さくら (その参)

 咲きこぼれ、風に舞い散りはじめたさくらが綺麗である。
 その中にいると、谷崎潤一郎の『細雪』の有名な場面を思い出す。


 幸子は昔、貞之助と新婚旅行に行った時に、箱根の旅館で食い物の好き嫌いの話が出、君は魚では何が一番好きかと聞かれたので、「鯛やわ」と答えて貞之助におかしがられたことがあった。貞之助が笑ったのは、鯛とはあまり月並過ぎるからであったが、しかし彼女の説によると、形から云っても、味から云っても、鯛こそは最も日本的なる魚であり、鯛を好かない日本人は日本人らしくないのであった。彼女のそういう心の中には、自分の生まれた上方こそは、日本で鯛の最も美味な地方、――従って、日本の中で最も日本的な地方であるという誇りが潜んでいるのであったが、同様に彼女は、花では何が一番好きかと問われれば、躊躇なく桜と答えるのであった。

 古今集の昔から、何百種何千種となくある桜の花に関する歌――古人の多くが花の開くのを待ちこがれ、花の散るのを愛惜して、繰り返し繰り返し一つことを詠んでいる数々の歌、――少女の時分にはそれらの歌を、何という月並なと思いながら無感動に読み過して来た彼女であるが、年を取るにつれて、昔の人の花を待ち、花を惜しむ心が、決してただの言葉の上の「風流がり」ではないことが、わが身に沁みて分かるようになった。そして、毎年春が来ると、夫や娘や妹たちを誘って京都へ花を見に行くことを、ここ数年来缺かしたことがなかったので、いつからともなくそれが一つの行事のようになっていた。この行事には、貞之助と悦子とは仕事や学校の方の都合で缺席したことがあるけれども、幸子、雪子、妙子の三姉妹の顔が揃わなかったことは一度もなく、幸子としては、散る花を惜しむとともに、妹たちの娘時代を惜しむ心も加わっていたので、来る年ごとに、口にこそ出さね、少なくとも雪子と一緒に花を見るのは、今年が最後ではあるまいかと思い思いした。その心持は雪子も妙子も同様に感じているらしくて、大方の花に対しては幸子ほどに関心を持たない二人だけれども、いつも内々この行事を楽しみにし、もう早くから、――あの水取りの済む頃から、花の咲くのを待ち設け、その時に着て行く羽織や帯や長襦袢の末にまで、それとなく心づもりをしている様子が餘所目にも看て取れるのであった。

 さて、いよいよその季節が来て、何日頃が見頃であるという便りがあっても、貞之助と悦子のために土曜日曜を選ばなければならないので、花の盛りに巧く行き合わせるかどうかと、雨風につけて彼女たちは昔の人がしたような「月並な」心配をした。花は蘆屋の家の附近にもあるし、阪急電車の窓からでもいくらも眺められるので、京都に限ったことはないのだけれども、鯛でも明石鯛でなければ旨がらない幸子は、花も京都の花でなければ見たような気がしないのであった。

…(中略)…

 あの、神門をはいって大極殿を正面に見、西の廻廊から神苑に第一歩を蹈み入れた所にある数株の紅枝垂、―海外にまでその美を謳われているという名木の桜が、今年はどんな風であろうか、もうおそくはないであろうかと気を揉みながら、毎年廻廊の門をくぐるまではあやしく胸をときめかすのであるが、今年も同じような思いで門をくぐった彼女たちは、たちまち夕空にひろがっている紅の雲を仰ぎ見ると、皆が一様に、
「あー」
と、感歎の声を放った。



 平安神宮まで花見に行かなくとも、阪急芦屋川駅附近のさくらでも、また、その辺の路傍に植えられた一本のさくらであっても、十分、その樹が作り出す淡い色の霞や雲に、「ああ」との感嘆の声を漏らすことはできる。
 『細雪』の舞台となった同じ芦屋に住んでいるとは言え、上流階級ではない、たまたまそこに住んでいるだけの自分には、鯛にせよ、桜にせよ、ブランドには関係なく、その美しさに感嘆することは出来るようである。
 上の名文で描かれた幸子の心持も少しわかるようになってきた。

 ちなみに、谷崎潤一郎は関東大震災のあとに京都、次いで神戸市東灘区岡本に転居。住吉川沿いに旧居「倚松庵」(昭和十一年十一月から一八年十一月まで居住)が保存されている。『細雪』は芦屋の上流家庭の四姉妹を主人公に、その日常を描いたもの。幸子は妻松子がモデル。松子は四姉妹の二番め。
 一九四二年、戦中に執筆され、軍部によって連載を禁止されたが、その後も断続的に執筆は継続された。谷崎は『細雪』を書くことで、当時の日本にあった伝統美を残そうとしたのだとも言われている。一九四八年出版。芦屋には「谷崎潤一郎記念館」がある。 

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