石原慎太郎氏の「天罰」発言に見る天人相関の思想

 この列島の先人達は、古来、数々の天災と戦ってきた。
 そして、この国のリーダーが天災に対する対処を誤った時、それはしばしば大きな体制の変革につながって来たのである。

 これを根拠付けてきたのが天人相関説と言われる古代シナの思想である。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E4%BA%BA%E7%9B%B8%E9%96%A2%E8%AA%AC

 この思想は日本の国體を考察する上で大変重要な思想なのだが、ここでそれを考察する余裕はないので、それはいずれ国體論としてまとめるとして、ここでは簡単に説明すると、天地自然の現象と人間の行為の間に因果関係があると考える思想である。
 つまり、天変地異が起きるのは君主の悪政に原因があり、だから君主は善政を行わなければならない、とする考えである。

 これを理論化したのが古代シナにおける戦国期の思想家・孟子である。
『孟子』によれば、天意は民意を媒介して現れるということになっている。
 天はものを言って、言葉でその意志を示すわけではない。
 キリスト教なら預言者と奇跡によって示されることになるのだろうが、『孟子』の場合、行為とそこから生じた事象によって天はその意とするところを示すとした。すなわち、天変地異や天候不順といった自然現象、あるいは民意の動向といったものに天意は現れる、と考えたのである。
 天変地異や天候不順が起きた際、天子の対処如何で、民は、一揆を起こすか否かはともかく、離れていってしまうから、これも結局は民意で判断されることになる。

 このような自然現象を為政者の欠陥に結び付ける考え方(例えば王が呪力を失ったことに求めたりするなど)は、古代社会一般に見られる考え方だったが、『孟子』ではこれを一歩進めて、為政者の徳の欠陥、つまり不徳に結びつけることにした。
 これを天人相関という。

 難しい理屈は抜きにして、直感的にわかる話である。
 今回の千年に一度あるかないかのような大災害のように、我々が日常生活で決して経験することのないような、人智、人力を超えた規模の天変地異を経験した時、我々はそこに超越的な力が、意思が働いたように感じる。
 
 今回被災に遭われた方々の中には、「何も悪いことはしていないのに、なぜこんな目に遭わなければならないのか」という感情を抱いた方も多かっただろう。だからと言って、天や神を恨むわけにはいかないし、恨んだところで仕方がない。
 ならばそういった感情はどこに行くのかといえば、やはりこの天災の中で、直接的に公的な責任を負わされているにもかかわらず、それを果しえていない人々に向けられることになる。

 それは政府であったり、官僚であったり、あるいは原発における火災の問題でいえば東京電力であったりする。被災地で被災者の精神的・物質的支えになっている公的機関は圧倒的に自衛隊であるが、これを報道しようとしないどころか、これに張り付いて粗を見つけて報道しようとしている報道機関なども国民からの負託に応えられていない組織ということになるだろう。

 もちろん、為政者が誠心誠意、身命を擲ってこの国難に立ち向かっていれば、国民の心が離れることはない。民意が離れるとは、国民が為政者の努力をそのように評価しなかったということなのである。

 石原東京都知事の「天罰」発言には、私欲にまみれた民に対する天罰という聖書的な発想も見られ、未分化ながら、この天人相関の思想も垣間見ることが出来るのである。現に彼の非難の矛先は、政府に対し向けられている。
 一般国民の感覚では、この旧約聖書の「ソドムとゴモラ」的な発想に反発を覚えるのではないかと思う。

 ただ、国民全般の風潮として、私欲にまみれているという、石原氏の指摘は正しい。
 しかし、下の風潮は上に倣うもの。
 上に立つものが、身を正しくしなければ、いくら奇麗事や自画自賛を言っても誰も聴く耳を持つまい。
 
 中華人民共和国や朝鮮人民共和国の人民が為政者である共産党や金一族以下労働党の奇麗事や自画自賛を心の中で一切信用せず、不満が鬱積して面従腹背の状況にあることを見れば明らかだ。
 こうなってしまえば秩序を維持するには、圧政を布くしか他なくなる。
 東電に乗り込んで、三時間にわたって怒鳴り散らしたり、処分をちらつかせて恫喝する菅内閣にも同じ匂いがする。

 日本では政治が国民の期待に応えられなくなって久しい。
 そこを襲ったのが今回の天災である。
 
 国民の意識の中に眠っている、天という超越的存在と結び付けられた、この伝統的感情がすでに動き始めているとしても全く不思議ではない。

 
 (「石原慎太郎氏の天罰発言に対する一考察 ②」終わり)

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