明治天皇と西郷隆盛 (その参)

 明治十一年五月十四日の大久保の遭難は国際社会の荒波に乗り出したばかりの明治日本にとって大きな損失であり、同志達を悲歎せしめた。
 翌日、元田永孚等同志の侍補は協議して、明治天皇へ建言を行うことで一決した。通常、建言は、三条・岩倉の両大臣に告げて後、行われるのが通例であったが、事変勃発の非常時ということで常例によらず、一同拝謁を願い出て、建言に及ぶことを決したのである。

 一同は御前に列座、上席より順に一人ずつ意見を言上した。その趣旨は、万機親裁、臣下に御依頼なきように、とのことであった。
 天皇はこれらの忠言を嘉納し、将来いよいよ心を尽して助けよ、との言葉を与えられた。一同感泣して御前を退いた、とは元田の追想である。

 彼らが心配していたのは、維新の鴻業がこのままでは建武の中興の轍を踏んでしまうというところにあった。なぜなら、大久保を暗殺した犯人の斬奸状にあったように、今の政府の現状は、上は天皇の御意に出るにあらず、下は人民の公論に出るにあらずで、二三の大臣が政事を専らにしている状況にあり、これでは、足利尊氏ら有力武家の離反で挫折した建武の中興を想起せざるを得なかったからである。
 皇政復古討幕運動は建武の中興の反省に立って行われたことを思えば、こういった心配がなされるのはむしろ健全なことであっただろう。すでにこの数年、士族の叛乱が相次いで起きた事は彼らの危機感をより一層深刻なものにしていたのである。 

 実は暗殺の直前、大久保利通は、自宅を訪れた福島県令・山吉盛典に今後の抱負を述べていた。
 その趣旨は、明治三十年までを十年ごと三期に分け、最初の十年を創業の時となし、十一年、すなわちこの大久保が語っている時から二十年までを、内治を整え、民産を殖するための十年となし、続く二十一年から三十年までを、後進賢者による継承修飾の守成の時となす。自分はこの第二期の内務に尽力するつもりである、というものであった。
 これは彼の政事的遺言といってよい。

 彼の抱負は良いとして、やはりここにも外交に対する配慮は見られない。
 大した分別もなく、この国の外交に対する輿論の一つ、それも公論として有力な、いわゆる征韓論を葬り去った。征韓論といえば誤解を受けるが、要は、より大きく、ロシアの南下を意識した東アジア政策の一部として位置づけられるべき外交政策であった。
 大久保は内治の観点から、これを力ずくで押さえ込んだわけだが、国力を無駄に消耗する一方で、大陸との外交については対症療法的にならざるを得なかった。それもこれも、彼に対外問題における戦略がなかったのが原因であった。

 岩倉具視はかつて大久保を評して、識なし、才なし、ただ確固と動かぬのが長所である、という趣旨のことを述べたことがあったが、やはりそういった長所は短所にもなりうるわけで、識なし、才なしの人物が重要な局面で誤った認識を持って確固と動かぬようであれば、あるいは、突き進むようなことがあれば、かえって困ったことになるわけで、彼のそういった面が、明治六年の政変から明治十年までの混乱に大きな作用を及ぼした面もあったように思える。
 
 西南戦争中に病没した炯眼な木戸孝允は、その死の直前には、問題の本質に気づいていたらしく、大久保に内務卿を辞任してもらい、朝廷の偏重を熟視し、西南戦争勃発という国家の艱難に道理を以て臨んでもらいたいとの希望を懐いていた。なぜなら、彼は大久保の人物は信頼し、敬服してもいたが、内務卿としては、専ら才子の説ばかりを用いて、行政に得意の色が見える、と観察していたからである。
 才子とはおそらく大隈重信や伊藤博文といった人物に代表される、後に大久保の後継者として明治政府を背負って立つ人材のことであろうが、内務卿としての大久保が得意になってこれら才子を重用することが権力の偏重を生んでいたとも読めるわけである。これは征韓派、民権派の有司専制との批判にも通ずる見方だ。
 この認識は侍補元田等の建言にも一脈つながっていて、人物の確かな大久保の宮内卿への転任による、内務省との切り離しという側面もあったように思えるのだ。

 結局、元田等が、三条・岩倉に継いで維新の鴻業を補翼すべき者とした、西郷・木戸・大久保三人のうちの唯一の生き残りとして、明治天皇の君徳培養に尽力してもらいたいと依頼したその大久保もまた斃れてしまった。
 そこで彼らは遂に、天皇御自身に親政の御覚悟を求めたわけだが、若き天皇もまたこれを嘉納された。
 ここで政府の中心をなしつつある才子との衝突は必至となったといえるだろう。

 元田等は両大臣・参議に、閣議における天皇の常時親臨、および侍補の臨席を説いた。
 これに対し、岩倉は不平の気色を面に現し、伊藤は強硬に反対した。反対の理由は、宮中府中の別を立てなければならないことだが、侍補の要求を受け入れれば隣国支那の宦官政治に堕してしまうとまで極論に及んだ。

 また天皇親(みず)からも官吏に訓戒するところがあった。
 西洋館を建てるのをやめよ、薩長土からの登用を抑え、各地方官から人材を選抜せよ、と。

 明治十一年秋の東北巡幸を経て、政府の欧化政策に対する天皇の懐疑はさらに深まった。こういった中で、天皇及び侍補と政府の対立は深まっていき、十二年九月、教学の聖旨が内務卿の伊藤に手渡された。起草者は元田である。

 内容は次の通り。


教学聖旨大旨(明治十二年)

 教学ノ要、仁義忠孝ヲ明カニシテ、智識才藝ヲ究メ、以テ人道ヲ盡スハ我祖訓國典ノ大旨、上下一般ノ教トスル所ナリ。然ルニ輓近、専ラ智識才藝ノミヲ尚トヒ、文明開化ノ末ニ馳セ、品行ヲ破り、風俗ヲ傷フ者少ナカラス。然ル所以ノ者ハ、維新ノ始、首トシテ陋習ヲ破り知識ヲ世界ニ廣ムルノ卓見ヲ以テ、一時西洋ノ所長ヲ取り、日新ノ效ヲ奏スト難トモ、其流弊、仁義忠孝ヲ後ニシ、徒ニ洋風是競フニ於テハ將來ノ恐ルル所、終ニ君臣父子ノ大義ヲ知ラサルニ至ランモ測ル可カラス。是、我邦、教学ノ本意ニ非サル也。故ニ自今、以往祖宗ノ訓典ニ基ヅキ、専ラ仁義忠孝ヲ明カニシ、道徳ノ学ハ孔子ヲ主トシテ、人々誠實品行ヲ尚トヒ、然ル上、各科ノ学ハ其才器ニ隨テ益々畏長シ、道徳才藝本末全備シテ、大中至正ノ赦学、天下ニ布満セシメハ、我邦獨立ノ精紳ニ於テ宇内ニ恥ルコト無カル可シ。



小学條目二件 

 一 仁義忠孝ノ心ハ人皆之有り。然トモ其幼少ノ始ニ其脳髄ニ感覚セシメテ培養スルニ非レハ、他ノ物事已ニ耳ニ入り、先入主トナル時ハ、後、奈何トモ爲ス可カラス。故ニ、當世小学校ニ給圖ノ設ケアルニ準シ、古今ノ忠臣義士・孝子節婦ノ畫像・寫眞ヲ掲ケ、幼年生人校ノ始ニ先ツ此畫像ヲ示シ、其行事ノ概略ヲ説諭シ、忠孝ノ大義ヲ第一ニ脳髄ニ感覚セシメンコトヲ要ス。然ル後ニ、諸物ノ名状ヲ知ラシムレハ、後來思孝ノ性ニ養成シ、博物ノ挙ニ於テ本末ヲ誤ルコト無カルヘシ。

 一 去秋各縣ノ季校ヲ巡覧シ、親シク生徒ノ藝業ヲ験スルニ、或ハ農商ノ子弟ニシテ、其説ク所、多クハ高尚ノ空論ノミ。甚キニ至テハ善ク洋語ヲ言フト雖トモ、之ヲ邦語ニ譯スルコト能ハス。此輩、他日業卒り、家ニ帰ルトモ、再タヒ本業ニ就キ難ク、又、高尚ノ空論ニテハ官ト爲ルモ無用ナル可シ。加之、其博聞ニ誇り、長上ヲ侮リ、縣官ノ妨害トナルモノ少ナカラサルヘシ。是皆、教学ノ其道ヲ得サルノ弊害ナリ。故ニ農商ニハ農商ノ学科ヲ設ケ、高尚ニ馳セス、實地ニ基ツキ、他日学成ル時ハ、其本業ニ帰リテ、益々其業ヲ盛大ニスルノ教則アランコトヲ欲ス。


(以上、文部科学省ホームページより転載、句読点を付した。)


 これは西郷南洲翁遺訓の精神と同じものであり、征韓論争から西南戦争における文明史的意義を引き継いだものといえよう。

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