西郷隆盛の辞世

 先日(九月十二日)の朝日新聞朝刊に「西郷 辞世の漢詩か」と題された記事が載った。
 これが、南洲翁夫人いとの実家、岩山家の現当主の宏至氏が仰っていた、翁の辞世の句か、と思わず見入った。
 もし翁の本物の辞世なら、確かに世紀の大発見であり、鹿児島の人々や翁のファンにとって大変興味深いものだろう。
 西南戦争について調べ、翁の伝記を書き上げた自分の手ごたえでは、翁の辞世が存在するということに半信半疑。
 城山に立て籠もった子弟を前に読んだことは十分考えられても、それが現在に伝わっている可能性はほとんどなかろう、と漠然と考えていた。
  とは言え、一方では、辞世発見の知らせに好奇心を掻き立てられていたのであったが。

 記事によると、政府軍の従軍医師であった山崎泰輔の日記、一八七七年九月二十四日の条、すなわち南洲翁が城山で玉と砕け散った日の記述にあったとのことだ。

 句は漢詩で、次のとおり。

肥水豊山山路已窮 墓田帰去覇図空 半生功罪両般跡 地底何顔対照公

 西郷隆盛
 

 記事に付された大意は、

「肥後や豊後への道は窮まった。故山に帰り骨を埋めよう。維新完遂のため覇を唱えたが、今となってはむなしい。半生を振り返ると功罪両様の跡が残った。死後にどんな顔をして、照国(島津斉彬)公にお会いすることだろうか」

 意訳には何ともしまりがないが、それはさておき、読者はこれを読んでどう思うだろう。 
 やはり西郷は悔いを残して、城山に果てたのかと思うか。
 それとも順聖公斉彬にあわす顔がないと恥じ入る西郷の心に、汚れなき心を見るか。

 記事に付された原口泉・鹿児島大学教授のコメントは、ゆるゆるで取るに足らないものだが、少なくとも、日記を入手し、これを公表した鹿児島の西郷南洲顕彰会では、南洲翁の辞世である可能性が十分あると見ているらしい。
 根拠は、記事によれば、漢詩作法の平仄が、翁の詠んだ漢詩に似通っているということが一つ。
 もう一つは、翁の息子などを通じて、政府軍側にも伝わった可能性がある、ということらしい。
 ということは、可愛岳突破の前、すなわち翁が進退窮まった長井村で薩軍の解散を宣言した前後に詠んだ漢詩ということになる。ここ長井村で、薩軍に従軍し、負傷していた息子の菊次郎は、政府軍に投降した。つまり病院に収容され、軍医山崎と接触した可能性がある、ということだ。
 しかし、この線で可能性があるとは言えても、この漢詩が南洲翁の物であることを論証する上で、確かなものとは言えない。
 筆跡ならともかく、平仄の類似性がどの程度実証性を持っているというのか。また、さらには、誰と誰の接触の可能性といったら、戦場という大混乱のさなかでは、そんなものいくらでもこじつけることが可能だろう。何といっても西南戦争は、同郷の親兄弟、友人、師弟が敵味方に分かれて戦った戦争だったのであり、骨肉相食むの悲痛な叫びは半年もの間戦場にこだまし続けていたのである。

 あえて断言するが、この詩は南洲翁のものではない。
 証拠は漢詩そのもの、そこに表現された言葉、思想にある。
 翁を顕彰する立場の顕彰会がここまで、翁の言葉遣い、思想に鈍感なのは、少し驚きだ。顕彰会は一体、南洲翁の何を、どこを顕彰しようとしているのだろう。
 もちろん、それは精神である、と答えるはずだ。
 しかし、精神とはすなわち思想であり、言葉であり、それを具体化した行動ではないか。

 意訳は誰のものだか知らないが、問題は、漢詩中の「覇図空」のくだりを「維新完遂のため覇を唱えたが、今となってはむなしい」と訳しているところだ。
 一般の読者にはぴんと来ないかもしれないが、この解釈は、悪魔が実はいいやつであり、神こそが実は悪だった、というほどにおかしい。こういったテーマは、通俗小説には格好の題材を提供することになるかもしれないが、要するに語義矛盾である。

 維新とは何か。
 これは『詩経』にある言葉で、王朝の再興を意味する言葉である。すなわち王道の復活のことだ。
 一方で、覇とは、ペナントレースの覇者といった表現があるように、要するに実力主義で、手段を選ばぬ、力による支配のことである。
 
 孟子は覇道と王道について次のように言っている。

「力を以て仁を仮る者は覇たり。覇は必ず大国を有(たも)つ。徳を以て仁を行う者は王たり。王は大を待たず。
 力を以て人を服する者は、心服せしむるに非ざるなり。力贍(た)らざればなり。徳を以て人を服せしむる者は、中心より悦びて誠に服せしむるなり。七十子の孔子に服せるが如し。詩に、『西より東より、南より北より、服せざる無し』と云えるは、此れこの謂いなり。」(共に「公孫丑章句上」)
 
 
 つまり、維新とは王道、すなわち道徳性を骨格とする言葉であり、覇とは、道徳を借り着となし、力を骨格とする言葉なのである。
 現代人がこれらの言葉に対する感性を鈍くしていても仕方ないが、江戸時代の学問にとって、王道・覇道の別は大きな問題だったのであって、『論語』や『孟子』を読み込んできた幕末の尊皇家がここを混同するはずがないのである。
 訳者は、南洲翁が王道を興すために、敢えて覇道を為したと解釈していることになる。つまり暗に、南洲翁を、目的は手段を正当化するというマキャべリストの体現者と見ているのだ。
 目的は手段を正当化するというのは、『孟子』が言うように覇道である。
 王道は、敢えてそれをしない。
 王道という理想、すなわち目的は、手段を正しく行なうことによって、ようやく正当化されるのである。なぜなら、そうでなければ、仁を以て民を心服せしめることができないからだ。

 確かに南洲翁をマキャべりストとし、これを高く評価する戦後知識人はいる。
 たとえば、国際政治学者の中西輝政氏は、八月十八日の政変で、会津と手を組んで、長州を追い落とし、状況が非となると長州と結んだ南洲翁をマキャベリストと見ているが、事実はそうではない。
 八月十八日の政変の当時、南洲翁は沖永良部島に遠島中であって、これを主導したのは島津久光であった。島から召還された南洲翁は、久光の意を受けて、京都における復権を目論んだ長州を、再び会津や一橋と組んで撃退したわけだが、これは兵を以て御所に迫った長州を、その形跡から覇道を為すものとみなしたからである。
 しかし、その後、坂本龍馬ら土佐勢の斡旋で、木戸孝允と会った翁は、木戸の長州冤罪論を聞いて、「ごもっとも」とその論に服し、以後、薩摩藩は公式に長州冤罪論の立場に立つのである。
 不審な方は、かの有名な、木戸が書いて、龍馬が裏書したという「薩長同盟」とされる文書をよく読まれよ。 
 あれは「軍事同盟」ではない。
 今後軍事同盟に発展する余地はあっても、その趣旨は、長州冤罪論が朝廷で採用されるよう、すなわち薩摩藩が、防長二州に逼塞している長州に代わって、以後、長州冤罪論という名分条理を正す運動をしていくことを確約した文書なのである。
 そして事実、その後の薩摩藩は長州冤罪論に立って、伝統的な正しい手続きを踏んで、朝政を正そうと尽力するのである。
 翁はマキャベリストでもなんでもない。
 王道の実践を誠実に心がけた勤皇の士ということしか見えてこないのである。

 事実、翁は明治になって討幕の事業を振り返って何と言っているか。
 たとえば、以前も紹介した、私学校における、戊辰戦争戦没者の慰霊祭を催した際に寄せた祭文では

 それ戊辰の役に名を正し義を踏み、血戦奮闘して斃れし者はすなわち天下の善士なり。

 と言っている。
 戊辰の戦は名の正しい義戦であったと言っているのである。
 まだ疑わしい人は遺訓の有名な一条を思い出していただきたい。
 戊辰戦役終了後、鹿児島に起臥していた翁は、新政府の腐敗を聞いて、「今と成りては、戊辰の義戦も偏に私を営みたる姿に成り行き、天下に対し、戦死者に対して面目無きぞ」とて、しきりに涙を浮かべたのではなかったか。
 ここでも戊辰は義戦なのである。
 このことは史実においてもそうだった。
 むしろ「勝てば官軍」の思想に凝り固まって、京都へなだれ込んでいったのが東軍の方であったことは、以前指摘したことがある。

 いわゆる征韓論にせよ、西南戦争にせよ、これらのことの反省、自戒に立った天下へ向けての行動だったと見るのが、素直な見方であろう。
 私学校は、いわば王道の士の養成学校であった。

 福沢諭吉は「丁丑公論」において西南戦争における南洲翁の弁護に努めつつも、なぜ第一に薩摩人の人民としての権利を述べ、政府の圧制無状を咎めなかったのかと批判しているが、実は翁はこれを主張しているのである。
 福沢は、要するに、戦争の大義名分をそれにして、なぜ天下に公布しなかったのかと述べているわけだが、翁は、王道という目的を達するための手段、手続きを重んずる。
 戦争に勝つために、闇雲に天下に檄など飛ばすことをしない。
 天下に檄を飛ばす権限は、皇室にあって、臣下には無いのだ。だからこそ翁はまずは、皇室を今や私している感のある政府、今戦っている当の相手である政府を飛び越えて、その言いなりになって、征討将軍として九州に来ている皇族有栖川宮への諫言という形を取った。

 明治十年三月五日付の宮宛の文書に次のくだりがある。

「…然る処去る九日には征討の厳命を下され候由。畢竟政府においては、隆盛等を暗殺すべき旨官吏の者に命じ、事成らざる内に発露に及び候。この上は人民激怒致すべきは理の当然にこれあるべく、只激怒の形勢を以て征討の名を設けられ候ては、全く征討をなさんため暗殺を企て人民を激怒なさしめて罪に陥れ候奸謀にて、益(ますます)政府は罪を重ね候訳にてはこれある間敷(まじく)や。」 

人民の激怒は理であって勢ではない。そうであるにもかかわらず、本来理から判断すべき名分を、勢から判断して、征討の名を設けるようでは、全く政府は、鹿児島県民を征討するために暗殺を企て、挑発して罪に陥れたのだと判断せざるを得ない。
 翁はここで薩摩人の人民たる権利を述べ、政府の圧制無状を訴えているのである。 
 ここに言う権利とは、英語の「ライト」の訳であり、これは正しさや正義のことであって、本来なら、義を権(はか)る、あるいは理を権(はか)るということで、権義、あるいは権理と訳されるべき言葉だ。利を権(はか)る、では誤解を生んで、私利私欲を権ることを積極的に肯定することになりかねない。というか、すでにそうなってしまっている。
 そんな低次元な話ではないことは、福沢や翁の言葉を読めば一目瞭然だろう。
 
 ここから翁は政府への批判を一歩進める。

「恐れながら、天子征討を私するものに陥り、千載の遺憾此の事と存じ奉り候。」

 この批判は翁の陥った傲慢さの証として、幾分の驚きと共に取沙汰されるくだりであるが、これは別に驚くような批判ではない。言葉に対する鈍感さが生んだ誤解に過ぎない。
 ここまでの文脈から言えば、これは政府への批判であり、天皇への批判ではない。政府が天子である天皇と、条理に基づくものであるべき天子の征討を、独占し、自己の都合がいいように私物化していることを批判しているのである。「私を営む姿に成り下がっている」という先の遺訓の嘆きの反省・自戒に立っているのは、明らかであろう。
 確かに征韓論争を利用して翁らを政府から排除した大久保らが、目障りな存在の鹿児島と私学校をつぶすために仕組んだとするならば、この批判は正しい。事実、翁は理に当って進んで、そう判断したのである。

 翁の批判は続く。

「殊に万国に対せられ何等の名義相立ち申すべきや。譬え政府において当県の人民は誅鋤(ちゅうじょ、皆殺しにすること)し尽さるとも、必ず天地の罪人たるには疑いなく候得ば、先ず政府首謀の罪根を相糺され、その上県下の人民暴激の挙動これあり候わば、如何様共厳罰在らせらるべき御事と存じ奉り候。」 

 全く理路整然としている。
 そこに逆賊にされたことによる思考の混乱は見られない。
 翁が理に当たって進んでいることの証だ。

 最後に翁は、政府の不義に加担する有栖川宮への諫言でこの文書を締め括っている。

「此の時に当り閣下(征討将軍有栖川宮を指す)、天子の御親戚に在らせられながら、御失徳に立ち至らざる様、御心力を尽さるべき処、却って征討将軍として御発駕相成り候儀、何共意外千万の仕合に御座候。就いては天に事(つか)うるの心を以て能く御熟慮在らせられ、御後悔これなき様偏に企望(希望)奉り候。因って口供(暗殺犯の供述書)相添え進献仕り候。誠恐頓首。」

 皇族は天子、すなわち天皇の道徳に基づく政治、すなわち王道を輔弼すべきところ、その逆の行いになっていると諫言を行なっているのである。

 そして、この王道の精神は最後まで変わらなかった。

 城山陥落の数日前、河野主一郎他一名が、薩軍の正義を述べ、曲直を判然とさせるため、政府軍に投降することにした。実はこれには南洲翁の助命嘆願の意図が隠されていたのだが、それを言えば翁が許可しないことは明らかだったので、河野はこの意図を秘して翁の許可を得たのだ。
 翁は河野の意図を受けて、次のような文書を送って城山に籠もる薩人たちの最後の奮起を促した。

「今般、河野主一郎・山野田一輔の両士を敵陣に遣わし候義、全く味方の決死を知らしめ、且つ義挙の趣意を以て大義名分を貫徹し、法廷において斃れ候つもりに候間、一統安堵し、この城を枕にして決戦致すべく候に付き、今一層奮発し、後世に恥辱を残さざる様に覚悟肝要にこれあるべく候なり。」

 つまり、河野らによって、薩軍の正義は天下後世の知るところとなるから、安心して、最後まで戦い抜いて、これを貫徹し、その大義名分を完結させよ、と激励したのである。
 この文書は、城山陥落の二日前、九月二十二日付。
 そして、彼らがこれを貫徹したことは、二日後の歴史の伝えるところである。

 このように大義名分を貫徹し尽くした南洲翁が、絶望の中からの再起を期して、可愛岳突破を図る直前の解軍時の長井村で、あのような漢詩を読んだはずがないのである。
 南洲翁は決して覇を唱えなどしていない。
 覇の企図が空しくなったのではない。
 そもそも王道精神においては、覇を唱えること、それ自体が空しいのだ。

 開戦当初から一つ条理に斃れることを言っていた翁が、自己の半生を振り返って功罪両様の跡が残ったなどと、感傷的な、他人事のような詠嘆に耽るはずがない。もし、そうだとしたら王道の英雄として崇拝するには実につまらぬ男ではないか。

 漢詩に見られるような南洲翁に対する見方は、どう見ても明治政府の方についた側のものである。
 慶応の功臣、明治の賊臣という評価がそれだ。
 おそらく先の漢詩は、維新の功臣敗死の報を受けた山崎の感慨を詠んだものだろう。

 開戦以来、政府、および新聞などにおける翁に対する罵り悪言が甚だしかったことは、福沢諭吉が伝えるとおりである。
 征韓論における同志であり、西南戦争において、薩軍に戦勢が有利であれば挙兵する気で様子を窺っていた板垣でさえ、人吉の陥落を経て、戦勢非と見るや、朝野を覆う論調に同調せしめ、口を極めて罵る言説を東京曙新聞に寄稿せしめたほどであった。
曰く
「今回の挙たるや、大義を失い、名分を誤り、実に賊中の賊なる者にして、前の江藤(新平)・前原(一誠)が輩より数等の下級に位せり・・・・僅かに自己の私憤を発洩せんとして人を損じ、財を費やし、而して逆賊の臭名を万載に流すとはああ何の心ぞや。」
 この、かつての盟友を、手のひらを返したように、当時の最大限の言葉で罵倒している彼の姿こそ、醜悪であろう。かりに一時の方便とはいえ、だ。

 ともかく西南戦争には、人民の権理を守るという、王道の要となる意義があった。あくまでも政府の圧制無状に対する抵抗であって、皇室への反逆ではなかった。少なくとも翁、そして最後まで翁に付き従った薩摩隼人たちはこのことを固く信じて疑わなかったはずだ。そうでなければ、あそこまで絶望的な状況の中を最後まで戦い抜くことができるはずないではないか。
 翁は泉下の順聖公・島津斉彬に王道を為すことについて何ら愧ずることはなかったと私は確信している。あるとすれば、順聖公の遺志である王政復古維新を完遂することができなかったことを詫びることぐらいだったはずだ。


 もうすぐ九月二十四日、南洲翁の命日がやってくる。
 だからこそ、顕彰会はこの時期に翁の辞世と思われる漢詩を公表したのだろう。
 しかし、それは、とてもじゃないが、南洲翁の辞世と言える代物ではない。
 この翁の思想に関する鈍感さは話にならない。 
 これを機にもう一度、我々は南洲翁の言葉を、そこにこめられた言霊を見つめなおすべきではないだろうか。
 


 


 
 

 

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この記事へのコメント

右京
2009年09月17日 09:32
おはようございます。
 以前、貴サイト『西郷隆盛』の掲示板に書き込みをさせて頂いた者です。
 ご存知と思いますが、毎日新聞ウェブサイトの記事によると山崎医師による当該記述には推敲の跡があるそうです。
http://mainichi.jp/seibu/news/20090912sog00m040005000c.html
 この事実も、西郷さんの辞世ではなく山崎の自作であることを示しているように思われます。

 地元鹿児島の南日本新聞のウェブサイトには、9月17日朝現在も、この件に関する記事が一切掲げられていません。どういう事情なのか分かりませんが不思議です。
哲舟
2009年09月17日 12:19
右京さん、ご無沙汰してます。
早速のお知らせありがとうございました。
やはりそうですか。
山崎某の作と見てまずは間違いなさそうですね。

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