再び、「和」の伝統  … 島津斉彬

 「えんだんじ」氏によると、育鵬社歴史教科書盗作問題に関して、「新しい歴史教科書をつくる会」総会で、会員の意見は、盗作を公表して問題解決を図る意見と穏便に済ます意見に分かれたが、前者の意見が多数を占めた。そこで会首脳部は、前者の意見を採り、まず双方の教科書執筆者同士の話し合いを行って解決を図り、それでも解決しなければ、法廷闘争も厭わない、という方針に一決したという。

 これは自らの行為の正当性を信じていなければ取れない方針であり、日本の善き伝統の立場からも支持したいと思う。
 正気は「つくる会」の側にあると見た。
 もし保守の政治的妥協の態度が中国共産党の工作に付け入る隙を与えて、それが育鵬社の教科書に及んでいるとするなら、こういった瘴気を祓うには、日本固有の天地正大の気の発現を見なければならない。そう思う。


 聖徳太子の「十七条憲法」「和」の精神は、公の精神を土台にした、道理に基づく「和」であるが、これが地下水脈となって受け継がれ、幕末の皇政復古運動に発現した。
 皇政復古運動の中心は言うまでもなく薩長にあったが、幕府との武力的な対峙を引き受けたのが主に長州藩であり、政治的な対峙を引き受けたのが主に薩摩藩であった。その薩摩藩の政治運動に「十七条憲法」の精神が発現しているのである。
 維新史をこういった視点から読み解く歴史家があまり見られないのは本当に不思議だ。


 薩摩藩の皇政復古討幕運動の起源となったのが、英主・島津斉彬の存在であった。彼の政治信条がまさに、人心の一致一和なのである。

 安政五年、井伊直弼が大老に就任して暴政を始めたとき、鹿児島にあって報告を受けた斉彬は家臣に次のように述べたという。


「此の如きの形勢に成立ちたる上は、天下の乱必ず近きにあるべし。内は人心紛乱し、外は外夷の難題に迫り、危急存亡の秋なり。
 古人の言の如く、人心の一致一和は政事の要目なり。此言は幼年の時講訳を聞いてより今に折角考ふる言なり。和漢古今、人気不和なれば其国亡びざるはなし。秦の長城の堅きも遂に無用となれり。孟子に、地の利は人の和に若かずと言えり。日本も此の様人気不和を生じたる上は、如何ともすること能はず。一時乱世とならざれば、此ままに治法はあるべからず。就ては、此方には其見込みを以て、万事の取計ひすべきの時になりたり…」(『斉彬公言行録』巻之五)



 現に、斉彬は、当時の公式文書といっていい、幕府への建白書(五月二十八日付)にも次のように書いている。


「国の大事、祀と戍(祭祀と防備)とに在りと、古伝にも相見え候通り、実に億兆民命の寄る所にて、皇国の御浮沈に相拘り候大機会と存じ奉り候間、よくよく御思慮在らせられ、天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かず、また、王公険を設くるを以てその国を守る、険の時用大なるかな等の古言、御省察尤もの御時節にて、第一人和、継て御手当、精実に残す所なく、御行届きこれなくては、皇国の御守護、御奉職整いなされ難き時態に御座候。」


 このように、当時の権威であった四書のひとつ、『孟子』の有名な一節を引用して、自己の見解を展開している。
 では、彼が一体何を以て人心の一致一和を成すべきと考えていたかといえば、彼の死の直前の建言書や書簡を読めば明らかなのだが、それが道理なのである。

 彼の六月九日付越前福井藩主・松平春嶽宛ての書簡に次のくだりがある。

「天下治乱の界、天運に任せ候外これなくと存じ奉り候。小子考えは仮令(次期将軍が一橋慶喜ではなく)紀(州)に相成り候ても、天下の御処置道理に適い候様、それのみ祈り申し候。」


 すなわち天下の政事が道理に適う事によって、人心の一致一和を成そうと考えていたのだ。しかも、それは皇室を中心とする、道理による一致一和である。
彼は安政五年正月の幕府への建言十六ヶ条の第一条に「朝廷の尊崇」を掲げたが、それについて『島津斉彬言行録』中に斉彬の言葉として次の記述がある。

「御政事、重立ちたる箇条は、天裁を仰がれ、将軍家へ御委任の箇条を定められたく、しからざれば大義名分を弁じたる世となりたる故、人心の折り合いつくまじ…」


 聖徳太子の理想は、実践的性質を帯びて、ここに受け継がれている。

 第三条で「承詔必謹」の原則を言った太子は、まとめと言っていい第十七条で次のように言っている。

「それ事は独り断(さだ)むべからず。必ず衆とともによろしく論うべし。少事はこれ軽し。必ずしも衆とすべからず。ただ大事を論うに逮(およ)びては、もしは失あらんことを疑う。故に、衆とともに相弁うるときは、辞(ことば)すなわち理(ことわり)を得ん。」

 太子の理想はそのままといっていいほど、斉彬に受け継がれている。
斉彬は皇国の大事は、天裁を経た公議に則って行われるべき、と主張したのだ。 

 それにもかかわらず、大老・井伊直弼は幕威再興のため、強硬姿勢で天下の事に当たろうとした。天下の紛乱必至であると見た斉彬は、上方の情勢次第では、三千の兵を率いて上京し、御所の警護に当たろうとした。これはいざとなれば幕府と対決する覚悟を必要としている。
 それもこれも皇室を中心とする人心の一致一和が主意である。
 このように政事的に人心の一致一和を成すには、道理を守って、戦う姿勢がなければならないのだ。

 この政事的態度が彼の後継者達に受け継がれていくが、それをよく体現したのが、西郷南洲翁であり、島津久光であり、勝海舟であった。

 幸い現代は、これら先人の努力もあって、幕政時代とは異なり、一応は、議論を、正論を、堂々戦わせることが出来る社会となっているはずである。憲法にも一応そのことは謳われている。大手マスコミが、アメリカや中国に屈するばかりでなく、こういった日本人の立場に立った言論活動の芽を姑息な手を使って潰そうとしている以上、戦う気概はどうしても必要であろう。
 戦いを決議、すなわち一致一和した「つくる会」は自己の主張を道理と確信しているはずだ。「つくる会」の側に日本の善き伝統を見るのは決して見当違いではあるまい。

 育鵬社側はこれに対しどのような対応をするだろうか。
 それによって真贋は明らかになるだろう。

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