西郷隆盛のいわゆる征韓論の全体像

 一回テーマが飛んでしまいましたが、今回は再びいわゆる「二十一ヶ条要求」問題に象徴される日中問題の原形を見ていきたいと思います。

 副島種臣の台湾問題に対する考えについて触れましたが、彼は明治五年十一月には、清朝皇帝の婚儀祝賀と条規批准交換のための全権大使を命ぜられ、翌六年三月には清国に向かいました。上海への途上、鹿児島に立ち寄って、南洲翁と会談しています。
 彼はこの清国行きで、その該博な漢籍の知識を駆使して、大変な外交的成果を収めるわけですが、さらにもう一つの使命として、清朝と朝鮮との関係、および台湾征伐の可否について問いただすつもりでした。副島は、日本の外務省に当たる清朝の総理衙門から、朝鮮は自主独立の国であるとの言質を引き出しています。台湾に派兵する件についても通告しています。
 彼の考えは、台湾に兵を送り、ここに砲台を建設すること。
 朝鮮に対しては、護衛艦に乗った問罪使節を送り、開国させる。そしてこれを拒否するなら兵を送って開国させるつもりでした。
 その目的は自主保全のままならない朝鮮を開国させ、朝鮮とロシアとの国境に駐兵させ、戦略拠点ウラジオストックへの南下の兆しを見せているロシアの侵略に備えるためです。
 もちろん万国公法に照らして問題もありませんでした。
 『遠い崖』(朝日新聞社)の副島とパークスの対談によると、李鴻章は副島に対し、是非とも朝鮮の目を覚まさせてほしいと言ったといいます。同じ儒教の徒として、李鴻章と意気投合していた副島は、朝鮮問題についても了解を取り付けていたのです。
 しかし、残されている彼の発言には、満州に対してどのような意見を持っていたか窺えるものはありません。満州に諜報員を送り込んでいるくらいですから、何らかの意見はあったと思いますが、少なくともそれを明らかにはしていません。

 満州に対し大きな関心を持っていたのは南洲翁です。
 翁に親炙した同じ薩摩人の有馬藤太は、南洲翁の知られざる側面について、多くの貴重な証言を残していますが、満州問題については次のような証言を残しています。

 「西郷先生は親露的な考えをもっておられ、常にこんなことを話しておられた。『朝鮮、朝鮮とやかましく皆ないうちょるが、朝鮮はホンの通り道じゃ。満州を占領してここに始めてわれわれの足場ができる。この満州の足場を作っておいて、われに手むかう者を片端から征服する。もし手出しせぬ時はわざとそれらを激動せしむる。それはちょうど棚蜘蛛(たなこぶ、薩摩ではクモをコブという)の巣に砂をパラパラッとまくと、蜘蛛がチョロチョロと走り出てくる。その途端に引っつかむ。(といいながら、大きな体をゆすって、ムンズとつかむふうをされた。)これと同じ理屈で、こっちからチョイといたずらする。怒ってくる。それをすかさず占領するという方法でもって、付近を蚕食して、堅固な地歩をしめ、右手に露西亜と握手し、左手に弱清を引起し、もって東洋は東洋で始末するが肝要だ。それがためには樺太は一時露西亜に与えてもよい。万一露西亜がわれに聴かなかったら、まず彼を処分してしかるのち支那に着手するのだ。』という議論で、再三これに関する意見をうけたまわったものだ。」

 何か好戦的な印象を受けるのですが、満州の事情をよく理解するとこれが誤解であることが分かります。当時ロシアの兵隊が満州に駐屯していたわけではないので、ここで蜘蛛にたとえられているのは馬賊匪賊の類であることは明らかです。近代的な軍隊であるロシアの兵は刺激してチョロチョロ出てくる類のものではありませんから。 
 これはつまり満州北部に屯田兵を置いて、軍事的な空白地帯であったこの地を固めるということです。南洲翁は、廃藩置県で一斉に失職して、社会不安を醸成する要因となっていた旧士族をこれに当てるつもりでした。
 そうしておいて、ロシアと同盟を結び、清朝の近代化を助ける。そのためにはまず朝鮮を開国させておかなければなりません。
 南洲翁のこの趣旨を裏付けるのが、同じく薩摩藩士黒田清綱の証言です。

「朝鮮の事は心配は入らぬ、帰りにはその足で露西亜に廻って同盟を結んで来ると云う事を言われた事を記憶して居る。実に驚くべき先見じゃないか。」

 このように朝鮮問題は、ロシア問題の入り口に過ぎないのです。
 もちろん相手は南下の野望を隠さぬロシアですから、同盟する前に戦争になることが予想されましたが、これについて翁は秘策を持っていました。
 アジアにおけるイギリスとロシアの対立を利用して、イギリスと結んでロシアと戦おうというのです。この策は西南戦争の勃発と深くかかわってきますから大変重要なのですが、それは拙著『(新)西郷南洲伝』に譲って、ともかく後の日露戦争で、日英同盟が大変重要な働きをしたことを思うと、翁の大陸政策には驚くべき先見性があったと思うのです。

 満州問題もそうです。
 清朝がこの植民政策に着手したのは、前にも触れましたが、二十年後の日清戦争後で、明らかに手遅れでした。すぐロシアに満州を占拠され、日本は国家存亡を賭けた日露戦争をこの地で戦わざるをえなくなりました。 
 そして権益を得ましたが、欺かれて、お人好しにも清朝に返してあげたため、清朝倒壊後、この権益は不安定な状態に置かれるようになり(ここでいわゆる「二十一ヶ条要求」の問題が出てくる)、結果的に満州事変とその後の満州国の建国で、何とか安定させることが出来ました。しかしこれにより西洋社会からの孤立を強いられ、果ては大東亜戦争という袋叩きに遭ったのです。
 そういった歴史的経緯を考えると、南洲翁の大陸政策が明治六年の政変という悪辣な手段によって、永遠に封じられてしまったことは、日本人として悔やまれて仕方ないのです。南洲翁が朝鮮に渡って、大陸政策の端緒がついていたなら、おそらくそれ以後日本が直面することになる困難はよほど軽減されていたのではないかと思われるのです。
 明治維新は万国対峙の目標がありましたが、一方で、英雄がいなくとも、しっかりとやっていける国家・社会を作っていくという側面がありました。「広く会議を興し、万機公論に決す」とはそういうことでしょう。みんなの知恵を寄せ集めて問題を解決していこうというのです。
 その社会を作るのに英雄を必要としたことは、幕末から廃藩置県までの過程を見ていけば分かりますが、対外政策の基礎を作る上でも英雄を必要としていました。世界はこれから西洋列強による支配地争奪という戦国時代に突入していこうとしていたのです。そういった時代状況下で、日本にとって東アジア、特に朝鮮・満州の安定は絶対的なものでした。そしてその方向性を定め、一歩を踏み出すためにはまだ英雄を必要としていました。
 もちろんここに言う英雄とは南洲翁のことです。
 この英雄を失った明治政府は、大陸政策に一定した方針を欠き、大変な混迷状況に巻き込まれ、半ばは自らもその混迷の度を深めさせることになります。その行き着いたところに、支那に足元をすくわれた大東亜戦争の敗北があります。

 よく歴史にイフはないといわれますが、確かに事実認定においてはその通りですが、政策なり、発言・行動なりの当否を判定するには、色々なイフを想定して多角的な思考をめぐらす必要があります。そうでなければ歴史は単なる事後承認以上のものではなくなり、無味乾燥なものとして、現代を生きる我々に問いかけてくるものがなくなってしまいます。
 戦後の唯物史観などがいい例です。
 あれはマルクス主義の公式に当てはめて過去を断罪しているだけの独善的なものに過ぎませんから、歴史の面白さ、深さ、生きた人間の姿が一切伝わってきません。ですから戦後日本の歴史離れを大きく促進しました。
 まあ左翼は歴史否定の徒ですから、その意味では彼らの目的に沿ったものであったのですが。
 
 さて、南洲翁の大陸政策の意義は、その後の征韓論政変の勝者が作った政府の対外政策とのコントラストで鮮やかに浮かび上がってきます。
 征韓論を阻んだ大久保は、不満を抱えて帰郷した征韓派の薩摩系軍人を宥めるため、征韓論議の閣議で否定したはずの外征を企画します。
 それが台湾征伐です。
 台湾遠征の準備は拙速に進められましたが、英国公使パークスから思わぬ横槍が入り、これに動揺した政府は遠征中止を閣議決定します。
 しかし遠征軍の指揮官だった陸軍の西郷従道(南洲翁の実弟)は、薩摩系の征韓派軍人の不満を恐れたからでしょうが、この閣議決定を無視して、強引に船を出発します。彼は清朝との戦争を恐れて征韓論反対に回ったのですが、それよりも薩摩系征韓派軍人の暴発を恐れたことになります。
 こうして台湾征伐は実施されたわけですが、問題は清朝との関係です。
 清朝は日本政府に厳重な抗議を申し入れ、両国は非常に険悪な関係になってしまいました。政府は戦争の準備をして、清朝との談判に臨みます。
 これを担当したのが大久保でした。
 大久保は北京の総理衙門で、粘り強い談判を行いますが、なかなかうまくいきません。副島が引き出した、台湾は化外の地であるという言質を根拠に、勝手に征伐を実施しておいて、これを清朝が義挙と認め、遠征費用を賠償せよというのですから、清朝がはねつけるのは当然です。
 結局両国の戦争を望まぬ英国公使の干渉で、清朝は日本の要求をのむのですが、ここから両国のボタンの掛け違いが生じます。
 李鴻章が、日本は和親を謳いながら、清朝の領土を掠めていくつもりではないか、と疑い始めたのです。
 この懐疑は明治八年の江華島事件によって決定的なものとなります。
 この事件は、朝鮮沿岸部を測量中の日本の軍艦が、江華島の砲台から砲撃を受け、反撃してこれを占領、砲艦外交により李朝に開国を迫ったという事件です。
 李鴻章は説明に訪れた森有礼に激しい口調で抗議を申し入れています。
 修好条規に違反して我が属国を侵していると。
 李鴻章に日本に対する抜きがたい不信を植え付けたのは、征韓派下野後の政府の無定見な対外政策といっても過言ではないのです。
 この李鴻章の日本に対する敵対心を受けて、後に袁世凱は朝鮮に乗り込んできます。そして強引な手段で、親日勢力の駆逐と、李朝に対する清朝の影響力の回復に努めるのです。
 日本がこの反日の袁世凱に対し、いわゆる二十一ヶ条の要求を突きつけ、これを世界に公表されて痛い目にあったのは既に触れました。日本政府としては、これまで日本を散々てこずらせてきて、信用のならない袁世凱に、ちゃんと日本の権益を保障させておこうとしたのです。
 この要求が当時の事情から見て不当な要求ではなかった事は縷々述べてまいりましたが、征韓派下野後の政府が、大変拙劣な外交をして、李鴻章を敵にまわしてしまったのも事実です。責任の一半は日本政府にもあります。
 ここから日本の東亜政策における苦難は始まるのです。

 

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