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zoom RSS 「第一の手がかり、『論語』年譜」…『十人の侍』 プロローグ4

<<   作成日時 : 2018/01/10 15:27   >>

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 日本の歴史は長く、文献は多く残されていて膨大な量です。それを調べるということは広大な言の葉が浮かび漂う海に漕ぎ出すようなものであり、現代という近代的に整備された港から無謀に出港するわけにはいきません。どこかで力尽きて遭難するのがオチだからです。
 しかし、すでにわれわれは方位磁針を手にしています。
 『論語』を中心とする四書がそれです。
 肩掛けカバンにそれらを入れて出港しますが、まずは歴史地図を広げて目指すべき方向の見当をつけておかなければなりません。
 まずはある古本を手掛かりに、その痕跡をたどってみたいと思います。
 古本といっても、それほど古い本ではありません。今手元に取り出してきた本は八百ページ足らずの分厚い本で『論語年譜』と言います。国書刊行会から出ている修訂版で、昭和五十一年の刊行となっています。
 これはそもそも大正五年、渋沢栄一に私淑する者が集まった修養団体「龍門社」が、彼の喜寿を祝うために企画編纂した本です。渋沢はこの七十七歳の誕生日を以て実業界を引退し、余生をそれまでも実業と両立させてきた公共事業に専念するつもりでした。当時の実業界の功利主義的風潮、政党政治の道義的腐敗を嘆いてのことです。もちろんその根幹となる価値規範は『論語』です。弟子たちが『論語』の由来、および履歴をまとめた『論語年譜』を喜寿のお祝としたのは、師の志をよく理解していたからでしょう。
 『論語年譜』は和漢その他の国において、『論語』がいかなる影響を及ぼしたか、その手掛かりとなる文献史料を探し出し、編年的に記した書物で、編纂は安政元年生まれの漢学者にして東洋史学者の泰斗・林泰輔が担当しました。林は甲骨文の研究では先駆的存在です。この『論語年譜』に戦後の儒学研究者・麓保孝博士が修訂を加えたものが国書刊行会版『論語年譜』です。
 林はその序説「漢代以後東西諸国に於ける論語流行の概観」の中で、日本における『論語』流行について大体次のように概観しています。


 シナにおける『論語』の一般への流行は漢代以降であるが、発祥地のシナは別にして、わが国において、その流行は朝鮮やベトナムの比ではない。まず第十五代応神天皇の御代の伝来の当初よりすでに、高貴の間に崇信され、史実の上にもその効験は確かめられる。その後も、大宝令によって必読の書と定められ、清和天皇の御代以来、朝廷において講ぜられることとなった。それ以来、少しずつ伝播の範囲は広がり、鎌倉及び南北朝時代には抄写や刊刻も次第に行われ、足利時代に至っては喪乱が続いたにもかかわらず、流行が途切れることがなかったのは、古抄本が多く残されていることからも推察できる。特に南北朝の頃より、朱子の集注も伝来して、一部の間に行われるようになった。他日勃興の萌芽はすでにこの時に発生したといえるが、これらの時代、『論語』が普及した範囲は、大抵は朝廷や僧侶までで、一般の人民までは及ばなかったようである。その原因は、博士の業を清原家などの世襲となし、加点や解釈が一種の秘伝秘説として伝授されたことにあったようである。
 しかし、徳川幕府が興るに及んで、中流以上のみならず、片田舎の辺鄙な土地の人民に至るまで、皆、この書を誦読することとなった。


 これが、林が概観するところの大まかな『論語』普及の歴史です。
 「皆」は誇張が入っていますが、少なくとも幕末には武州血洗島の富裕な農家に育った渋沢栄一が幼いころから『論語』その他の漢籍に親しむほどに行き渡っていたのは確かです。江戸時代は、一応は固定された身分社会でしたが、これらの思想が彼らに身分を超えた精神の自由を与え、ペリーの来航により国難を悟った彼は、勤皇の志士となって村を出奔し、数奇な運命をたどることになるのです。
 次に林が概観するところの江戸時代の『論語』普及の様子を要約します。


 『論語』が日本全国津々浦々まで行き渡ったのは、畢竟(ひっきょう)、風気開発の自然の勢いというべきだが、当時の上にある者の率先垂範の功が大きかったのも確かである。江戸時代の『論語』の伝述者は多く、古学派、朱子学派、折衷派、後に考証派など数十派あり、それが見解の相違から対立、分裂し、進歩を促進した。上は後光明天皇を始め奉り、徳川綱吉・保科正之・徳川光圀・池田光政・上杉治憲・松平定信などの諸公ほか、下には多士済々で数えるにいとまないほどである。彼らは皆『論語』を聖典として崇め奉ったのであり、その伝述・刊刻の書も汗牛充棟(かんぎゅうじゅうとう)で、その旨趣の一般への普及には想像以上のものがあっただろう。


 次にその学問の特徴についての概観を要約します。


 シナのみならず朝鮮やベトナムではこれを官吏登用試験【科挙(かきょ)】の教材として用いたため、学問は表向き盛んであったが、名利のために学ぶことで、その粗を咀んで、その精を棄ててしまう憾みがあった。これに対して、わが國ではその外皮を棄てて、その神髄を取った。それゆえ、國本培養の功を奏することができたのである。


 それが明治維新に結実したというのですが、それが維新後の時運の変遷に従い雲霧に覆い隠されるようになったとも言っていて、これは先述のキリスト者たちの観察と一致しています。林はこの大正五年の時点で、雲霧がはれ、世間の常識が回復し、人々は『論語』の真価を再認識するようになってきたと述べていますが、これはどうでしょう。太平洋のはるかかなたと大陸から、次の新たな雲霧、それも雷雨を伴った黒々とした雲霧が、大正デモクラシーという幻惑に紛れて近寄ってきたのではなかったでしょうか。
 ちなみに東洋学者の貝塚茂樹は、林のこの概説を受けて、西洋の一般への『聖書』普及と並行する現象として、次のように述べています。


 わが国出版史上の画期的事件として、南北朝時代の正平十九年(一三六四)に最初の木版本としていわゆる正平版『論語集(しつ)解(かい)』が刊行された。これは約一世紀遅れて、ドイツのグーテンベルクによってラテン語『聖書』が活字印刷によって刊行されたのと並行する文化史的現象である。中世の西欧において、暗黒の世界を救済するものとして『聖書』が希望の源泉とされたように、日本においては『論語』が乱世を脱する指針として期待されたのである。


 以上のように、シナの戦国時代を収束せしめたのは法家の思想で、始皇帝は書を焼き、儒者を生き埋めにしましたが(焚書坑儒)、戦国時代から天下統一に向かった日本では事情が違ったようです。信長以来仏教の毒は強制的に抜かれましたが焚書坑儒は行われていません。そもそも儒者と呼ばれる人々が存在しなかったのです。どうも『論語』の一般社会への普及の謎を解く鍵は戦国時代末期から江戸幕府の開府前後にあったことは確かなようです。
 これでひとまずは目指すべき方向が明らかになった。
 では、出発することにしましょう。

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