奴隷の群れ

 辛坊氏の「ではどうしたらいいのか」という発言を聞いて、私の中に蘇ってきたのは、山本七平氏の本でかつて読んだことであった。

 氏の著作に『存亡の条件』という著作がある。
 確か文芸春秋から出ている山本七平ライブラリーには入っていなかったと思うが、大変な名著である。講談社学術文庫に入っていたが、今はどうか知らない。私の手元にあるのは、ダイヤモンド社の初版である。
 この本の第七章「啓蒙時代の果て」に「他力本願(ではどうしろというのか)からの脱却」と題された次のような文章がある。
 紹介しよう。

 大分前のことだが私の書いた小論に対して「では一体どうしろと言うのか」という非常に面白い批評があった。いうまでもなくこの言葉は、この評者が、そしてまた一部の読者も「どうしろ」と命令してほしいことを示している。あるいは、本書をここまで読んで、読者の中には「では、どうしろと言うのか」という質問をすでに心の中で行なっている人がいるかもしれない。一体なぜこの質問が出てくるのか。―――「では、どうしろと言うのか。」

 
 このどうしろというのが、辛坊氏の、あるいは彼が代弁した多くの視聴者の、西尾氏の態度に対するもどかしさの表明である。
 山本氏はこれを奴隷の言葉であるという。


 いうまでもないが、この言葉は全く無意味な言葉であり、それは「私は人間でなく奴隷である」と宣言しているに等しいのである。といえば、「『どうしろ』と言われたからといって、それに従うわけではない。従うか従わないかの選択の自由は自分にある、従って、『どうしろというのか』と言ったところで、それは奴隷であることにはならない」という反論は、実は成り立たないのである。というのは奴隷にも隷属の自由と反逆の自由はある。従って反逆不服従の自由があるという主張は、その人が、自らは奴隷だと明確に宣言したに過ぎないのである。いうまでもなく、奴隷とは、売り渡されて前提を確定され、それによって自らの思考も行動も拘束されている存在である。

 おそらく辛坊氏は、その言葉は奴隷精神の発現である、と言われれば、敢然と反論するであろう。どうしろというのかと言ったところで、その意見に従うとは限らない、と。
 しかし、山本氏によれば、やはり、それは奴隷精神の発露なのである。
問題は、そう問うた人物が何に、どういった対象に隷属しているのか、ということである。
 西尾氏にせよ、所氏にせよ、日本の歴史、あるいは伝統と深く、真摯に向き合ってきたことで、世間に泥むことなく、二本足で立っている。それは自主独立の精神であり、そこに始めて自由な精神というものは存在しうるのだ。自由とは、そう唱えれば即実現するような、そんな空想的なものではない。
 山本氏は言う。

 少なくとも人に自由意志があり、その人にその人の判断があるなら、自分の責任で自分の判断に基づいて自分で決心し、自分で実行してその結果は自分が負えばよいだけのことで、他人に「どうしろと言うのか」という質問をする必要は一切ないはずである。そしてもしその人が、以上の質問をするならば、その場合には、奴隷の如くに服従するか、服従しないで去るか以外に道はないはずである。そしてその状態自体が、すでにその人が、精神的には奴隷であることを示しているにすぎないであろう。

 確かにその通りだろう。
 その点、自分が何かに隷属していると自覚している人は、自分の置かれた状況、立場を明確に把握し、その状態から一歩抜け出しているといえる。
 俗に馬鹿は死ななきゃ直らないというが、それは自分の愚かさ、及ばなさを自覚することが大変難しいことだからである。それを自覚している人は、その時点ですでに馬鹿ではないのだ。
 馬鹿の行き着く先は、究極的には身の破滅である。
 そうならずに済んでいるのは、たまたまであって、外的要因によってである。

 再び山本氏。 

 明治以降の長い長い啓蒙主義の歴史は、ちょうど受験勉強のような形で、その啓蒙の方向にないと見られる対象、いわば試験に役立たないと思われる思想を無視し軽蔑することを人びとに教えた。…従って、今の日本人ぐらい、自分が全然知らない思想を侮蔑して無視している民族は珍しい。インド的思想も、ヘブル的思想も、儒教も、全てあるいは封建的あるいは迷信の形で、明治と戦後に徹底的に排除され、ただただ馬車馬のように、進歩的啓蒙の関門目がけて走りつづけたという状態を呈してきた。そしてその結果、「ではどうしろと言うのか」という言葉しか口にできない人間になってしまったわけである。その結果、諸外国を見回って(といって、見回ったぐらいで外国文化がわかったら大変なことなのだが)あちらはこうやっているから、ああしようといえば、すぐまねをし、また、こうしたらいいという暗示にかかれば、すぐその通りにするといった状態は、実に、つい最近まで――否、おそらく今も続いている状態なのである。

 この本は昭和五十年に初版が出ているのだが、バブルの崩壊を経て、世界的規模の金融危機を迎えた今日でも基本的にこの傾向は同じであろう。受験競争のサラブレッドである官僚やマスコミの人たちほど、この傾向は強いといえる。特に戦後は、アメリカの真似を散々してきた挙句、皇室を中心とする日本の伝統は本質的危機に直面しているといっても過言ではない。
 現に西尾氏は、『たかじんのそこまで言って委員会』で、大変力を込めて、それを言っていた。アメリカは皇室を握り、それを通じて日本をコントロールできる、と。
 氏はかつて、アメリカの言いなりであった小泉純一郎を、狂気の首相と呼んだことがあったが、まさにその通りである。氏によれば、小泉のみならず、それに踊った日本人は、馬鹿を通り越して、狂っていると判断したのである。
これは西南戦争における南洲翁の没落によって決定的となった、近代日本の宿痾であった。
 そして現在があり、辛坊氏の発言に象徴される、西尾氏の発言に対する大方の日本人のもどかしさがある。(続く)

 

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