西郷隆盛

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zoom RSS 「徳川家康の天下取り【三】中庸及び湯武放伐論」(再掲載)

<<   作成日時 : 2018/01/30 08:54   >>

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天下分け目の関ヶ原、大坂冬の陣、夏の陣。
 二度あることは三度あると言うが、太閤恩顧の大名が秀頼を担ぎ上げて、家康に敵対する事件もやはり三度出来した。
 家康はこれに対し、仏の顔も三度までと、三度目の反逆行為に及んだ秀頼をついには許さなかった。家康も秀頼本人に反逆の意図があるとまでは思っていなかったらしく、よく事情を汲んで、何度もそうならぬよう警告してきたが、秀頼とその母淀君がそれを拒否してきたのである。
 細川忠興は、大坂問題の根源を、秀頼乳呑み児、御袋様専制、と表現したという。

 天海の唱えた山王一実神道において、東照権現の本地とされた東方薬師瑠璃光如来を信仰していたという家康は、もちろん仏のつもりで、秀頼の反逆に対して、二度目までは当時の価値規範から見ても寛大な処置を施したわけではなく、その心の中には、慈愛の精神とはまた別の規範が存在したように思われる。

 徳川家康が好んだ歴史上の人物の一人に、武王がいる。
 武王は古代支那の王朝・殷を討って周王朝の天下を確立した人物で、文王の子。
 文武両道とは本来、この文王と武王の道を学ぶことを言った。

 孔子が夢にまで見た周公旦は、この武王の弟で、王の死後、後を継いだ子の成王を補佐して、礼楽文化を創り上げた人物である。孔子はこの周公旦の封じられた魯国に生を享けた人物だ。
 織田信長が天下布武という天下一統事業に乗り出した岐阜は、周王朝発祥の地・岐山にちなんで名を改められた土地である。当時の信長の志が窺えるだろう。

 さて、武王といえば、湯武放伐論が有名である。
 湯武放伐論とは『孟子』にある議論で、日本の国體を論ずる上で非常に重要な議論とされてきた。

 孟子は言う。

「仁を賊(そこな)う者これを賊といい、義を賊う者これを残という。残賊の人はこれを一夫という。一夫・紂(ちゅう)を誅せるを聞けるも、未だ君を弑せるを聞かざるなり。」(梁恵王章句下)

 紂とは周の前王朝・殷の暴君とされる人物で、酒池肉林や炮烙の刑で知られる暴君の代名詞のような人物だ。その暴政により、臣に当る周の武王に討たれたということになっている。
 
 『孟子』によれば、

「天はもの言わず、行と事とを以て之を示すのみ。」(万章章句上)

だという。

 天は行為とその行為から生じた事象によって、その意志を示すというのである。
 そして、行と事によって示された天意は最終的に民意に表われる。

 『孟子』はこれを示すために『書経』の次の言葉を引用している。

「天の視るは我が民の視るに自(したが)い、天の聴くは我が民の聴くに自う。」

 つまり、民にまつわる様々な事象の中に天意を見出しうる者を天命を受けた者というのである。
 
 要するに、『孟子』が言っているのは、仁を賊い徳を失った王からまず天意が離れ、それが民意に顕れる。そして、新たに天命を受け民意を得た者が立ち上がって、既に天子ではなくなって残賊の一夫となった王を放伐(追放討伐)して、新たな天子となって王朝を開くということである。
 これを易姓革命という。
 易とはかわることであり、天子の姓がかわるから易姓革命である。

 山本七平はこの『孟子』の論理を「王道的人民民主主義」と表現している。
 支那の歴史においては、王朝交代が繰り返されるが、統治能力を失った旧王朝を倒し新たな王朝を開いた者は、自らを天命を受けた天子として、常にこの湯武放伐論で自己の統治を正当化してきたのであった。
 だから、支那の各王朝は、皇帝の姓が違う。

 それに対し日本の皇室には姓がない。
 これは王朝交代、すなわち易姓革命がなかったことを意味する。三王朝交代説もあるが、仮にそうだったとしても、我々日本人がこういった文化体系を長い年月をかけて、育ててきたことは確かだし、我々にとってはそれが重要である。

 姓がないとはどういうことを意味するのか。
 それは皇室が他に比較しうるもののない唯一の存在であったということである。現在世界中を見回してみて日本の皇室のように、神話に直接連なる系譜を有し、これだけの長期に亘って存続している王家が、他に存在しないことを見ても、世界的に無比の存在であることは維持されている。

 そこでわが国の国體は易姓革命を否定してきたとされる。
 明代の支那の船乗りには、日本に向かう船に『孟子』を積んでいくと船が沈むから載せて行ってはならない、というタブーがあったが、これは日本の国體を意識して生まれたのである。

 しかし、湯武放伐論・易姓革命の論理は、中世以来の武家政治にはしばしば援用されてきた。もちろん、それは天下を武家が取り仕切ることに対する正当性の問題としてである。つまり、わが国の武家政治には、「王道的人民民主主義」の伝統が存在するのである。

 武家政治の開祖・源頼朝はしばしば「天下草創」「天下静謐」という言葉を掲げている。他に「天の与ふるを取り」「天運あるによりて」「天の与へたてまつらしむるところ」「天譴遁れ難く」など、自己の政治の正当性を天に仮託する言葉は『吾妻鏡』には散見されるという。

 民にして天皇を島流しにするという、わが国の歴史始まって以来のことをなした北条義時・泰時父子は、『明恵上人伝記』によると、周の武王、漢の高祖の易姓革命を援用して、いわゆる「承久の変」「承久の乱」を推し進めたのだと言い伝えられている。(参照;山本七平『日本的革命の哲学』)

 この武家統治の精神は、室町時代の足利政権にも受け継がれていて、建武式目に「北条義時・泰時父子の行状にならえ」と言い、足利尊氏を補佐した弟・直義は執権政治への回帰を行った。

 佐藤進一の『南北朝の動乱』によれば、

「北朝では建武五年(一三三八)に暦応と改元したが、その際、直義に意見を求めたところ、かれは新年号には『文』の字が望ましい、文武あいならぶべきだからであると答えた。つまり武をもって天下をとった後は文をもって治めなければならぬという考えである。これは儒教でいう王道・覇道の論、すなわち覇道は武をもって達成できるが、王道をおこなうには文をもってしなければならぬという考えから出ている。
 文を好む例として、も一つおもしろいのは、儒学を家業として王朝に仕えた日野有範(ありのり)という人物を、直義が幕府政治に参与させている事実である。」

 これらの伝統が信長・秀吉・家康にも受け継がれているのはこれまで見てきたとおりである。
 特に家康にはそれがはっきり現れている。

 家康が『吾妻鏡』を座右の銘とし、頼朝の政治を模範としたこともよく知られているが、秀吉もまた頼朝を模範とすることを示唆し(天正十一年五月十五日付小早川隆景宛書状)、当初は征夷大将軍となって、全国を統治しようとした。これが挫折したのは、天命に逆らったとして信長に追放された足利義昭の猶子(ゆうし)となろうとして断られたからである。
 徳川家は新田氏(源氏)の系図を持つことにより、頼朝を模範とし、まっすぐ征夷大将軍としての統治を行った。ただ家康自身は、数年で征夷大将軍職を辞しており、その制約を受けない天下人としての統治を行っている。

 以上のことを考慮すれば、家康が模範とした人物は全て天命を受けて統治を行ったとされる人物だった、ということになる。

 大坂冬の陣で、和睦の仲介をしようとした後水尾天皇の申し出を、家康は、もし調わなければ、天子の命を軽んぜしめることになるから、との理由で謝絶した。天子、すなわち天命を受けて天下を治める資格を持つ、との認識を一応は持っていたことになる。しかし、謝絶したことからも分るように、天下の仕置きに付いて朝廷が口を挟むことを嫌っている。
 このあたり、家康の朝廷に対する態度は微妙である。

 
 少なくとも家康は関ヶ原以前より頼朝や武王を好んでいたことは『慶長年中卜斎記』で分る。
 繰返しになるがこれも引用しておく。

「家康公書籍を好せられ、南禅寺三長老・東福寺哲長老・外記局郎・水無瀬中納言・妙壽院(藤原惺窩)・学校(三要元佶)・兌長老(承兌)など、常々御咄(おはなし)成られ候故、学問御好、殊の外、文字御鍛錬と心得、不案内にて詩歌の会の儀式あると承り候。根本、詩作・歌・連歌は御嫌いにて、論語・中庸・史記・漢書・六韜・三略・貞観政要、和本は延喜式・東鏡(吾妻鏡)なり。その外色々。大明(シナ)にては、高祖(漢の劉邦)寛仁大度をお褒め、唐の太宗・魏徴をお褒め、張良・韓信、太公望・文王・武王・周公、日本にては頼朝を常々おはなし成られ候。」


 おそらく家康は実質的な前王朝とも言える豊臣家の関係を考慮するに際して、湯武放伐論を念頭においていたのではないか。
 
 
 既に慶長十七年頃、家康は林羅山(道春)と湯武放伐論について議論している。
 林の記すところによれば、


(幕府…家康)道春に謂ひて曰く 「方今、大明(明国)もまた道あるか。卿は以て如何となす。」

曰く 「これあり。春(道春)、目未だこれを見ずといへども、書においてこれを知る。それ、道は窈窈冥冥(ようようめいめい・・・奥深いさま)にあらずして、君臣・父子・男女・長幼・交友の間にあり。今や大明、閭巷より郡県より州府に至るまで、処処に学校あらざることなし。皆、人倫を教ふる所以にして、人心を正し風俗を善くするを以て要となす。然れば則ち果して道あるか。」

 ここにおいて幕下、色を変じて、他を言ふ。春もまた言さず。

(幕府)道春に謂ひて曰く 「道は古今行はれず。故に『中庸』に〔能くすべからず〕〔道はそれ行はれざらんか〕と。それ、卿、以て如何とす。」

春、対へて曰く 「道は行はるべし。『中庸』に云ふところは、蓋し孔子、時の君の暗うして道を行はれざるを嘆きて言ふものなり。道は実に行はるべからざるものの謂にあらず。六経に云ふところは、この類少なからず。独り『中庸』のみにあらず。」

(幕府)曰く 「中とは何ぞや。」

(道春)曰く 「中は把(とら)へ難し。一尺の中は一丈の中にあらず。一座の中は一家の中にあらず。一国の中は天下の中にあらず。物は各々中あり。その理を得る者は必ず中なり。故に初学の者は、中を知らんと欲せば、則ち理を知らずんば、必ず得ず。ここを以て〔中は理のみ〕とは古今の格言なり。」

(一説に)曰く 「中と権と皆善悪あり。湯武臣を以て君を伐つ。此れ悪と雖も善、所謂逆に取り順に守るなり。故に不善不悪は中の極なり。」

曰く 「春の意はこれに異なれり。願はくは辞を尽すことを得んや。春は以為(おも)へらく、中は善なり。一毫の悪なし。物各々理を得、事皆義に適ふは中なり。善を善としてこれを用ひ、悪を悪としてこれを去るもまた中なり。是非を知り、邪正を分つもまた中なり。湯武は天に順(したが)ひ人に応じ、未だ嘗て毛頭ばかりの私欲あらず。天下の人のために巨悪を除く。あに、悪といへども善なることあらんや。故に湯武は中なり、権なり。莽(王莽)・操(曹操)におけるがごときはすなわち賊なり。また逆に取り、順に守るは、すなわち譎奇権謀(けつきけんぼう)なり。聖人の共に権(はか)るべからざるの謂いにあらず。かつ、これを詳らかにせんと欲せば、すなわち布いて方冊(書物)にあり。他人の読むところと春の申すところとは、以て同じとなすか、以て異なりとなすか。古人は邪説の先ず入るを以て戒めとなす。良(まこと)に以(ゆえ)あるかな。ああ、千言万語は、元はただ理の一字に過ぎず。ここにおいてか、曰く、理理、遂に契(かな)はずと。」

…(中略)・・・

幕府又曰く 「湯武の征伐は権か。」

春(道春)対えて曰く 「君、薬を好む。請う、薬を以て喩(たと)えん。温を以て寒を治し、寒を以て熱を治し、而してその疾已むはこれ常なり。熱を以て熱を治し、寒を以て寒を治す、これを反治という。これ要するに、人を活かすのみ。これ非常なり。これ先儒の権の譬えなり。湯武の挙は天下を私せず、ただ民を救うにあるのみ。」

幕府曰く 「良医にあらずんば、反治を如何せん。ただ、恐らくは、人を殺さんのみ。」
 
春、対へて曰く 「然り。上、桀・紂ならず、下、湯・武ならずんば、すなわち弑逆の大罪、天地も容るること能はず。世人、これを以て口実となす。いはゆる淫夫、柳下恵を学ぶ者なり。ただ天下の人心帰して君となり、帰さずして一夫となる。」

(『日本思想体系 藤原惺窩 林羅山』「羅山先生文集」)


 朱子学者の面目躍如である。
 曲学阿世の御用学者というのが林羅山のイメージだが、彼の主張を読むと決してそうではなかったことが分る。もちろんそれは彼の見識に不備・欠陥がなかったということではないが、家康が信頼を寄せるに値する学者だったことは確かだろう。家康の彼に対する信頼は確かなもので、大坂夏の陣を終えて、戦後処理、そして諸法度の発布を終えて、八月に駿府に帰還するに際して、次のようなエピソードがあったことでもわかるだろう。

 羅山は記している。


「去歳(元和元年)八月四日、大相国(家康を指す)、二条の御所(二条城)を出御これあり、翌日此所(ここ・・・水口を指す)に著(つか)せ給ふ。其日より打続き、雨ふりければ、三日逗留ましましけるに、夜更(ふく)るまで御前に余もはべりし時、「学而」の篇(『論語』)を読めと仰ければ、跪きひらきはんべりしに、「能其力竭 能其身致(能く其の力を竭くし、能く其の身を致す)」とある所を自ら御読みこれあり、「能」という字に心を尽すべきなり。なをざりにては忠孝たちがたし。親には力をつくし、君には身を致すといつぱ、何れがまされるといふ評論あるべし、と仰せけるに、余もかの趙苞(後漢の忠臣)が故事を引て、答へ奉りしが、只今わすれがたく、坐(そぞ)ろに袂をしぼり侍る。」(『林道春丙辰紀行』)


 彼はその記室の才を以て家康に仕えたのであって、決して阿諛追従によって仕えたのではなかったのだ。忠義心と阿諛追従は違う。
 家康が羅山の師・藤原惺窩に出会ったのは、朝鮮の役の際、肥前名護屋に滞在していた時の事。これを機会に、文禄二年、彼を江戸に招いて、『大学』を講じさせ、『貞観政要』を読ませた。さらに慶長五年、家康の京都滞在中に再び召して、『漢書』(儒教的視点から書かれた漢の歴史書)『一七史』(南宋の儒者呂東莱の著、詳細不明)を読ませた。この時、惺窩は初めて道服というものを着て、公の場に出ている。それまで禅宗に付属する学問のような扱いであった儒学(宋学)の独立を示したのである。

 同じ頃、京において、朱子集注『論語』を講じて、門人を集めた若者がいる。羅山である。
 これに、朝廷の伝統の立場から、難癖をつけたのが、大外記・明経博士の清原秀賢であった。清原家は清少納言を輩出した明法家の名門である。代々儒道を以て家業としてきた。いわば朝廷の儒学の伝統を頑なに守り続けてきた家系であったわけだが、その反面、一子相伝の秘法としてきたために、儒学の一般への普及を妨げてきたことにもなる。

 秀賢は羅山の才を忌み、朝廷に訴えた。
 曰く、古より勅許がなければ、(朱子の)新注を講ずることはできない、朝廷でさえそうなのだから、地下においてはなおさらである、処罰して欲しい、と。
 時の武家伝奏はこのことを家康に伝えた。
 家康はこれを聞いて、笑い、講ずる者こそ奇特というべきである、訴えたものは小さきことをいうものかな、と言った。秀賢はこれを伝え聞いて、恥じ、再び訴えることはなかった。そして、慶長十年、家康は羅山を召した。(『武徳大成記』要約)

 羅山を京より召し出し、駿府に屋敷を与えたのは慶長十三年の事。
 その後の諮問の中で、先の『中庸』及び「湯武放伐」をめぐる問答はなされたのだ。

 ここまでたどり着いて、ようやく、晩年の家康の政治がどのような思想に基づいて為されたか、得心がいったような気がする。後世の識者は、家康の行いに権道ばかりを見て、最も肝心な「中」道の心掛けを見落としてきたのだ。

 事々しい解説は省くが、『中庸』を引用して「道」について尋ねた家康に、羅山は、要するに「中(中庸)」とは物事それぞれにあるもので、物事それぞれの「理」を得ることでそれは達することができる。放伐を行った湯武は「中」にして「権」(権道…臨機応変の道)であり、天下を私すためではなく、民を救うためにこの挙を行ったのであって、それは天下の人心が帰すか否か、すなわち天命か否かで判別される。
 家康が大坂に対し道理に則った対応を心掛けてきたことは既に触れてきたところであるが、その結果、天下の人心はほぼ彼に帰服していった。

 ここで歴史としての武王による放伐を、司馬遷の『史記』を紐解くことによって見てみよう。

 文王の位を継いで九年、武王は天下に号令し、紂王討伐の軍を興した。孟津という土地に会した諸侯は八百に上ったという。諸侯は口々に、紂伐つべし、と言ったが、武王は「なんじ、未だ天命を知らず、未だ可ならざるなり」と言って、解散を命じた。
 二年後、紂の暴虐はさらに甚だしくなり、これを見かねた武王は、再び討伐の軍を興す。武王は衆庶に告げて、曰く「今、殷王・紂、乃ち其の婦人の言を用い、自ら天に絶ち、…(中略)…故に今、予、発し、維(こ)れ共(つつし)みて天の罰を行う。勉めよや夫子。再びすべからず、三たびすべからず」と。
 武王はここに至ってようやく紂王討伐を天命としたのである。
 
 この歴史、というより伝説を大坂の陣に重ね合わせることも可能かと思う。
 家康は冬の陣において、敵城塞の堅固さを見て、天命未だ知らず、可ならざるなり、と和睦を模索し、再度の逆心を見て、天罰を行った。それが夏の陣ということだ。
  
 彼が豊臣家の滅亡を「天道応報の理」といったとき、豊臣家という存在の「理」は天下の簒奪者というところにあり、だからこそ、一代限りで亡びた。ならばその思想の背景には、簒奪者を滅ぼした自分は天道を執行したのであり、天命を受けているとの自負があった、ということだ。
 もちろん繰返しになるが、これは彼が最初から豊臣家の滅亡を目指していたということではない。天下人としての豊臣家は否定したが、豊臣家の存続の為、天下の政道に差しさわりのない範囲で、最大限の努力をしてきたのである。それは、以上の文脈で言えば、豊臣家は一大名として存続し、秀頼は将軍秀忠の聟として、五倫の一つである父子親あり、を誠意を以て勉めよ。それが豊臣家に内在する理であり、秀頼の行うべき理である。道理である。家康が大蔵卿局との対面で、秀頼母子に伝えたかったことはそれである。

 

 そもそも「中」(中庸・中行・中道)の徳を奨励したのは孔子である。
 『孟子』もまたこれを受け継いでいだ。
 『中庸』は五経の一つ『礼記』の中の一篇で、孔子の孫の子思の言葉とされているが、後世の誰かが彼に仮託して書いたものだ。

 『論語』で孔子は「中」について次のような言葉を残している。


「子曰く、中庸の徳たるや、それ至れるかな。民鮮(すく)なきこと久し。」(「雍也」)

「中行を得てこれに与(くみ)せずんば、必ずや狂狷(きょうけん)か。狂者は進みて取り、狷者は為さざる所あり。」(「子路」) 


 「中庸」は至徳である。だが、至徳ゆえに中庸の君子は得がたい。ゆえにその次として、進取の気性に富む狂者、ついで堅固で守るところある狷者と共に事をなそう。孔子はこう言っている。

 「中庸」「中道」という言葉は未だに使われることはあるが、その深長なる意味は失せてしまっていることがほとんどである。何か、間を取った無難な意見と勘違いされているのだ。原義を見失ったこれらの言葉の使われ方を見ていると、昔見た「一休さん」の頓智話を思い出してしまう。

 このはし(橋)渡るべからず、とおふれ書きがしてある橋がある。
 これ見た一休さんは堂々と真ん中を通る。
 それを咎めた人に一休さんはこう答える。
 このはし(端)渡るべからず、と書いてあるでしょう。だから真ん中を渡ったのです。

 屁理屈をこねて、橋の真ん中を通りゃ、そりゃ安全だ。
 自ら「中道」を宣言して、無難に世渡りしている輩を見ていると、子供向けアニメの頓智レベルで、子供だましですよ、と言いたくなる。保身の感覚が透けて見えるのだ。本来の「中道」とは厳しい実践を伴うものであり、狂気と理性の困難な平衡の上に成り立つものだ。そこには当然危険もある。いや、むしろ危機に直面してこそ、真価が問われるのである。
 だからこそ、孔子は至徳とした。
 彼らの言う「中道」とはむしろ、孔子が徳の賊とまで言って嫌った「郷原」の所業である。

 もちろん、家康は「中」というものが困難な道であることは知っていたであろう。少なくとも、林羅山との対話によって、それを改めて自覚したはずである。

『駿府記』によれば、慶長十九年三月、家康は五山の僧を召して、『論語』の「政を為すに徳を以てすれば、たとえば北辰(北極星)のその所にいて衆星これにむかうが如し」の題を与えて、文章を書かせている。

 その結末は『玉音抄』という書物に次のように記録されている。

 (五山の僧が)いずれも、「只今天下静謐なること、北辰の如し、萬々年」などとの言書き申し候を、権現様(家康)ご覧なられ、これは面白からぬ文法なり。北辰の動かずして衆星これにむかうが如きに徳を以て天下を治める、その徳とは何様なることと言いたきかなと、御意なられ候。

 つまり、家康の治世により天下が治まっていることを寿いだ、学問僧たちの毒にも薬にもならぬ文章に対し、家康はけちをつけたのだ。知りたいのは、どのような徳を言うのかということだ、と。
 これは天下に太平をもたらすという、天下人の立場での実践が念頭に無ければ、出て来ない関心だろう。もっといえば、家康の中には、「中」こそそれではないか、という仮の回答が用意されていなかっただろうか。

 晩年の彼の関心はどこまでも、いまだ日本各地でくすぶっている荒ぶる戦国の魂をいかに鎮めるかにあった。慶長十九年は大坂との緊張が高まって冬の陣が行なわれるまさにその年である。


 彼は彼なりに、天下にある物事の「中」を求めて、それぞれの「理」を抽出し、それを行おうとした。それが、大坂城陥落後、彼が矢継ぎ早に発していったそれぞれの法度であったのだろう。
 しかも、それは、道理に基づいて、天下の仕置きを行った頼朝、道理の推す所をまとめた貞永式目(関東御成敗式目)を発布した北条泰時以来の武家政治の伝統に則ったものでもあった。

 大坂の陣は、それを行おうとして準備を進めている、まさにそのときに、鐘銘事件を契機として起きた突発的事件であった。だが彼はその事件にも、同様の態度、すなわち「中」の態度で臨んだのである。
 
 その家康の「中」なる態度こそ、外的脅威の存在しない条件下で、二百五十年の安定政権を作り上げた基ではなかっただろうか。そして同じ精神の伝統は、外的脅威にさらされた幕末維新に再び、新たな精神秩序の基となるのである。

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