マイノリティ・リポート

 目的は手段を正当化するのか、それとも手段こそが目的を正当化するのか。
 このことはマキャベリが論じて以来、西洋文明の重要なテーマの一つであり続けてきた。かつてドストエフスキーが『罪と罰』で扱ったのもこれだった。
 前回、南洲翁の辞世をテーマとして、王道という、いわば、正義のあり方について論じたわけだが、そこには先のテーマが重要な論点として含まれていた。 もちろん私の主張は、正義はあるのか、ないのか、という単純なものではなく、正義はある、しかし、正義という目的実現のためには、実現のための手段が正当でなければならない、というものである。
 そして、さらには、何をもって正義とするのかという、哲学的な命題まで踏み込んで考えていかなければならないものだと考えている。そうでなければ、正義という言葉が安易なイデオロギーに吸い取られてしまいかねないからである。それは人間社会にとっての不幸に行き着く。

 ここ二週間ほどパソコンが故障したままだったので、インターネットが使えない環境にいたのだが、その間に、スティーヴン・スピルバーグの『マイノリティ・リポート』という映画を見た。
 マイノリティ・リポートとは少数派の報告のことである。
 私がこのブログで展開している主張は、南洲翁の精神と事跡を通じてつかんだと確信した、日本の伝統に基づいて発信されたものであり、まさにマイノリティ・リポートなわけだが、一般社会で行なわれている議論を乗り越えて、少しでも真実に近づきたいと考えている人、あるいは現に近づいた人の意見は、どうしてもマイノリティに属さざるを得ない運命にある。
 しかし、その信念が強ければ強いほど、これを多数派にしたいとの希望を抑えることができないだろう。マイナーであるよりはメジャーでありたいというのは、人の自然の情だからだ。その信念が、支持者が多かろうが少なかろうが、すなわち世に受け入れるか否かに関わらず、真実は真実であるとの安定した信念に至るまでの道のりは大変遠いものである。
 仏教のように俗世間から脱することで、このことの難しさを克服しようとした宗教もあるが、一方で、飽くまでも世俗に混じながらこのことを克服しようとした宗教もある。儒教がそれだが、小林秀雄によれば、『荘子』はそのことの難しさを、孔子をして、「陸沈」という言葉で語らしめたそうだ。 
 世間に迎合して、すなわち大勢に身を任せて生きることは、そのことの苦労をいくら言い立てたとしても、重力に身を任せて、水に自然と沈むようなもので安易な生き方である。世間を捨てるのでもなく、世間に捨てられるのでもなく、重力に逆らうように、陸という水のないところ、すなわち世俗の只中で非世俗的に生きるということこそがもっとも難しい。
 陸沈とはそういう生き方のことである。
 これは孔子の生き方そのものであったし、また小林秀雄のものでもあった。
 もちろん、そういった生き方の最も激しく、最も大きな一例として、南洲翁の人生が挙げられなければならないだろう。

 ところで、映画『マイノリティ・リポート』のマイノリティとは、その意味でのマイノリティというよりも、単に多数決の原理から見た少数派の意味でしかない。
 しかし、この映画自体は近未来社会を舞台としたエンターテイメントとしてよくできていて、以前観て面白かった記憶があったので今回改めて観てみたのだが、なるほどスピルバーグのエンターテイナーとしての才能が躍如としている。
 ここでこの話をしようというのにはわけがあって、前回南洲翁の新発見の辞世の真偽をめぐって、翁の精神が王道にあったのか、それとも覇道にあったのか、すなわち目的は手段を正当化するのか、手段こそが目的を正当化するのか、という観点から論じたのだが、この映画もまた、分かりやすい形でこのことを隠れたテーマとしていることに気づいたからである。

 トム・クルーズ扮する主人公ジョン・アンダートンは、かつて誘拐事件によって一人息子を失った経験から、同様の事件が二度と起こらぬよう、犯罪予防局の主任として働いている。
 犯罪予防局とは、殺人の予知能力を持った三人のプリコグと呼ばれる異能の人間の透視した未来を手がかりに、殺人を未然に防ぐために設置された機関である。プリコグの未来透視は、断片的ながら正確で、このシステムの生みの親の一人、ラマー・バージェスは、ジョンの上司として犯罪予防局を指揮し、このシステムのアメリカ国内への普及に尽力している。
 もはや首都における計画的殺人はなくなった。発作的殺人も減少の一途をたどり、システムは正常に機能しているように見えた。
 しかし、実は重大な欠陥を抱えており、それを疑った司法省は調査に乗り出す。
 ラマーはシステムの欠陥を把握しているのだが、正義の実現が自己の功名心と密接につながっていたため、このシステムを守るため(それは自己の名誉と成功を守るためでもある)、手段を選ばぬ男になっていたのである。
 もちろん殺人事件を未然に防ぐという社会正義に誰も異存などあるはずがない。しかし、その社会正義を実現させるために彼が用いた手段が問題であった。
 ラマーは正義を共有しているはずのジョンを、実は、世間の同情を買っている、システム普及のための広告塔と考えていた。誘拐殺人事件の被害者でもあるジョンがこのシステムを、先頭に立って支持している以上、世論の賛同を得やすいとし、利用していたのである。
 ストーリーは錯綜するので、ここでの要約は難しいのだが、ともかくラマーはシステムの直面している危機を乗り切るため、ジョンを罠に嵌め、それを切り抜けようとするジョンは、ラマーが手段を選ばぬようになる、原点となるある事件に行き着き、逆に最終的にラマーを追い詰めることになるのである。
 しかし、ラマーがジョンを陥れた張本人であることはラスト近くになってようやく判明することであって、そこまでの展開がスリリングに描かれているわけだ。スピルバーグの演出家としての妙手はそこで遺憾なく発揮されている。
 追い詰められたラマーは最終的に、映画では描かれていなかった、そもそもこのシステム構築に取り組むことを決意した当初の、プリミティヴな正義感に立ち返った決断をすることで事件は決着した、と見ていいのだが、結局のところ、このシステムの欠陥が明らかになって、ラマーやジョンの希望を託してきたシステムは廃止されるに至る。すなわち、彼らの正義実現のための努力は、公論とはなりえなかったのである。
 映画の鑑賞者は、息子を失った経験から、同じ苦痛を味わう人が出てこぬよう、犯罪防止の正義のために身命を擲っている一方で、息子を失い、その結果妻とも別れた苦痛から、麻薬の常習者となっているジョンに同情するのだが、この同情こそ、民衆の正義心の端緒である。
 俗に義理人情というが、この人情が義理への道を開く。
 このことは北朝鮮の拉致問題における拉致被害者家族に対する日本国民の同情が、北朝鮮の非道に対する義憤と背中合わせであったことを思い合わせるとみると分かりやすいだろう。
 しかし、同情は不安定な感情であるが故に、正義などないというニヒリズムに覆われた日本社会では、万難を排して、北朝鮮の非道を正すという国家規模での行動にまで統合していくことができないでいる。そのことで核ミサイルを向けられて日本の安全保障が危機に瀕し続けているこの状況を、日本国民は克服できないで、他力本願の心情に浸ってしまっているのだ。他国など当てになるものではないにも関わらずだ。
 正義を行うという断固とした態度が、政治的に必要なときもあるということの証左である。

 最終的にジョンは、危機を乗り切ることでかつての妻との関係が修復され、新たな生命が妻のお腹に宿ることで話は終わる。
 しかし、世の殺人事件をなくし、犯罪被害者遺族の苦しみをなくすという、彼のこれまでの正義実現のための努力は空しくなってしまったわけだ。

 一方のラマーは、プリコグの予知した未来を未然に防ぐことで、予知した未来を変えてしまうという、本質的な矛盾を抱えたシステムを犯罪予防に役立てようとしたわけだが、その確立の過程で、直面する問題を乗り越えるために、いくつかの殺人を犯してしまう。つまり、殺人という世の中でもっとも許しがたい悪をなくすために、殺人を犯すという矛盾を犯してしまったわけで、ラマーの、殺人をこの世からなくすという正義は、どのような手段をも正当化しうるという悪魔の思想に魅入られてしまったことになる。 
 義理と人情が乖離してしまった結果といってよい。
 その乖離には功名心も介在していたであろうし、目的達成のために正当な手続きを踏むという忍耐を欠いたためでもあったろう。

 いずれにしても彼らの正義は、一時の成功は収めても、公論となって、社会的伝統として永い命脈を保つことはできなかった。
 彼らの正義が決して間違っていたわけではない。
 問題は彼らの物事に臨むその態度にあったとはいえないだろうか。
 
 この難問の回答を、私は、最近の事例で言えば、山口光氏母子殺害事件の被害者遺族である本村氏に見る。
 あの許しがたい事件が起きた当時、本村氏が「犯人が出所してきたら、必ずこの手で殺す」と言ったとマスコミで報じられていたように記憶している。
 遺族感情としてはそうもあろう、少年法に守られて犯人が軽い処罰で済むようなら、社会に一石を投じるためにも、ぜひそうしてもらいたいものだ、と無責任に思う一方で、そんな激情が犯人の出所まで保てるわけがない、とニヒルに構えていたことを覚えている。
 しかし、本村氏の取った態度は、私の想像したいずれとも違っていた。
 氏はその激情を理性で抑えて、社会的に正当とみなされうる手段・手続きで、少年法による裁判の不当、彼を襲った事件の不条理と戦ったのである。
いわば人情と義・理をしっかりと一本の線で結んだのである。
 不安定な感情は、理性と結び付けられなければ一本立ちのかなわぬものである。それができなければ、あのような長い戦いを戦い抜くことはできなかっただろう。
 身を焦がすような激しい怒り、憎しみを、理性で抑え続けた氏には敬服の念を禁じえない。
 多くの国民が私と同じ感情を抱いたはずだ。
 そのことが事件を多くの国民に他人事と受け取らせず、注視を継続させ、やがて公論となって、山を動かした。

  
 手段こそが目的を正当化する。
 それを最大規模で、日本の歴史で、その最も重要な時代状況下でやってのけたのが西郷南洲翁であった。それが南洲翁について調べ、王政復古維新の過程を検証してつかんだ実感であり、私の確信である。

 翁が巨大な感情の人であるというのはもはや通論と言っていいと思う。
 私もそれ自体に異論はない。
 翁は間違いなく激しい情熱に動かされた人ではある。
 しかし、それを様々な修養と経験によって抑制し、窮め抜いた義と理に整合させたところに、私はその偉大さを見る。
 その私の南洲翁観から言えば、近日、翁の辞世として新聞に紹介された漢詩は南洲翁の物ではない。
 先日入手した、賛助会員に送られてくる顕彰館の機関誌「敬天愛人」によると、前回紹介した新聞の意見はやはり現館長の高柳氏のものであった。
 意訳もそこに記されている。
 引用しておくと、

 肥後や豊後への道もすでに窮まった。骨を埋めるために故山をめざそう。維新の理想実現も今はもはや空しい。半生を振り返ると功罪二通りの跡を残してしまった。泉下で一体どんな顔をして、斉彬公にお会いすることだろうか。
 
 新聞記事と微妙に違うところもあるが、ほとんど同じである。
 前回指摘した「覇図空」が、解釈では、覇の字が見えず、維新の理想実現が空しくなってしまったことになっている。
 高柳氏はこの漢詩が南洲翁のものである根拠をいくつも挙げているが、どれも頭のいい人が陥りがちな、こじつけのように思われる。そもそも理屈は何にでも引っ付くのである。
 特に漢詩の内容に関しては、いくらでも反証は可能だ。
 「覇図」が「維新の理想実現」にすり替わってしまっているのはすでに指摘したところだが、もちろん南洲翁が維新の理想を覇図と表現することはありえない。高柳氏もそれがなんとなくわかっているからだろうが、この問題の二文字を改変してしまっている。この矛盾を氏は避けて通ることができないだろう。

 また、氏は、この詩を長井村での解軍時に詠んだものとの前提で、考証を進めているのであるが、「骨を埋めるために故山をめざそう」とのくだりに関して反証を挙げておく。
 後に政府軍に囚われる事になる河野主一郎が尋問に答えた口供によると、翁・桐野利秋・村田新八・別府晋介等同席の長井村における会議において、河野が可愛岳を越えて豊後に脱出する方策を建議すると、桐野はこれに同意、村田は黙し、別府・中島健彦らは鹿児島に入り、再挙を謀ることを提案、議論は紛糾し、最終的には、南洲翁が口を出して、まず三田井に出て、それから決めても遅くはない、ということで、はじめて議論は定まったと陳述している。
 つまり、長井村の時点で、翁が「骨を埋めるために故山をめざそう」と詠むのは辻褄が合わないのである。河野によれば、いよいよ鹿児島を目指すことに決したのは、三田井においてであったという。
 また鹿児島に帰るのが、骨を埋めるためではなく、再挙を謀るためであったことは、蒲生までたどり着いた翁が、奇兵の運用に長けた野村忍介に、蒲生城址への滞留を命じ、鹿児島突入後、募兵を行なって、蒲生最寄の者に蒲生城址に駆けつけるよう呼びかけていることでも明らかだ。

 要するに翁がたとえ長井村でもあのような漢詩を詠むはずがないのである。

 以上で十分だと思う。
 後は読者の判断に任せて、このマイノリティ・リポートをひとまず終えることにする。
 


 



 

 

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