チャンネル桜の情報戦 (その六)

 最近、このブログを随筆を書くような姿勢で書いているので、興味が脇道にそれがちで、なかなか本題に移れずにいる。
 ここで本題としているのは、チャンネル桜の戦いの背後にある伝統、すなわち、楠木正成(建武の中興、新政とも言う)-西郷南洲翁(王政復古維新)-大東亜戦争という、左翼がかった人たちに否定されがちな、一連なりの伝統のことである。
 これらの歴史上の大事件に対する評価は、大変微妙なものがあり、適当に論ずるわけには行かないので、今、まずは「建武の中興」に対する勉強をしなおしているところである。
 その中で網野善彦氏の「建武の中興」に関する著作『蒙古襲来』『異形の王権』を読んだので、これについて感じたところを書いておきたい。

 今、「建武の中興」と言ったが、網野氏は一貫して、この伝統的な呼び方を否定して、「建武の新政」という言い方をしているので注意が必要だ。というのは、確かに彼の用いる名は著述の内容を表しているからである。
 彼が新政と言う理由は、その中心人物たる後醍醐天皇のパーソナリティーや政治の内容が、それまでの皇室のあり方と違うからということだが、よく読めば、戦後の進歩的知識人を捉えた皇室観と異質であると言うニュアンスを含んでいる。
 氏の『異形の王権』などは、その名のとおり、後醍醐天皇の政治の異質性に着目した作品で、モチーフとしては、面白いことは面白く、それなりに読めるのであるが、これまでの同質性に重きを置いた伝統的な中興のイメージに対する反発が随所に見られて、この同質性、すなわち伝統的側面に対する考察が疎かになっているので、歴史観としてはバランスを欠いていて、幼稚な印象は否めない。
 新は新でも、温故知新的な部分に対する配慮が欠けているのである。
 氏の論述は、客観性の名の下、事象を側面から眺めているだけで、私のざっとした印象では、建武の中興という歴史事象の表面のざらざらした感触を、ことさら強調し、それに見合った史料を並べているだけという印象を受ける。
 つまり、氏はこの課題に全人格的に取り組んでいないが故に、政治的形跡のみを語って、その探究が情実にまで及んでいない。
 それでもそれなりに面白く読めるところが不思議だが、それはおそらくは「建武の中興」という、しっかりした歴史認識の土台が私の中にあって、そのことからくる歴史感の安定感があるからだろう。網野氏の書いていることは、私の「建武の中興」感に彫りを付け加えてくれるのである。

 氏が『異形の王権』の中で、結び近くに書いている部分には思わず笑ってしまった。

「・・・そして後醍醐は、非人を動員し、セックスそのものの力を王権強化に用いることを通して、日本の社会の深部に天皇を突き刺した。このことと、現在、日本社会の「暗部」に、ときに熱狂的なほどに天皇制を支持し、その権力の強化を求める動きのあることとは決して無関係ではない、と私は考える。いかに「近代的」な装いをこらし、西欧的な衣裳を身につけようと、天皇をこの「暗部」と切り離すことはできないであろう。それは後醍醐という異常な天皇を持った、天皇家の歴史そのものが刻印した、天皇家の運命なのであり、それを「象徴」としていただくわれわれ日本人すべても、この問題から身をそらすわけには決していかないのである。」 

 氏が、性の解放という価値観に拘っているのはさておき、彼から見れば、権力の強化までは求めなくとも、野にあって皇室の尊さを訴える私などは、日本社会の暗部に属するものということになるようだ。
 氏の歴史観がなぜ幼稚なのかといえば、明治が江戸時代を暗部と規定し、戦後が戦前を否定したように、パラダイムが変われば、明暗は容易にその位置を逆転する相対的なものに過ぎないというところに思いが至っていないからである。つまり、パラダイムが変われば、彼が無条件に信仰している自己の立場が、暗部に転落することもありうるということがわかっていないのである。
『異形の王権』が書かれたのは、一九八六年、氏は一九二八年の生まれだから、六十に手が届こうという年齢において、歴史家としてのこの未成熟さは話にならない。
 しかし、自己の立場を明るい所、すなわち啓蒙的なところに置いて、日本の未開性を断罪するかのような、この傲慢な態度はどこから来るのだろう。
 その鍵を解くヒントは、彼の言葉遣いにある。
 「天皇制」という言葉がそれだ。
 これは皇室打倒をもくろむ共産主義者の用語で、コミンテルンの指令を翻訳したときに生まれた言葉だ。
 そもそも日本人の感覚に、皇室の存在を制度と捉える発想はなかったのである。それを、そんな発想のなかった大東亜戦争以前の歴史に投影することが甚だ不自然であることは自明のことであろう。
 それは彼の思想を反映したものに過ぎない。
 何のことはない。
 彼もまた左翼であり、唯物史観に毒されているのである。
 彼らにとって歴史は自己の思想的立場を正当化するための道具に過ぎない。これは無私で研究的対象に臨まなければならない学問的態度とは対極的な態度だ。
 そもそも歴史否定の思想である唯物史観に囚われたものが、歴史を論ずること自体、笑止なのだ。

 氏は続けて言う。

 「天皇と天皇制の問題は、こうした形で今もなおわれわれの前に存在し続けている。その意味でかつて「皇国史観」が後醍醐に与えた「中興の帝」という評価、あるいは近年村松剛が強調する「後醍醐帝なくして明治大帝なし」という評価とは全く逆の視点から、天皇史上、特異な位置を占める後醍醐の果した役割については、さらに徹底した学問的追究がなされなくてはなるまい。」

 「皇国史観」も戦前の歴史観を否定するために作られた戦後知識人の造語だが、歴史の異常性に着目して、そこを徹底的に追究せよという、歴史否定に行き着きかねない、それこそ異常な情念は一体何なのだろう。
 歴史を科学として捉えると称する唯物史観が非常に感情的なのは、自己矛盾というべきで、それは、自己の辞任について、「何か他人事の様」との不意の突っ込みを受けて、「私はあなたと違って自分を客観的に見ることができるのですっ」と、それこそ感情をむき出しにして答えた、某国の数代前の首相の滑稽な姿とだぶってくる。よく知りもしない記者に向かって、あなたと違って、と言ったところで客観性はなかろうに。
 私は網野氏の正常性を蔽おうとする暗い情念に対して「造反有理」「革命無罪」といった共産主義のアナーキーな用語を連想してしまうのであるが、それがその主張に反して、常に感情の焔を伴っていることは、過激な共産主義がしばしば凄惨な粛清事件を巻き起こしてきたことでも明らかであろう。
 氏の暴走を止めているのは、歴史学者は決して史料の外に出ることができないという外枠があるためだが、活動家はこの轍を容易に外れてしまうのである。

 氏はこの論文の結びを、次のように収束させている。

「それは先のような天皇、天皇制の問題を、日本の特殊な問題としてしまうのではなく、人類史の普遍的なあり方の中においてとらえ直すためにも、解決されなくてはならない課題である。こうした巨大な課題の解決を未来にゆだね、ひとまずこの粗雑な考察を終えることとしたい。」
 
 日本固有の皇室を、人類史の普遍的なあり方でとらえなおすことを無益とはいわないが、その場合、彼が人類史の普遍的価値規範としているものが一体何なのかが問題とされなければならないだろう。そうでなければ、下手をすれば、それこそ、文明の固有性、各文明の特殊性を認めない、覇権主義的で、ファシズムとなんら変わらぬ、横暴な行為を誘発しかねない。共産主義を採用した多くの国家がそうであったように、だ。
 どこまでも生きた伝統であり、歴史的存在そのものである皇室を、歴史否定の価値規範である唯物史観で腑分けすべきであると主張したいのなら、それは生きた人間を生体解剖に使うことに等しい。
 唯物史観の非人間性、非道徳性は、そんなものがあるとするならば、人類史も、そして、それを貫く普遍性も、すべてを殺しかねない要素を含んでいると言わざるを得ないのである。

 
 

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