西郷隆盛

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zoom RSS 「オカルティズム」…『十人の侍』 プロローグ1

<<   作成日時 : 2018/01/02 18:20   >>

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新年の挨拶に代えて、新著『十人の侍』プロローグ1「オカルティズム」を掲載したいと思います。


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 今回この本を執筆するにあたって、ずっと頭にあったのは「國體(こくたい)」という言葉でした。「國體」とは国柄とか、国の在り方、そして、そこに含まれるその国の人間としての生き方や死生観といった幅広い意味を持ちます。戦後の国民的作家司馬遼太郎の言葉でいえば「この国のかたち」という言葉がそれに当たるでしょう。しかし、「國體」という概念は、人の死生観を含む以上、唯物的な響きさえある「この国のかたち」という言葉に収まりきらぬ深刻な意味を含んでいます。
ここでなぜ、当用漢字を用いた「国体」ではなく、いかめしい字面(じづら)の旧漢字で「國體」と表わしたかと言えば、現代の日本人にとって「国体」と言えば「国民体育大会」を連想する人もあるくらいで、それと区別しておきたいということもあります。しかし、それ以上に、この言葉が戦後社会においては死語、それも政治権力によって意図的に抹殺された言葉であり、その概念を復活させるにあたって、戦前の旧字体を用いる方が自然に思えるからです。
 漢字の起源である金文・甲骨文のユニークな研究で知られる故白川静博士は今から約二十年前に次のように述べています。

「敗戦後の五十年にわたって、わが国の文教政策は、占領軍の指示するままに、極めて貧弱な当用漢字表の規制を受けて、古典や漢字形式の資料の全体が、国民教育の場から姿を消した。古典はもとより民族文化の象徴であり、新しい文化はその土壌の上にのみ生まれる。自らの土壌を失った文化が、新しい発展に向かうことはもとより不可能である。国語の乱れ、国語力の低下は、戦後五十年に及ぶこの文教政策の上から、当然に予想される結果である。」(『文字講話』)

 何より直観的にですが、「國體」という概念の内容の豊富さを考えると、「国体」という字面はいかにも貧弱で軽く、その内容にふさわしくないように思えるということもあります。
 白川博士の漢字辞典『字通』によると、「國」という漢字の初文は「或」で、「戈」と「口」から成るといいます。都邑の城郭を表す「口」を、武器を意味する「戈」で守るから「或」です。それにさらに外郭となる「口」を加えたのが「國」で、国都や国家を表します。一方の「體」の方は、ご覧のとおり「骨」と「豊」から成ります。「骨」は上部が胸部より上の骨格、下部が肉を表します。古代シナの辞書である『説文解字』には「體の質なり、肉の核なり」との解説があるそうで、現代でも「コツ(骨)をつかむ」という言葉は、物事の要点・本質・核心・要領を掴(つか)んで離さないことです。一方の「豊」は、食器である「豆」に禾穀がたっぷりと供えられているさまを表します。
 この、外と内を区分し、武力で守るべき範囲を表す「國」と、中身や実りの豊かさを表す「豊」、およびそれを支える「骨」から成る「體」を組み合わせた「國體」という言葉で表されるものは大体想像できると思います。武力を行使してでも守るべき文明の実りとそれを支える骨格。その意味内容に比べれば、「国体」という現代表記はいかにも貧弱な印象を与えます。まるで「もやしっ子」のようです。しかし、白川博士が指摘するように、字体の改変が、日本の精神文化の貧弱化を狙って、占領軍の指示によって行われた、とすれば納得がいきます。
 同様の直観から、ここでは「太平洋戦争」ではなく、「大東亜戦争」という言葉を用いますが、あの戦争の敗戦から二十四年たった高度経済成長期真っただ中の昭和四十四年に筆者はこの世に生を享(う)けました。昭和四十四年(キリスト歴一九六九年)と言えば、アポロ11号の月面着陸で人類が初めて月の地表に立った年です。その人類史上初の快挙を目前に控え、人類が胸を躍らせているさなかに、筆者はこの世に生を享けたことになります。
 今調べてみると、昭和四十四年には、他にも、東京大学安田講堂で左翼過激派の学生と機動隊が衝突する事件が一月にあり、九月には中国の核実験成功という不吉な事件もありましたが、自分の生まれた年の一大ニュースとして、アポロ11号の月面着陸が思い浮かぶことに象徴的に表れているように、文明の最先端はアメリカからやってくると思われていた時代でした。テレビでも『名犬ラッシー』や『奥さまは魔女』など、アメリカのテレビ番組がよく放映されていました。
 ここで少しハリウッド映画の話をしてみたいと思います。

 少年時代はもちろん歴史などに興味もなく、現実とファンタジーの世界を行き来する子供でした。小学二年生の時、ハリウッド映画『スター・ウォーズ』が公開され、一大ブームを巻き起こしました。リアルタイムで経験したのは小学四年の時に公開された第二作「帝国の逆襲」からでしたが、すでに一作目のブームの時から、今やレトロな、あの独特のデザインの瓶が印象深い、コカ・コーラのキャップの裏にプリントされた、観たこともない映画のキャラクターやメカに魅せられて、キャップを集めていたことを思い出します。
 一方で、日本の漫画やアニメも好きでした。たぶん『スター・ウォーズ』の影響を受けていたと思われますが、最近リメイクされている『宇宙戦艦ヤマト』や『機動戦士ガンダム』にも夢中になりました。これらの作品も子供にとっては、メカの戦闘シーンが楽しみの作品でしたが、ドラマの背景やテーマにはどこか重いものがあって、日本人の悲惨な戦争体験が影を落としていることは子供心にもなんとなくわかりました。今思えば、敗戦から三十年ほどしか経っていなかったわけですから、当時の製作者たちに戦時下の深刻な記憶が生々しく残っていたとしても不思議ではありません。
 『スター・ウォーズ』は戦勝国アメリカの映画ですが、製作者のジョージ・ルーカスがインタビューなどで語っているように、日本映画の巨匠黒澤明から多大な影響を受けた娯楽作品です。主人公の若者ルーク・スカイウォーカーを導く賢者オビ・ワン・ケノービの役を演じたのは『アラビアのロレンス』の名優アレック・ギネスでしたが、ルーカスはこの役を当初、黒澤映画の常連で名優の三船敏郎にオファーしたといいますし、老師ヨーダの名前は日本人の名字「よだ」からきているといいます。彼らが所属した騎士団の名前は「ジェダイ」ですが、これはお侍さんが活躍する時代劇の「時代」を訛らせたものとのことです。
 この作品のモチーフには、神話があります。未来的な星間戦争を題材にした映画なのに、全作、オープニングロールにはまず「a long time ago in a galaxy far、far away…」(はるか昔、銀河の遠い、遠い彼方に…)と出てくるのです。つまり、われわれになじみの表現でいえば「むかしむかし、あるところに…」と前置きしてから、あの有名な映画タイトルのロゴがバーンと現れると同時に、これまた誰もが一度は耳にしたことがあるであろう、有名なジョン・ウィリアムスの壮大な音楽がはじまるわけです。
 物語は、西洋キリスト教文明固有の善と悪の二元対立、光と闇の対立が物語の基軸となっています。善の役割はフォースを善用する共和制民主主義の守護者としてのジェダイ・ナイト、悪の役割はフォースを悪用する帝国主義者の独裁者シスという図式です。シスは元老院の議長となって、民主主義の原則に則って独裁者になることをもくろみます。ここには民主的なワイマール憲法に則って合法的に政権を奪取し、独裁を達成したナチス・ドイツの歴史が取り入れられているように思われます。
 シスはさらに共和制を破壊し、強力な帝国を築き上げ全宇宙を支配することを最終目標として、自己に権力を集中させるために、これも小悪として描かれる分離主義者を利用し戦争を起こすのですが、ここにはアメリカの南北戦争がモチーフに取り入れられているようです。奴隷ではなく、ドロイド兵を駆使する分離主義者を小悪とするストーリーには、古代ギリシャはアテネの民主制、およびローマの共和制に学びながら、宗主国イギリスから独立を勝ち取って建国を行ったアメリカ合衆国という国の在り方、すなわち「国体」を物語に反映させているようなところがあるのです。
 ただ、彼らアメリカの歴史には中世が存在せず、ジェダイ騎士団のような存在はありません。そこで西欧中世の歴史に出てくる騎士団に相当する、日本の武士団の連想からジェダイというものを思いついたのかもしれません。フォースというのは朱子学の「気」に着想を得た、とルーカスは語っていますから、朱子学と結びついた江戸時代の武士道がモチーフとなったのかもしれませんね。そういえば、当初の字幕ではフォースは確か「理力」と訳されていました。
 いずれにしても、歴史が浅く、神話らしい神話がない国であるアメリカには、新しいものが善であり、古いものは破壊されるべき悪であるとみなす強迫観念の様なものがある一方で、自己の歴史にはない、神話的なものにあこがれる潜在的欲求のようなものがあるのかもしれません。建国神話にある、西欧で迫害を受け、新天地を目指して逃れてきたプロテスタントのピルグリム・ファーザーたちが、善意で彼らを助けた原住民であるインディアンの酋長たちを次々と裏切って、先祖伝来の土地を奪い、やがてインディアンの虐殺へと過激化していく暗黒の歴史が、そもそもの始まりでは、あまりにみじめで、卑屈にならざるを得ません。アメリカ人はこれをあまり認めたくない。常にこれを正当化したいという欲求がある。ルーカスの創作は、斬新な映像とアイディアが観客の心をとらえる一方で、アメリカ人のそういった潜在的欲求を満たすことで大きな成功を得たという面もあったのではないでしょうか。

 さて、この『スター・ウォーズ』の製作者ジョージ・ルーカスが、彼と同世代で『ジョーズ』『未知との遭遇』と立て続けにヒットを飛ばしていた映画監督スティーブン・スピルバーグと意気投合し、タッグを組んで冒険活劇映画を製作することになりました。何でも、イギリスMI6のスパイであるジェームズ・ボンドが世界を股にかけて活躍する「007」シリーズの様な映画を作りたい、というコンセプトで一致したそうです。主人公は『スター・ウォーズ』のハン・ソロ役でスターになったハリソン・フォードです。後の『インディ・ジョーンズ』シリーズの第一作目『レイダース・失われたアーク【聖櫃】』がそれです。インディ・シリーズを見てからは、非現実的な『スター・ウォーズ』よりも、ハリソン・フォード演じる考古学者の冒険の方に魅かれていくようになりました。筆者はインディ・シリーズが持つレトロな世界観に魅力を感じ、過去の神聖な遺物には、何だかわからないが、素晴らしい価値、あるいは畏るべき力があるという感覚、またそれを探究することはスリリングである、という感覚が刷り込まれたように思えます。
 通常、冒険活劇のお宝と言えば、金銀財宝であったり、不思議な力を与えてくれるものであったりするわけですが、この映画のお宝にはそこには収まらないものがあります。製作者側ではこのシリーズはオカルトでオチをつけるお約束であったことを後で知り、がっかりしましたが、確かに『最後の聖戦』の最後にはそのお約束が現れていて、ちゃちで子供だましなクライマックスにはがっかりさせられたものです。が、第一作目の『レイダース 失われたアーク【聖櫃】』におけるアークの扱い方は違います。ハリウッドはユダヤ人の勢力が強いところで、監督のスピルバーグもユダヤ人ですから、旧約聖書に出てくるモーゼの十戒を納めた聖櫃の扱いには慎重だったのかもしれません。
 「オカルト」とは世俗的には、神秘的なものとか、超自然的なものとか、あるいは魔術的、呪術的なものをさしたりします。西欧における正統派キリスト教に対する異端や異教、近現代という科学万能主義時代における非科学的なものがオカルトとのレッテルを貼られてきました。そういえば日本でも『ムー』というオカルトをテーマとした雑誌がありました。シリーズの第二作から四作まではこの意味でのオカルトが題材で、将来製作される第五作も同じでしょう。
 しかし、「オカルト」とは本来は、ラテン語の「オクレレ」の過去分詞「オカルタ」を語源とし、「隠されたもの」を意味する言葉です。われわれの目から「隠されたもの」ですから、見ることも、触ることもできず、万人にとって経験的に検証不可能なものです。となると、異端異教をオカルトと断じた正統派の宗教そのものも根源的な意味においてはオカルトということになってしまいます。これはキリスト教やイスラム教やユダヤ教も例外ではありません。
 映画における「失われたアーク」の扱いはまさにこの根源的な意味での「オカルト」です。そのことは作品冒頭に出てくる南米ホビト族の神殿に安置された金の神像との比較で際立ちます。インディはこの像を多くの罠が仕掛けられた無人の神殿から見事盗みだすのですが、最後の仕掛けである巨大な球状の巨岩を何とか逃れたところで、ライバルのフランス人考古学者ベロックに像を奪われます。ベロックはホビト語を話すことができて、だまされたホビト族が彼を助けたからです。狡猾なベロックは、危険な仕事はインディにさせておいて、これまでもおいしいとこ取りを常に画策してきたのです。今回も同様でした。ベロックにとってホビト族の神は、南米を侵略したスペイン人同様、金の財宝にすぎませんが、インディにとっても博物館に展示されるべき、素晴らしい芸術品、あるいは考古学的な遺物にすぎません。この異教の神に対する畏敬の念は微塵も表現されていないのです。罠を逃れるためですが、神像の代わりに、砂の入った袋を置き換えるシーンもあり、どこまでも唯物的な扱いです。
 次の大学でのシークエンスではインディが「オカルトの専門家であり、古美術品の収集家」と紹介される場面があります。ここでの「オカルト」は字幕では神教学とされていますが、明らかに世俗的な意味合いで使われています。そこからアークの話が神妙に始まって、物語がぐっと深化するのです。しかし、インディ自身は古書を紐解いてアークの解説をするだけで、考古学者としての立場からの解説に終始しています。ともかくホビト族の金の神像との対比で、「失われたアーク」という存在の異質さ、特別さが際立つ演出がなされています。
 すでに触れたように、アークはモーゼの十戒が刻まれた石板を納めた契約の箱のことです。その呼称からも分かるように、いつの頃からか所在が行方不明になりました。その意味でもアークに対する信仰は、根源的意味におけるオカルトということができます。
 オカルト狂いのヒトラーがアークを探している、との情報を得た米政府の依頼によりインディも失われて久しいアークを探すことになるのですが、まず、その居所を突き止める上で鍵となるメダルを巡って争奪戦が繰り広げられます。題名の「レイダース」とは侵入者たち、襲撃者たち、もっと言えば盗賊たちとか言った意味で、決していい言葉ではありません。英題では「Raiders of the Lost Ark」となっていて、失われたアークを奪い合う者たちという意味で、インディ自身もここに入ります。
 メダルに刻まれた警告を読めばその意味はさらにはっきりします。その表面には、契約の箱に触れてはならない、との警告が刻まれているのです。ここは英語で[disturb]という単語が用いられていて、辞書で調べると「精神の正常な働きや平静さを邪魔してかき乱す」となっています。つまり、どこにあるかわからないながらも、どこかに存在して、この世界に対して大きな作用を及ぼしている契約の箱をそっとしておくべし、との警告なのです。
 メダルの裏面には、契約の箱の持ち主であるヘブライの神に敬意を表せという趣旨のことも刻まれています。つまり、われわれになじみの東洋の言葉でいえば、「鬼神を敬して遠ざく」ということです。しかし、争奪者たちは相手を出し抜くことばかり考えて、この警告を深刻に受け止めません。結局、アークを見つけ出したのはインディでしたが、ナチスと協力関係を結んでいるベロックにまたしても奪われることになります。ベロックは狡猾な人物として描かれていて、「アークは神との通信機である」とのセリフもありますが、近代合理主義者にして無神論者のようにも描かれていて微妙な感じがします。インディはベロックらにさらわれた恋人を救うため、バズーカ砲の照準をアークに合わせて脅しますが、口の達者なベロックに考古学者としての自覚を刺激されて、破壊を思いとどまります。そして、恋人ともども捕らわれの身となる。ベロックはアークの中身を調べるにあたって、ユダヤ式を嫌うナチス将校を説き伏せて、ユダヤ教の儀式に則って、箱を開こうとします。その際、ユダヤ教徒でもないくせに、自らユダヤ教の司祭となって儀式を執り行います。冒涜もいいところですが、そのようにして箱を開いてみたところ、アークの中は物質的には空っぽで、たくさんの聖霊が出てきます。この聖霊は、総統への忠誠ばかり考えて、アークに対して畏怖の念のかけらもないナチス将校やベロックに襲いかかって、命を奪ってしまいます。そして、箱からは異様なエネルギーの束の様なものが、あるいは炎のようなものが、天に向けて立ち昇り、彼らの死体を巻き上げて行ってしまいます。一方、インディは囚われの身となってその場に居合わせましたが、アークから何かが出てきたところで、メダルの警句を思い出し、聖霊が豹変する直前に目を閉じることで難を逃れました。
 帰国したインディはアークを政府に引き渡しますが、考古学者としてアークについての関心が隠せません。しかし、陸軍はろくな科学的調査を加えることなく、エリア51の倉庫に最高機密の一つとして封印してしまう。そこで映画は終わります。つまり、見つけられたアークは忘れられた存在として、再び「失われた」アークに戻っていくのです。
 現実にアークが見つかったら、アメリカでは大騒ぎになるでしょうし、政府は科学的調査を行うでしょうが、映画はメダルの警句が効いたエンディングを採用しています。ですが、神聖な場所に安置されるわけでもなく、物質的に保管されるところで終わるところが近代人の精神の荒廃を暗示しているかのようです。
 このように第一作目は根源的なオカルティズムと近代合理主義や科学精神との相克を描いた映画なのです。二作目以後の作品に比べて、この作品に渋みが感じられる要因はおそらくそんなところにあったのではないでしょうか。おそらく聖書の記述にインスピレーションを受けたであろう、あのクライマックスは、聖書になじみのない、高度経済成長に浮かれていた日本人には理解しにくいものだったかもしれません。もちろん少年であった筆者にも全く分かりませんでした。二作目を最初に見たからか、何か冒険活劇としての盛り上がりに欠けるクライマックスのように思えました。しかし、日曜学校などで聖書になじみのある人々にとって、あの映画のメッセージは明瞭に伝わってきたのではなかったでしょうか。
 以上のように、「レイダース」は決してレトロ趣味の映画ではなく、現代的意味をあわせ持つ映画でした。この映画を見て、実際に失われたアークを探し出そうとしたジャーナリストも現れました。英「エコノミスト」誌東アフリカ特派員をしていたグラハム・ハンコックです。ちなみに探究の結果は『神の刻印』にまとめられていますが、彼が出した結論は、アークはエチオピア・アクスムの教会に安置されている、というものです。これはエチオピア正教会の公式に認めているところでもあります。彼らはアークを徹底的に隠し、崇拝しています。
 彼はアーク調査の過程で、失われた古代文明の存在に気づき、以後、インディさながらに、「アトランティス」の名で知られる、プラトンの著作『クリティアス』に出てくる古代文明の探究に乗り出していきます。まさにオカルトの本陣に斬り込んで行った恰好ですが、その探究の結果は『神々の指紋』にまとめられ、世界的なベストセラーになりました。以後、その探究にのめりこんで行って、様々な古代遺跡を調査し、改めて、世界には西洋中心の歴史観で描かれた世界史には収まらない様々な謎があることを教えてくれましたが、一方でオカルト特有のキワモノ的な部分にも踏み込んでしまっていて、ちょっとついていけないところがあるのも確かです。
 『レイダース 失われたアーク【聖櫃】』の鑑賞をきっかけとして、人生が劇的に変えられてしまったハンコックのような人もいるわけで、西洋においてはすでに一九世紀に、いち早くこの問題を体現したニーチェのような哲学者もいました。彼はキリスト教やプラトン以来の古代ギリシャ哲学に由来する近代合理主義的思考に対するラジカルな批判者でしたが、一方でオカルティズムの傾向を持つ人でした。彼はその内に秘められたものを古代ギリシャの神にちなんで「ディオニュソス的なるもの」と呼んでいました。彼はそれらをぎりぎりまで突き詰めたところで、限界を突き抜けようとして、高揚する精神にその器たる肉体が耐えられなくなってしまった。筆者は彼を襲った悲劇をそうとらえています。
 われわれ現代人は科学文明の成果をそう簡単に捨てるわけにはいきませんが、それが行きづまっている今日、過去の人間が大事にしてきた、根源的な意味での人間存在の意義に関わってくるオカルト的なものと向き合っていく必要に迫られています。
 英文学者の故渡部昇一氏が昭和四十九年(一九七四)に書いた「オカルトについて〈光が闇になった時代〉」というエッセイがあります。科学文明が行きづまって、オカルトの時代の到来を洞察し、そういった時代にどのように向き合えばよいかを示した優れたエッセイです。
 このエッセイの最後はゲーテの次の箴言で締めくくられています。

「考える人間の最も美しい幸福は、窮め得るものを究めて、窮め得ないものを静かに崇めることである」

 人間の認識力の限界を踏まえた冷静な態度と言えるのではないでしょうか。


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