必然的によりその傾向が強まります。
先入観や偏見が解釈に猛威を振るうことになるのです。

 黄文雄氏が、中国憎しが昂じて、シナ文明否定、シナ文化否定、その要となる儒教文化否定(批判ではなく)となるのはよくわかりますし、その内容は概ね同意できますが、日本人が受容し、長い年月をかけて国風化した儒教は、「あの世」や「怪力乱神」を語らなかっただけで、鬼神を敬して遠ざけよ(謹んで敬え)と訓戒しただけで、これを否定したわけではなく、むしろこれを生きることで精一杯の人間にとって理解できるものでなく、畏れるべきものとして肯定し、祭祀をもって鄭重に向き合うよう戒めた、と言っていいのです。
 これは現代において、「あの世」や「怪力乱神」「鬼神」をしたり顔で語る、いかがわしい霊媒師や占星術師が、これらを敬しているように見せかけつつ、実は恣意的に語って冒涜しているのに対するアンチの態度と言っていいでしょう。

 怪力乱神を語らず、鬼神を敬して遠ざく。
 これは天照大神を中心とする皇祖神の他、八百万の神への祭祀を重要視する天皇の行為を、むしろ肯定し、補強する教義と言えます。


 黄氏の言う「聖徳太子は仏教を国教として、儒教を顧みなかった」というのも間違いで、太子は有名な十七条憲法において、日本を天皇を中心とする和の国とするために(第一条・和を以て貴しとなす)、神儒仏道の習合を唱えたのであって、確かに二条で「篤く三宝を敬へ。三宝とは仏・法・僧なり。」と特筆していますが、これは人にはそれぞれが属する党派というものがあって、意見を違うものであるが、和を成すために、三宝を鬼神に準ずるものとして篤く敬して遠ざけよ(謹んで敬え)と訓戒したのだとすれば、儒仏の習合思想として理解できます。
 和を貴しと成し、党派によって人の和が妨げられることを認識していた太子が、しかも崇仏論争に参加し、武器まで手にして戦った太子が、仏教への帰依を強制するような規定をしたとは考えにくい。もし強制しようとしたなら、せっかく和を第一義に据えた太子の知恵とやらも大したことがないことになります。

 もちろん太子の知恵はやはり偉大なものなのであって、その証拠に第三条は天皇(すなわち神道)と儒教が習合した思想が述べられていて、「詔を承りては必ず謹め(承詔必謹)、君をば天とし、臣をば地とす。天覆い、地載せて、四の時順り行き、万気通ずるを得るなり。」と儒教思想が述べられています。
 以下の条で政治面に関しては主に儒教思想が応用されていますから、黄氏の解釈が、「中国憎けりゃ、日本化された儒教思想まで憎い」というものであることは明らかです。
 おそらく太子は『論語』を読んで、「鬼神を敬して遠ざく、知と謂うべし」とあって、概ね内面においては仏教を重んじるよう説き、政治という人知の側面においては儒教を取り入れた、と解釈できるのではないでしょうか。

 もちろん太子は皇室をその和の中心に据えていたわけですから、八百万の神も敬して遠ざけていることになります。もちろんこの遠ざけるとは脇にではなく、上(かみ)の方にということです。

 仏教の伝来は太子の祖父に当たる六世紀後半の欽明天皇の頃と伝えられていますが、朝廷がそれを正式に採用するか否かが争われたのが、いわゆる崇仏論争で、太子の父・用明天皇の御代になります。太子もこの争いに武器を持って参加しました。

 一方で、儒教の受容は有名な、記紀に『論語』が渡来したと伝えられる応神天皇の御代(四世紀末から五世紀初めと推定される)にまでさかのぼることになります。
 この時、何の葛藤もなく、朝廷は『論語』を英知として取り入れたのであり、おそらくそれは漢字という文字の採用とセットになって伝承されたのです。日本語を使う人々にとって画期的な歴史事件と言っていいでしょう。

 応神天皇は、百済が献上した阿知吉師の知識に感じ入り、賢者がいるならば献上せよ、と詔し、それに応じて献上されたのが、王仁という人物であり、その王仁が携えてきて献上したのが『論語』だったのです。

 この時『千字文』も献上されたといいますが、漢字や書の手習いに用いられた漢詩「千字文」が成立したのはもっと後の時代であったと考証されていますから、文字の伝来である『論語』の渡来に付会して伝承されたことを示唆しています。これは逆に『論語』が渡来以来、主に朝廷の子弟の手習いに用いられたことを示唆していて、王仁の和歌が平安期の朝廷の子弟の手習いに用いられていたことは、紀貫之編「古今集」の真名序に述べられているところです。
 ちなみに紀貫之の名は『論語』の「一以て之を貫く」に由来しています。彼の信念もまた『論語』によって陶冶されていたのです。
 
 王仁が応神天皇の皇太子菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)の師となり、応神天皇崩御の後、兄の大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)と皇位を譲り合って、三年間空位が続いた話が『日本書紀』に伝えられていますが、ここに『論語』学習のさっそくの成果が窺えます。

 この大鷦鷯尊が、民の竈の伝承で有名で、多くの善政を行ったことで知られる仁徳天皇です。もちろん王仁から、『論語』から学んだことを仁政として統治に生かしたからこそ、そのまま仁徳天皇と諡されたのでしょう。
 偉大な天皇として最大規模の陵墓に葬られました。それが世界最大の規模を持つ仁徳天皇陵です。
 
 以上のように、仏教よりかなり早い時期に、儒教は叡智として、文字の徳とともにすんなりと受容されたのです。ヘーゲルが孔子が説いたのは通俗道徳でしかない、と言っていたことを思い出して下さい。これは何のことはない、孔子の説いたことがよほど人間の常識(コモン・センス)に適っていた、ということになりはしないでしょうか。
 朝廷における子弟の教科書として使用されたと伝承されることは、大人になって国家によって、強制とまで行かなくとも、奨励されるよりも、その精神的影響は長期的に見て、よほど深刻なものとなりはしなかったでしょうか。

 やがて平安朝において、皇室では親王の忌み名に「仁」の一字が用いられ、「ひと」と訓ずる慣例が生まれ、今日まで続いています。
 幼少期に『論語』を中心とする儒教の経典を学ぶ慣習も現代まで続いていて、来年の譲位が決まっている今上陛下もまた学習院で儒典を学び、五十歳の御誕生日の時に座右の銘を尋ねられて、『論語』の「忠恕」と御答えになられています。

 そもそも学習院とは昭和天皇の帝王教育のために特に創設された学校で、初代校長は乃木希典。校名の由来は『論語』の冒頭の一節「子曰く、学びて時に之を習う」にあります。乃木大将は明治天皇の崩御に直面して、殉死を決断しますが、すでに皇太子となっていた裕仁親王に最後に拝謁した際(自決の前々日)、自ら注を施した山鹿素行の一種の國體論『中朝事実』の講義を行い、これを献上したと伝えられています。
 もちろん次代天皇に即位される現皇太子殿下も学生時代長期にわたって『論語』を中心とする儒典を学んでおられます。

 遡って、明治天皇は大久保が紀尾井坂で暗殺されたとき、侍講の元田永孚から『論語』の一節の進講を受けている時でした。元田の講義草稿の冒頭には、この応神天皇の御代の『論語』渡来の意義が特筆大書されています。

 またもう少し遡って、平安期以来使用されなくなっていた「天皇」号を復活された江戸時代後期の光格天皇は、印章に「学孔孟」、『論語』から引用した「一以貫之」、ほか『書経』からの引用を用いられ、後桜町上皇への御書には「人君は仁を本といたし候事、古今和漢の書物にもしばしばこれ有る事、仁はすなわち孝忠、仁孝は百行の本元にて誠に上なき事、常に私も心に忘れぬ様、仁徳の事を第一と存じまいらせ候事に候」と書かれるほど、儒教的修養に勉められました。復古に向けて非常に大きな功績を残された天皇とされ、この称号を贈られたのです。

 このように皇室こそわが国の儒教の伝統を静かに連綿と保持してこられたわけで、「鼓腹撃壌」の説話で知られる堯舜の統治を実現してきた東アジア唯一の王朝という見方も可能です。皇室なんてわれわれの生活に何の関係もない、とか、西欧由来の知性に胡坐をかいて、皇室の御存在や伝統を見下し否定したがる知識階層(インテリゲンチャ)は「鼓腹撃壌」の老人で、シナの理想の君主政治は日本でこそ実現していたのだ、という見方も可能です。
 皇室の伝統を云々する保守主義者が、わが国は儒教を受容しなかったと、何のためらいも、何の留保もなく断言するのを目にすると、この人はわが国の伝統を実は理解していなんじゃないか、と懐疑の目を差し向けたくなります。

 草莽においては確かに明治の文明開化以来、指導階層における儒教教育は急速に衰退しますが、しかし、欧化の趨勢にあって自己喪失の危機に目覚めた明治天皇が、その大御心により、元田や井上毅に命じて、日本化された儒教規範に則ったと言える教育勅語を下し、初等教育における国語や修身の教科書などで国民の修養に努めた結果、むしろ国民全般にこれらの価値規範は浸透していったように思えます。

 独創的な日本人論で知られるプロテスタント山本七平が、同じキリスト教徒に向けて書いた自伝的なエッセイ『静かなる細き声』という著作の最終章「論語の世界と現代」で、明治維新を象徴する人物としてやはり渋沢栄一を取り上げ、自らの師匠筋に当る内村鑑三の『基督教問答』の一節を取り上げた上で、次のように結んでいます。

「自分の理性が信じられなくなる、その体験はすべての人が、維新にも終戦にも経験したはずであり、またその後のさまざまな運動にもあったはずである。だがそれは心に何の刻印も与えずに消え、就職すれば「ミニ渋沢」になっていく。その背後にあるものは、日本的に理解された『論語』の世界なのである。それを把握しなおして対処することが、日本における宣教の出発点ではなかろうか。」
 
 つまり、日本におけるキリスト教普及の障害となっているのが、日本人が『論語』を読まなくなっても、社会生活の中に規範として、または言語生活の中に生き残っている『論語』的規範である、と言っているのです。

 この指摘は大変重要で、彼の洞察が正しければ、キリスト教のように、あるいはソ連崩壊以前の共産主義のように(共産主義も聖書的世界観を土壌にして生まれた思想で、マルクスもレーニンもトロツキーも多くの共産党員がユダヤ人でした)、強固に組織化されていないにもかかわらず、つまり意図的に誰にも強制されていないにもかかわらず、日本人社会が『論語』的規範で秩序を保っている、ということになります。
 あるいは、世界中の人々を驚かせた東日本大震災の時に示された日本人の秩序だった振る舞いというのは、ひとつはこの伝統的な秩序感覚、規範意識が未だ生命力保っていることの成果なのかもしれません。

 もしそうなら、金融支配とマスメディアによる世論操作によって、現在世界中を席巻し、混乱を助長せしめているグローバリズムに対する心の防波堤になりうるのも、この伝統的規範の復活、補強によってである、ということを示唆してはいないでしょうか。

山本のエッセイは昭和五十六年頃に書かれたもので、少なくともバブル崩壊以前の日本社会は山本にとってそのように映っていたことになります。

 バブル崩壊以前といっても戦後のみに限って言うのではありません。
 山本は「三代目のキリスト教徒として、戦前・戦中と、もの心がついて以来、内心においても、また外面においても、常に『現人神』を意識し、これと対決せざるを得なかった」と言っています。だから復員後の生涯をかけて、彼は精神的に対峙を強いられ続けてきた「現人神」思想の研究を続けました。その結実が『現人神の創作者たち』という労作です。

 しかし、彼の対峙した「現人神」思想とは伝統的な古神道における「現人神」ではなく、江戸時代に儒学思想と結びついて生まれた「現人神」思想でした。その内容は、彼の言葉を借りれば、儒学的正統主義と日本の伝統とが習合して出来た、朱子学の一亜種、ということになります。

 この山本の深刻な告白は、筆者にとって、いや、明治維新以来の自己喪失状態にある日本人にとって非常に重要な指摘だと思われます。
 このことが、根底、あるいは背骨にキリスト教的価値規範を持つ西洋から移入された保守思想がわが国の伝統に深く根差す事が出来ず、この国を立て直す上で、根本から揺り動かす大きな運動となりえない、何か根本的な要因となっているように思えてならないのです。

 保守、保守と言っていた故西部邁氏が日本における保守思想の淵源をたどった『思想史の相貌』という著作があり、ここで大日本帝国憲法制定事業の中心を担った伊藤博文を取り上げていますが、彼は明治二十一年六月十八日、枢密院の憲法会議開催に際しての演説で、憲法を制定するにあたって、まずわが国の機軸を確定する必要があるといい、欧州においては人民が憲法政治に習熟するのみならず、宗教というものが機軸をなしていて、深く人心に浸潤し、人心はこれに帰一しているが、わが国の場合、宗教の力が微弱で、国家の機軸となるべきものがない。仏教はすでに衰替に傾き、神道は祖宗の遺訓に基きこれを祖述するといえども、宗教として人心を帰向させる力に乏しい、と言っています。
 そして、この認識に基づいて、わが国で機軸とすべきは独り皇室あるのみ、と結論付けるのです。
 
 伊藤は維新の元勲の中では若輩でしたから、彼が尊敬してやまなかった大久保・岩倉のみならず、西郷が人心の一致一和という目的を持ち、その土台に水戸学があったことを知らなかったようです。人心の一致一和を最重視するという政治的態度はそもそも島津斉彬が『孟子』のこの言葉に着眼したことに始まります。斉彬の死後、その遺志を継いだ島津久光と西郷・大久保らはこれを肝に銘じて、王政復古討幕運動を推し進めたのです。
 彼らは『孟子』のみならず『論語』を援用しながら、公論による政治を目指しました。
 また、その國體観、歴史観の背骨となった水戸学や頼山陽の著作は朱子学がその価値規範の背骨となっています。それらに基づく大義名分、条理を掲げて進むことで、人心の一致一和を成そうとしたのです。

 不思議なのは戊辰戦争終了後、いち早く廃藩置県の建言を行った伊藤が、その國體観を頼山陽の『日本政記』に拠り、献言を行ったと言ったにもかかわらず、それを全く配慮の外に置いていることです。
 彼は幕末、この書を欧州留学する際も携帯し、この書から王政復古論が染み渡ったと回想しているにもかかわらずです。

 同じく憲法制定作業に携わった金子堅太郎もまた、制定に当たって、國體観を水戸学(『大日本史』『弘道館記』『弘道館記述義』『新論』)や北畠親房『神皇正統記』などに依拠したと述べています。

 つまり、筆者に言わせれば、伊藤に欠けていたのは、日本の人心をこれから帰一せしめる上で、明治維新の勤皇運動の経緯を考えても、シナ儒教を超えた日本独特の儒教こそ、その宗教としてふさわしいとの認識であった、ということになります。
 これを独り皇室に負わせるのみならず、勤皇を唱えるその価値規範となった日本化された儒教こそ、教義を持つ宗教としてキリスト教に比肩しうるものでした。
 もちろんここには、一応別の学問ということになりますが、日本化された儒教の強い影響なしに生まれなかった國学を含めてもいいでしょう。
 
 その世界観、國體観、政體観を実現するために、多くの志士が道に殉じたのは周知の事実で、彼らの多くは皇室のために、天道に則り、鬼神を敬し、天命を信じて命がけで行動したのです。それは信仰心の発露以外の何物でもありません。

 それをよく感じていたからでしょう。
 明治天皇はその大御心から、憲法制定に携わった井上毅と老儒元田永孚に起草を命じて、憲法発布と同時に、日本化された儒教規範である教育勅語を下されました。
 そもそも、岩倉具視の王政復古の建議の趣旨も『論語』に依拠していましたし、五ヵ条の御誓文も、開明的な文言とは裏腹に、その着想は儒教に由来していることは、発案者である三岡八郎(由利公正)の回想によっても明らかです。彼は御誓文の元になった文章が『中庸』に依拠していたことを述べてます。

 筆者は伊藤の國體認識に生じた空洞の原因を、廃藩置県後の岩倉遣欧使節団の帰国と彼らによって仕掛けられた明治六年の維新政府の分裂政変(いわゆる征韓論破裂)、および西南戦争に至る西郷の没落に象徴的に表れていると見ています。これによって指導層における日本化された儒教思想は急速に衰退したのです。

 明治天皇は恐らく、その受け継がれた伝統精神から、日本に生じた精神の空白を看取され、危機感を持たれたのです。
 天皇が西南戦争の勃発より政府への不信から明らかに政務を拒否するようになられ、以降も侍輔の元田らを信頼され、元田らが伊藤と激しく対立したことを忘れてはなりません。

 教育勅語は大東亜戦争時には、国民教育の場で非常に重要視され、深く人心に浸潤し、人心の帰一に大きな影響を及ぼしています。
 一方で知識階層(インテリゲンチャ)に共産主義や国家社会主義が浸潤した時代でもありましたから、これに対する反発や悪用された面も多かったわけですが。


 以上のような認識に立った時、シナ儒教と日本化された儒教の区別もつかない、保守のインテリジェンスとは一体何なのだろう、そういった欧風インテリジェンスに基づいてわが国の歴史や伝統を愛するというのは一体どういったことなのだろう、という懐疑が沸くのは自然な事のように思われます。
 そもそもインテリジェンスという言葉をもてはやすこと自体が、日本的知性の伝統を必ずしも受け継いでいないことの証しとは言えないでしょうか。

 彼、彼らを知り、己を知る、がインテリジェンスの基本とすれば、彼、彼らを知る深さが己を知る深さに繋がり、またその逆も然りのはずです。

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