徳川家康と論語  (南洲翁遺訓解説 「天地自然の道」補記)

 前回、徳川家康を単なる狸親父、陰謀家ではないと述べたが、ただそう言っただけではにわかには信じがたいかもしれない。
 それほど家康の狸親父像というのは一般の間に刷り込まれてしまっている。

慶長年中卜斎記』によると、家康は、

根本、詩作・歌・連歌はお嫌いにて、論語・中庸・史記・漢書・六韜・三略・貞観政要、和本は延喜式・東鏡(吾妻鏡)なり。その外色々。大明(シナ)にては、高祖(漢の劉邦)寛仁大度をお褒め、唐の太宗・魏徴をお褒め、張良・韓信、太公望・文王・武王・周公、日本にては頼朝を常々おはなし成られ候。

 とのことであった。
 唐の太宗・魏徴は『貞観政要』のいわば主役である。
 家康がこれらの書物の印刷刊行に熱心だったのは、それがいい物という信念に基づくものであったのだ。
 しかも、それを世に広めようとしただけでなく、自ら実践しようとの意欲が強く存在した。
 彼はいまだ人気の荒い天下を治めるために、特に儒学と仏教の教義に大変な関心を示したが、儒学との関連で目を引くのが、『駿府記』に記された、家康が五山の僧を召して、『論語』の「政を為すに徳を以てすれば、たとえば北辰(北極星)のその所にいて衆星これにむかうが如し」の題を与えて、文章を書かせたことだ。
 これは慶長十九年三月の記事だが、その結末は『玉音抄』に次のように記録されている。

 (五山の僧が)いずれも、「只今天下静謐なること、北辰の如し、萬々年」などとの言書き申し候を、権現様(家康)ご覧なられ、これは面白からぬ文法なり。北辰の動かずして衆星これにむかうが如きに徳を以て天下を治める、その徳とは何様なることと言いたきかなと、御意なられ候。

 つまり、家康の治世により天下が治まっていることを寿いだ、学問僧たちの毒にも薬にもならぬ文章に対し、家康はけちをつけたのだ。知りたいのは、どのような徳を言うのか、ということだと。
 これは天下に太平をもたらすという、天下人の立場での実践が念頭に無ければ、出て来ない関心だろう。

 晩年の彼の関心はどこまでも、いまだ日本各地でくすぶっている荒ぶる戦国の魂をいかに鎮めるかにあったのだ。慶長十九年は大坂との緊張が高まって冬の陣が行なわれるまさにその年である。大坂方は難攻不落の天下一の城塞にしきりに浪人を集め、不穏な空気を醸成していた。
 確かに家康は武家には武家の論理、すなわち力の強い者が力の弱い者を統治するという、自身がそれに忍従してきたルールを厳格に用いた。
 その論理から言えば、秀吉以後、武家を統治する能力を失った豊臣家は、実質的に天下の秩序を担っている徳川家に従わなければならないはずである。家康が朝廷から征夷大将軍に任ぜられた以上、名目上、新田源氏を名乗った徳川家の主家は豊臣家ではなく、皇室であるし(それは秀頼も同じ)、そもそも徳川家は豊臣家の主家であった織田家からも独立した大名だったのであるのだから。
 しかも、秀頼は家康の義理の孫である。家康が押し広めようと考えた儒教の根本倫理である五倫五常の倫理観からも非難されるべきは秀頼の側であった。家康は当時の常識から言って決して不当な要求を突きつけていたわけではないのである。
 そういった面から言えば、豊臣家の取った行動の正当性はかなり弱いと言わざるを得ないのである。

 さて、話を家康と論語に戻そう。

 まずは論語普及の歴史について。
 孔子の言行を集めた『論語』が初めて日本に伝えられたのが、『日本書紀』『古事記』によれば、応神天皇の御代であった。応神天皇十六年百済の賢人王仁という人物が、『論語』十巻と『千字文』一巻を天皇に献上したという。
 その影響はすでに聖徳太子の十七条憲法に表れているし、その約一世紀後、日本が唐から律令制を導入した際の大宝律令・養老律令の学制及び官吏採用の規定には、『孝経』と『論語』が必修と定められている。
 下って平安時代の貞観二年(八六〇年)、清和天皇の御代に、孔子を祭る釈奠(せきてん)の式典が立法化され、全国に頒布、翌貞観三年には初めて宮中で『論語』の講義が行われた。
 しかし、『論語』の普及が一般に及んだのは、かなり後になってからのことである。
 室町時代までの『論語』の普及について、東洋史学者林泰輔の『論語年譜』は次のように記している。

 当時論語の流行せし区域は、多く宮中・搢紳(しんしん、官位の高い人)または僧侶の間にして、必ずしも一般人民にまでは普及せざりしもののごとし。かつその加点(訓点を加えること)および解釈も、一種の秘伝、秘説として伝授せられしことは、ことを当時の(写本の)奥書などに徴して明らかなり。これけだし(宮中で『論語』を講じていた清原家らが)博士の業を世襲となししより来たりし習俗なるべし。

 つまり、学問を公家や僧侶で独占してしまったが故に、容易に一般に普及することはなかったのである。
 これを変えるきっかけとなったのが、後醍醐天皇の建武の中興の破綻に端を発する南北朝の動乱であった。この旧秩序崩壊の時代の最中正平十九年(一三六四年)に、日本史上初の木版印刷本である『論語集解(しつかい)』が刊行されたことは偶然ではない。
 これについて貝塚茂樹博士は次のように述べている。

 木版印刷術が、まず『論語』から手がつけられたということは、『論語』という本が、あの乱離の時代に、心ある人々からどんなに強く求められたかをあらわしている。これは約一世紀おくれて一四五〇年ころ、ドイツのグーテンベルグがラテン語の『聖書』を、活字印刷によって刊行したのと並行する文化史的現象である。
西洋において『聖書』が、暗黒の世界を救済するものとして希望の源泉とされたように、日本においても『論語』が乱世を脱する指針を蔵していると考えられたのであろう。


 南北朝の乱世は、足利義満によって収束し、足利義教(よしのり)の時代にかけて安定に向うが、彼が暗殺され義政の時代になって、時代は再び乱世に向う。応仁の乱をきっかけに、時代は戦国時代へと突入した。この日本の旧秩序の徹底的崩壊が、秩序に対する希求を呼び起こし、『論語』普及の条件を作った。
 そして、信長に始まった天下統一は、徳川の治世になって完成する。その徳川時代に『論語』は一般に普及した。

 この普及に最も直接的な影響力を持ったのは、もちろん徳川家康であったが、それはまた彼の師でもある信長の作った流れに則ったものでもあった。
 家康は、秀吉が再び朝鮮半島に攻め込んだ慶長二年(一五九七年)に『論語』の講義を受け、さらに駿府に隠居した後も、林道春を召して、『論語』の講義を受けた。このとき使ったテキストが、朱子の注釈による『論語集註』であった。その前後から日本では四書(『論語』『孟子』『大学』『中庸』)の本文や注釈が出版されるようになった。家康の志向が影響を及ぼしたのである。

 彼が『論語』的思考に興味を抱いたのは、武家の統制の論理としてであったと一般にはいわれるが、必ずしもそうとばかりはいえないように思える。彼の遺訓とされる有名な「人の一生は重荷を負うて遠き道をゆくがごとし、急ぐべからず」という言葉は『論語』の影響が明らかであるし、何よりもその行跡が『論語』的であった。
 その温故知新的な政治姿勢、大義名分を重んじる姿勢、学問好き、倹約家で質朴を愛したことなど。おそらく苦労人で若かりし頃は賤しい身分であった孔子に自らを重ねあわせ、さらに思想的にも共鳴するところが多かったものと思われる。孔子こそは、天を仰ぎながら、誰も歩んだことのない地の道を、それがどこにあるかの思索を重ねながら、こつこつと歩み続けた人物であった。
 そんな家康が開いた江戸幕府は、何かにつけて祖法、すなわち家康の定めた方針を重んずる保守的政権であった。
 
 林泰輔博士は、江戸時代における『論語』の受容について先に引用した言葉に続けて次のように述べている。

 徳川幕府の起こるにおよびては、独り中流以上のみならず、窮郷(きゅうきょう、遠隔の地)僻陬(へきすう、辺地)の人民に至るまでみな『論語』を誦読することとなれり。これ畢竟気風開発の然らしむる所なるべしと雖も、当時上にある者の往々身をもってひきいたることも、またあずかって力ありといわざるべからず。・・・(中略)・・・ 上には御光明天皇をはじめ奉り、徳川綱吉・保科正之(ほしなまさゆき、山崎闇斎の弟子で会津藩祖)・徳川光圀・池田光政・上杉治憲(はるのり)・松平定信の諸公あり。下において儒をもって家を為すもの数うるにいとまあらず。これみな『論語』を崇拝したるものに非ざるはなし。ここをもって、その伝述刊刻の書も亦、ただに汗牛充棟のみならず、されば、その旨趣の一般に普及せしことは想像以上のものあり。

 このような流れから言えば、戦国時代を法家という権謀術数の思想によって収束せしめた支那と違って、日本は戦国時代という秩序のひっくり返った時代を、孔子の思想によって収束せしめた、あるいは安定化させたということができよう。
 その重要な働きをなした人物として家康は位置づけられる必要があるのである。ただの権謀術数に長けた狸親父にこのような大きな歴史的役割が果たせるはずがない。
 当時の日本はどうしても、いきなりの天皇中心主義ではなく、武に裏付けられた、神儒仏の全て(もちろん皇室も)を視野に収めた、道理による統治が求められていた。

 そして、これらを土台にした江戸時代の学問の成熟を背景に、西力東漸の刺激を受けて、明治維新は成立することになる。
 再び林博士。

 中国および朝鮮・安南(ベトナム)においては『論語』を挙業(文官選抜)の試験に用いたるがゆえに、盛はすなわち盛なりと雖も、名利のためにこれを読みこれを誦し、あるいはその粗を咀(す)いて、その精を棄つるの憾(うら)みあり。我が邦人のこれを読むは、すなわち然らず。その外皮を棄ててその神髄を取る、ゆえに国本培養の効を奏することを得たるなり。

 その神髄に殉じた人たちが、幕末の騒乱で活躍した志士たちに他ならない。
私の管見では、吉田松陰や島津斉彬・久光、そして南洲翁も皆、『論語』およびこれを敷衍した思想によって、自己の精神を培養し、それを国本の培養に拡大適用していった結果、あのような末路をたどったのである。

 ここまでの伝統の流れを踏まえて、ようやく南洲翁という歴史的存在の真の重要性も理解できるのではあるまいか。



 





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