西郷隆盛

アクセスカウンタ

zoom RSS 世人の唱うる機会とは… 【西郷南洲翁遺訓解説】 第三十八条 @

<<   作成日時 : 2017/07/21 17:07   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 3 / トラックバック 0 / コメント 0

世人の唱うる機会とは、多くは僥倖の仕当てたるを言う。真の機会は、理を尽して行い、勢を審らかにして動く、と云うに在り。平日、国、天下を憂うる誠心厚からずして、ただ時のはずみに乗じて成し得たる事業は、決して永続せぬものぞ。


(大意)世の人の唱える機会とは、その多くはたまさか巡り合えた幸運、すなわち偶然の出来事を指している。真の機会をとらえるには、それとは違い、古人が言うように「理を尽して行い、勢を審らかにして動く」ということを必要としている。常日頃から国や天下を憂える「まごころ」が大して厚くないくせして、ただ時のはずみに乗じて成功しただけの事業は、決して永続きしないものだ。


【解説】この条は翁の思想のダイナミズムを理解する上で、大変重要なものだ。
翁は、妹婿の姉の子である岸良真二郎への訓戒の中で、次のような、上記内容を補足することを言っている。

「事の上にて、機会というべきもの二つあり。僥倖の機会あり、また設け起こす機会あり。大丈夫、僥倖を頼むべからず、大事に臨んでは是非機会は引起さずんばあるべからず。英雄のなしたる事を見るべし、設け起こしたる機会は、跡より見る時は僥倖のように見ゆ、気を付くべき所なり。」

 つまり、英雄たらんとする者は僥倖の機会を恃みにせず、機会を設け起こせ、というのだ。
 また、岸良に対し次のようにも言っている。

「事の上には必ず理と勢の二つあるべし。歴史の上にては能く見分かつべけれども、現事にかかりては、甚だ見分けがたし。理勢は是非離れざるものなれば、能々心を用うべし。
たとえば賊ありて討つべき罪あるは、其の理なればなり。規模術略吾が胸中に定まりて、これを発するとき、千仞(ひろ)に座して轉ずるが如きは、その勢というべし。事に関かるものは、理勢を知らずんばあるべからず。ただ勢のみを知って事を為すものは必ず術に陥るべし。また理のみを以って為すものは、事にゆきあたりてつまるべし。いずれ『理に当たりて後進み、勢を審らかにして後動く』ものにあらずんば、理勢を知るものというべからず。」

 これは翁が、事の勢と機会を察するのにどのようなところに着目すべきかという、岸良の問いに答えたものである。
 翁は「理に当って後進み、勢を審らかにして後動く」という南宋の学者陳亮(号は龍川)の著作『酌古論』の言葉を引用している。翁は相当傾倒していたようだ。この陳龍川は朱子と同時代の人物であり、両者は直接の交際もあったが、朱子の学風に対しては、世用に適せざるものと批判的であった。
 彼は朱子への書簡の中で「義理の精微を研窮し、古今の同異を弁析し、心を秒忽に原(たづ)ね、礼を分寸に較べ、積累を以って功となし、涵養を以って正となすは、すなわち亮、諸儒において愧(は)ずるあり」と、自分の学問が朱子学の精緻さには及ばないことを言い、自らの長所を次のように誇った。

「堂堂の陣、正正の旗、風雨雲雷交々発して並び至り、龍蛇虎豹変現して出没す。一世の智勇を推倒し、万古の心胸を開拓する者に至りては、自ら謂(おも)えらく、差(やや)一日の長有りと。」

 翁は遠島中『陳龍川文抄』を読んで以来、この文中にある「一世の智勇を推倒し、万古の心胸を開拓す」の句を非常に好んでいた。陳龍川の朱子の学風に対する批判は、若き日に朱子学を学んだ翁が日々の学問の実践の中で感じた違和感と同じものであったに違いない。

 陳龍川は『酌古論』中の「先主論」で言う。

「英雄の主は為す所、私忿(私憤)を置いて未だかつて復(報復)を求めざるものなり。私忿の当(まさ)に復すべからざるをもってに非ず、義の私忿より大なるものあればなり。理に当たりて後進み、勢を審らかにして後動く。為さざる所有り、為して成らざる無し。是をもって英雄の主は常に天下に敵無し。」

 これは三国志の時代、漢の王室の後裔であり、その再興を目指す劉備が、家臣で義兄弟でもあった関羽を呉に殺された時に、大義において、呉と同盟して、漢の帝位を奪った魏を討つべきところ、私憤に駆られて、報復のために、魏と同盟を組んで呉を討ったことを批判した文章である。
 結局、この作戦は失敗に終わるのだが、陳龍川に言わせれば、失敗の原因は個々の作戦の良し悪しということではなく、大義を差し置いて劉備一家の私憤を晴らそうとしたため、すなわち理に当たって後進まなかったゆえに失敗したのだ、ということになる。

 理に当って後進むとは、条理・天理・道理を尽くしてから進むという事である。近代合理主義的な論理に則って進むということではない。

 そして、そのように理を尽くしてから進めばどのようになるか。
 これについては翁のこの思想の忠実な弟子と言える大久保甲東が次のような発言を残している。

「弊習といえるは理にあらずして勢にあり。勢は触視する所の形跡に帰すべし。」

 「弊習」すなわち弊害のある慣習とは理ではなくて勢の内にある。勢とは人力ではいかんともしがたい、人間社会に生じる自然の流れというものであろう。たとえば強者が弱者を制し、衰弱により勢を失った強者が力を付けた新たな勢力に追われるといったような。それは動物社会でも見られるような、生命の本能に則った行動だろう。
 それは人間社会である以上は決して否定すべきものではないが、それに従って生きているだけでは人間とほかの動物の違いはどこにもない。いや、動物の社会にもそれを守るための、あるいは種を保存するための自己犠牲的な行動というのはあるのであるから、それ以下ということになってしまう。
 人間とほかの動物の違いの一つは、明らかに経験を記憶し、それが出来るか否かは別として、理性によって欲望を制御するという意識を持ちうるところにある。言語はその最大にして唯一のツールだ。理はその膨大な言語の大海から抽出される、諸要素の対立と調和で混沌とした現実を秩序立てるものだ。古代ギリシャ人はこれを「ロゴス」と言い、古代シナ人はこれを「聖」と言ったのである。
 日本でこれを抽出する試みが盛んになったのが江戸時代の学問の隆盛であった。その触媒となったのが朱子学で、これによって江戸社会の秩序は整えられ、その中で、理を極める学問は多種多様に深化発展を遂げた。翁が依拠した水戸学はその思想運動の一つの帰結である。

 さて、大久保が指摘する所によると、勢は、理を尽して前進し、その見たり触れたり、経験する所の形跡に帰すことが出来る。つまり、道理を実践行動する者だけが、人間社会に生起する多種多様な出来事に内包する理と勢を見分かつことが出来るというのである。
 その勢を審らかにしたところから、好機を判断し、機会を設け起こし、道理に基づいた策を施す。そうすれば、勢を理の味方につけることが出来て、たとえば千尋の高所から円石を転落させるように、自然万有の法則である重力を味方につけ、物事は、加速度的に解決に向かうだろう。
 翁の理勢に関する思想を整理するとそのようになるだろう。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 3
なるほど(納得、参考になった、ヘー)
面白い
ナイス

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
世人の唱うる機会とは… 【西郷南洲翁遺訓解説】 第三十八条 @ 西郷隆盛/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる