西南戦争における薩軍の大義 「西郷南洲翁の正気 (その四)」

史料④

 私学校が上京の準備に取り掛かっているらしいことを密偵からの情報で知った大久保利通は、これを政府に対する挙兵の準備と受け取ってしまったのです。大久保は早くから私学校を眼の敵にしていました。
 大久保は私学校暴発を前提に準備を進めます。
 その結果、私学校徒による武器弾薬庫略奪事件や私学校幹部に対する刺客派遣の疑惑発覚などの悪い事件が重なり、大陸政策提議のための陸軍大将による薩摩義勇軍の上京という名分が、刺客問題に対する尋問という名分にすりかわってしまったのです。
 これは政府の不正に対する尋問の行動であって、即挙兵というわけではありませんでした。これが挙兵になったのは、陸軍大将名義で薩軍上京の目的を通知してあったにもかかわらず、県境を越えた時点で、熊本鎮台兵が攻撃を加えたからです。それが薩軍の側から見た応戦-開戦の理由でした。ここで薩軍の行動の大義が明確になるのです(-④)。



 薩軍出発の直前に南洲翁に面会した鹿児島県令・大山綱良は、この時、薩軍上京の理由を翁自身は次のように語ったと、後の政府の尋問に答えている。


「西郷より自分(大山綱良)に語って曰く、
『先年拙者とも東京を引き取る時、既に兵隊のもの、大難を起こし、戦にも及ばんとするの勢いに付き、右の人数を連れて、直に御暇を願い、帰県し、その以来今日まで、人数を纏め居りし拙者の旨意は、何れ近年の内には外患起るべく、然るに日本今日の形勢にては、とてもその防禦を為すこと能わずと見込に付き、その節に当っては、右兵隊のものを以て、国難に報ずる素志なれども、最早今日の場合に至りては、事情切迫するに付き、已むを得ず、右兵隊のものを引率し、上京の上、大久保へ対決し、自分の見込み政府において曲なりと見認めらるれば、甘んじて罪を受くべく、何分大久保へ面会の上ならでは、その曲直も分かり難く、且つ大久保においては、何の謂れを以て、隆盛は事を起こすならんと見込みたるや、その辺も詰問すべく、一体大久保は足下承知の通り、幼年より一家親子同様の交を為したるもの故、拙者において疑いあれば、上京を申し越すか、また自ら帰県してその事情を談ずるか、また委しき書面にて差し越すべき筈なり。』」



 下線部のような素志を懐いて、鎮まっているところに、ロシアとトルコ開戦の報を得れば何らかの行動を起こすはずだろう。前回紹介した谷口登太の証言はそれを窺う上で大変貴重な史料だ。大山の口供にある南洲翁の発言には、卒兵上京の準備に取り掛かっていた事は触れられていないが、この時点で、政府に対して挙兵の意図を全く持っていなかったことがわかるだろう。あくまでも尋問のための上京であったことは、その他の史料が証拠立てている。
 もちろん私学校幹部の多くが、戦争になるものと見込んでいた。だから、捕らえた工作員達を、出陣に際して、全軍の目の前で血祭りに挙げよう、との議論が起ったが、翁は「不日東京に着せば、政府に対して証拠となる故、切るべからず、県庁に托すれば可なり」と言って、これを押し留めたのである。これは私学校幹部の一人、河野主一郎の回想談にある。
 さらに翁は、もし鎮台兵が上京を遮るようなことがあれば、「打ちて通るべし」との指示を与えている。
 ここでようやく開戦である。

 事実、熊本県庁は薩軍の通過を遮ると共に、熊本鎮台は二月二十一日、越境した薩軍を奇襲し、薩軍はこれに応じた。
 そこで、南洲翁は次のような文章を、政府にではなく、征討軍総督にして皇族の有栖川宮熾仁親王に送るよう、県令・大山綱良に依頼している。これが二月二十八日頃の話である。
 薩軍側の主張をよく読んでいただきたい。


「今般陸軍大将西郷隆盛外二名上京の次第は、兼ねて御届け申し上げ置き候通りにて、既に去る十五日当地発程致し、尤も通行に付いては、先に各府県各鎮台へ通知致し置き候処、熊本県においては未前に庁下を焼き払い、剰(あまつさえ)通り筋川尻まで押し出し、砲撃に及び候旨、追々報知これあり、実に意外の次第に立ち至り候。
 然る処彼の地へも去る九日(十九日の誤り)当県征討の命仰せ出され候やに相聞こえ、何とも恐れ入り奉り候。然しながら西郷隆盛儀は先般辞表差上げ以来(征韓論政変後の帰郷を言う)、県下厳粛に謹慎致し、且つ数万の士族輩自費を以て学校を開き、忠孝を重んじ、諸生を教導し、第一方向を誤らざる様、勉めて説諭し、既に佐賀の暴動、引き続き熊本・山口同断の節、県内安静、終に一毛を損なわざるは、全国に明瞭なる事に候処、何等の御嫌疑これあり、容易ならざる国憲を犯し、暗殺の内諭を下し候義、実以て人民一同疑惑罷り在り候。もっとも随行の者共、銃器帯刀を以て途中保護の儀は、暗殺を命ぜられ候程の者、異儀なく上京相遂げざるは勿論の事にて、止むを得ず、下官(大山を指す)においても聞き届け置き候。
 就いてはいよいよ当県征討仰せ出されるの上は、県官且つ土民に至るまで、御征討の御旨趣に在らせられ候や。それに無名の恥を蒙らせ候ては、鹿児島県人民といえども、皆王民にして政府の命令を奉ぜぬ者一人もこれなく候えども、何分士族挙って動揺に立至り候間、至急御勅諭成し下され、最も西郷大将の趣意も貫徹致し候様、御処分下されたく、この段愚誠を以て願い奉り候なり。」



 確かに、ここにいたった経緯を慎重に見ていくと、国憲をことごとく破ってきたのは、それを制定する側の政府であった。
 まず、明治六年の征韓論に関する正院における討議において、いわゆる非征韓派は、その内治優先論を完膚なまでに論破され、最終段階では、公正な決議を求めて、中心人物である翁自身が欠席して諸参議に採決を委ねたにもかかわらず、いわゆる征韓派の勝利に終わった。翁の大使派遣論が通ったのだ。大久保は辞表を提出し、岩倉は病と称して引きこもってしまった。
 しかし、いざ上奏の段に至って、太政大臣である三条実美が病に倒れたため、大久保の秘策によって、岩倉が代理として奏上を行うことになった。ここで、岩倉は、三条の代理として、閣議の結果をそのまま奏上すべきところ、自分の意見が反対だから、両方の意見を奏上して聖断を求める、と言って、頑として譲らなかった。いわゆる征韓派の参議は、この岩倉の不公正な態度に抗議して辞職を申し出た。
 しかし、実はもっとあくどいことが行われたのであって、岩倉は、大久保の入れ知恵によって、自分らに有利なように、西郷以外は最終的に全員岩倉らの説に賛同したかのように、閣議の模様について偽りの奏上を行っていたのである。驚くべき不敬・不忠にして、不正である。
 もちろん、このことは大久保と岩倉ぐらいしか知らない。

 その後、薩摩に帰省した南洲翁の子弟らは、翁が先の文章で主張しているように、自らを戒めて国憲を犯すことはなかった。
 一方、大久保らが、自説を反故にして、内乱を誘発したのみならず(佐賀の乱、萩の乱)、外征(台湾征伐、江華島事件)を実施し、国憲を破った。
 武器弾薬庫襲撃事件にしても、最初に国憲を破ったのは、鹿児島県庁との間で、運び出しの取り決めがあったにもかかわらず、それを破って、闇にまぎれてこっそりと運び出した政府の側である。
 襲撃がそれで正当化されるわけではないにしても、私学校側を心理的に追い詰めていったのは、私学校に猜疑の目を向け続けた政府の側であったことは間違いない。
 さらに襲撃事件とほぼ同時に、私学校幹部暗殺疑惑が浮上した。私学校徒の激昂は頂点に達し、事態は切迫したわけだが、南洲翁はあくまでも上京・尋問という筋のある態度を崩さなかった。

 ならば単身での上京こそ筋であろうと言う人がいるかもしれないが、暗殺を企てるほどの政府ならば、護衛が必要となってくるのは当然である。政府が自ら制定した法を破り、国民としての義務を果そうとする忠良なる国民を抹殺しようとするなら、国民はどうやってその不正、暴威から身を守ればいいというのか。自らの力でこれを守るしかないではないか。
 もちろん、そういった状態がいいというのではない。むしろ、だからこそ、政府は自ら制定した法を、厳粛に守らないければならない、と言いたいのである。
 大久保や岩倉には、この遵法精神が欠けていた。主張が通らぬたびに、思い通りにならぬたびに、法を犯した。これは政府の私物化である。

 それでも、一私人が万以上の、武器を携えた兵隊を引き連れて、天下の公道をのし歩くなど不届き千万である、という人もいるかもしれない。
 しかし、そういった人に抜け落ちているのは、次の事実である。

 征韓論破裂時、辞職した南洲翁に与えられていた陸軍大将の地位をそのままにしたのは、政府、なかんづく大久保自身である。
 彼らが征韓論破裂直後に出させた勅諭が次の通りである。

「西郷従三位病気に付辞表の趣ありて参議・近衛都督等差免じ、尤も大将旧の如く申し付け置けり。元より国家の柱石と依頼致すの意において渝(かわ)ることなし。皆々決して疑念を懐かず、これまでの如く職務を勉励せよ。」

 政府は鹿児島に張り巡らした密偵網により、南洲翁が鹿児島不在で弾薬庫襲撃に関与していないことを把握していた。にもかかわらず、疑念を懐き、これを討つ準備を進め、さらに襲撃したことは、この勅諭に違反している。
 これに対し、南洲翁は陸軍大将の資格で、諸官庁に上京の趣旨を通知した上で、兵を引き連れ、尋問のため上京しようとした。翁が勅諭の内容を知っていたかどうか知らないが、少なくとも勅諭に適った行動だった。
 法理として勅命違反がどちらであるかは明瞭だろう。
 
 翁は、大久保らが制定した国憲に忠実に行動したのであって、その逆ではなかったのだ。それが先の有栖川宮に対する弁明の文章に現れている。

 しかし、政府は更なる攻撃を加え、三月四日には、田原坂の激戦の火蓋が切って落とされた。先頭に立って軍を指揮していた、翁の右腕の一人にして、陸軍少将の篠原国幹が戦死したのもこの日である。
 政府の意図がいよいよ薩軍を殲滅することにあると確信したらしい翁は、激しい怒りを込めて、政府の態度を弾劾する文書を書いている。
 宛先は再び征討将軍宮である。


「今般陸軍大将西郷隆盛等、政府へ尋問の次第これあり出発いたし候処、熊本県は未前に庁下を焼き払い、剰(あまつさ)え川尻駅まで(鎮)台兵押し出し、砲撃に及び候故、終に戦端を開き候場合に立ち至り候。
 然る処、去る九日には征討の厳令を下され候由(実際には二月十九日)。
 畢竟政府においては、隆盛等を暗殺すべき旨官吏の者に命じ、事成らざる内に発露に及び候。この上は人民激怒致すべきは理の当然にこれあるべく、只激怒の形勢を以て征討の名を設けられ候ては、全く征討をなさんため、暗殺を企て、人民を激怒なさしめて罪に陥れ候姦謀にて、ますます政府は罪を重ね候訳にてはこれあるまじくや。恐れながら天子征討を私するものに陥り、千載の遺憾この事と存じ奉り候。殊に万国に対せられ何等の名義相立ち申すべきや。譬え政府において当県の人民は誅鋤(ちゅうじょ)し尽さるとも、必ず天地の罪人たるには疑いなく候えば、先ず政府首謀の罪根を相糺され、その上県下の人民暴激の挙動これあり候わば、如何様共厳罰在らせらるべき御事と存じ奉り候。
 この時に当り閣下(征討将軍有栖川宮)、天子の御親戚に在らせられながら御失徳に立ち至らざる様、御心力を尽くさるべき処、却って征討将軍として御発駕相成り候儀、何共意外千万の仕合いに御座候。就いては天に事(つか)うるの心を以て能く御熟慮在らせられ、御後悔これなき様偏に企望奉り候。よって口供相添え進献仕り候。誠恐頓首。」



 下線部について、『西郷隆盛全集』(大和書房)の解説でさえ「天皇批判の言辞」と読み違えているし、維新史に詳しい勝部真長氏などは、その著『西郷隆盛』で、「後鳥羽上皇を島流しにした北条義時といえども、こんなことは言っていない」「西郷にとって、今や三条・岩倉・大久保などは問題ではない、天子を相手にして物を言っているのである。おそらくわが国歴史上、空前絶後のこれは朝敵・逆賊の出現であった。」とまで大げさに言う。
 しかし、これは誤読以外の何物でもない。 
 これまでの文脈から見て、翁の批判の対象が、三条・岩倉・大久保を中心とする政府であることは明らかだ。現にこの前文では、政府がますます罪を重ねていると述べており、それに続けて、恐れながら天子征討を私するものに陥り、千載の遺憾である、と言っているのである。つまり、これは天子が征討を私物化していると天皇を非難しているのではなく、本来なら公正なものであるべき天子の征討が、政府の私物化するところとなっている、という批判なのである

 かつて参議として閣議に列席していた翁は、この征討令がどのような経緯を経て発せられたのかを熟知している。それは明らかに天皇の聖断という鶴の一声によって為されるのではなく、閣議という、優柔不断な三条を筆頭に、違法行為を為してとんと省みることのない岩倉と、大久保及びこれと同類の参議連らによって決定されている。天皇が維新の元勲らの合議の結果成った決定を自発的に拒否するということはまずありえない。だから天子の征討とはいっても、実質的には政府の意図に基づく征討である。征韓論政変で、現政権の顔ぶれの為すことを嫌というほど見せつけられ、これに見切りをつけた翁がこう考えるのは当然である。

 だからこの文書は、宮さまへの諫言という形を取っている。
 政府はこの有様であるから、これを直接非難したところで仕方ない。しかし、宮様は皇族で在らせられる。政府の失徳に加担して、天子の征討を、御皇室の名を汚されるな。
 これは情理を尽くした忠諫と言っていい。

 この諫言書の原文には、大山綱良宛ての文書が添えられてある。

「福島勇七(大山よりの使者)到着にて長崎表の事件委しく承知致し候(長崎では二月二十日鹿児島県人十数名が捕らえられていた)。然る処長崎県より征討の電信を以て御達しの趣これあり、御承知の段御受書差し出され候趣相見え候に付き、幸いの事に候間、長崎県へ御託し相成り、征討将軍宮様へ別紙御差し出し成し下されたく御願い申し上げ候。この上ながら宮を押し立て来り候わば、打ち居(す)え罷り通り申すべく候に付き、何卒右の御計らい御手数ながら宜しく願い奉り候。この旨早々福島氏帰県致させ候なり。」

 つまり、この諫言を読んだ上で、それでも宮様を押し立てて攻め込んでくるなら、打ち据えて罷り通るまでだ、というのである。凄まじいまでの怒気だが、これが義憤であることは諫言書を読めば明らかだろう。怒気は諫言書の語勢に現れている。

 『丁丑公論』において、南洲翁を弁護した福沢諭吉は、薩軍の挙兵の理由に付いて、次のような批判をしている。

「西郷が、政府に尋問の筋ありとは、暗殺の一条を糺さんとするの趣意か、はなはだ拙なるものというべし。暗殺の真偽もとより分明ならず、たとい実にこの事ありとするも、この一事を糺すを以て兵を挙ぐるの大趣意とするに足らず。兵を挙げて政府に抗するならば、第一薩人たる人民の権利を述べ、したがって今の政府の圧制無状を咎むるのみにして、暗殺のごときは、これをいわずして可なり。もしこれをいわば他の実事を表するの証拠として持ち出すべきのみ。後世に至って明治十年の内乱は暗殺の一条より起りたりといわば、恰も乱の品価の賎しきものにして、世界中に対しても不外聞ならずや。西郷も必ずこれを知らざるには非ざるべしといえども、ただ血気の少年に迫られてついに些末の児戯を喋々するに至りしことならん。これまた制御の不行届きというべし。」

 しかし、南洲翁の征討将軍宮に対する諫言書の次のくだりを、もう一度引用するのでよく読んで欲しい。

「この上は人民激怒致すべきは理の当然にこれあるべく、只激怒の形勢を以て征討の名を設けられ候ては、全く征討をなさんため、暗殺を企て、人民を激怒なさしめて罪に陥れ候姦謀にて、ますます政府は罪を重ね候訳にてはこれあるまじくや。」

 これが薩人たる人民の権利を述べ、今の政府の圧政無状を咎めるものでなくてなんであろう。暗殺はその証左の一つとして述べられているに過ぎないのである。すでに述べたように、尋問は、卒兵上京の名分に過ぎなかった。応戦して初めて、形跡としては挙兵と相成ったわけだが、薩軍の側からすれば正当防衛であったのだ。
 その開戦後の諫言において、南洲翁は薩軍の正義を述べている訳だが、それは、皇族への諫言に止まり、天下へ公表されることはなかったというだけであって、福沢の批判には堪えうるものであった、ということになる。
 この点については、むしろ「唯身ひとつをうち捨てゝ、若殿原に報いなむ」と詠んだ勝海舟の方が、肝胆相照らす仲であるはずの西郷南洲の戦いの意義を見損なっていたことになろう。

 以上長々と解説を加えてきたが、この稿の趣旨は、引用した史料をよく読んでほしいという事に尽きている。西南戦争に対するより深い理解を求める方は、拙著『(新)西郷南洲伝』下巻(高城書房)に書き尽くしているので、そちらのほうをお読みいただければ幸いである。

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