皇室と『論語』 (弐)

 西尾氏に対しては、まさに釈迦に説法のような話が続くことになるが、「動かぬ真実を探しても無駄」との一言で戸惑った自分の考えをまとめるために書いている。戸惑ったのは、むしろ真実と信じていたものが意外と簡単に揺らいだことにあったかもしれない。
 だから、この文章を書く目的は、西尾氏の見識に対する批判というよりも、日頃よく読んでいる西尾氏の言論の胸をお借りして、拙くとも自己の考えを明らかにしておく、というところにある。


 西尾氏は『国民の歴史』文庫版「上巻付論」の中で、近代に入っての日本人の歴史観、歴史叙述の問題点として、明治以来の「本来的自己」の喪失を挙げておられる。
 この大著は、それを取り戻し、その視点から世界を見ようとの壮大な試みであり、自分が目を開かれたのはそこである。

 そして、その「本来的自己」を取り戻すには、やはり明治維新を見直す必要があるのではないか。そう思うようになったのだ。
 そのためにはやはり維新最大の功臣で、謎に覆われた人物であり続けている西郷隆盛の謎を解くことがその手がかりとなる、との確信から、史伝を書こうと決意したのである。

 ちなみに、氏に「『西郷隆盛』さんとからかわれた」と書いたが、『西郷隆盛』は自分のインターネット用のハンドルネームではない。西郷南洲翁の誤解を解き、その偉業を顕彰しようとの趣旨でブログを開設したから、至ってシンプルに、ブログ名を『西郷隆盛』としただけである。
 本名で世に問う事にしたのは、自己の発言に責任を持つためである。ペンネームでは説得力が弱まるということもある。
 そもそも自分を売り出したい、という気持ちはない。
 売り出したいのは、自分ではなく、あくまでも偉大な国民的英雄としての西郷隆盛なのである。

 南洲翁は、津田左右吉から「慶応の功臣、明治の賊臣」と呼ばれ、いわゆる「征韓論破裂」で維新政府分裂の大きな要因となり、西南戦争という日本史上最大規模の内戦の主役となった人物である。
 江藤淳の『南洲残影』はこのテーマに取り組んだ作品であるが、手抜き作品であるのは明らかだ。「保守」の南洲翁認識がこのレベルに止まるとすれば非常に残念なことである。

 「征韓論破裂」、「西南戦争」とは一体何だったのか。
 盟友・大久保利通との政治的対立は一体どのような意味を持つのか。

 その問いかけが、拙著『(新)西郷南洲伝(下)』となった。

 この作品は、西尾氏の言葉を借りれば、日本人の「本来的自己」を取り戻す試みであり、『国民の歴史』から出た一つの芽なのである。芽吹いた草木は、日本の歴史・文化という土壌がしっかりとさえしていれば勝手に育つだろうが、より意識的に、より丁寧に、根気よく育ててゆけば、さらに大きく成長するだろう。

 反日自虐史観、唯物史観、浅はかな合理主義の輩は、その土壌を汚してきた。今必要なのは、この汚された土壌を掘り返して、洗浄することであり、「新しい歴史教科書を作る会」の運動はまさにこれに当たるだろう。

 小林秀雄によれば、「文化」とはそもそも、武力を使わずに民を教化することをさすという。
 明治となって西洋文明を受容し、「カルチャー」という言葉が入ってきたときに、その訳語に「文化」という言葉を当てた。「カルチャー」とは、「アグリカルチャー」が「農業」を表すことからもわかるように、「栽培する」という意味の言葉である。

「果樹を栽培して、いい実を結ばせる、それがcultureだ、つまり果樹の素質なり個性なりを育てて、これを発揮させることが、cultivateである。自然を材料とする個性を無視した加工はtechniqueであって、cultureではない。techniqueは国際的にもなり得よう、事実なっているが、国際文化などというのは妄想である。意味をなさぬ。」(小林秀雄「私の人生観」)

 その通りだろう。
 小林秀雄はcultureの訳語に「文化」を当てたために、その英単語が本来持っている語感が失われてしまったというが、必ずしもそうではないだろう。
 「文化」という漢語は、周の文王の事跡が元になっている。伝説によれば、文王はその徳により人望を集めたが、決して殷の暴君・紂には武力で逆らわず、後世ますますその徳を慕われた。これに対し、息子の武王は、紂に対し武力討伐を行い、新たに王朝を開いた。つまり易姓革命を行った。
 そして、武王を補佐した弟の周公旦は、夏王朝、殷王朝の礼楽を土台に、高度な礼楽文化を創始し、周は栄え、王朝文化が花開いた。
 やがて周王朝は衰退したが、この周公旦を理想化し、その礼楽文化の意味を問うて、これを再興しようとしたのが孔子である。
 ところが秦の始皇帝による統一以来、支那歴代王朝は法術による専制体制を採用し、礼楽による民の教化、すなわち「文化」はその専制体制維持のための道具となった。
 その教化に属さぬ土地の者を支那では化外の民という。歴代支那王朝が台湾を化外の地としてきたことを想起して欲しい。あそこは幸いなことに、今でも文化的に中国の化外の地である。だからこそ、今、中国に飲み込まれようとしていることが彼らにとっての不幸なのだ。

 さて、「文化」という漢語はこれら周王朝の事跡を踏まえている。
 小林の言う「文化」という漢語は、統治者の側から見たとらえ方である。
 しかし、孔子に栽培という意味での「文化」観があったのは、「苗にして秀でざる者あり、秀でて実らざる者あり」という『論語』の言葉からも明らかであろう。孔子にとっての周公とは、夏、殷という伝説的な王朝によって引き継がれてきた礼楽を大成した聖人なのである。
 
 西郷南洲翁の知己で、『西郷南洲遺訓』編纂者である庄内藩家老・菅実秀の名の由来もここにあっただろう。彼もまた、翁の言動の中に『論語』の規範が息づいているのを感じ取った一人である(『南洲翁遺訓』原版、序文および跋文参照)。

 誰かは知らないが、おそらく明治初期の人々、つまり幕末育ちの人士は、そういった意味での語感を踏まえて、cultureという渡来語に「文化」という漢語を当てたものと思われる。

 「文化」本来の語感が失われたのは、西尾氏の言葉を借りれば「明治以来の本来的自己の喪失」が原因であろう。
 小林秀雄より一年早く生まれた、尾崎秀実の名は、この『論語』の言葉に由来していると思われるが、その彼が、伝統破壊の衝動を秘めた共産主義に被れ、日本を奈落の底に陥れて、文化破壊の張本人となったことを思えば何と皮肉な名前なんだろうと思ってしまう。
 尾崎の出現は、明治以来の本来的自己の喪失が生んだ悲劇的結末の一つだったといえるのではないだろうか。 
 

 ここでは、日本の根幹をなす「皇室」という視点から話を進めていくことにするが、これは、明治維新とは何だったのか、日本人の本来的自己とはなにか、という手探りからつかんだ「動かぬ真実」、つまり、この国の多くの先人達が、孔子を愛し、『論語』を人生の規範として生きてきたという事実を、皇室の歴史の中に探っていく試みである。

 
 現在では、堯舜などの古代支那の聖人は、孔子より後世の諸子百家の時代に作られた説話であったことが判明している。つまり、「鼓腹撃壌」の話は賢しらな支那人による後世の作り話ということだ。
 そもそも堯や舜は神であったが、彼らの賢しらな理想をこれらの神々に仮託して、聖人という完成された人間の行為として伝えてきたのである。
 ここでもやはり、神話を神話として伝えて来た日本とは正反対である。

 朱子学的合理主義者であった江戸時代の新井白石は「神とは人なり」と言って、浅はかな近代合理主義的神話解釈のさきがけとなったが、古代支那の聖人伝説では逆に「人とは神なり」という逆説が成立することが判明してきたのである。つまり、漢学の中核には人為的に創作された一種の神話がある。
 これは西尾氏の『江戸のダイナミズム』で学ばせていただいたが、堯舜説話が後世の創作であることは白川静著『孔子伝』ですでに知っていた。

 これも日本と支那の違いを考える上で非常に重要な要素なのだが、日本の皇室は、統治域の拡大につれて、天皇の統治のあり方の理想として、この支那伝来の説話を受け入れてきたのである。
 
 一方、皇室の正統性の核心となる神話との結びつきは、『古事記』や『日本書紀』が編纂されるまでは、もっぱら口承伝承と祭祀を通じて保たれてきた。
 これはいまだに秘儀として、皇室の祭祀の中に保たれている。
 我々一般人はそれを容易に窺うことを許されていない。
 「帝力何ぞ我に有らんや」の輩にはなおさらである。
 
 しかし、細胞の核がそれ自体で存在し得ないように、皇室のこの核心にも、事・業しげき世の中となって、民に対して、あるいは支那や朝鮮半島との関係において、核を覆う膜が必要になってきたとき、仏教のみならず、儒教体制が取り入れられてきた。
 これが盛んに行われたのが、隋・唐の勃興と重なる時代である。東アジアにおきた大きな変動が日本を動かしたのだ。
 統治の原理として不完全ながらも隋・唐から律令体制、延いては儒教が取り入れられるとことなった。これは明治維新の原型となる経験だったといえるだろう。

 森鷗外の指摘するところの一説によれば、この大変動の時代の主役であった天智天皇は殷の暴君紂に、天武天皇は易姓革命を行った周の武王に準えて、諡号が択ばれているという(『帝諡考』)。
 『周書』によれば、「天智」とは紂が放伐を受け死んだときに身につけていた玉の名、「天武」とは天命を受けて紂を討伐した武王を表すという。
 天武天皇自身が易姓革命を意識していたらしいことは、壬申の乱の際、漢の高祖に倣ってのことだろう、配下の兵に紅い布を付けさせていることからも窺える。
 以後、天武天皇の男系継承が八代続くが、この間、支那文明の摂取は盛んに行われた。正史である『日本書紀』や『古事記』が編纂されたのはこの時代だ。
 そして、天武天皇男系最後の天皇、称徳孝謙女帝は自ら「皇帝」を名乗り(宝字称徳孝謙皇帝)、有名な僧道鏡への禅譲を行おうとして挫折した。
 禅譲とは放伐(追放討伐)によらない易姓革命である。聖人堯舜が行ったとされる徳行だ。つまり、これも支那では一度も起らなかった人為的神話である。支那の国體はどこまでも放伐による易姓革命によって成り立っている。

 ところがわが国ではどうか。
 女帝の禅譲の意志は和気清麻呂が持ち帰った宇佐八幡の神託によって挫折を余儀なくされた。
 女帝の後を継いだ天智天皇男系の光仁天皇から皇太子である桓武天皇に皇位が継承された時、その正統性の根拠が男系としての天智天皇系にあることが強調され、支那の皇帝に倣って、天を祀る式典が執り行われた。
 その意味するところはなかなか示唆に満ちている。
 

 儒教の聖典『論語』の受容は応神天皇の御代にまで遡る。
 それを日本にもたらした百済の和邇(王仁)が、応神天皇の命で皇太子・菟道稚郎子(うぢのわきいらつこ)の師となり、学問を授けたのは、『日本書紀』の記すとおりであるが、我々が天皇統治の理想像として想起し、東北大震災の際もよく取り上げられた「民の竈」の話で有名な仁徳天皇(大鷦鷯尊;おおさざきのみこと)は、この皇太子の兄に当たる。

 西尾氏は『国民の歴史』「日本語確立の苦闘」の中で、次の記している。

「さて、王仁による『論語』の到来は四世紀末と伝えられる。もっともこれ自体が不確かであって、もっとずっと早い話かもしれない。四世紀末には日本は朝鮮半島に進出し、百済や新羅を破って、さらに北上して高句麗に敗退したことが高句麗好太王碑文に示されており、任那日本府の支配を確立するなど、かなり積極的な行動を展開しているのであるから、当然のことながらそれよりもはるか前に正式な体系的文字の導入があったと考えるのが常識ではないだろうか。
 しかし通例は、漢字の使用、儒教の伝来は歴史書によると五世紀の初頭ということになっている。今初出がいつであるかは明らかに証明はできない。専門家の間でも前述のとおり、かなり大きな年代幅があるので、ここではさしあたり問題にはしない。」


 これは漢字導入による書き言葉としての日本語確立の話だが、皇室と『論語』という、「道」という名の新たな価値規範との出会いの記憶が、和邇の名とともに口承伝承の中に刻印されたのだ、と考えれば、その歴史的意義は自ずと別の光を帯びてくるだろう。

 日本人と漢字の出会いが和邇の渡来に先立つものであったのは当然の話で、大陸との交渉が活発であった西日本には、すでに文字の渡来もあったはずで、新文明への関心から、あるいは交易上の必要から、これを読み、これを使用する者もいただろう。彼らの中には『論語』に触れた者もすでにいたかもしれない。
 しかし、統治の主体であった皇室がその意志として、受容を決めた経緯が口承伝承の中に刻印された、とすれば、応神天皇の御代の和邇による『論語』『千字文』の渡来の意味は大きいのではないか。

 『古事記』によると、百済の第六代照古王は朝貢使として阿知吉師(あちきし;『日本書紀』では阿直岐)を送ってきて、貢物を捧げた。阿知はこのまま残って阿直史等の祖となったとの注釈がある。
 応神天皇は、さらに百済に、もし賢(さか)しき人があれば貢上せよ、と命じた。そこで百済が献上したのが、和邇吉師であり、『論語』であり『千字文』であった。

 一方の『日本書紀』の方では、阿知はよく経典を読んだので、応神天皇はまずこの阿知を皇太子・菟道稚郎子の師とした。天皇はさらに阿知に「お前よりも優れた博士がいるか」と尋ね、和邇を推薦したため、天皇は百済に使いを送って召したことになっている。翌年和邇は来朝し、皇太子はこの和邇を師として、諸典籍を学び、精通するに至ったという。
 応神天皇はこの菟道稚郎子への皇位継承を強く望んだ。

 膨大な漢籍の中で、初めて皇室が出会ったと記憶されたのが、『論語』であり、『千字文』であるが、後者の成立はもっと後世であるというから、『論語』をもたらしたとされる和邇に仮託されたのかも知れない。
 『論語』も『千字文』も、出土した律令期から奈良時代にかけての習書木簡の中に多く見られるといい、中には、『古今和歌集』「仮名序」に引かれて有名な和邇の和歌「難波津に咲くやこの花…」の習書木簡も存在するという。

 これら和邇のもたらしたとされる書物が漢籍の手習いの教材に用いられたのは大きな意味を持つだろう。当時支那儒教において、『論語』は副読本的扱いで、五経こそが学ぶべき聖典であった。『論語』を中心とする四書を聖典としての高い地位に置いたのは、宋学の出現からである。

 また現在では儒教・仏教と明確に分類されるが、日本人は漢字を通じてこれら海の向こうの聖典を学んだのであり、当時の人々にとって分類は明確ではなかっただろう。
 仏教の信者であった聖徳太子も明らかに『論語』を読んでいたし、時代は下って、親鸞も、『教行信証』の中で『論語』の言葉で「鬼神(神霊)」について考えをめぐらしている。
 「あるべきやうは」で有名な栂尾高山寺の明恵上人は、春日明神を信仰した上、小乗・大乗のみならず、孔・孟、老・荘の教えも、如来の定恵(じょうえ)から発したものと信じていた(定恵とは仏道修行の基礎となる三つの大切な事柄である戒・定・恵のうちの二つ。悪を止める戒、心の平静を得る定、真実を悟る恵。)。ちなみに明恵上人は「承久の変」で鎌倉方の指揮を執り、変後「貞永式目」と呼ばれる慣習法を発布した北条泰時の師ともいえる人物である。
 また、建武の中興で有名な後醍醐天皇も、儒教、特に宋学に通じながら、同時に仏教、特に密教への造詣が深かった。
 宋学はそもそも禅宗に付属して渡来したものだ。

 古代においてこれらの境界線は曖昧であり、皇室を中心に、『論語』は古人曰くの形で、賢者の言葉として重んじられてきたのである。
 日本は支那の儒教を受容してこなかった、の一言で済ましていては、この国の伝統を深く理解することはできない。
 日本流に受容して、日本の歴史を創り上げてきたのである。批判すべき点があったとしても否定すべきようなことではない。

 その伝統に則って孔子をこよなく愛した本居宣長は『古事記伝』総論の「直毘霊」の中で、わが国の古は、

 「実(マコト)は道あるが故に道てふ言(コト)なく、道てふことなけれど、道ありしなり」

 と喝破したが、わが国の「道」の痕跡はあるところまで辿っていくと、神代にたどり着く手前でいつの間にか姿を消す。しかし、それは霞がかった山々の風景に溶け込んでしまって見えなくなるということであって、なくなったということではない。むしろ、空気のように、意識されないほど満ち溢れていたということである。霞の向こうには澄んだ空気が充満していたのだ。

 この、「道」と名づけられた意識的な生き方との出会いという、画期を成す出来事が和邇による『論語』との出会いの記憶なのである。そして、おそらくそれは文字の出会いとセットになって記憶された。
 確かにこれは口承伝承による記憶であって、記録ではない。
 つまり主観であって、客観ではない。
 しかし、西尾氏が文庫版『国民の歴史』の「まえがき」で述べているように、主観がなければ客観も存在しないのである。
 私がここで問題にしたいのは、この記憶、主観の問題である。


(「西尾幹二氏への数言」 【三】 終わり)

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