名著誕生の条件 (その壱)

 あらゆる政治制度、政策は手段に過ぎない。
 
「ペリクレスの、民主主義制度を名目に過ぎぬと見るのは造作のない事だ。それよりも、彼の考えを押し進めれば、あらゆる制度は名目に過ぎなくなる筈である。彼は、いろいろな制度を越えたところに、或は制度のあらゆる革新を不断に要求されているところに、そこだけに真の政治の現実的な秩序を見ていた、と言えよう。彼の民主主義の政体のうちに、もし見ようとするなら、貴族主義的制度も社会主義的政策も、共存していた様が見えるだろう。」(『考えるヒント』「プルターク英雄伝」)


 実際にペリクレスがそこまで考えていたのか知らないが、当時の小林秀雄がそこまで踏み込んで考えてみた、というのには興味がある。

 この「プルターク英雄伝」という随筆が「文藝春秋」誌上に掲載されたのが昭和三十五年十一月、「プラトンの『国家』」が掲載されたのがその前年、昭和三十四年七月であった。
 ちょうど安保闘争が盛り上がった時期と重なっている。
 これらの過激な学生運動の背後にいたのは、ソ連であり、要するに国際共産主義運動(ソ連のインターナショナリズム)の一環だったわけだ。

 (「安保闘争」ウィキ解説;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E4%BF%9D%E9%97%98%E4%BA%89

 この解説によれば、「ソ連共産党中央委員会国際部副部長として、日本をアメリカの影響下から引き離すための工作に従事していたイワン・コワレンコは、自著『対日工作の回想』のなかで、ミハイル・スースロフ政治局員の指導のもと、ソ連共産党中央委員会国際部が社会党や共産党、総評などの「日本の民主勢力」に、「かなり大きな援助を与えて」おり、安保闘争においてもこれらの勢力がソ連共産党中央委員会国際部とその傘下組織と密接に連絡を取り合っていたと記述している」とのことである。

 野党の社会党は、議会における審議を、実力を以て阻止することを公言し、実行に移した。これに対し、右翼が動員されるなどして、結局、安保条約は締結されたが、内閣が倒れ、演説中の社会党・浅沼稲次郎委員長が、山口二矢という十七才の少年に刺殺される、というショッキングな事件があった。
 社会ルールを無視しての実力行使は、別の実力行使を生む。
 共産主義革命に戦後社会が脅かされた時代であった。

 この騒乱の中で、小林秀雄は、唯物史観に対する批判を行うと共に、民主主義政体そのものについて深く掘り下げたのである。
 そこで古代ギリシャの古典を叩き台に民主政体における政治家のあり方について考えた。

 小林の関心は、次に、アテネとは違う伝統を持つ日本の古典に向かう。
 中でも、彼が強い関心を抱いたのが、儒学を柱とした江戸時代の学問の伝統であった。これらに関する文章は、『考えるヒント 2』にまとめられている。
 そこで扱われているのは、忠臣蔵、近江聖人・中江藤樹、熊沢蕃山、伊藤仁斎、荻生徂徠などであるが、とりわけ、徂徠には大きな関心が向けられている。
 そして、小林は前々から書きたいと思っていた、江戸時代の学問という、日本版ルネッサンスの最大の立役者・本居宣長について連載を始めた。昭和四十年の事である。

 小林が宣長に興味を抱いたのは戦時中にまで遡る。
 『本居宣長』の冒頭は次のように始まる。

「本居宣長について、書いてみたいという考えは、久しい以前から抱いていた。戦争中のことだが、『古事記』をよく読んでみようとして、それなら、面倒だが、宣長の『古事記伝』でと思い、読んだことがある。」

 彼が戦争中の昭和十七年に書いた『無常という事』という随筆の中に、『古事記伝』読後の比較的近い時期に書かれた短い批評がある。

「・・・歴史というものは、見れば見るほど動かし難い形と映って来るばかりであった。新しい解釈なぞでびくともするものではない。そんなものにしてやられる様な脆弱なものではない、そういう事をいよいよ合点して、歴史はいよいよ美しく感じられた。晩年の鷗外が考証家に堕したという様な説は取るに足らぬ。あの厖大な考証を始めるに至って、彼は恐らくやっと歴史の魂に推参したのである。『古事記伝』を読んだ時も、同じ様なものを感じた。解釈を拒絶して動じないものだけが美しい、これが宣長の抱いた一番強い思想だ。解釈だらけの現代には一番秘められた思想だ。そんな事を或る日考えた。」

 宣長の仕事は、徂徠の仕事の影響を大きく受けたものだ。宣長は特に、徂徠の著作から、孔子という人物の魅力に取り付かれていたようだ。
 このことが『古事記』の解読という偉業に大きな影響を与えたと思われる。
 小林の連載は十一年の長きに亘ったが、彼もまた孔子の底知れぬ魅力というものを感じていたようだ。


 その間、十年間の期限を迎えた安保条約の自動延長をめぐって再び学生運動が盛り上がった。小林の継続的な著述活動がこの左翼運動を横目に見ながら意識してのものであったことは疑うべくもない。

 過激派は共産革命を夢見て、より過激化していく。
 このことに大変な危機感を抱いていた人物がいた。
 それが三島由紀夫だ。
 彼はこれを日本の国體の危機を捉えると共に、国體再生の最後のチャンスと捉えて、決起。自衛隊によるクーデターを企図したが果せず、割腹自殺を遂げた。昭和四十五年十一月二十五日のことである。

 彼の決起の趣旨は檄文をよく読めば明らかで、国を来し方、行末を思ってのことであったのは間違いない。彼の頭脳が明晰であり、大変な予言性に満ちた認識に達していたことは、今、読み返してみるとはっきりしてくる。
 彼は狂っていたわけではない。その実行に際して、狂気を必要としたの過ぎないのだ。吉田松陰が狂の精神を求めたように、だ。
 理性と狂気は糾(あざな)える縄の如く、一体となって、行動を促し、時代を揺り動かしていくのである。

 前述の山口二矢は少年鑑別所で自殺を遂げたが、その直前、鑑別所の壁に「七生報国」「天皇陛下万歳」と書き残した。三島由紀夫もまた、決起時に締めた鉢巻に「七生報国」の文字を墨痕鮮やかに書き記している。彼の精神を表するものとしてこの言葉を選んだのだ。
 これは「建武の中興」の英雄・楠木正成の故事にちなんだものだ。
 楠木正成と後醍醐天皇を行為に結び付けたものは朱子学であり、「七生報国」の語が、「天皇陛下万歳」の言葉と共に、維新の志士や大東亜戦争時の特攻隊員の合言葉になっていたことは周知のこと。
 そういうイメージで語り継がれていない坂本龍馬でさえ、その早すぎる晩年、「君がため、捨つる命は、惜しまねど、心に懸かる、国の行末」という自作の詠歌を好んでいたことを想起してもよい。刺客の襲撃に痛く傷ついた龍馬は、「慎太(中岡慎太郎)、俺は脳をやられたからもう駄目だ。」との言葉を残して絶命したというが、その脳裏に「七生報国」「天皇陛下万歳」の語が去来していなかっただろうか。

 王政復古討幕派の軍事作戦の基となっていたのは、「建武の中興」であった。
 これは王政復古討幕派の中心勢力である薩摩の、中でも、「建武の中興」の西南地方における立役者、菊池氏の末裔である西郷南洲翁の立案によるものであったが、それゆえに、西南戦争の軍略にも繋がっている。
 大東亜戦争は、西洋近代兵学によって戦われたが、その破綻と共に顔を出してきたのは、我々を突き動かしてきた、この精神であり、いわば千早赤阪における戦いだったのである。
 そのことが、大東亜戦争の戦争目的の一部達成に大きく結びついている。
 いや、一部というのは適切ではないだろう。
 そのことが、白人による世界の有色人種の奴隷化を、完成一歩手前で食い止めただけでなく、現在の西洋文明の衰退を決定付けているのだ。日本の決起とその後の復興がなければ、有色人種は鷲づかみにされたままで、西洋文明の牙城はいまだにに崩れることはなかっただろう。
 彼らが、歴史認識を含めて、日本文明のことにナーバスになり勝ちなのは、故あってのことなのである。

 これらのことは世界史的事件であり、自己の立場に汲々としている、がり勉秀才君やお利口さんには見えてこない。
 大東亜戦争は世界を変えただけでなく、歴史物語として、今後も変えていくだろう。建武の中興にせよ、明治維新にせよ、西南戦争にせよ、大東亜戦争にせよ、賢しらな解釈に動ぜぬ、不動の姿を呈している。人間が歩いた軌跡というものは本来そういった姿をしているのだ。日本の場合、世界史レベルから見て小さな道だったかもしれないものが、後世それに合流したものによって、大道をなしたということが重要なのである。
 それを日本人に振り返らせて、教えたのが、江戸期の道の学問であったのだ。それがやがて大道を成し、今の日本人にも、その分に応じて継承されている。

 三島由紀夫も山口二矢も同じ精神の系譜に位置づけることが出来る。
 そして、日本が日本であり続ける限り、この精神が、再び時勢を動かす時がくることは疑いようがない。
 それがいつのことなのかわからないが、危機の時代を迎えて、個人的事件として、衆目に突発事件として映るような形で、起きる事は今後もあるだろう。
 歴史的危機という、事件の背景を塗りつぶした形で、三島事件が異常な事件として、民衆に受け取られてきたように、だ。

(参照)「三島由紀夫」http://saigou.at.webry.info/201012/article_5.html 

 小林秀雄はこの三島事件に、日本の歴史が凝縮するのを見た。
 江藤淳との対談で吉田松陰を引き合いに出しているのはその証拠である。

 小林は、この事件を「この事件の象徴性とは、この文学者の自分だけが責任を背負い込んだ個性的な歴史経験の創り出したものだ。」と書いている。
 三島由紀夫は行動によって示したが、小林が背負い込んだ個性的な歴史経験は、本居宣長の思想を現代批評の言葉で甦らせることで、日本の伝統の何たるかを示そうとした、ということにあったといえるのではあるまいか。

 保守言論界の重鎮達、例えば、小堀桂一郎氏は、この本を、難解極まりなく、二割ほど読んで投げ出した、という趣旨のことを書いているし、国学を学ぶべし、と言う宮崎正弘氏でさえ、二回読んで咀嚼し切れず、オカルト的という読後感を抱いた、と告白しているほどである。
 渡部昇一氏は、本質的なオカルト理解から、『古事記』はオカルト文書であり、宣長はオカルティストであり、小林秀雄はそれを感じうる人であった、と述べているが、そこには、小林秀雄の深さに感嘆しつつも、共感の語に乏しい。
 通常の知性による理解を、現代的な常識による理解を、拒否しているようなところがあるのだ。

 当該著書を共感を持ってありのまま受け入れたのは、福田恒存だった。「この本をこれだけ読み熟(こな)せるのは私だけではないかという、これは自惚れとは全く異る、一種の喜びに絶えず浸っていた」という。
 西部邁氏も理解を示した評をしている。

「それは、言葉の宿命を見つめようとした小林という人間が、音楽好きという生来の性癖もあってのことであろう、言葉における音韻と意味との同時発生ということに注目せざるをえなかったということである。互いに手を携えた音楽と物語とは歴史という時間の大地において、地下で濾過されたり、地上で流列となったりという紆余曲折の果てに、まるで「物」のような確かさを持つ伝統となって現在にまで運ばれてくる。小林はそのことに思いを致さざるをえなかったのだ。」 

 これは『本居宣長』のモチーフの一つを適切に現した評といえるだろう。 
 

 まさに、解釈を拒絶して動じないもの。
 小林秀雄の『本居宣長』もそういった資格を備えているようである。
 幾星霜を経て、小林秀雄がそこに見出したはずの美に共感できる人も現れるだろう。
 立派な古典である。 

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