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zoom RSS 作略は平日致さぬものぞ  【西郷南洲翁遺訓解説】 第三十四条

<<   作成日時 : 2017/06/23 17:25   >>

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作略は平日致さぬものぞ。作略を以てやりたる事は、その迹を見れば、善からざること判然にして、必ず失体これあるなり。ただ戦に臨みて作略なくばあるべからず。しかし平日作略を用うれば、戦に臨みて作略は出来ぬものぞ。孔明は平日作略を致さぬゆえ、あの通り奇計を行われたるぞ。
予、かつて東京を引きし時、弟へ向かい、これまで少しも作略をやりたる事あらぬゆえ、あとはいささか濁るまじ、それだけは見れ、と申せしとぞ。

(大意)策略は平常時には施してはならないものだ。策略を用いてやったことは、その形跡を見れば善くないことが判然としていて、必ず失体があるものだ。ただ戦、すなわち非常の事態に臨んで、策略を持たないということがあってはならない。しかし平常時から策略を用いていれば、戦に臨んで策略を施すことは出来ぬものだ。
諸葛孔明は平常時に策略を用いなかったため、戦に臨んで、あの通りに奇計は行われた。
自分は、かつて東京を引き揚げた時(明治六年十月征韓論破裂により)、弟に向かい、これまで少しも策略を用いたことはないから、あとはいささかも濁ることはないだろう。それだけは見ておけ、と申しておいたとのことである。

【解説】「作略」は「さりゃく」と訓ぜられているが、筆記者の庄内藩士は耳で聞いた翁の言葉を文字に記したわけで、翁が「さりゃく」と言ったのか、それとも「さくりゃく」のかわからない。しかし、「さりゃく」と言ったのなら、「詐略」と書いても意味は通るし、「さくりゃく」と言ったのなら「策略」と書いても意味は通る。
 ここでは諸葛孔明の奇計に対応する、相手の目を欺く「詐略」を含む「策略」全般と理解しておきたい。

 翁は「作略は平日致さぬものぞ」というが、では戊辰戦争に至る過程で、徳川慶喜が大政奉還し、王政復古の大号令後、大坂に退いていたにもかかわらず、江戸の薩摩藩邸に浪士を集めて、狼藉を働かせ、幕府の挑発して開戦に持って行ったのはどういうことなのだ、矛盾するではないか、との批判もあるだろう。
しかし、これは俗説であって、誤解である。

 当時の史料をよく読めば、翁が板垣退助の依頼で、水戸出身者をはじめとする浪士たちを預かり、いざという時に備えたのは確かである。しかし、それは上方の政局次第で、いよいよ開戦となり、一報があって初めて、関東でも挙兵して、幕府本軍の上京を足止めせよということであって、違法な挑発行為を行って、開戦に持って行こうとしたわけではないのである。

 ただ翁や大久保・小松などは上方や薩摩本国での政治工作に忙殺されて、江戸まで手が回らなかった。そこで功を焦る浪士たちを統御できるだけの重みのある者が江戸におらず、狼藉をほしいままにさせてしまったのである。
翁や大久保の書簡を読む限り、彼らに挑発行為を働かせたという意識は皆無である。
 同志の吉井友実に至っては、政局が大きく転換した大政奉還後および王政復古の大号令後に自重を促す書簡を江戸に送っているほどである。これらはもちろん、彼らの方針から来ていて、吉井個人の勝手な判断ということはあり得ない。

 後に翁は鳥羽伏見一発の砲声によって救われたという趣旨のことを言っているが、これは十二月九日の王政復古直後は優勢であった薩摩藩は、確かな同志と言えるのは長州藩だけであり、年末にかけて朝廷内で政治的に孤立して行き、じり貧状態にあったから、開戦によってむしろ救われた、と言っているのである。しかも開戦したと言っても、戦争自体は圧倒的に不利な状況で、当初は戦えるだけ戦って時間を稼ぎながら、山陰道を通って、芸州まで鳳輦を遷すつもりであった。そこで、鳳輦を装った一行を比叡山に向かわせるという奇計も行っている。これが「詐略」と言えるものだ。彼らは日本を東西二分し、九州を中心に割拠して、徳川およびそれに味方する勢力に対抗するつもりだったのである。長州一藩でさえ屈服させられなかった幕府が薩長の連合とこれになびいた西南諸藩を屈服させられるはずがない、との状況認識に基づく判断である。
 
 これらは『太平記』をモデルにした戦略戦術であり、開戦後の関東における挙兵も新田義貞の挙兵がモデルであり、この点でも、関東で撹乱工作を行って戦端を開かせるとの開戦以前の工作、すなわち平日に作略を致した、というのは否定されなければならないのである。
 開戦以前の段階で、戦争勃発という非常時の「作略」を含む備えは確かにあった、しかし「作略」はいまだ実施されていなかったのである。「致す」というのは文脈から言って、実際に施すという意味合いを持っている。
 歴史研究者や愛好者は俗説を鵜吞みにせず、当時の史料をよく読みこんで自分の頭で考えてほしいものだ。

 ここで自分も考えてみたいが、戊辰戦争に至る過程で、薩摩藩は戦争準備を行いつつ、正論によって(もちろんこれは薩摩藩の勤皇主義に基づく正義だが)、幕府の反正、服罪を強制的に求めていったが、それが慶応三年九月からの流れである。戦争準備はなかなか秘匿しうるものではなく、その不穏な形勢が、将軍をして自ら大政を奉還せしめ、王政復古の大号令による大坂城への退去へと至らしめたわけだ。
 ここで押さえておいてほしいのは、同年五・六月に行われた諸侯会議(雄藩連合とも)の政治的意義である。その前年、すなわち慶応二年十二月、慶喜が将軍職を継ぎ、孝明天皇が崩御された。翁ら薩摩藩首脳はこれを「維新の時」と捉え、公議政体のひな型となる諸侯会議開催を企て帰国する。公議政体の思想的裏付けは『孟子』にある、民意を一つにすればそれは天意である、との天命思想に基づく。『孟子』によれば、地の利は天の時に如かず、天の時は人の和に如かず、だからである。人の和が一番強い。天命を自覚した有志が万機を論じ、公論を決することで「和」を達成し、政治を運営していく、それが島津斉彬から継承した公議政体論の思想的裏付けなのである。「維新の時」に当たって、翁らは薩摩藩の藩論を勤皇で統一し、会議開催に向け、当時賢候と呼ばれた伊予宇和島の伊達宗城、土佐山内容堂、越前福井の松平春嶽らに周旋し、上京を促した。
 長州藩は幕府と休戦中であるからいまだ臨戦状態であり、いまだ朝廷から罪を許されていなかったから、この中には入っていない。
 
 一方、将軍も諸侯に上京を促し、会議を開催しようとする。当時の政治課題に対する諸侯の意見を取り入れつつ、盟主として新政に臨もうとしていたためで、あくまでも将軍中心、公武合体の枠を出るものではなかった。ただし、薩摩藩などの対立勢力との妥協を図ろうとの意図もあって、決して反勤皇というわけでもなかった。

 しかし、この会議が破れれば、いよいよ非常の手段に訴える覚悟であった薩摩藩は非妥協的で急進的だった。理念に基づき、先ず朝廷を勤皇論でまとめるべく、幕府を無視して、親幕派、というより従幕派の伝奏・議奏を更迭し、勤皇派の同職に替えるよう朝廷に働きかけるが、幕府の工作もあってうまく行かない。そこでいよいよ幕府との会議に臨むが、外交当局に当たるものとして長州問題より兵庫開港問題を重視する慶喜と、人心の和優先の立場から、長州問題を先にして、長州も会議に参加した上で、兵庫開港問題にあたるよう説く久光は激しく対立、妥協は成立しなかった。順序のみならず各論においても、長州冤罪論に立脚し無罪を主張する薩摩と長州有罪論に立脚し赦免を説く慶喜、兵庫開港をめぐって、薩摩が主張する勅命による開港か、慶喜が主張する勅許による開港で可か、議論はことごとく対立したのである。(ちなみに薩摩藩が長州冤罪論に立つきっかけとなったのが、かの有名な薩長盟約の成立で、桂小五郎と翁が対談し、長州の立場を滔々と論じた桂に対し、翁が「ごもっともでごわす」と受け入れた瞬間である。)

 薩摩藩は正論をどこまでも主張することで、幕府が反正するなどと甘い期待を抱いていたわけではなく、正論をどこまでも主張し、出来るところまで尽くした上で、すなわち後世に恥ずることがないよう自己の正義を天下に明らかにしたうえで、いよいよ挙兵に踏み切るつもりだったのである。つまり、そこが翁の言葉で言えば、作略を致さぬ平日と作略を致す戦の切り換え点であった。平常時は信念に基づいて公論を決するよう、ぎりぎりまで尽くさなければならない。しかし、いざ非常時ということになったならば、作略を致し、実力が行使されることになる。

 ここで唐突だが、信長が明智の謀叛に遭って、「是非に及ばず」と命令し、自ら武器をとって戦ったことを想起されたい。これは非常時だから武器をとって戦えと命じたことを意味しているとともに、裏返せば、平常時信長は是非を問いながら行動していたことを表している。
 これは以降の武家の伝統であり、江戸の薩摩藩邸が幕軍に包囲され焼き討ちされた際、藩邸に居る留守居が武器を以て戦ったことを「武家の習い」と言って弁護したのは大久保であった。

 ここでは、これまで変乱に備える護衛兵として(もちろん朝廷を守護するための)兵を帯同しての上京であったが、ここからは対幕挙兵のための兵の上京となる。彼らの政治思想は現代の政治思想とは異なるから、その動機の解明には注意を要するが、現代の歴史家はこの距離感が認識できないらしい。

 諸侯会議は薩摩藩に引きずられて行くことを恐れた山内容堂の脱落によって瓦解する。在京の薩摩藩首脳は挙兵を決議するが、そこに土佐の後藤象二郎が大政奉還策を持ち込んでくる。すでに板垣退助から土佐有志による挙兵への参加が申し入れられていた翁は、土佐藩が薩摩藩のように本気で正義を尽くすために、藩兵を上京させ、大政奉還を建白するなら、正義を尽くす余地はあるということで、挙兵計画を遅らせることにした。久光や大久保は優柔不断な容堂を戴く土佐藩に懐疑的で、結果的に騙されることになるのであるが、これを抑えたのが翁なのである。
 翁の期待に反して、土佐藩兵の上京はなく、紙切れ一枚の建白であったことが判明した時点で、元に戻って計画は進められることになった。その不穏な形勢が慶喜をして土佐の建白を受け入れる方向に背中を押したのである。もちろん慶喜自身尊王家であったが、将軍として大政奉還を政治的に決断することは決して容易ではなかった。

 以上、平常時における道義の実践と、非常時に入った時の「作略」による実力行使という翁の思想が、幕末の薩摩藩の政治ですでに実践されていたことを示すための事例として経緯を追ってみた。
 以降、薩摩藩が力の裏付けを以て自己の道義を推し進めていくことで、道義にあやふやの所のある慶喜はその政治的立場において後退を意義なくされていくのである。それが江戸城無血開城に帰結する。
 旧幕勢力がバラバラに解体され、各固撃破されていく一方で、官軍は薩摩藩を中心に徐々に結束していくことになる。今の目で見れば、日和見の藩が弱り目に祟り目の徳川家から強い官軍勢力に鞍替えして行ったようにも観察できるが、この運動を強力に推進していった方の主観ではかなり違ったのである。おそらく朱子学的道義と開戦時の奇計によって成った「建武の中興」の再現のように感じられたであろう。

 こういった翁の態度は明治六年の政変、いわゆる征韓論破裂でも一貫している。
 翁は朝鮮半島および満州地方の調査を命じ、軍略の研究は行ったものの、戦争準備はしていない。しかもその主張自体も、兵を送らず、大使一人を派遣せよという主張だったのである。
 翁は正院(今の内閣)の内外において正論を推しただけで、作略は用いなかった。それでも正院での議論に勝ち、ほぼ全員一致で意見は採択された。最後まで反対したのは大久保で、心ならずも同意したのが岩倉。しかし彼らとて、翁の意見に明確正当な反対理由などなく、翁の驥尾に付して薩長閥の打破をもくろんでいると猜疑した江藤新平を退治するのが目的だったのである。彼らは外遊以前の正院の参議構成を理想としていたのだ。つまり廃藩置県を断行し、使節団派遣を実行した頃の政権である。
 彼らの念頭に、東アジアの外交問題はなかったと言ってよい。
 
 維新の理念から言えば、ある特定の党派で政権を維持することは新たな門閥を作ることになるから後退以外の何物でもない。少なくとも大久保や岩倉は外交をめぐる議論に完敗した以上、そのまま引き下がるべきであっただろう。
 ところが大久保は「一の秘策」と呼ぶ卑小なクーデター、すなわち奏上の責任を負う太政大臣三条実美のストレスによる人事不省を奇貨として、宮中に手を入れ、明治天皇を外部と遮断し、これもまた大久保の裏工作により太政大臣代理を命じられた岩倉が自分らに都合の良い虚偽の会議報告を行ったのである。翁の言葉を借りれば、「作略は平日致さぬものぞ。作略を以てやりたる事は、その迹を見れば、善からざること判然にして、必ず失体これあるなり。」であり、この政府の失体を見て征韓派の志士たちは激昂し、やがて、西南戦争を以てようやく終焉することになる内乱相次ぐ時代に突入することになるのである。多くの国費を浪費し、貴重な多くの人材を殺す結果となった。最後は不作為で、かつての盟友で、維新最大の功臣まで死に追いやってしまった。
 大久保は自己の正義を信じていたであろう。必ずしも悪意があったわけではなかっただろう。だとすれば、彼の政治家としての資質、器量の大小、見識の高低・広狭が問われなければならない。

 ともかく翁は、兄の「征韓論」に反対する立場にあった弟従道へ向かい、「これまで少しも作略をやりたる事あらぬゆえ、あとはいささか濁るまじ、それだけは見れ」と言って、「征韓」の方策を巻懐し、激昂する兵隊を連れて鹿児島に引っ込んだ。これは騒乱を避けるためで、大久保は翁のこの態度に大いに助けられていると言ってよい。王政復古が成り、いろいろ問題はあっても天皇を中心とする公武一和の國體が実現している以上、政策をめぐる議論は平常時の営みである。一方の大久保がこだわったのは政体どころか、薩長閥という一時成功をなした党派であったというのだから、維新の壮図に比べれば卑小であったというほかない。

 翁のこの態度は最後まで一貫していて、それを考えれば、西南戦争は謎でもなんでもない。翁は、私学校徒の武器略奪や暗殺疑惑程度の案件は挙兵の要件とはみなしておらず、熊本県で鎮台兵の奇襲を受けるまでは陸軍大将として護衛兵あるいは義勇兵としての兵を帯同して、白昼正々堂々と江戸に向かうつもりだったのである。これは平常時と非常時の切り替えを明確にさせるための行動であり、鎮台兵が奇襲を行って初めて作略は施されることになったのである。それがすなわち熊本城をめぐる攻防戦である。それについてはかつて拙著で詳述したから省くことにするが、これらの動機は同時に、根拠地となる鹿児島を守る兵も置かずに上京したことの答えにもなっているだろう。

 すでに触れたが翁を中心とする私学校では、この時期、日本の潜在的脅威であるロシアとトルコが開戦しそうだとの外交情報を入手していて、再び大陸政策着手の輿論を喚起すべき時機と見なし(だから義勇兵)、上京準備を進めていたという経緯もあったのである。

 大久保には何も見えていなかったというほかない。
 彼は内政を治めたのではなく、作略によって内政を濁らせたのである。

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