もう少し、西部邁氏と明治維新の意義について

 明治維新の意義について、水戸学に基づく國體観を軸に自己の見解を述べましたが、反応がないようなので、独り言になりますが、もう少し補足してみたいと思います。

 最近、一月に自決された西部邁氏の業績について気になって、たまに、以前から所有し、十分に読み込んでこなかった本を読み返してみることがあります。
その死、その死に方についてはどうこう言える立場ではありませんが、日本文化チャンネル桜における氏のお弟子さんたちを集めての追悼討論番組をみて、認識を新たにするところも多くありました。
 討論では、氏の死に方についての批判もあり、また別の方からは、姥捨て伝説を題材にした深沢七郎の『楢山節考』や柳田國男の『遠野物語』『山の人生』を連想したという方もおられましたが、これは氏のこれまでの言説からも予感できるものでもありました。

 一方で、氏の思想家としての業績から言えば、論理的明晰さを欠く、という批判も確かに一理ありますが、やはり死の問題はそもそもが不条理なものなのであり、論理で割り切れるものではない、というのが本当のところではないでしょうか。

 死の問題は今の筆者には手に余る問題なので追々考えていくとして、ここのところ引っかかっていたのは、氏が西欧の保守思想家の言葉を引用駆使していくら伝統の大事さを訴えてみても、どうしても氏の言動に伝統が見えてこないというもどかしさ、不可思議さについてでした。

 逆に言葉に勢い余って、むしろ日本の歴史や伝統を否定してしまう一歩手前まで行ってしまうようなこともあって、たとえ保守ではあっても、西欧的知性のかたまりにしか見受けられませんでした。

 氏が影響を受けた西欧の保守思想家たちを取り上げて解説を施した『思想の英雄たち 保守の源流をたずねて」(ハルキ文庫)という著作があります。その中で、氏が非常に共感を持って書いていると感じられるのが、ギルバート・チェスタトンとホセ・オルテガです。この二人に、氏は知識人としてのお手本を見ていたように思われるのです。

 氏がよく語っていたのは、伝統の希薄な北海道出身者であること、吃音、すなわち「どもり」であったことであり、東大在学中の安保闘争で、全学連のリーダーの一人として、一万人以上の群集を前に演説を行った際、言葉が、論理が整然と滞りなく、あふれるように出てきた経験であったようです。
 これが思想的に転向した後も、大衆相手に語り掛ける彼の姿勢の原体験になったように思われます。

 その上で、オルテガの次のような姿勢を模範としたのでしょう。

「オルテガの凄さは、(大衆社会に跋扈する似非知識人の贋物性を)そこまで見通していながら、断じて隠棲の道を選ばなかった点にある。彼は大衆社会のどまんなかへと足を踏み入れ続けた。文筆と講演だけを武器にして、大衆に挑戦した。いや表では大衆の顔を持つ民衆が、裏では(真正の知識人が唯一頼りとする)庶民の顔を、つまり危険な生の行路を歴史の英知に導かれて黙々と歩んでいる人々の顔を、持っているに違いないと信じ(込むことにし)て、オルテガは人々に語りかけたのであった。」

 これは知識人としての西部氏の姿勢そのままでしょう。
 「朝まで生テレビ」への出演は氏を一気に有名にしました。
 イラク戦争の際は、孤立をものともせず、アメリカ批判を主張し続けました。これは安易にアメリカ支持になびきそうな大衆社会に対する批判でもあったでしょう。
 その果敢な態度は称賛に値します。
 
 一方で、西部氏の表現を借りるなら、彼が大衆の裏の顔として想定し、信じることにした「危険な生の行路を歴史の英知に導かれて黙々と歩んでいる人々の顔」に対しては、彼らを導くべき日本の歴史の英知についてはほとんど触れられることがなかったように思われます。むしろ慎重に避けていたようにさえ、感じられることがありました。
 そこには氏が伝統というものの希薄な、日本における異端の地である北海道出身者という自己認識が大きく影を落としていたように思えます。

 西欧保守思想を潜り抜けた経験もなく、日本の歴史や日本に本来からある保守的な思想を潜り抜けてきた筆者が、西部氏の態度を伝統的な言葉で表現するなら、それは「鬼神を敬してこれを遠ざく、知と謂うべし」という所に行きつくと思います。
 「鬼神」とは神霊ということで、言わば超越的価値ということであり、宗教的信仰ということでありますが、「敬遠」の語源でもある「敬してこれを遠ざける」ということ、本来、これは「鬼神」を敬するがゆえに、狎れ合わず、謙遜するという意味です。
 西部氏はこの伝統的な意味で「知」識人としての態度を徹底したと言えるのですが、日本の「鬼神」を心底敬していたかというと、どうも怪しく感ぜられることが多々ありました。

 西部氏が共感していたもう一人の正統派知識人チェスタトンの解説を読むと、氏が共感したチェスタトンの思想は、江戸時代の学問の伝統を身につけた知識人にあっては常識に類する内容であって、筆者にとって何の珍しい見解でもありません。キリスト教を正統とし、絶対的価値として「神」を崇拝するか、儒教的規範を正統とし、日本の神々や仏や天道を崇拝するかの違いがあるだけです。

 先に引用した「鬼神を敬して」云々は『論語』の言葉ですが、学問好きであった徳川家康によって興された民間における学問の盛行は、儒教を軸にした言わば日本版の諸子百家が活発に活動した時代であり、それが國学を生む契機となり、水戸学に集約されていったのです。「王政復古の大号令」「五箇条の御誓文」「教育勅語」、それどころか『大日本帝国憲法』まで、これらの伝統の中から生まれたのです。

 要は明治維新の文明開化による自己喪失が、日本における大衆社会化現象が起こる大正デモクラシー以来の大衆社会を骨抜きにしてしまったのです。それ以来の共産主義思想の浸潤や大東亜戦争敗戦後のアメリカの統治による日本人民洗脳工作は我が国の伝統にとって致命的な打撃となりました。

 そういう意味で、学生運動で芽を吹き、西欧保守思想の正統に目覚めた西部氏の言論活動は、大衆社会に背を向け、歴史の英知に導かれて黙々と歩んでいる筆者にとっては、美しく限りなく本物に近くても、戦後の大衆社会に咲いたあだ花のようにも映ります。
 
 思想も含めて舶来ものを喜ぶ大衆に、真正の舶来ものでそれらは新たな流行品であり、贋物であると訴えても、舶来ものをありがたがる精神に変わりはなく、日本という国に生きる者にとっての本物を実物として提示することにはなりません。それは真打登場前の露払いの役割ということが出来ます。
 日本にとって今や危機は差し迫っており、真打登場の舞台は整いつつあります。西部氏はもうやりたいことはやりつくしたと言っていたそうですが、その役割を見事に果たし切ったと言えるでしょう。
 

 氏にとって惜しむらくは、日本の大衆社会の現実から離れ、留学中に西洋保守思想を潜り抜けたように、今一度沈黙し、日本の保守的な思想、歴史、伝統を潜り抜ける機会を持たなかったことでしょう。
 保守論壇の重鎮の中には、例えば小堀圭一郎氏のように、日本の歴史・伝統を潜り抜けている方もおられますから、その仕事はそういった人々に任せて、自己の天性にあった仕事を、役割を、果たし続けたということであったかもしれません。ならば天命に尽くした人生であったとも言いうるでしょう。

 小堀氏の著作『日本に於ける理性の傳統』はその名の通り、日本における理性の伝統、天道思想を発掘した労作ですが、これは和辻哲郎の戦中の著作『尊王思想の傳統』、これを戦後になって編集加筆した『日本倫理思想史』を発展継承したような内容です。これらの著作の内容は著作を残した知識人に限られていて、筆者の『十人の侍』は危機の時代を伝統に則って克服し、日本国家を創り上げてきた武家政治家までその範囲を広げたものです。
 この著作の後は、武家政治家に限らず日本全体の伝統に範囲を広げたものを執筆するつもりです。

 ともかく、明治維新はそれらの伝統の一つの結実です。
 西部氏はその面での明治維新を全く理解していなかったようで、岩倉遣欧使節団が帰国後に敷いた欧化路線、近代化路線のみで明治維新の意義を判定されていたようです。
 しかし、それは明治六年の征韓論破裂、西南戦争への過程でようやく定まった路線であって、それは前回の記事で叙述したように、明治維新本来の精神とは必ずしも一致するものではなかったのです。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 1

なるほど(納得、参考になった、ヘー)

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック