平成二十三年、一年の計 ④

 ここから自分語りになる。

 私は今四十一歳だが、三十代を、西郷南洲翁の史伝の執筆、出版に費やした。周囲の人になかなか真意を理解してもらえず、孤独な中での作業だったのだが、幸い家族の協力だけは恵まれて、何とか出版まで漕ぎ着けた。
 上中下巻の三冊にまとめるつもりだったので(それでも収まりきれそうになかった)、上下巻しか出せなかったということは、最終目標を達成したわけではないが、三十代で出来ることはやったと思う。

南洲翁は幕末の活躍期に三十代であった。明治元年十二月に迎えた誕生日で四十一歳。今の私と同じ年だ。
 その南洲翁の言動は、同年代の血気と分別を以てしか理解し得ないところもあったものとも思う。
 自らが天才と見た司馬遼太郎の『翔ぶが如く』を読んで、なっとらん、とばかりに、大西郷の史伝に取り組んで、志半ばで斃れた老作家海音寺潮五郎のような老熟した筆致ではないが、稚拙ながらも、敢えて、ドンキホーテさながらに、妖孼(ようげつ)が色濃く漂う日本の再生の布石とするために、維新の巨星大西郷に挑んだのである。

 ドンキホーテのように嘲笑されることも覚悟して、思想、知識、文章の未熟さも何もかもさらけ出して、感じたこと、考えたことを書いた。

 坂本龍馬は、南洲翁に会った印象を、鐘に喩えて、大きく撞けば大きく鳴り、小さく撞けば小さく鳴る、と絶妙な表現をしているが、ある意味、自分は、この大西郷という大鐘を、これまで誰もやったことがないほど、大きく撞こうとしたのである。

 たった一人の力で鐘を撞いても周辺の山にこだまするぐらいで、現状がそうであるように、大した効果はないかもしれない。生活に忙しい庶民には、騒音の一つにしか過ぎないだろう。
 しかし、同じ伝統精神を受け継いでいる日本人の間で共鳴を起こして、やがては日本を大きく震わす日を願って、私はこの大鐘を撞き続けなければならないのである。
 まことに、任重くして道遠し、である。


 南洲伝は、三十代の私の思想的格闘の記録と言ってよく、読者に緊張を強いるのもそのためであろう。 同じ問題意識、気概を持つものしか読みこなせないだろう。
 
 南洲翁と格闘するということは、険しいが、周囲を見渡せる高い山に登るようなものである。富士山を連想して欲しい。
 ある程度登ってみて、広く日本が見渡せるようになったように感じられた。
 そこには遠くに霞む山々である日本の伝統の姿がおぼろげながらも見渡せたのである。
 このおぼろげな山々の姿を明らかにした上で、南洲翁の史伝を完成させるにはまだまだ時間を要するだろう。
 世事に老熟し、辛酸を嘗め尽くした南洲翁を描ききるには、私にはまだまだ人生経験が必要だ。
 翁から学んだ精神に生きなければならないし、その新たに見えてきた日本の伝統の姿も明らかにしなければならない。


 南洲伝の上巻は、書き手の未熟さを反映して、まだまだ未熟な内容だが、ちょうど司馬遼太郎の『翔ぶが如く』と重なる、いわゆる征韓論政変と西南戦争の謎の解明に挑んだ下巻は、保守を看板とする知識人や政治家にじっくり読んでもらいたいレベルまで突き詰めた内容である。
 敢えて断言するが、これまで南洲翁没後百三十年余りの歳月に世に出た南洲翁に関する論評でこれ以上のものはない。今後、この作品を叩き台にしてしか、これを超えた水準のものを書くことは出来ないだろう。
 南洲翁に関する主な論文の多くに目を通しての率直な感想である。

 
 この豪語振りは自身を天才と受け止めておられるブログ「株式日記と経済展望」の管理人氏の口ぶりにやや似ていると思われる方も多いかもしれない。いや、それ以上で、空いた口が塞がらない、という方もいるかもしれない。

 こういったことをそのまま書いてしまう点で、私には徳というものが欠けているのを認めざるを得ない。
 そうなのだ。
 読者の方々にあくまでも知っておいていただきたいのは、ちっぽけな私のことなどではなく、南洲翁の偉大さであり、徳であり、これを生んだ日本の歴史・風土の素晴らしさであり、その背骨となっている至高の伝統なのである。

 南洲伝を読んだある作家の方から(日本再生という同じ志を持つ、尊敬すべき先輩である)、古典の引用が多くて、一般読者にはとっつきにくく、読者の知的水準まで下りて書いた方がよいのではないか、とのご忠告をいただいたことがある。
 もちろん、くり返し言っているように、私の知的水準が高いわけではない。
 私は頭を空っぽにして史料を読む素直さと常識感覚(コモンセンス、これを私は伝統的な言葉遣いに倣って「やまとごころ」と言っている)を大切にしているだけである。
 知的水準が高く、奥行きが深いのは、明治維新であり、それを生んだ江戸期の学問的伝統であり、その土壌となった日本の歴史である。
 南洲翁は、その結晶にして、傑作だからこそ、そこまで突き詰めて書かれなければならなかったのである。

 戦後の知識人や政治家全般の知的レベルの低さ、性根の卑しさ、品格のなさに慣らされたわれわれの眼に、これらの偉人は高尚で遠い存在に映るに過ぎないのだ。 
 これは皇室のあり方にも言える問題だろうが、我々はこれら日本の伝統が生んだ偉人たちに、我々の理解できる水準にまで降りてきてもらわなければならないのだろうか。
 それとも、我々がこれらの偉人に謙虚に学んで、少しでも近づこうとすべきなのだろうか。
 日本の再生に向けて、答えはおのずから明らかだと思うのだが。


 今回の記事は天才論を切り口にしているからこういった書きざまにならざるを得なかった。
 
 管理人氏の天才論を批判する中で、尊敬する故白川静氏の次の言葉をふと思い出したので、引用しておく。

 「孔子はみずからの学を、『述べて作らず』〔述而〕といったが、孔子においては、作るという意識、創作者という意識はなかったのかも知れない。しかし創造という意識がはたらくとき、そこにはかえって真の創造がないという、逆説的な見方もありうる。」(『孔子伝』)

 西郷南洲伝。
 この、誰もまだ書いたことのない着想を具体的に文章にしたという点で、客観的には独創的なものであるということは十分認識している。しかし、そこには創作・創造の意識など微塵もなかったことも確かなのだ。
 なぜなら、あたう限りの史料を時系列に沿って並べ、そこに脈路をつけて述べたに過ぎないからである。その中で見えてきたことは率直に書かせてもらった。特に下巻ではそれをかなり徹底できたと思う。

 下巻を書き終えてから、上巻で少し触れた日向神話を通じて本居宣長に関心を持つようになったが、若き日、無名時代の彼が「もののあはれ」で知られる画期的な源氏論『紫文要領』を書いて、「後記」で、次のように読者への願いを書いていることを知って大変共感を持った。

「右紫文要領上下二巻は、としごろ丸(まろ)が心に思ひよりて、この物語をくりかへし、心をひそめてよみつゝかむがへ(考え)いだせる所にして、全く師伝のおもむきにあらず。また諸抄の説と雲泥の相違なり。見む人あやしむ事なかれ。よくよく心をつけて物語の本意をあぢはひ、この草子とひき合せかむがへて、丸がいふ所の是非をさだむべし。必ず人をもて言をすつる事なかれ。且つ文章かきざま、はなはだみだりなり。草稿なる故にかへりみざる故なり。かさねて繕写するをまつべし。これまた言をもて人をすつる事なからん事をあふぐ(あおぐ)。」

 論者が無名だからといってこの画期的な意見を捨てないで欲しい。文が拙いからといって人を捨てないことをお願いしたい。

 私が読者に望むのも全く同じだったのだ。
 いや、これは今も変わらぬ思いである。



 南洲伝上巻・下巻の「まえがき」「あとがき」には以上の事情が十分現れていると思うので、ここに転載しておく。


「まえがき

『ついに分からぬ人だ』

 司馬遼太郎は西郷南洲を評していった。
 南洲とは西郷隆盛の雅号である。

『すこし抽象的にいうとすれば、西郷というひとは人間分類のどの分類表の項目にも入りにくい。たとえば西郷は革命家であり、政治家であり、武将であり、詩人であり、教育家であったが、しかしそのいずれをあてはめても西郷像は映り出てこないし、たとえむりにその一項に押し込んでも、西郷は有能な職能人ではなかった。つまり職業技術者ではなかった。哲人というほかない。』(『竜馬がゆく』)

 南洲というひとは、日本の歴史上最も謎の多い人物の一人で、比較的資料が豊富な時代であるにもかかわらず、その思想と行動はあまり解明されていない。
 司馬遼太郎も南洲という人物に迫ろうとその謎に挑んだ。それが長編歴史小説『翔ぶが如く』である。
 彼はこの作品で、いわゆる征韓論争からせいなん西南戦争までを題材にして、南洲に迫ろうとしたのだが、どうもその人物を把握しきれなかったらしく、後半は投げ出してしまっている。
 この作品を読むと、南洲という人物はますますわからなくなってしまうのである。
 しかし、南洲は「哲人というほかない」という以上、彼の行動はその哲学によって解釈されなければならないはずである。後に司馬遼太郎は「西郷は自分の精神的な―高貴な―象徴性を高く置きすぎて失敗者になった」(『この国のかたち』)と言っているが、この随筆は『翔ぶが如く』から十年以上経ってから書かれたものであり、これが彼の最終的な結論とみてよいだろう。
 しかし、私はこの失敗者という言葉に引っ掛かるのである。それは我々現代人の感覚で言っているのにすぎないのではないのか。
 たとえば、同じ明治維新の指導者である吉田松陰は自らの思想を実行に移して処刑された。そして、その生きざまは松下村塾の弟子達に受け継がれ、長州藩を動かし、歴史を大きく動かしたのである。特に彼の遺書である『留魂録』は、未だに人の心を揺さぶる。これらは維新の物語となり、その精神は後世の日本人に受け継がれていくのである。
 それがよくあらわれているのが大東亜戦争である。私は日本人の立場で歴史を見ていきたいのであえてこう呼ばせてもらう。
 当時の日本が世界に誇る最大最新の軍艦の名が、松陰の『留魂録』にある辞世の句から取られているのである。
 その句とは「身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも留置まし大和魂」である。
 この「大和」「武蔵」の名に、当時の人々は明治維新以来の攘夷の思いを託していたに違いないのである。
 また、特攻隊員として散華した若者達の辞世の句には、この松陰の辞世の句を本歌としているものが多く見られる。これは明らかに共感を持ったということだ。やはり、松陰の精神は日本人のこころの中に何かを残したのである。おそらく、松陰の精神の流れは日本人の意識の底に今でもひそかに流れている。それを思えば、松陰は確かに現実的には失敗者であったかもしれないが、後世に影響を及ぼし、より大きなものを動かしたという点でむしろ成功者であったといえるだろう。
 生前松陰は歴史に名を残す事を切望していた。

「人生必ず死あり、願わくは青史の名を全うせん」

 彼のこの詩はその気分を伝えている。
 松陰にしてみれば、それは本望だったのであり、もしあの世で、あんたは失敗者だったのだと言われれば、きっとその無理解に腹を立てることであろう。それほど大東亜戦争の敗北を境に、日本人の育んできた伝統的精神は断絶しているのである。
 しかし松陰だけならば日本の文化や歴史の特殊性ということで済まされてしまうかもしれない。
 そこで世界に視野を広げて見て、哲人と呼ばれるにふさわしい人物を探してみると、まず頭に浮かぶのがソクラテスである。
 ソクラテスは今から約二千四百年前のギリシャのアテネの人間である。
 彼は国家の認める神々を認めないで国家に認められていない神々を祭り、青年に対し悪影響を及ぼすという理由で告訴され、裁判で死刑を宣告された。その裁判の様子はプラトンの『ソクラテスの弁明』に詳しいが、ソクラテスは幼なじみであるクリトンの脱獄の勧めを断り、自分の哲学にしたがって、穏やかに処刑の日を迎えたのであった。
 つまり、ソクラテスは松陰と同様に国家の犯罪者として人生を終えたのである。そして、その死は弟子や友人達にとって悲劇であったが、その悲劇性ゆえにその生きざまは彼を慕う人々を強烈に動かすのである。
 彼自身はデルフォイの神託の意味を問い続けたのであって、著作を残したわけではない。
 しかし、その精神は、プラトンの著作を通じて後世の人々に伝えられ、西欧合理思想の源流となっている。この事は近代化の過程において西欧化された現代の日本人にとっても無縁とはいえない。
 このソクラテスを現代人は失敗者として切り捨てるべきなのであろうか。

 ここに挙げた両人は南洲との共通点が多い。
 彼の場合も、国家の犯罪者、国賊として最期を遂げ、またその最期は悲劇的に語られている。
 彼にしたがって戦い城山に果てた者達、あるいは彼を慕った多くの日本人にとって、悲劇以外の何物でもなかった。このことは、城山を包囲している政府軍の多くの将兵や明治政府の高官の多くにも当てはまった。
参軍である川村純義や山県有朋、南洲の弟である従道、従兄弟である大山巌、そして、おそらく明治政府の中心人物で南洲と対立していた大久保利通にとっても悲劇であっただろう。また、西郷決起の報に接した明治天皇は一ヶ月もの間、政務を拒否し、引き篭ってしまったといわれる。
 このようなケースは世界にも稀なのではあるまいか。
 だが、この事態が南洲本人にとって悲劇だったのかどうかはまた別である。
 南洲は、ソクラテスと同様に、著作を残していない。彼が何を考えていたのかは、彼の書簡や周辺の人々の証言と実際の行動を検証していくしかないが、そのことはなかなか難しい。この百数十年にわたって、さまざまな人がこの謎を解明しようとしてきたにもかかわらず、その目的を達し得ていないことなのである。容易なことではない。
 なぜそのように彼が何を考えたかが分からないのかといえば、彼が自己を韜晦し、その思想を大々的に語ろうとしなかったからである。
 南洲はソクラテスとは異なり、明治になってからその死にいたるまで、ますます自己について語ることをしなくなっていった。
 しかし、語らなかったからといって、彼の行動に何らかの思想や哲学が無かったとは言い切ることは出来ないはずである。不言実行の人だったということもありうる。彼はむしろそのような人物として見られていた。
 南洲は、幕末の儒者佐藤一斎の『言志録』千三十条余りの中から、特にこれはと思うもの百一条を選び出して座右の銘としていた。彼が、この中から更にその精髄二十八条を選び出し、子弟に与えたものが今日伝わっているが、その第一条には次の言葉が選ばれている。

「凡そ事を成すには、須く天に事ふるの心あるを要すべし。人に示すの念あるを要せず。」

 もし彼のなかに何か不動の価値があったのなら、彼の死は周りの人間にとって悲劇であったとしても、西郷南洲その人にとってはむしろそうでなければならないものであったはずである。彼は死のうが生きようが、成功しようがしまいが、結果を度外視して、その哲学を実践しなければならなかったのだ。
 そのように考えると、彼の最後の言葉として伝えられている「晋どん、もうここでよか」は、絶望的な戦況の中を、いまその瞬間まで、彼がその精神の中に何かを維持し続けてきたことを表しているように聞こえてくるのである。
 彼には、西欧化に突き進む明治政府の姿勢に対して、命を懸けてまで行わなければならない不動の価値があった。その哲学を解く鍵は、実は我々日本人なら誰でもその名を知っている一人の哲人にある。
 彼はある時期から、その哲学に邁進し、現実において半ば成功し、半ば敗れた。しかしその哲学が一体何なのかを突き止めない限り、彼の意思は後世の日本人に伝わっているとはいえないのである。
 彼が後世の日本人に何かを残そうとしたのなら、彼が何を残そうとしたのかという謎を解いてはじめて、彼西郷南洲は成功者としてその名誉を回復するのである。この日本が生んだ歴史上の巨人を生かすも殺すも我々後世の日本人の器次第なのだ。
 その意味で彼の謎を解くことは、我々日本人に残された歴史の宿題だといえる。
 この稿の主題はその価値を突き止める事にある。
 そして私は現在の混迷する日本の再生の鍵はそこにあると考えている。
 なぜなら西郷南洲を問うことは、日本人とは何か、日本の歩んできた道とは何か、これから日本が進むべき道は何か、これら日本文明の縦軸を問うことに他ならないからである。」




「あとがき及び経歴に代えて               
 わが輩は挫折家である。人様に自慢できるような経歴は一切持ち合わせていない。
 よって権威によるハッタリは効かないから、内容は是非実際に読んで判断していただきたい。
 そのような次第で、通常巻末には著者略歴を記すべきところ、中途半端な経歴を記すことにあまり意味を感じない。変な先入観を与えてしまうことで、却って有害とさえ思う。
 また完結したわけではないから、あとがきというものも書けない。
 そこでここでは、それらの代わりとして、理系出身で、文章一つ満足に書いたこともない自分が、このような大著を書こうと、大胆といおうか、暴虎馮河、無謀にも決意するに至った経緯を簡単に書きたいと思う。

 それは青天の霹靂だった。ある日突然、自分の中に在った西郷南洲像と孔子像が重なったのである。
 そもそも自分は、長年、といっても二十歳前後から十年程の間のことであるが、司馬遼太郎の歴史小説の読者、それも熱心な一読者に過ぎなかった。本当の歴史のダイナミズム・面白さを知るまでは、この人の書く小説を歴史と思い込み、何かを学ぶつもりで、相当に読み込んでいたのである。もちろん多くの学ぶべきことはあったのだが、そこから抜け出すきっかけになったのは、ひとつは『この国のかたち』というエッセイを読んでの、この国のかたちのわからなさであり、もうひとつは『翔ぶが如く』を読んでの西郷南洲のわからなさであった。

 またこれとは別のことから孔子に興味を持ったことがあった。そして行き着いたのが白川静氏の『孔子伝』である。漢字の起源である甲骨文・金文を読みこなす、この碩学の描く孔子像は、何か言葉にできない感銘を自分に与えていた。これらの書物を、折に触れ読み返し、またこの両者について書かれた他の優れた論考等を触媒としながら、自己の中に醸成されつつあったイメージが煮詰まって、重なり合ったとき、大西郷の謎は解かれ始めた。
 そしてその衝撃と感動が、大した分別もなく、これを世に問おうというエネルギーとなった。これが南洲伝を書くことになった、動機というか、経緯である。
 そこに理があったというわけではないが、この直感は間違いないという確信だけはあった。この確信は執筆していく過程において、日本の歴史について知るにつれ、また今日の日本が置かれている状況などを知るにつれて、いよいよ強くなっていった。その事については、いずれ西郷論としてまとめたいと考えている。
 そもそも大西郷に対する疑問が、『翔ぶが如く』に端を発している以上、最大のテーマはいわゆる征韓論争から西南戦争にいたる真相を究明することにあり、そこに至る思想の形成過程を調べる内に、この幕末期の南洲伝は出来上がった。いわば偶然の産物であるが、この完成に三年半余りを要した。中には突飛な発想や未熟な議論もあるだろう。これについては、諸賢の叱正を受けて、いずれ万全の物に近づけたいと思うが、ひとまず世に問う事を優先させたので御了承いただきたい。 (以下省略)」




 ここには閃いた経緯と、その源泉がどこにあったかが記されている。
 要するに、先人の仕事の中にあった、ということである。
 それらを熟視するうちに、簡単に言えば、南洲翁の言動の骨格として、孔子の思想を見出した、ということに過ぎないが、それを伝統的な文脈で、天から降りてきた、ということも出来るし、神から授かった、と表現することも出来るだろう。
 この作品の源泉が自己の外部にあったということは、下巻のあとがきにも書いている。

 これも転載する前に一体のものである「まえがき」から転載しておこう。


「まえがき

 国民的作家司馬遼太郎はかつて言ったことがある。

『明治後の西郷は陰画的であった。
倒幕段階の西郷はたしかに陽画的で、かれがどういう人物だったかを、ほぼ私どもはつかむことができる。…(中略)…ただ倒幕後の西郷は、みずから選んで形骸になってしまった。
 悲惨なことに、その盛名だけは世をおおった。西郷は革命の象徴になり、曠世(こうせい)の英雄とされた。
 西郷は斉彬の弟子でありながら維新後の青写真をもたず、しかも幕末における充実した実像は、そのまま維新後の人気のなかで虚像になった。蓋世の虚像といってよかった。』(『翔ぶが如く』「書きおえて」)

 この征韓論政変から西南戦争までを題材にした長編を書き終えた司馬の眼に、西郷南洲は茫漠とした虚像にしか映らなかった。司馬は大きな疑問符を残しつつも、政治的プラグマティズムの立場から、明治の南洲については否定的であったと言ってよい。
 しかし困ったことに南洲その人は、みずから選んで形骸になったこともなく、肉体を持った実存的なものとして、幕末同様、この明治政府草創の十年も、陰に陽に大きな政治的影響力を行使した。単なる虚像や形骸では廃藩置県の立役者とはなり得ないし、遣欧使節団派出後の政府も預かり得まい。またその結果としての征韓論破裂や西南戦争という明治草創期の日本を激震させた大事件の張本人たり得なかったはずである。
 司馬は虚像の向こうにあるはずの南洲を直視することが出来なかった。

 一方で同じく印象論的ながらも、司馬とは正反対に、南洲に肯定的な評価を下してきた先人達がいる。印象的な南洲観をいくつか紹介したい。

 まずは、明治のクリスチャン内村鑑三である。
 内村は、日本のことを西欧に紹介するために著した『代表的日本人』で、その筆頭に西郷南洲を挙げた。

『維新革命における西郷の役割を十分に記そうとすれば、革命の全史を記すことになります。ある意味で一八六八年の日本の維新革命は、西郷の革命であったと称してよいと思われます。』

 この南洲観は内村鑑三のクリスチャンとしての、愛国者としての、あるいは明治人としての直観であろう。

 また同じクリスチャンで、内村鑑三の弟子筋にあたるイザヤ・ベンダサンこと山本七平は、独創的な日本人論を築いた人物だが、おそらく内村の西郷観を受けてのことだろう、その著作『ユダヤ人と日本人』において、西郷南洲は日本教を体現する偉大な宗教人であり、殉教者であり、キリスト教におけるセイント(聖者)、ユダヤ教におけるラビのような者、という趣旨のことを言った。
 内村鑑三も山本七平も、その日本人(山本の言うところの日本教徒)でありながらキリスト教徒でもあるという独特の立場から、日本文明の特殊性と普遍性を洞察しやすい視点を持っている人物であった。
 古今東西の古典に通じていた山本は同書の中で、日本教徒(要は日本人)を最も手っ取り早く理解するための教科書として、勝海舟の『氷川清話』を挙げ、その勝を「その時代の第一級(もちろん全地球上での)の人物」であり、これほどの人物は全世界を通じて一世紀に一人も出まいとまで絶賛した。政治的天才であり超人であるその勝が心から敬服していたのが、実は横井小楠とこの南洲なのであった。

 続けて、キリスト教に対する理解者であり、内村鑑三の『代表的日本人』の出版にも深くかかわった大言論人徳富蘇峰の南洲観を見てみよう。彼は思想的に南洲や勝海舟に近い横井小楠の王道思想の継承者であった。
 蘇峰は、大正十五年の西郷南洲先生五十年記念講演会において、まるで現在の日本社会への警鐘のような次の発言をしている。

『国民がその国の偉人、その国の豪傑、そういう人々を尊敬し、嘆美し、従って崇拝することの出来る間は、その国民は、まだ血が通っている国民である。他にいろいろ弱点があっても、欠点があっても、醜態があっても、幾らか取柄のある国民である。しかしながら、偉人を偉人とせず、豪傑を豪傑とせず、崇拝、嘆美、称讃、欽慕(きんぼ)というようなことを、一切除外してしまうような国民になった時には、最早これは済度(さいど)し難きものであると思います。私は、南洲翁を慕うという国民の心が実に有難い。こういう心がある間は、日本はまだまだ大丈夫である。これが無くなる時には、恐らくは国が亡びる時と思います。』

 この言葉には日本の戦前と戦後における国民意識の断絶を見ることができる。蘇峰から見れば、戦後の日本国民は血の通わぬ、済度し難き国民に成り果てたということになるのかもしれない。
彼の言わんとするところは、アメリカのワシントンを例にとって考えてみればわかり易い。
 アメリカ国民が今後大きな挫折を味わい、対英独立戦争の英雄で、建国の父であるワシントンに対する尊敬心を失い、冷ややかな視線を投げ掛けるようになったならどうだろう。大半の日本人はやはり、アメリカ国民は血の通わぬ、済度し難き国民であると素直に感じるのではないか。なぜならそれは自己の源泉を否定する行為に等しいからである。
 近代日本においてこのワシントンに当るのが南洲であろう。私がここでワシントンを引き合いに出したのにはちゃんとした必然的理由がある。なぜなら南洲自身がワシントンを尊敬し、自宅の居間にワシントンの肖像を掲げるほどだったからである。
 戦後の日本人は明らかにこの南洲を慕う心を失いつつある。
 だからといって、日本国民の精神の現状が済度し難きものと言えるのかどうかは微妙である。これは戦後日本人が敗戦のショックから未だ立ち直りかけていないことが、その真因であって、必ずしも取り返しの付かない状態というわけではないとも観察できるからである。それは靖国神社や東京裁判といった大東亜戦争に関する議論が熱く、容易に決する気配がないことにも表れている。結局の所、日本国民に血が通うか否かは、今後日本の輿論がどこに帰着するのかに懸かっていると言えるだろう。
 ところで徳富蘇峰は盲目的西郷崇拝者ではない。彼は南洲を敬慕し、その人物を把握しようと最善の努力をしつつも、理解し切れなかった。それは『近世日本国民史』の総論的意味合いを持つ第百巻「明治時代」を読まれればわかるだろう。蘇峰は幕末から西南戦争までの膨大な史料を調べ上げた上で、南洲という人物の理解が難しい理由を次のように述べている。 

『西郷隆盛はその生前から既に偶像となっていた。死後においては年と共にいよいよその光を増してきた。今日において、何処までが南洲の正味であるか、これを審定するは頗る困難である。何故ならば、西郷の背後には大なる後光が煌(かがや)いて、これを正視することさえ困難であるからである。』

 後光を自覚し、これを排して正視しようとした蘇峰もまた南洲の正味を十分玩味し得なかった。頗る困難とは、当時上京中であったとはいいながら、十四才の多感な時に故郷熊本を戦災に巻き込んだ西南戦争を経験し、長年このことを考えてきた蘇峰の実感のこもった言葉と言ってよい。ちなみにこの後光を背にした南洲を影と見、正視できなかったのが、司馬遼太郎だったと言えるだろう。  
 蘇峰が理解し敬服したのは、むしろ大政治家としての大久保利通であった。
 しかし、これから本文で追究していくように、南洲と大久保の関係をより正確に理解し、その果たした文明史的意義を理解していたなら、おそらく蘇峰は先に引用した講演録よりも、より強い言葉で南洲を顕彰したことであろう。しかしその理解し得なかった蘇峰にしても、講演での言葉のように、日本人にとっての西郷南洲という存在の意味を理解し得た。それもまた明治人としての蘇峰の直観であったに違いない。

 次は戦後の保守系論客で、鋭い論評で知られた評論家江藤淳である。
 江藤淳は、その著作『南洲残影』において、城山で戦死した南洲について次のように言った。

『このとき実は山県(有朋)は、自裁せず戦死した西郷南洲という強烈な思想と対決していたのである。陽明学でもない、敬天愛人ですらない、国粋主義でも、排外思想でもない、それらをすべて超えながら、日本人の心情を深く揺り動かして止まない西郷南洲という思想。マルクス主義もアナーキズムもそのあらゆる変種も、近代化論もポストモダニズムも、日本人はかつて『西郷南洲』以上に強力な思想を一度も持ったことがなかった。』

 これもまた西郷南洲に対する深い理解に基づくというよりも、日本の現状に危機感を抱いていた江藤淳の日本人としての直観によるものであろう。「敬天愛人ですらない」という箇所以外は同感である。
 
 そして江藤淳の系譜にある文明史家で、国際政治学者の中西輝政氏は、その著『国民の文明史』で、江藤の西郷観を踏まえて、「戦後日本に文明衰退の影が深まり出した二十世紀末、『日本の感性』に深く覚めた江藤淳が、『南洲残影』を書いて、日本文明の喪失にギリギリの警鐘を鳴らしたのであった」と言い、より端的に、「西郷を知ることは日本を知ること」であり、「日本人の真髄を体現し、日本文明の本質を体現した人物だと、多くの日本人が直感として感じ続けている」と述べている。

 これらの主張に通底しているのは、西郷南洲が日本の伝統的規範の本質を強烈に体現しているのではないか、ということだ。
 全く同感であるが、では一体どういったところがそうなのかといえば、余り具体的ではないようである。

 本書では、これら先人達の直観的南洲観をモチーフにして、先人達の迫り得なかった、明治の南洲の実像に迫りたいと思う。
 すなわち実証的に追及することで、司馬遼太郎の言うところの形骸に生命を与え、明治維新という革命の実相を明らかにし、この曠世の英雄の実像に迫ろうというのだ。そこで出来る限り根拠を挙げ、史料の断片化による恣意的引用を避けるため、徳富蘇峰の『近世日本国民氏』に倣って史料を以て語らせるスタイルにした。当然膨大な分量にならざるを得ず、紙幅の関係もあって、本書ではテーマを征韓論争から西南戦争までの事象に絞らざるを得なかった。上巻で扱った王政復古の大号令煥発直後の小御所会議以降を飛ばして、いきなり征韓論政変という大きなテーマに突入するのは甚だ不都合であるが、ご了承いただきたい。
 そもそも私が南洲という人物に引っ掛かった原点が、司馬遼太郎の『翔ぶが如く』にあったことを思えば、本書はその疑問に対する十余年越しの回答ということになる。もちろん上巻で論じたことが、これから論じることの土台となっているのはいうまでもない。
 本書で論じていることは、私が南洲という巨人について論じたい全てではないが、少なくともその絶世の英雄像についてはかなり肉迫できたのではないかと思っている。またこれらの事件が当時だけでなく、後世の日本に与えた深刻な影響についてもかなり論ずることができたのではないかと思う。
 これを読みこなすには非常な知的体力と気力を必要とするだろう。またその南洲像およびそれが提議する諸問題は、現代日本および日本人の在り方を問うことでもあり、予断偏見を排して直視するという、自己と向き合う困難な作業を伴うものでもある。おそらく一度読んだだけで咀嚼しきれるものではない。
 しかし、それは、多大な努力を払って、失われた天への階(きざはし)を求めることである。
 読者の気概に期待したい。」




 今なら先人の西郷南洲観として、三島由紀夫の『銅像との対話』を付け加えるところだが、当時は残念ながら知らなかった。

 
 続けて下巻「あとがき」。


「あとがき

 本書で私が、南洲の背後から差す後光の先にある実像を直視しえたか、それとも後光に目を眩まされて実像を見失ってしまったかは読者の判断に委ねよう。
 それよりも私の関心はさらに歩を進めることにある。
 実は私は南洲の実体こそが、徳富蘇峰によって後光とされた光輝の、その強烈な光源であったと確信しているのである。
 それはあたかも太陽の如く、強烈な光と熱を自ら発するものである。西郷星(さいごうぼし)どころの話ではない。
 ちなみに西郷星とは、薩軍の敗勢が決定的となった明治十年八月頃夜空に現れた星で、今日では火星の接近であったことが知られているが、当時人々はこの星の中に、大礼服を着して馬に跨り、右手に新政厚徳の旗を携えた南洲の姿が見えると噂し、それを題材とした錦絵が描かれ、反響を呼んだことがあった。民衆の中に潜在する南洲に対する共感と明治政府に対する反感の表れである。この星は、大日本帝国憲法の発布に伴い、南洲の賊名が除かれ、正三位が追贈された明治二十二年二月にも夜空に現れ、再び西郷星として話題になった。
 私はこの西郷星を敢て恒星である太陽になぞらえようとしているのである。
 とすれば、本書でかなり厳しい批判を加えた大久保利通などは月であったということになろう。
 月は同じく球体でありながら、自ら光熱を放たず、日月双方とそれを見る者との位置関係によって光と影を構成し、時には満月ともなりうるが、時には闇夜の新月ともなりうる。それは常に太陽の光によって陰影を明らかにされるのである。
 この例えで言えば、征韓論政変から西南戦争に至る悲劇は、日本史上における日食であったと言いうるだろう。征韓論政変は日食の始まりであり、南洲の城山における死はまさに皆既日食であった。本書はまさにこの太陽と月それぞれの動きと両者の位置関係や引力によって生じた諸現象を扱ったものということが出来る。
 もちろん大久保らに南洲に対する悪意があったというわけではない。彼らは、月が地球の衛星として小さな軌道を回るように、彼らの立場なりに職務に尽くしただけである。それが結果的に日を覆う結果となった。そして日の光を遮ったが故に、大久保は非業の死を遂げ、彼が本来成さんとしたはずの素志を自らの手で成すことができなかったのである。
 蘇峰によって後光とされたものはむしろ余光とされるべきものであった。
 その後半世紀余りを経た敗戦を境に、雲が大地を覆った。太平洋を越えてのアメリカニズムと大陸方面からのマルキシズムという雲が。そして南洲は一時英雄の座から引き摺り下ろされ、今は謎の多い人物として棚の上に上げられた格好になっている。
 しかし雲がいつまでも大地を覆っていると言うことはありえない。いつか、これまで雲に隠れて間接的に光や熱を大地に与えてきた太陽も顔を覗かせるはずである。もちろん私が明らかにしたいのは月よりもこの光源たる太陽である。
それは大和民族にとっての、恒星のような歴史上の不変不滅の存在である。
彼は自己の哲学を最後まで貫徹することでそれを成し遂げた。その手がかりになるのが、南洲自身の言葉に含まれる論理・条理であり、その根底にある「孔孟の教え」を中心とする価値規範であった。これらが何であるかは上巻で追究したし、本書でも追究したつもりである。
 実は本書を書く上で、私は上巻の続きにあたる慶応三年十二月九日の小御所会議以降、明治十年九月二十四日南洲が城山において斃れるまでの十年間の彼や大久保の動きを克明に追って、膨大な分量の南洲伝の執筆を大方終えた上で、その一部を編集し、世に問うている。まえがきでも触れたように、テーマを征韓論政変から西南戦争までに絞ったので、南洲という歴史上の巨人の英雄的側面あるいは悲劇的側面しか、十分に叙述することが出来なかった。これはこれで彼の巨大な一面であり、南洲という大鐘をこれまでになく大きく鳴らせたのではないかと思っているが、日本人の真髄を体現し、日本文明の本質を体現しているという、本来私が最も関心を抱いている、彼のより本質的な側面にはあまり触れることが出来なかった。これについては内容をさらに充実させて、機を得て世に問いたい。
 また本書は先人達の調査と研究の積み重ねがなければ決して書くことが出来なかった。否、それどころか足がかりを得ることさえ出来なかっただろう。私のなしたことは、言わばこれら先人達の優れた業績の山に一もっこの石を積み上げただけである。
 それが小石であったか、それとも巨石であったかは、これもまた識者の判断に委ねることにしよう。
 本文において、先人の見解に遠慮なく批判を加え、自説を述べているが、それはそこから受けた学恩に敢て率直に報いようとしたがためである。同様に私の見解に対しても遠慮なく批判を加えていただければ、喜びこれに勝ることはない。それによって南洲の実像がより明らかになり、理解が一層深まるなら本望である。
 私が積み上げた上にさらに一もっこ、否、一もっこと言わず、何もっこでも南洲の実像という石を積み上げて欲しいものである。怨望によって崩されるようなことがなければその分だけ、山はより高く、天はより近くなる。
それは戦後日本人が見失った天への階(きざはし)なのである。」

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