続 張作霖爆殺事件の謎解き コミンテルン関与説

 加藤康男氏の新著『謎解き「張作霖爆殺事件」』(PHP新書)を読む前に、コミンテルンの影響を直視した歴史の本を新たに数冊読んでいた。

 若狭和朋氏の『日本人が知ってはならない歴史』(朱鳥社)シリーズ 三冊

 『別冊「正論」』「中国共産党 野望と謀略の90年」(産経新聞社)

 である。

 加藤氏の本を読み始めるのに時間が掛かったのはそのためだ。
 張作霖爆殺事件の背景となる当時の国内外の情勢を、特にコミンテルンの暗躍を、改めて知っておく必要があると感じていたからである。
 加藤氏の著書自体は、一日で読み終えた。

 その読後感は次のようなものであった。
 秦論文を熟読することで得た、通説に対する懐疑に基づいて立てた仮説は、これで裏付けられた。

 加藤氏は田中内閣におけるゴタゴタを深く追及していない。秦氏の論文より詳しく書いているくだりもあるが、同様の見方といってよいように思える。
 つまり、君徳未熟だった昭和天皇と忠臣・田中義一首相という、自分のような見方はしていないということだが、それでも構わない。
 加藤氏は「まえがき」で、爆殺事件に至る背景をできるだけ省いて、爆殺事件そのものに焦点を絞って実行犯の特定に迫ってみる、と書いているからである。

 加藤氏はさまざまな史料に当たった上で、通説、つまり河本大作単独犯行説の矛盾を指摘している。
 当事者の証言に、微妙な食い違いが見られるからだ。
 
 それにこの事件、河本が当初決して口を割ろうとしなかったように、隠蔽しようと努めたにしては不審な点が多すぎるのである。

 まずはそもそも証拠過剰であるということだろう。

 河本大作自身の回想の信憑性については、宮崎正弘氏の書評を紹介したのでそちらに譲るが、何よりもこの本で初めて知って驚いたのが、爆破の瞬間の写真が存在するのみならず、爆破前の現場、爆破の瞬間、その直後、そして現場検証の模様、張作霖の葬儀の模様までを写した六十一枚の写真が存在するということであった。
 内三十枚には、時間の経過を示す番号まで打たれているという。
 これは昭和六十年に山形放送に持ち込まれ、「セピア色の証言-張作霖爆殺事件・秘匿写真」というドキュメンタリーとして放送されたそうだ。

 写真の裏には「神田」という書き込みがあり、実行犯の一人・神田泰之助大尉であることが判明した。神田自身も写真に写っているという。
 写真は神田の手から特務機関員・河野又四郎に渡り、その部下が保管していたとのことである。

 そして、さらに不思議なことには、これらの写真群が、防衛研究所戦史部にも保管されているというのだ。
 これを明らかにしたのは秦氏である。
 氏は写真を防衛研究所に持ち込んだのは、桐原中尉という。
 桐原中尉は、秦氏によれば、監視小屋に引き込まれた発火スイッチを押していた人物だ。
 神田もまた二度目に予備爆弾の発火スイッチを押した人物だ。
 ということは、実行部隊とは別に撮影を任務とする人物がいたということだ。
 
 つまり、河本大作には、この犯行を誰かに宣伝、あるいは、証明か報告する意図が最初からあったのである。
 暗殺なら証拠を隠滅するはずなのになぜ?と思うのは私だけではあるまい。

 しかも河本らは、当初、張作霖の敵である国民党の仕業に見せかけるような偽装工作を行っている。しかし、これがまた、阿片中毒者三人を国民党の便意兵(ゲリラ)に仕立て上げて殺し、内一人に逃げられる、というような杜撰な工作だった。
 この生き残った一人は張作霖の息子・学良の下に逃げ込んで、関東軍の仕業であることが発覚したという。
 

 河本一味の単独犯行説は加藤氏の検証によってほとんど否定されたと見ていいが、彼が事件当時あの場所にいて、爆破を行ったのは事実である。
 しかし、それは自分たちが実行犯であり、日本のせいに見せかけるための爆破だったということになる。

 現場検証の結果が示すものは、河本の証言どおりの線路脇の爆破では、張作霖に致命傷を与えられないし、また実際に張を仕留めた爆発は別の場所で起きた疑いがあるのである。
 
 加藤氏が犯人として関与を疑っているのが、一つはコミンテルン。
 もう一つが張学良である。

 犯人は、この事件によって得をした人物を疑え、という捜査の鉄則に従えば、双方にそれは存在する。


 コミンテルンの動機は、前年一九二七年四月六日の北京のソ連大使館捜索と共産党員の大量逮捕および秘密文書などの押収である。
 これは南京事件を契機とする張作霖の指令によるものだった。

 しかし、それ以前に、反共の張は東清鉄道の利権をめぐってソ連と鋭く対立していて、ソ連は工作機関を使って、張を暗殺しようと企てたことがあったのである。
 計画は一九二六年(大正十五年)九月末に予定されてた、奉天の張作霖の宮殿での音楽会で、音楽家に紛れ込んだ工作員に時限爆弾を設置させ、張を爆殺する、というものであった。
 しかし、運送中の爆発物が発見され、工作員は逮捕、計画は挫折した。

 この計画の指揮官がソ連特務機関員のフリストフォル・サルヌインであった。

 このサルヌインに、モスクワの大物諜報員ナウム・エイチンゴンから再び張作霖の暗殺指令が下った。
 エイチンゴンは、後にスターリンの命令でトロツキー暗殺の指揮を執ったとされる人物である。

 これらの事実をソ連崩壊後の一時的な情報公開時に発掘したのが、ドミトリー・ヴォルコゴーノフという、陸軍大将にして、博士号を持つ歴史家である。その肩書きから機密文書に触れる機会があったことが窺える。
 しかし、彼は事件の概要を伝えるのみで、史料を明示してはいないようだ。

 この記述を出発点に、ドミトリー・プロホロフは『GRU帝国』(アレクサンドル・コルパキジとの共著)を書いて、張作霖爆殺事件のコミンテルン関与を暴いた。

 GRUとはロシア連邦軍参謀本部情報総局のことである。ソ連崩壊とともに解散したKGBと並ぶ諜報機関で、現在も存続している。
(「GRU」ウィキ解説;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E9%80%A3%E9%82%A6%E8%BB%8D%E5%8F%82%E8%AC%80%E6%9C%AC%E9%83%A8%E6%83%85%E5%A0%B1%E7%B7%8F%E5%B1%80

 さて、エイチンゴンから、一度失敗した張作霖の暗殺という、名誉回復の機会を与えられたサルヌインだが、このミッションの指揮下にヴィナロフという部下がいた。
 ヴィナロフはベルリンの壁崩壊までの祖国ブルガリアにおける英雄であったが、彼には自伝的な『静かな戦線の戦士達』という著作があるそうだ。加藤氏はブルガリアの首都ソフィアで、彼の没年に出た初版本を手にいれた。
 
 ここでヴィナロフは、彼のテリトリーで起きた事件として張作霖爆殺事件を挙げ、通説どおり、日本の仕業として簡単な解説を施している。
 そして、ロシア語版では割愛されているが、張作霖爆殺現場の写真を自身が撮影したものとして掲載し、次のように触れているという。


 いくつかの運命のいたずらによって、この日、つまりハルビン行きの列車に攻撃がなされた当日、私もまた反対方向への列車で旅をしていた。攻撃現場では私たちの列車もまた停車を余儀なくされた。そのとき、私は自分のカメラで何枚かの写真を取ることができた。そのうちの一枚をこの本に収録した。


 「運命のいたずら」とは便利な言葉だ。
 元諜報員が語るこの言葉を、額面通りに受け取る人はまず少ないだろう。
 そんな都合よく居合わせるものではない。
 サルヌインが部下の仕事の出来を確認させるために、現場に遣わせたと見るのが自然だ。あるいは、ヴィナロフが部下に確認させて撮らせた写真かもしれない。
 
 ただ、それでもコミンテルンの関与は闇の中である。
 確証が足りない。
 しかし、これは当然のことで、発達した諜報機関が証跡を残すことの方が珍しい。
 その点、河本大作の仕事が証拠過剰である、ということの胡散臭さが際立ってくるであろう。

 コミンテルンが利害の対立した張作霖の暗殺を企て、これを日本軍がやったように見せかけたという説は、まだまだ今後の検証が待たれるが、少なくとも十分な動機がある。
 鉄道利権の対立、および南京事件を契機とする駐北京ソ連大使館の強制捜査に対する報復である。

 そして、加藤氏は触れていないが、次のことにも触れて置かなければならない。

 張作霖が爆殺されるほんの数ヶ月前の事である。
 一九二八年二月、日本国内において、初の普通選挙が実施された。
 この選挙で、天皇制打倒を掲げた社会主義的な政党の躍進に脅威を感じた田中義一内閣は、治安維持法違反による一斉検挙に踏み切った。
 この検挙により非合法の日本共産党、および農民労働党などの関係者千六百人が逮捕された。
 第一次共産党は、一九二三年の一斉検挙を受け、翌二四年三月には自主解党にいたっていたが、翌二六年十二月には非合法政党として密かに復活を遂げていた。
 もちろん彼らの背後には、コミンテルンの指示と資金援助があった。
 この摘発によって、東京帝大以下三十二校百四十八名のエリート学生が共産主義者として検挙され、政府指導者に衝撃を与えたのである。(このエリート青年層の思想問題が後の国體明徴運動に繋がってくる。)
 結局、第二次日本共産党は選挙後から翌二十九年にかけての検挙でほとんど壊滅状態となった。

(「三・一五事件」ウィキ解説;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E3%83%BB%E4%B8%80%E4%BA%94%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 要するにコミンテルンには張作霖爆殺事件当時、この三・一五事件に対する報復の意図があったはずなのである。
 これも日本の仕業に見せかけて張作霖を暗殺するという企ての十分な動機となりうるものだ。

 当時の微弱なソ連軍では精強な関東軍には歯が立たないが、テロにより政治的に打撃を与えることは可能であった。
 日本人による外国要人の暗殺は国際世論における日本不信を醸成させることが出来る。
 その点、一九二四年にレーニンの死亡後、後継者となったスターリンは、全世界に諜報網を張り巡らし、その活動に自信を深めていたのである。
 現に日本ではこの張作霖爆殺事件によって内閣が倒れるという大打撃を受けている。昭和天皇の軍部に対する御不信は容易に修復されぬものとなった。


 ついでに、これらに事件と平行したコミンテルンの主な動きについて触れておくと、三・一五事件直前の一九二八年二月九日から二十五日まで、モスクワで二七ヵ国から九十二名の代表が参加し、コミンテルンの執行委員会の第九回会合が開催された。
 会議では、資本主義体制が最終的崩壊の段階に入っていること、及び、全ての共産党の正しい在り方は高度に攻撃的、軍事的、極左路線であることといったことを宣言している。
 要は、世界革命の頓挫を期に、コミンテルンはより過激化していたのだ。
 国家転覆を狙うコミンテルンの手先に対する、一斉検挙という、田中首相の果断は褒められていい。
 そこに張作霖爆殺事件は起こった。

 さらに、張作霖爆殺直後の七月十七日から九月一日にかけては、第六回コミンテルン大会がモスクワで開催され、五十七ヵ国から五百三十二名の代表が出席した。

 スターリンが直接に指導して決議された綱領の内容は、いわゆる敗戦革命論に基づいたもので、次の三項である。

 (1)自国政府の敗北を助成する。

 (2)帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦に転換させる。

 (3)民主的な方法による正義の平和は到底不可能であり、戦争を通じてプロレタリア革命を遂行する。



 この三つの方針に基づくコミンテルンの暗躍こそが、日本の内政混乱、シナ事変、引き続いての大東亜戦争勃発の大きな要因となったのである。

(「コミンテルン」ウィキ解説参照;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%AB%E3%83%B3

(コミンテルン第6回大会決議に関する解説は以下のサイトで読むことができる。http://www.geocities.jp/yu77799/Comintern/Comintern1.html

 この方針の実践において大きな功を現した人物が、日本では近衛内閣のブレーンを務めた尾崎秀実や風見章であり、同志であるゾルゲである。
 前回紹介した西園寺公一はこの諜報団の仲間だ。

 そして、アメリカにおけるそれが、悪名高い、いわゆるハル・ノートの起草者・ハリー・デクスター・ホワイトである。彼はルーズベルト政権で財務次官補を務めた。(「ハリー・ホワイト」ウィキ解説;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%9B%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%83%88
 太平洋問題調査会のオーウェン・ラティモアやハーバート・ノーマンの活動も見逃せないだろう。(「太平洋問題調査会」ウィキ解説;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E6%B4%8B%E5%95%8F%E9%A1%8C%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E4%BC%9A

《「張作霖爆殺事件の真相 (その九)」 終わり》

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