建武の中興 (その五)

 高師直に象徴される横暴な武士は反歴史的人間である。
 それはつまり非人間的であることと同義である。
 武士の勃興以来、彼のような人間が力を得て、旧来の伝統、権威を破壊していく大勢にあったのは、北条得宗体制の崩壊によって、バサラ大名達が群がり起こって、後醍醐天皇の政治を崩壊させ、やがて足利義満の天皇家乗っ取り、応仁の乱を経て、戦国時代へと突入していくことを見ても明らかだが、その大勢を食い止めようとしたのが、後鳥羽上皇の承久の変であり、建武の中興だったのだ。もちろんすでに権力を奪われて久しい後醍醐天皇の時代のほうが、その回復は困難だったはずで、それを実現するには大変堅固な志を必要としていた。
 実は後醍醐天皇に、その堅固な志を与える根拠となったものが、『論語』を筆頭とする四書を聖典とする宋学だったのである。

ここでもう一度『太平記』の著者が見た後醍醐天皇の治世に対する評価を見てみよう。

 「御在位の間、内には三綱五常の義を正して、周公孔子の道に順い、外には万機百司の政に懈(おこた)らせ給はず。延喜天暦の跡を追はれしかば、四海風を臨んで喜び、万民徳に帰して楽しむ。すべて諸道の廃れたるを興し、一事の善をも賞せられしかば、寺社禅律の繁昌、ここに時を得たり。顕密儒道の碩才も皆望みを達せり。誠に天に承けたる聖主、地に奉ぜる明君なりと、その徳を頌じ、その(教)化に誇らぬ者はなかりけり。」(巻一「京都に両六波羅を据え鎮西に探題を下す事」)

 これは、後醍醐天皇が討幕に乗り出す以前の、在位中の治世に対する評価だが、当時、幕府によって限定されていた、朝廷の影響力を行使できる範囲内での後醍醐天皇の統治は、儒学の伝統に則りつつ、それを媒介として、わが国の伝統、諸道の復興を目指して、碩才を引き上げ、善政に努めて、一定の成果を挙げたものであったことが窺えるのである。
 これは事実であったと見てよく、北畠親房も『神皇正統記』の中で、後醍醐天皇が、父である後宇多天皇の学問好きを受け継いで、中古以来最も和漢の道に精通した天子だったことを認め、民の声を聞いて、早朝から深夜に至るまで政務に励んだため、周りの者も貴賎を問わず、そんな彼に天皇親政の復活を期待していたと書いている。
 これを裏付けるように、後醍醐天皇の大覚寺統に対立する持明院統に属していた前天皇花園でさえ、後醍醐の治世を評して、「主上ことに中庸の道を学ばしめたまう、政道淳素に帰すべし」と日記に書き記しているほどであった。

 『太平記』の引用文中の三綱とは、君臣・父子・夫婦の三つの道のことで、五常とは仁・義・礼・智・信のこと。
 また延喜天暦の跡とは、平安時代の醍醐天皇と村上天皇の治世のことであり、鎌倉末期の公家社会では天皇親政の理想時代とされていた。
 本来天皇号とは諡(おくりな)であり、死後にその人物の事跡を勘案して贈られるものであったが、後醍醐天皇は生前自らこれを決めていた。これはまったく異例のことで、宋学の影響と見てよい。その跡を継いだ義良親王は、後村上天皇と諡されることになるが、これはその志を継いだ結果である。

 孔子の「われ十有五にして学に志す」という言葉からわかるように、志すことは、道を弘むることの始まりである。後醍醐天皇は、周公・孔子の指し示した道に習って、わが国の伝統に向かった。後醍醐天皇は危機的状況にあった伝統を復興し、これを統合しようとしていたのだ。「諸道の廃れるを興し」とはそういうことである。
 天皇は、孔子が諸礼楽の創始者とされた周公を理想としたように、公家社会において、天皇親政の理想時代とされていた、醍醐・村上天皇の治世を理想とした。「後」醍醐との諡は、もちろんそれを継ぐという意味であり、諸道を興すという理想はそこに収斂していくのである。 つまり情実にまで分け入って、後醍醐天皇の事業を総覧するなら、やはり中興と表現するのが適当なのである。

 小林秀雄が言うように、「伝統は、これを日に新たに救い出さなければ、ないものである。それは努力を要する仕事なのであり、従って危険や失敗を常に伴」う。
 「建武の中興」にこの意義を見出さず、新政とのみ捉えようとする人には見えないだろうが、後醍醐天皇は、伝統を見つけ出し、これを信じ、新たに救い出そうとした人である。その人生を見れば、危険や失敗に果敢に挑んだ人生だったことは衆目の一致するところといってよい。単なる新しい物好きでは、そこまでの冒険は不可能だったといってよかろう。
 新政と映るのは、伝統が新しい生命を得て、新しい現実に応じようとした結果現出した局面においてであって、それを本質とするのは浅はかなものの見方であろう。
 幕府側の立場で書かれた「梅松論」の有名な後醍醐天皇の言葉、「朕が新儀は未来の先例たるべし」には前段があって、「今の例は古の新儀なり、朕が新儀は・・・」と続くのであって、これは、舌足らずではあっても、因習を去ることを謳った「王政復古の大号令」や「五箇条のご誓文」に通じていて、後醍醐天皇が伝統とは何かということについて深く考えていたことをあらわしている。つまり幕府側の人間にはこのことの深い意味が理解できなかったの過ぎないのである。これは中興を新政と呼びたがる歴史家も同断である。


 網野善彦は、後醍醐天皇の密教、特に立川流の僧文観に対する傾斜に、その異形性を見出し、これを抉り出そうとした。特異、異例、異常、異様、といった形容が、それこそ異常に頻出しているのが、彼の有名な『異形の王権』であり、そのモチーフであるが、それによれば、

「後醍醐天皇は自ら護摩を焚いて、幕府調伏の法を行うという異例中の異例を行うことによって、その姿勢を世に示したのであり、・・・しかもさらに注目すべきは、元徳元年(一三二九)に後醍醐の自ら行った祈祷が「聖天供」ー大聖歓喜天浴油供であった事実である。百瀬(今朝雄)はこれについて、文観がその居所とし、そこで生涯を終えた河内金剛寺に伝わる享禄五年(一五三二)の願文を根拠として、聖天油供が「悪人悪行速疾退散」の効験があると信じられていたことを明らかにしつつ、それは当然、文観の時代に遡及しうると見て、後醍醐天皇が聖天供を修したのは、「まさに悪人即ち幕府の悪行を除去すべく行われたものであろう」としている。
・・・「中略」・・・
 いうまでもなく、聖天供の本尊大聖歓喜天は、普通象頭人身の男女抱合、和合の像であり、男天は魔王、女天は十一面観音の化身といわれる。そしてもちろん平安後期以来、聖天供は宮廷でしばしば行われている。しかしこうした本尊を前に、密教の法服を身にまとい、護摩を焚いて祈祷する現職の天皇の姿は異様としか言いようがない。まさしく後醍醐天皇は「異形」の天皇であった。
 極言すれば、後醍醐天皇はここで人間の深奥の自然ーセックスそのものの力を、自らの王権の力としようとしていた、ということもできるのではなかろうか。確かに後醍醐は「異類異形」の人々の中心たるにふさわしい天皇であったといえよう。」(『異形の王権』平凡社ライブラリー)


 もう何が何でも自分の「後醍醐天皇は異形である」というモチーフにこじつけようとしていて、滑稽なほどだが、彼が書いているように、平安後期以来、聖天供は宮廷でしばしば行われていたのであり、これは当時の伝統であったのだ。
 異様でも、異形でもない。
 現代の皇室に伝わる伝統ではないからといって、これを異類異形と決め付けるのは、彼が現代の、否、彼自身の価値観を過去に押し付けようとしているからである。それが皇室の伝統として生きながらえなかったのは、後醍醐天皇の伝統中興の事業が失敗して、南朝が滅んでしまい、それが廃れてしまったからとも言えるではないか。
 また、さらには、後醍醐天皇の時代に、唯物史観やら自虐史観、東京裁判史観が存在していなかったという、基本的事実すら踏まえられていない。
 これでは歴史家としては二流である。
 後醍醐天皇からすれば、異形、異形と喧伝して回っている彼こそが異常、ということになろう。歴史や伝統も後醍醐天皇に味方をするはずだ。

 また密教のことはよく知らないが、聖天供の本尊が一五三二年の時点から後醍醐天皇の時代にまで、二百年遡及させることができる根拠が明確ではないし、仮に遡及させることができたとしても、祈祷は、「悪人悪行速疾退散」のためになされるのであって、ポルノの氾濫した現代の人間が、象頭人身の男女抱合・和合の像、しかも一説によれば、男天は魔王、女天は十一面観音の化身という歓喜の像を見て、妄想を掻き立て、想像する淫祀邪教的なものとはまったく異なるものなのである。
 網野が書くように、人間の深奥の自然、それは宋学的に言えば、陰陽二元の和合した力、天地自然の力といえるかもしれないが、その力まで動員して、討幕と王政復古という未曾有の事業を、並々ならぬ意欲で成そうとしたからであって、ここではその志の強さを見るべきであろう。

 保守が言うように、皇室の本質が祈りにあるとするならば、後醍醐天皇の密教に対する傾斜は、その本質のひとつの現れと見ることもできる。それは言葉によって表現されにくい、また明確な形となりにくい皇室の伝統が、外来の思想、それは儒教であったり、仏教であったり、現代で言えば、西洋思想との関係で顕在化するようなものであり、この伝統に則ったものに他ならない。そして、これは日本という文明の本質でもある。
 ここでは、外来思想のどの部分が、日本文明、ひいては皇室の伝統と結びついて、受容され、排除されてされてきたのかが問題とされなければならないのである。これが「からごころ」を知ることの意義である。

 ともかく、祈祷は、幕府調伏のために、「まさに悪人即ち幕府の悪行を除去すべく行われた」のであって、その意図はほかにはなく、それはまた当時の伝統に則ったものであったのだ。
 北畠親房によれば、後醍醐天皇は仏教に造詣が深く、特に真言密教に帰依していたといい、それは授職を志すほどであったという。これは父後宇多天皇の影響であったらしく、授職を果たした父に倣おうとしたためと思われる。彼の晩年の政治に批判的であった持明院統の花園天皇も、この後宇多天皇の密教への造詣の深さには敬意を覚えていたというほどであった。これでも異形というなら、何か当時の正常の姿であったというのか。
 網野の言論は、彼自身が示した根拠によって、すでに破綻しているのである。

 また後宇多天皇の即位三年目に、海を隔てたシナで、元の勃興による宋の崩壊という、東アジアを揺るがした大事件があった。その五年後には、元寇という形で、日本が国家存亡の危機に見舞われたのは周知のことである。元寇は二度までも撃退されたが、三度目の遠征までも企てられていた。つまり危機意識は長く、受け継がれていたのだ。このことと幕政の求心力の低下、および宋学の流行は、無縁ではない。

 日本の国体は権威と権力の分離で語られがちであるが(権権二分論という)、それは戦後の体制を過去に投影し、また日本の歴史そのものが、シナなどに比べて、国家的危機に直面することが比較的少なく、相対的に安定した社会を形作ってきたからであって、これこそが国体であるというのは、一知半解の見解というべきで、国家的危機に権力と権威の統合の動きが起こるのは、戦国の末期に信長・秀吉・家康が皇室を奉戴する形で、天下一統を成し遂げようとしたことでもわかるし、また、幕末、ペリーの来航に端を発する文明の危機に、皇室による国家統一の動きが起きたことでも容易に理解できよう。
 日本の国体は、権威と権力の分離統合、その緊張関係によって、そのダイナミズムを理解する必要があるのである。
 後醍醐天皇の王政復古討幕運動は、その嚆矢である。

 


 

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この記事へのコメント

2012年06月16日 23:46
網野は単に反日だな。後醍醐天皇さまは、本当に民が幸せになることを思った天皇さまである。その為の祈祷であった。それを利権ほしい武士を煽った輩がいた。いつの世も嫌なこったが、崇高な心や真理が救いとなる。

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