さくら (その四)

 木花咲耶姫(このはなさくやひめ)と言えば、日本を象徴する霊峰・富士の化身として知られる。
 葛飾北斎も「富嶽百景」の冒頭にこの神を画題として取り上げている。

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「コノハナサクヤビメ」ウィキ解説;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%8E%E3%83%8F%E3%83%8A%E3%83%8E%E3%82%B5%E3%82%AF%E3%83%A4%E3%83%93%E3%83%A1

 「室の八島」とも言われる大神神社(現栃木県。境内の池の中に八つの島があって、それぞれに神を祭った社が置かれ、そのうちの一つ浅間神社には木花咲耶姫が祭られている)を訪れた松尾芭蕉は『奥の細道』に次のように記している。


 室の八嶋に詣す。同行曽良が曰、「此神は木の花さくや姫の神と申て富士一躰也。無戸室に入て焼給ふちかひのみ中に、火々出見(ほほでみ)のみこと生れ給ひしより室の八嶋と申。又煙を読習し侍もこの謂也」。将、このしろといふ魚を禁ず。縁記の旨世に伝ふ事も侍し。


 このように木花咲耶姫は富士山と結び付けられて親しまれてきたが、そもそも古神話に現れる八百万の神々の内の一柱で、富士山とは何の関係もない。
 『古事記』には次のように記されている。


 ここに天津日高日子番能邇邇藝能命(あまつひこひこほのににぎのみこと)、笠沙御前(かささのみさき)に、麗しき美人に遇ひたまひき。ここに「誰が女ぞ」と問ひたまへば、答へ白ししく、「大山津見神の女、名は神阿多都比賣、亦の名は木花の佐久夜毘賣と謂ふ」とまをしき。また「汝の兄弟ありや」と問ひたまへば、「我が姉、石長比賣あり」と答へ白しき。ここにの詔りたまひしく、「吾汝に目合せむと欲ふは奈何に」とのりたまへば、「僕は得白さじ。僕が父大山津見神ぞ白さむ」と答へ白しき。故、その父大山津見神に、乞いに遣はしたまひし時、大く歡びて、その姉石長比賣を副え、百取の机代の物を持たしめて、奉り出しき。故、ここにその姉は甚凶醜きによりて、見畏みて返し送りて、ただその弟木花の佐久夜毘賣を留めて、一宿婚したまひき。ここに大山津見神、石長比賣を返したまひしによりて、大く恥じて、白し送りて言ひしく、「我が女二たり並べて立奉りし由は、石長比賣を使はさば、天津神の御子の命は、雪零り風吹くとも、常に石の如くに、常はに堅はに動かずまさむ。また木花の佐久夜毘賣を使はさば、木花の栄ゆるが如く栄えまさむと誓ひて貢進りき。かくて石長比賣を返さしめて、ひとり木花の佐久夜毘賣を留めたまひき。故、天神の御子の御壽は、木の花のあまひのみまさむ」といひき。故、ここをもちて今に至るまで、天皇命等の御命長くまさざるなり。

(『古事記』 岩波文庫 倉野憲司校注)


「笠沙御前」とは現鹿児島県の笠沙町にあり、木花咲耶姫は要するに日向神話の神々の内の一柱である。天孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)とこの姫の間に生まれた神の内の一柱、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)の孫が神武天皇である。

 明治維新は神武天皇の創業の精神に則ることが謳われたが、それを主導したのが薩摩藩であったのは偶然ではない。
 精忠組を中心とする薩摩藩士の勤皇の精神の土壌となったのが、この地で展開された、いわゆる日向神話であったのだ。
 彼らは薩摩国学によって、霧島連峰・高千穂峯こそが天孫降臨の地であると確信していた。だからこそ、慶応二年、薩長盟約の仲人役として重要な役割を果した坂本龍馬を傷の療養を兼ねて鹿児島に招待した際、吉井幸輔は霧島に案内し、龍馬はおりょうの手を引きながら高千穂峯に登ったのだ。

 龍馬も訪れた、霧島連峰山腹にある霧島神社は、歴代島津藩主の尊崇篤く、天孫・瓊瓊杵尊を主神とし、その父・彦火火出見尊、 その母・木花咲耶姫尊 も祭られている。

「霧島神宮御由緒」…http://www.kirishimajingu.or.jp/contents/goyuisho.html
「霧島神宮」ウィキ解説;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%A7%E5%B3%B6%E7%A5%9E%E5%AE%AE

 明治維新によって、神社は官幣大社となり、神宮となった。
 参道には、維新後、政府の高官となった、西郷南洲翁の弟・従道や精忠組の同志・税所篤らの献灯が並んでいる。

 
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(写真ではわかりにくいが、正二位侯爵西郷従道と彫られている。)
 


 木花之佐久夜毘賣(コノハナノサクヤビメ)。
 本居宣長は『古事記伝』の中で、厳密な古言の考証の上で、この名の由来を次のように説いている。


 名の意、木花(このはな)は、字の意の如し、佐久夜(さくや)は、開光映(サキハヤ)の伎波(キハ)を切(ツヅ)めて加(カ)なるを、通はして久(く)と云なり


 そして、木花が梅を指すとの説を一蹴して、それは特定の花を指す名ではないが、主に古人はさくらを念頭に置いてきた、としている。


かくて萬ツの木花の中に、櫻ぞ勝(スグ)れて美(メデタ)き故に、殊に開光映(サキハヤ)てふ名を負て、佐久良(サクラ)とは云り、夜(ヤ)と良(ラ)とは、横通音(ヨコニカヨフコエ)なり。…(中略)…されば此の御名も、何の花とはなく、ただ木の花の咲光映(サキハヤ)ながら、即ち主(ムネ)と櫻の花に因りて、然云なるべし。やや後には、木花と云て、即ち櫻にせるもあり、古今集の序の哥に、「難波津に咲くや木の花」とある、是なり。…


 「さく」と「さくら」という大和言葉に何らかの関連性があることは誰でも直感的にわかるだろうが、宣長の見解は常識に適っていて納得がいく。
 文字の渡来以前より、日本人にとってさくらは特別な木花であったことが、この名の由来を尋ねることから明らかになる。
 万物流転の中で、さくらをこよなく愛す日本人の心性は変わらない。
 変わったように見えて、その実、日本文化はその固有性を保ち続けているのだ。

 国體を守るために戦われた大東亜戦争の敗戦によって、マルキズムとアメリカニズムの猛威にさらされた日本において、伝統は危機に瀕したが、その本家であったソ連がすでに崩壊し、アメリカが衰退しつつある今日、これらの移入文化の国風化は常に、我々の目の前で、自覚されぬままに行われている。
 J・POPにおけるさくらをテーマにした楽曲の盛行などもその一つの現れと見ることが出来よう。アメリカから来たヒップホップと伝統的な感性を融合して、佳曲を創り出したケツメイシの「さくら」を、その一例として取り上げたのはそれが伝えたかったからである。


 俳聖・松尾芭蕉は奥の細道の旅の中から不易と流行というものを感得した。

 蕉門十哲の一人・向井去来の『去来抄』では、師の教えが次のように解説されている。


「去来曰く、蕉門に千歳不易の句、一時流行の句と云ふ有り。是を二つに分けて教へ給へる。その元は一つ也。不易を知らざれば基立ちがたく、流行を知らざれば風新たならず。不易は古へによろしく後に叶ふ句なる故、千歳不易といふ。流行は一時一時の変にして、昨日の風、今日よろしからず。今日の風、明日に用ひがたき故、一時流行とはいふ。はやることをする也。」


 時代を超える名歌、名曲、名文とは不易と流行の間にある「まこと」である。そうでなければ、時代を超えて、多くの人の心を永く揺り動し続けることは出来ない。
 なぜなら、言葉とは本来、「ま・こと」の一面、一端として表現された「こと(事)のは(端、葉)」に他ならないからである。古人の大らかな心にとって事(こと)と言(こと)は一体不可分であったのだ。その乖離には人の賢しらが作用しているが、それによって、伝統文化に深く根ざした、一般庶民の素直な感性まで蔽い尽くすことは出来ない。 

 これもまた理屈ではなく、現代であっても、我々の目の前で、自覚されぬままに起きている出来事である。ただ、それを自覚的に説明しようとすると理屈が必要になってくる、というだけのことだ。

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この記事へのコメント

八島 守
2012年08月18日 22:45
富士山の神を木花咲耶姫とする史料の初見は、[集雲和尚遺稿]にある1614年に書かれた文です。

「室町時代物語」の中に「浅間御本地御由来記」がありますが、現存するものは浅間大菩薩の本地「大日如来か千手観音のはずです」に関する部分が削除されて、本地の登場しない「浅間御本地御由来記」です。代わりに「北の御方は、浅間大菩薩とあらわれ給ふ、これ此花さくや姫の、御ゑんきとかや」の一文が追加されています。

八島 守
2012年08月18日 23:27
「浅間大菩薩」は本地垂迹思想に基づく神名ですが、「木花咲耶姫」は記紀神話の神の名です。これから木花咲耶姫を富士山の神にしたのは誰か、その組織名がわかります。
哲舟
2012年08月19日 15:16
八島さん、はじめまして。

富士山と木花咲耶姫が結び付けられたのは、意外と新しいのですね。もう少し古いかと思っていました。

ご教示有難うございました。
八島 守
2013年12月28日 08:27
「さくや姫」に替えられる前の中世の富士山の女神は「かくや姫」でした。「かくや姫」のモデルは竹取物語の「かぐや姫」です。「かくや姫」は月に帰らずに、富士山に登って富士山の女神になりました。
[神道集](1350年頃)の「富士浅間大菩薩の事」にあります。

富士山の静岡県側の麓の町に竹取り物語の舞台となったという竹林があります。
八島 守
2013年12月28日 08:56
記紀神話では、木花咲耶姫の「無戸室の故事」の舞台は九州ですが、江戸時代の浅間神社の縁起譚では、その舞台は下野国の室の八島(現栃木市内)であるとなっていました。

木花咲耶姫は室の八島の長者の娘として生まれました。
江戸時代には記紀神話なんてあまり知られていませんでしたから、こっちの話の方がひろく信じられていました。


八島 守
2013年12月28日 09:23
松尾芭蕉は[奥の細道]の旅で、最初に室の八島にある木花咲耶姫の神社を訪れています。
哲舟
2013年12月28日 17:26
八島さん、お久しぶりです。

「竹取物語」といえば、当時朝廷で専横を極めていた藤原氏を風刺する内容というのは知っていましたが、月に帰らず、富士山の女神になっていたとは!
 
 そして、その「かくや姫」が、いつの頃からか、「さくや姫」に転じて、室の八島と結び付けられた。

 様々な伝承が各地方に飛散し、その土地がらと結びついて、新たな伝承を生み、信仰となっていく。そしてそれが生長して、それがまた実を結び、種を飛散して…。

おそらく、文字記録の存在しなかった時代は、その縁起の定かでない伝承が繁生し、混雑を極めたため、記紀や風土記のような形でまとまられ、文字として残されたのでしょうね。
そして、それがまた忘れられ、種子は飛散し、各地で新たな伝承を生んでいく。神道の生命力というのはそういったところにあらわれているようにも思えます。 
面白いです。

今、徳川綱吉の時代に興味をもっていて、松尾芭蕉についてももう少し調べてみようと思います。
 
貴重なお話有難うございました。

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