十二月五日、神戸における中国糾弾、打倒民主党デモのご案内

「中国による尖閣諸島侵略阻止」デモ in 神戸

日時:平成22年12月5日(日)、13時30分~15時

集合場所: 神戸三宮東遊園地公園: JR三宮駅からフラワーロードを南へ神戸市役所の南側

デモ:参加者集合時刻:13時

  デモ出発:13時30分

  コース:三宮東遊園地公園(東側)→神戸市役所→JR三宮駅→神戸大丸→神戸市役所→三宮東遊園地公園(東側)
(15時頃終了)

 * お手伝い戴ける方は12時30分頃までにご参集下さい。


主催:頑張れ日本全国行動委員会・兵庫県有志の会

協賛:チャンネル桜を支える会兵庫
     
連絡先:TEL:090-5901-8252 Mail: hatashika@tea.ocn.ne.jp
    頑張れ日本全国行動委員会・兵庫県有志の会

(以上、「頑張れ日本全国行動委員会」ホームページより転載)




 神戸・三宮は勝海舟の神戸海軍操練所が置かれた場所です。

 それまでの神戸は一寒村に過ぎませんでした。

 神戸とは、そもそも「かんべ」と読まれ、古代から中世の日本においては、特定の神社の祭祀を維持するために神社に付属した民戸のことをいいました。平安時代前期の『和名抄』には「摂津国八部郡神戸郷」の名が見られるそうです。生田神社に租税を納める民戸が神社を中心に形成した村がその起源のようです。
 
 明治維新以前は、むしろすぐ西側で、和田岬の東側の一部である「大輪田泊(おおわだのとまり)」の方が貿易港として有名でした。大輪田泊は奈良時代に大僧正行基が開いたとされる港ですが、ここを日宋貿易の拠点として大改修を行ったのが平清盛で、彼はここを見下ろす隣接地に福原京を建設し、遷都を行いました。つまり、半年ほどの間、この地は日本の首都であったのです。(ちなみに現在風俗街で有名な福原とはまた別です。)

 大輪田泊はその後戦乱によって衰退しましたが、東大寺の復興に尽力していた俊乗坊重源の建言によって、国家事業として修築され、鎌倉時代には、国内第一の港「兵庫津」として復興を果たしたそうです。


 このように、明治維新以前の神戸は、これら殷賑を極めた地域の周辺地域に過ぎませんでした。
 

 勝海舟は『氷川清話』中の談話で次のように言っています。

「私はだんだん世の中が乱れかけてくるのを見るにつけ、どうしても人物を養成するが目下の急務であるぞと覚ったから、神戸に海軍所を設置して、すべて海軍に関することがらは、非常に調査した。その当時未だ神戸の必要に人が目を着けなかった際に当たって、私は大いに神戸の開発を率先して苦心を極めたので、海軍所も追々盛大になる。諸藩の有志家もおびただしく私の門下に来るようになった。…」

 また、次のようにも言っています。

「海軍練習所は、今の神戸税関のある所にあった。おれは生田の森の方に宅を構えて、沢山の塾生を置き、また少し見込みがあったから地所をも段々買入れた。今兵庫県庁が建って居る辺も、当時おれの所有地だったョ。もと神戸は七百石の天領で、路の両側に百姓家があって、街も一通りになって居たが、庄屋を生島四郎太夫といって、最初おれはその家を旅宿にした。その時生島に、この土地も今はつまらぬ百姓家ばかりだけれど、早晩必ず繁華の場所になるから、地所などはしっかり買っておけと、いったところが、生島も半信半疑ながらにおれがいった通り地所を買入れておいたら、果して維新後には一坪何十円という高価になって、非常に儲けたそうだ。…」

 海舟翁の予言どおりに神戸は繁栄したわけです。


 さて、神戸海軍操練所です。

「この時の将軍(徳川家茂)は、歳はまだ若かったが、なかなか聡明のお方で、巡視のことも、練習所のことも(海軍操練所創設のことですね)、おれが直接申上げたのだ。
 塾生の中には、諸藩の浪人が多くて、薩摩のあばれものも沢山居たが、坂本龍馬がその塾頭であった。当時のあばれもので、今は海軍の軍人になって居るものがずいぶんあるヨ。…」


 このように海軍操練所設立の趣旨は、海軍の建設と門閥に捉われぬ人材の育成にあった訳ですが、勝海舟の凄いところは、より大きな構想を持っていたことでした。
 彼はこれを日本・清・朝鮮の攻守同盟の一環ととらえていたのです。何に対する同盟かといえば、西洋列強のアジア侵略に対する同盟です。

 ここで、シナ人や朝鮮人、あるいは、これに連動する反日日本人は、維新の指導者には、こういった指導者もいたのに、大日本帝国は、西洋列強に倣って、シナや朝鮮半島を侵略した、とステレオタイプな弾劾に走るのが常ですが、これは事実とは異なる、浅はかな批判に過ぎません。

 その場合、よく槍玉に挙げられるのが福沢諭吉の「脱亜論」ですが、南洲翁のいわゆる征韓論にしても、朝鮮や清とともに協力して、西洋列強の侵略に対抗するという目的のためには、もし両国政府が頑迷なら、堂々と正論を主張して、それでも目が覚めないようなら、武力を行使してまで正す、という英気を持ち合わせていました。

 「兄弟牆に鬩げども外その務りを禦ぐ」(『詩経』)との趣旨から、日本人同士が争うことの愚を説いて、江戸城無血開城を実現した海舟翁でしたが、翁はこれをさらに、シナ、朝鮮に推し拡げて、争うべきではないと考えていました。つまり武力行使など考えていなかった。

 だからといって、それは決して夢想的なものではなく、西洋文明の凄さを熟知しながら、シナの古典に精通したリアリストでもあり、東洋流王道政治を目指していた海舟翁は、シナおよび朝鮮は同じ君主制の人治主義の文明であり、薩摩との人脈から南洲翁を見出し、江戸城無血開城を成し遂げたように、これらの国との独自の人脈を築くことで、この構想を実現させようと考えていたようです。

 海舟翁の、われわれの常識とは違った、清の李鴻章、朝鮮の大院君に対する高い評価と長年の交際は、シナ古典の素養を欠いた現代人には理解の及ばぬところがあり、むしろ興味を惹かれます。
 英雄の心は英雄のみ知ることが出来るのでしょう。

 これについては長くなったので、また次回にしますが、実は海舟翁はこの構想を将軍に建言するに際して、「三国合従連衡して西洋諸国に抗すべし」と表現しているのです。
 それは戦後のお人好し丸出しの日中友好外交や朝鮮に対する謝罪外交とは、全く次元の異なるものなのです。


 ともかく神戸は、約百四十年の昔に、その雄図を秘めて開かれた国際都市であり、今人気の坂本龍馬もこの神戸の地で、師である海舟翁から同じ世界観を受け継いだと見るべきでしょう。
 海援隊とは、幕末において、日本の再興を意味する王政復古討幕運動を海から応援する組織でしたが、いずれはこの雄図の実現を、海から支える組織へと発展して行ったに違いありません。
 もし、幕末の段階で武器商人のようなことをやっていた龍馬が「世界の海援隊でもしましょうかな」と言ったというのが歴史的事実なら、この趣旨の発言であったと見るべきでしょう。

 「頑張れ日本!全国行動委員会」主催の国民デモの訴えや発想を見ていくと、この海舟翁のアジア復興の構想と矛盾しません。
 阪神地区にお住まいの皆さんは、誇りを持って、このデモに、日本再興の歴史に参加しましょう。







(※以下は、日本文化チャンネル桜で放映された、先日大阪で行われたデモの様子です。) 






ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック