皇室と『論語』 【五】   (「西尾幹二氏への数言 (六)」)

紀貫之は「仮名序」で、和歌の作用の一つに、鬼神をあはれと思わせる、つまり鬼神を感動せしむる、と述べたわけだが、『論語』にはこの鬼神について孔子が論じた数条がある。


 ある弟子が孔子に知を問うた。


 子曰く、民の義を務め、鬼神を敬して之を遠ざく、知と謂うべし。


 「義務」「敬遠」の出典である。

 また、高弟・子路が鬼神に事(つか)えることを問うた事があった。
 孔子の答えはこうである。


 子曰く、未だ人に事うる能わずんば、いずくんぞ能く鬼に事えん。


 子路はならばとばかりに、敢えて死を問うた。
 孔子がこれに答える。


 曰く、未だ生を知らずんば、いずくんぞ死を知らんや、と。

 
 ここで孔子は鬼神を窺知し難いものとして、言葉にするのを慎んでいる。かといって否定しているわけではなく、むしろ「敬して」と言っていることから、上位の存在と見ていたことは明らかだろう。

 


  ここで西尾氏の『皇太子さまへのご忠言』に戻る。

 その第二部第二章は「『かのようにの哲学』が示す知恵」となっていて、現代人が皇室と向き合って行く手がかりとして、森鷗外が近代知識人として天皇をどう理解したらいいかに悩むテーマの『かのやうに』という作品を挙げておられる。

 小説「かのやうに」は明治四十五年一月発表の作品で、一年前に判決が下った大逆事件の影響を受けて書かれたものだとされている。幸徳秋水の法廷での発言が外部へもれて、南北朝正閏論がジャーナリズムを賑わし始めた時代であった。

 既に鷗外の『帝諡考』を参考図書としてあげておいた。諡号の由来を調べた研究である。

『かのやうに』全文;http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/678_22884.html

 西尾氏は『かのやうに』の内容を要約し、引用している。


「息子秀麿をドイツに留学させた五條子爵は、ドイツの大学で神話と歴史の相剋するテーマに取り組み始めた息子からの手紙を前に、自分の信仰心を心の中で次のように問い質してみる。

(以下『かのやうに』からの引用、読みやすく改変)

『自分の家には昔から菩提所に定まっている寺があった。それを維新の時、先代が殆ど縁を切ったようにして、家の葬祭を神官に任せてしまった。それからは佛と云うものとも、全く没交渉になって、今は祖先の神霊と云うものより外、認めていない。現に邸内にも祖先を祭った神社だけはあって、鄭重な祭をしている。ところが、その祖先の神霊が存在していると、自分は信じているだろうか。祭をする度に、祭るに在すが如くすと云う論語の句が頭に浮ぶ。しかしそれは祖先が存在していられるように思って、お祭をしなくてはならないと云う意味で、自分を顧みて見るに、実際存在していられると思うのではないらしい。いられるように思うのでもないかもしれない。いられるように思おうと努力するに過ぎない位ではあるまいか。そうして見ると、倅の謂う、信仰がなくて、宗教の必要だけを認めると云う人の部類に、自分は入っているものと見える。』

 …(中略)…
 五條秀麿はドイツから帰国し、父の子爵の前で神話が歴史でないことを言明するのは良心の命ずる所だと思うが、余りにも微妙な問題なので親子は対話を回避しつづける。すべての実在は存在しない。先祖の霊も存在しない。しかし、あたかもそれが存在するかのような振りをしてお祭をしている。そこに生きんとするものの必然性がある、と秀麿は当時の近刊のハンス・ファインガー『かのようにの哲学』を援用して、神話は歴史ではないが、あたかも歴史であるかのように信じて生きる実用主義(プラグマティズム)を差し当りの解決として提示してみせるのである。」(『皇太子さまへのご忠言』)



 ここで表された秀麿の父の神霊に対する態度や心境は、維新を経験した多くの人に共通するものであって、維新によって皇室でさえ、菩提寺である泉涌寺との関係を絶っている。というより、天皇親政を謳った明治維新によって、皇室は神の子孫、祭祀を行う者として、親(みずか)ら菩提寺との関係を絶ったと言った方がいいだろう。

 維新まで日本では神仏習合といって神社と仏教寺院は一体となっていて、死者は仏として葬られてきた。仏壇に祭られているのはご先祖様や亡くなった家族の位牌であったりする。
 この習俗は正統な仏教から見て異端である。
 というのは、仏教は本来悟りの宗教であって、死者の霊の存在を認めないからだ。つまり、江戸時代の寺請制度によって仏教が葬式仏教となって以来、世俗一般の日本人にとって神社や寺院とは「鬼神」を祭る空間であったのだ。

 当時の知識階級であり、支配階級であった武士は概ね、『論語』を聖典として、これを学び、時にこれを習い、個人の生き方や帰属する社会の生活に、また天下の政道にプラグマティックに活かしてきた。

 例えば、幕末維新の英雄の一人、勝海舟は仏教を念頭において徳川家の宗教政策を「鬼神を敬して遠ける」と『論語』の先の言葉で表現している。

「従来徳川では、宗教は敬して遠ざける方針を執って、各派の僧侶には、高位高職に相当する位階を与へ、また寺には御朱印地を付けて、いっさい彼らの自治に任せたのだ。治めざるをもって、治めるのが、幕府の宗教に対する政略であった。」(『氷川清話』)

 これは仏教という「鬼神」問題に対する幕府のプラグマティックな態度を表現しているが、朱子学を官学として採用した幕府の当然の帰結であっただろう。そして、その政策の起源は、おそらく『論語』を好んだ徳川家康に求めることができると思われる。

 このプラグマティズムはおそらく神に繋がる血統を持つ皇室に対する態度にも応用されていたように思われる。
 確証はないが、明文化された「禁中並びに公家諸法度」にそれを読み込むことはできそうであるが、少なくとも、後世、儒学や国学などの学問によってそのように反省されたことは事実である。
 
 孔子によれば、民の義務を行い、鬼神を敬遠すれば、そこに知は生ずる。
 その知が異文明との接触を経て、これに応じた。それが幕末維新期の騒乱となった。

 その結果、江戸社会が崩壊し、新たな文明、新たな価値規範を取り入れざるを得なくなった時、五條秀麿の父のように、それまで当然とされてきたこの生き方に、懐疑の眼差しを向けるようになったのも、ある意味自然な流れだったであろう。
 一方、父の世代までの生き方、またそのバックボーンとなっていた古典を知らぬ、欧化時代の青年・秀麿は、西洋の哲学を学び、神話、すなわち鬼神の話を、存在しないが存在するかのように、また、神話を過去の事実の集積である歴史ではないが歴史であるかのように、信じてともに歩んでいく、というプラグマティックな生き方を差し当たりの解決策として提示してみせたのである。

 しかし、それはあくまでも差し当たっての解決策であって、我々日本人にとっての本質的な解決策ではないだろう。
 鷗外はこの短編について、後に娘婿になる人物に宛てた書簡の中で、「…小生の一長者に対する心理状態が根調となり居り、そこに多少の性命はこれあり候ものと信じて書きたる次第」と書いていて、この書簡中の一長者とは山県有朋か乃木希典ではないかと言われている。
 小堀桂一郎氏によれば後者ではないかという。

 ちなみに乃木大将が青年時代、自ら択んだ学問の師は、親戚の玉木文之進で、彼は吉田松陰の叔父にして学問の師でもあった。そもそも松下村塾とは彼が開いた寺子屋の名である。
 彼は前原一誠のいわゆる「萩の乱」に関与していたらしく、責任を取って、先祖の墓前、すなわち先祖の「鬼」の前で切腹した。維新の精神の何ものかを体現する人物であった。
 当然、長州閥の中にあって、彼の教えは乃木大将の精神に沈殿していったはずで、西南戦争における有名な連隊旗喪失事件も、この沈殿物を攪拌し、純度を高める事件となったであろう。

 短編「かのやうに」が発表された明治四十五年の七月三十日、明治天皇が崩御された。
 改元されて大正元年九月十三日、青山斎場で御大葬が挙行され、鷗外もこれに参列したが、その帰路、乃木大将夫妻が殉死したとの噂を耳にする。半信半疑であったが、やがてそれが事実であったことを知る。
 乃木大将の葬儀は十八日、同じ青山斎場で行われ、鷗外もこれに参列したが、大将の殉死に対する思いを投影させた『興津弥五右衛門の遺書』をこの日一気に書き上げて、中央公論に寄稿している。
 殉死は君主に対する態度の問題であり、明治人の君主とはすなわち天皇である。以後鷗外は、江戸時代の殉死の問題、すなわち明治の基礎を成した武士道の問題に創作動機を見出していくことになる。

 親交のあった乃木大将の殉死は、鷗外に突きつけられた動かぬ事実であって、五條秀麿に託された鷗外のプラグマティズムは反省されざるを得なかっただろう。

 西尾氏が言うように、確かにここには我々現代人が皇室という存在と向き合っていく上でのヒントが隠されているといえよう。
 西尾氏が引用する森鷗外の『かのやうに』は明治期の自我喪失という思想的混乱を表す話であって、実は明治を創った人々においてこの問題は既に解決済みの問題であった。乃木大将が殉死に躊躇した様子はないし、天皇親政の理想に命をかけてきた山県有朋も死処は違うにしてもこれは同じだったであろう。
 教養主義で人は死ぬことはできない。
 近代的知識人である鴎外に突きつけられた問題はこれであったと思われる。

 死の問題に直面し、これに対し自覚的に取り組む契機とならないような教養など何の意味があろう。維新の元勲に教養主義はなかったが、わが国の伝統の中に育まれてきた教養は身につけていた。鷗外は、明治天皇の崩御と乃木大将の殉死に直面して、「かのやうに」振舞う西欧的近代合理主義の軽薄さを乗り越えるきっかけを得たのではないだろうか。


 五條秀麿の祖父の世代の明治人として渋沢栄一を例に挙げてみよう。 

 幕末、家を飛び出し、志士として活動した渋沢は晩年の『論語講義』の中で、一般の風潮を意識してだろうが、西尾氏も引用している「子、怪力乱神を語らず」の一節の解説において、いくつかの例を挙げて、実用主義的に鬼神に対する孔子の態度を解説している。


「余の交際せし維新前後の志士や、維新の元勲には、神仏に祈願するという迷信は決してなかった。ただし維新の際は世の中が物騒で、ややもすれば天誅と称して、反対派を暗殺するに至った。されど力自慢や技倆自慢をした者は、たいてい学問の素養に乏しき撃剣家ぐらいに過ぎなかったのだ。いやしくも漢学を修め、武士道を弁えたる者は、慎重の態度を持し、容易に刀の鞘を払うようなことをしなかった。」


 ここでは皇政復古運動を推し進めた維新の指導者達が漢学を修め、それに則って行動したことが述べられている。
 彼らの多くが神仏に祈願するという迷信を持っておらず、『かのやうに』の父のように、鬼神を祭るが、それの実在を必ずしも信じているわけではなく、在すが如く祭らねばならない、と考えて、祭を行ってきた、というのである。

 そして、渋沢は孔子の考えを次のように敷衍している。

「孔子は神を語らずといっても、神に対する敬虔の念は十分にあったのである。論語八佾篇には『祭るには在すがごとくにし、神を祭るには神在すがごとくにす』とあり、また『大廟に入っては事毎に問う』とあり、これらによってこれを証明し得べし。しかれどもこれは孔夫子が心を正しうしてご自分の務めを疎かにせざらんことを心懸けられた、正心誠意の発露に外ならず、神に祈ってどうしようのこうしようのという精神からではないのである。余のごときも、自ら顧みて正しいと思う所を行い、自己の義務責任を果すのが、これ孔夫子のいわゆる天に対する道であって、かくさえしておれば、祈らずとても神や守らんと固く信じておる。」(『論語講義(三)』講談社学術文庫版;70~79ページ)


 要は人事を尽して天命を俟つ、という信念が述べられているわけだが、窺知しやすいことに対して、民の義を務め、鬼神を敬してこれを遠ざける、知というべし、という孔子の言葉にも適っていて、当時の志士の儒学のプラグマティックな活用が窺えよう。
 これが天皇を中心とする政事への態度と繋がっていた。
 
 既に岩倉具視の王政復古の奏聞書は紹介した。
 この柱となる部分で、重要な論拠を与えていたのが、『論語』の有名な「必ずや名を正さんや」(正名論ともいう)と、これまた有名な「礼楽征伐天子より出ず」云々の天子のあり方に関する条であったのは、すでに見たとおりである。
 これは国学者・玉松操が起草した文書であるとされている。

 西郷南洲翁が一貫して『論語』や『孟子』を規範として、王政復古を推し進めたことは拙著でくどいほどに説いたことであるが、余りしつこいと、また西郷信者が言っている、くらいで流されてしまうので、ここでは別の例を挙げよう。
 南洲翁の事跡によって説くのは、維新の精神をもっともよく体現し、象徴する人物として、語るに値すると強く信じるからである。

 「鬼神」に対する「敬遠」という武士のプラグマティズムの視点からの維新ということであれば、次の例を挙げることができよう。
 王政復古が行われて、慶応四年三月十四日、『五箇条の御誓文』が発布され、同時に、御誓文の趣旨を敷衍するものとして、明治天皇の御宸翰が下された。書き出しはこうなっている。


「朕、幼弱を以て俄かに大統を紹(つ)ぎ、爾来、何を以て万国に対立し、列祖に事(つか)へ奉らんやと朝夕恐懼に堪えざるなり。」


 列祖とは皇室の代々の先祖、すなわち「鬼」にして、さらに溯れば「神」となる。つまり皇統を継いだ明治天皇に課せられたものは、万国に対立し、皇室の「鬼神」、延いてはわが国の「鬼神」に事えることだとの認識である。

 次いで、幕末までの長きに亘る武家による政治を振り返って次のように表現されている。


「竊(ひそか)に考うるに、中葉朝政衰へてより、武家権を専らにし、表は朝廷を推尊して、実は敬して是を遠ざけ、億兆の父母として、絶えて赤子の情を知ること能はざるやふ計りなし。遂に億兆の君たるも唯名のみに成り果て、そが為に今日朝廷の尊重は古へに倍せしが如くにて、朝威は倍(ますます)衰へ、上下相離るること、霄壤の如し。かかる形勢にて、何を以て天下に君臨せんや。…」


 皇室は、さながら「鬼神」の如く、武家に敬して遠ざけられてきた。

「禁中並びに公家諸法度」は徳川家康およびそのブレーンであった金地院崇伝の創作に掛るものというよりは、皇室を敬して遠ざけるプラグマティックな武家政治の伝統を明文化したものであろう。

 しかし、天皇は「鬼神」を祭り、事える存在であって、「鬼神」そのものではない。このことは諸法度の第一条に暗示されているところである。
 当時の困難な国際情勢の中にあって、自主独立の国として万国に対峙し、億兆の父母として君臨するには、これまでの「敬して遠ざく」武家政治のプラグマティズムは克服されなければならない。

 この理解がこじつけではないのは、御宸翰の結びが次のようであることからも明らかだ。

「汝億兆、能々(よくよく)朕が志を体認し、相率いて私見を去り、公義を採り、朕が業を助て、神州を保全し、列聖の神霊を慰し奉らしめば、生前の幸甚ならん。」


 「神州」、すなわち神の国でのことであるから、漢語である「鬼神」は避けられて「神霊」が用いられているが、そこに流れている精神は、孔子のそれと同じで、君主親らによる政(まつりごと)としての政治の復古復活こそ、日本の精神的秩序の復活であり、国体の再興であるとの認識であったのだ。
 

 この御宸翰の起草者は木戸孝允であるとされている。
 御誓文の起草に携わった土佐藩士・福岡孝弟の談話に、御宸翰の起草につき、木戸が「国家を泰山の安に置く」とかいう支那流の文句を「富嶽の安に置く」と改めさせた、との趣旨の発言があるからである。
 実際の文句は「天下を富嶽の安きに置かんことを欲す」となっているが、要は同じことだ。「鬼神」という支那流の表現が避けられて、「神霊」とされたのも同じ趣旨からだろう。
 水戸学の影響が見られるが、『論語』の言葉を論拠とする朱子学的プラグマティズムをより深化させて、克服し、国体をより根源に立ち返らせて強靭化しようとの志が見えるだろう。


 福沢諭吉が指摘したように日本文明は二元素文明である。
 西尾氏は神道と仏教の二元素がわが国を豊かにしたとしているが、戦国時代を経て、仏教の役割は後退して、むしろ神道と儒教の二元素を主流とする文明への道を歩み始めた。しかし、この二元素とは、党を成して、対立するばかりではなく、協調、調和するものでもある。その梃子となるのが皇室の存在であり、「和」の伝統であった。
 対立は遠心力を生じて、文明を進転させる。「転石苔を生さず」の伝統である。
 調和は向心力を生じて、文明の統一性を保ち、円心を安定させる。「細石の巌となりて苔を生すまで」の伝統である。

 これらの運動の思想的な背骨(バックボーン)となったのが、皇室の御存在であり、また、いわゆる孔孟の教えによって培われてきたものであった。
 その日本の文明体の背筋を正してきた価値規範、教養は、明治の開化によって見失われて今日までの大勢を作ってきた。
 戦前まではまだその影響が残っていたが、戦後はどうだろう。

 俗諺に、背に腹は代えられぬ、と言う。
 しかし、それは緊急避難的対処の話であって、通常、わが国の大事なもの、言わば和(やわ)らかい腹を守るには背筋を正すことが求められるだろう。
 何と言っても、背がちゃんと立っていなければ腹は自ずと立たないものだ。

 このことは国際社会の不条理に直面したときのわが国の世論の動向に現れているといえるのではないだろうか。不条理は世の常とは言いながら、これに馴れ親しんで、本気で腹を立てることを忘れてしまっては、条理は喪われるばかりではないか。
 それでは、より高度な文明への道のりは遠のくどころか、逆行である。
 これは周辺諸国が推し進めている野蛮への道のりと同じではないのか。
 
 

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