西郷隆盛

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zoom RSS 過ちを改むるに、自ら過ったとさえ思い付かば… 【西郷南洲翁遺訓解説】 第二十七条

<<   作成日時 : 2017/04/28 17:57   >>

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過ちを改むるに、自ら過ったとさえ思い付かば、それにて善し。その事をば棄て顧みず、直ちに一歩踏み出すべし。過ちを悔しく思い、取繕わんとて心配するは、譬えば茶碗を割り、その欠けを集め合せ見るも同じにて、詮もなきことなり。


(大意)過ちを改めるには、自ら過ったと気づきさえすればそれでよい。その事はいつまでもこだわらずに、棄てて顧みず、直ちに一歩踏み出すがよい。過ちを悔悟し、それによって生じた物事の破れを取繕わんと心悩ますのは、たとえるなら、茶碗を割って、その欠片をかき集めて合わせてみるのと同じことで、意味のないことだ。

【解説】これは次の孔子の発言を翁流の言葉で述べたものである。

「過てば則ち改むるに憚ること勿れ。」

 また、

「過ちて改めざる、是れを過ちと謂う」

 人間である以上、過ちはつきものだ。そうである以上、過ちを犯した後、それを改めるかどうかに、その人の価値は懸かってくるが、その過ちを改めるためにも、まず大事なのは、過ちを犯したと気づくことである。過ちを犯したとの自覚がなければ過ちを改めることはできない。過ちを再生産し、過ちに過ちを重ねることになる。
 これは病識がなければ病気を治すことが出来ないのと同じことだ。「知」という文字にやまいだれ(疒)がつくと「痴」になる。知が病んだ状態を「痴」という。右も左も、「知」の病んだ「痴識人」がなんと多いことだろう。それもこれも、プライドが邪魔して、あるいはお仲間の目を気にして過ちを認める勇気を持たないところから来ているような気がする。人間の知性ほど頼りにならない病みがちなものはない。これを認識することこそ、真の知性への第一歩だと思われるがどうだろう。

 とはいえ、過ちを恐れていては何もできないのも事実である。

 軽はずみで過ちを犯す場合、一度だけということは滅多にない。一度目の軽はずみでは、誰でも常にやり過ぎるものである。まさにそのために、通例はさらに二度目の過ちを犯す…今度はやらなさすぎるという過ちを…。

 ニーチェの言葉だが、若気の至りによる過ちと中高年の後悔、ということでありふれた話である。孔子も「過ぎたるは猶及ばざるが如し」と言っているように、法的にはともかく、道徳的な中庸、すなわち中道から言えば、やり過ぎるのも、やらなさ過ぎるのも似たようなものだ、というのだ。
 これが政事的になると、「過ぎたるは猶及ばざるに如かず」という言葉も出てくる。今度は、やり過ぎるより、やり過ぎない方がよい、というのだ。
 
 旧薩摩藩士で当時大蔵省の官僚であった高橋新吉の談話によれば、明治八年末ごろ、大久保甲東は次のように言ったという。

「高橋さん、孔子は『過ぎたるは猶及ばざるが如し』と言われたが、私は『過ぎたるは及ばざるに如かず』と言いたい。これは徳川東照公も言われたことであるが、何分にもこの天下に一大変革のあった跡というものは、これを整理し守成して行くのは難しいものだ。こういう場合にはしなければならぬことはたくさんあるが、しかしやり過ぎるのはよろしくない。殊にわが国の目下の現状はことごとに新しくしなければならぬことばかりだから、余計に私はそう思われる。やり過ぎるのはやり足りぬよりは悪い。やってしまった後はもう取り返しがつかぬけれども、いまだやらぬ内は熟慮してやるべき余裕がある。だから、『過ぎたるは猶及ばざるが如し』ではなくて『過ぎたるは及ばざるに如かず』である。家康公がこのことを言われたのが今全く思い当たる。
 また元の耶律楚材という男も『一利を興すは一害を除くに如かず』と 言っているが、全くそのとおりで、私は討幕のことにも与り、またこの守成時代にも自ら当たってみて、しみじみ思い当たるが、まことにやり過ぐるはよくない。一利を興すは一害を除くには勝たないと思う。聖人の言といえども、時勢によっては全部応用することはできない、時勢に応じて活用しなければならぬ。」

 大久保の言う事はもっともだ。
 ただ孔子が言ったのは特定の人間の物事に臨む態度の比較であって、人間が政事に臨む態度を比較したのではない。人の生活に影響を及ぼす所の大きい政事に応用した時、そのまま教条的に適用するのではなく、物事に応じて、時勢に応じて、応用が必要であることはそのうちに含まれているだろう。
 大久保は、人間は過ちを犯すものであるから、慎重に政事に臨むにはやり過ぎないようにして、あとは少しづつ不断の努力によって修正し、中庸(中道)により近づけることを前提にしているのである。これは中庸を至徳といった孔子と同じである。
 
 大久保がこれを言う時意識していたのは日本の内政である。外遊中、内政に関して「今日の時勢にては取り込むだけ取り込み、その弊害は十年か二十年かの後には、必ずその人出候て改正いたすべく」と考えていた大久保は、この条に言う翁の考えにどちらかといえば近い印象を与えるだろう。
 帰国後、いわゆる征韓論破裂の勝者となり、政敵を倒しつつ、拙劣な外交ではあったが、台湾征伐を実施した上で清朝との平和談判をなんとか乗り切り、朝鮮問題に関しては砲艦外交を行って開国を成し遂げた大久保は、明治八年ごろは「必ずその人出候て改正いたすべく」のその人に自らなろうと尽力する覚悟を固めつつあったのだろう。「天下に一大変革のあった跡というものは、これを整理し守成して行くのは難しいものだ」との認識が示すように大久保はすでに内政整理に取り組むべき守成の時代と見なしていたのである。事々しい考証は省くが、大久保は征韓論破裂を以て王政復古の大号令に始まった王政復古維新の完結とみていた。これは要するに政局論で、岩倉具視・三条実美を薩長閥で支え、そこに人材を糾合していく体制を目的としていた。いわゆる征韓派は総体として外遊で留守の間に彼らの拠って立つこの屋台骨を揺さぶったから政権から追い落とされなければならなかったのだ。
 藩閥政治打破をもくろんでいた江藤新平が最初のターゲットにされたのは偶然ではない。
 時勢に応じて征韓論を展開した彼らに対し、大久保や岩倉の脳裏には東アジアを中心とした国際情勢に対する配慮は一切なかったのである。
 有馬藤太の回想によれば、南洲翁と甲東の間には、外交は翁が、内政は甲東が分担するという固い約束が交わされていたという。
 徳川家康が例に出されているように、明治の日本が内政に対する配慮だけでやっていける時代であればよかった。しかし、それで立ち行かなくなったからこそ、王政復古維新は必要だったのではなかったか。単なる徳川氏からの政権交代以上の歴史的意義がそこにはあったはずである。
 内政はともかく、外交はいまだ創業の時であった。国際情勢はまだどう動くかわからない時代であり、王政復古維新の精神に基づいてどのように万国対峙の体制を創業して行くのか、それが当時の政治課題であったと言ってよい。

 創業の人は次々襲い来る新しい事態に対応を迫られるから、過ちを認識しても、常に一歩踏み出す心構えが必要で、割ってしまった茶碗の欠片を集め見る余裕はない。割れた茶碗の欠片を観察・分析し、それを修復しようと試みるのは、他の人材の仕事である。それは例えば大久保のような守成を意識した人の仕事であっただろう。大久保の発言にみられる翁の政事的行動に対するいら立ちは案外、後始末を押し付けられているように感じられることから来るものでもあったかもしれない。
 ともかく創業の人には常に進取の精神が求められるのである。
 もちろん、国際情勢に左右される外交と内政は繋がっているから、大久保の認識は内向きで視野狭窄である。大久保もそれはどこかで認識していたようで、日本が外国と戦争せざるを得ない状況になった時は、その時こそ翁の出番であり、だからこそ政変で翁を政府から追い出したものの、陸軍大将の地位はそのままにしておいたのである。これは彼の翁に対する政治的メッセージであったと言っていいだろう。

 一方、翁の目はアジア情勢に向けられており、戦国時代と言ってよい国際情勢の中で、万国対峙を可能とする日本の創業という意識があった。内政は重要だが、それが全てではなく、日本の自存自立の一要素に過ぎない。翁はその内政を信頼する大久保に託していたが、いざ天下に事があれば、自ら起ち上がるつもりであった。翁は帰国前夜、大久保の元を訪れ、そのように宣言したらしい。
 
 当時明治天皇侍読を務めていた元田永孚は伝聞として次のように書き残している。

「(西郷は)大久保にも前夜罷り越し、汝は十分にやり候様、自分は故郷へ帰り候て、自然天下に大事あらば召(めされ)ず共出でたると申し候て出立致し候由。」

 まあ、これが後に様々な事情が複合して、陸軍大将として薩軍を率いて陸路上京を目指すことになるのである。これは、本来は政府に反抗するための軍隊ではなく、大陸出兵のための薩摩義勇兵であった。驚くべきことに私学校ではすでにロシアとオスマントルコの間で戦争が勃発しそうだとの情報を得ていたのである。これは確実な情報であり、事実数か月後、両国は戦争に至る。
 膨張を続けるロシアに対し、イギリスと結んで東西両方で事を起こすというのは、翁の大戦略であったから、これを機に大陸出兵の世論を喚起しようとしたのである。不幸なことに、私学校の出兵準備を知った大久保が、これを政府に対する反乱の準備と誤解し、視察団を派遣したことが問題を内政問題にしてしまった。天下を文字通り世界と考える翁と、天下を日本に限定してとらえる甲東の政事的行動がことごとく齟齬を来して、破局へ向け進んでいったことがわかる。
 結果から言えば、ともに回復不可能な明治日本における深刻な過ちを犯してしまったことになるが、これも人の歴史として心に銘記しておかなければならないことだろう。

 しかし、一方で「人の過つや、各々その党(たぐい)に於いてす。過ちを観てここに仁を知る」である。
 われわれは偉大な先人として、翁のみならず、大久保甲東の仁を知っておくことも大事であろう。

 翁は過ちに関しても、戸田務敏に次のような教戒を与えている。

「総て人は人を相手にする為、過ちも改め兼ねぬるなり。天を相手にすべし。己過あれば箇様の体にては人に顔を合せられぬと思う心あるも、此の位まで既にやったと云う心より、その過を遂ぐるは皆人を相手にする為なり。天を相手にすれば、天の見る処を以て自分も実に安心してその過を棄て去り、速やかに改むること出来得るなり。」

 翁が西南戦争をどうとらえていたかわからないが、自己、延いては薩軍の正義については間然とするところはなかったのではないか。筆者が検証した限り、翁は天に、後世に、恥じることはなかったように思われる。

 一方、大久保は南洲翁の没落、つまり過ちについて次のような批判を残している。 話の相手は禅を修めていた前島密である。

「西郷は従来甚だ感情に敏(さと)く、謂わゆる多感の丈夫なり。而してその血性燃ゆる如き熱情を制し来りて、事物に対し枯木冷灰(こぼくれいかい)し去らんと欲し、此において禅を学べり。惟(おも)うに無為恬澹(恬淡)を以て身を処し、また世を処するは、或は感情過甚の人に益する所あらん。然りと雖も西郷の禅は西郷の望に副わず。反って西郷を意外の地に導き去れり。即ち禅は彼に益せずして彼を害し、妙にも感情を変化し傲世(ごうせい)の気風を生ぜり。傲世は隠逸(いんいつ)と相随伴す。これ禅家の常に免れ難き病なり。西郷も実に此に陥れり。彼れ袖を払うて故山に帰臥せるも、斯病(このやまい)一の誘因と為れるなり。彼れ若し隠逸を悦ばず、飽くまで世俗に混じ、俯仰(ふぎょう)時務を視て専心国事に従わば、何ぞ官を去るを須(もち)いんや。又何ぞ惨劇を演じて奇禍に罹るべけんや。予は少く禅味を解するのみ、而もこれを愛せざるに非ず。唯これを学ぶを欲せず、動(やや)もすればその病に陥るを恐るればなり。」

 大久保の翁理解がこんなに皮相だったというのは驚きだが、ともかく彼は、翁がどこまでも人を相手にすべきだった、と批判していることになる。批判とは対象に対してあげつらうものであると同時に、自己表現という側面を持つから、「飽くまで世俗に混じ、俯仰時務を視て専心国事に従わば、何ぞ官を去るを須いんや。又何ぞ惨劇を演じて奇禍に罹るべけんや」というのは、むしろ彼の政事姿勢を表わしたものと言ってよい。
 逆に翁の言葉を大久保への批判として応用することも可能だろう。
 両者の思想的対立はこんなところにも表れている。

 おそらく翁は西南戦争の始まりにおいて「しまった」という言葉を発したように、いくつかの政事的、戦略的、戦術的過ちを犯したことは自覚しつつ、それでも敢えて一歩踏み出していったのだろう。道義的には「仰いで天に愧じず、俯して人に怍じざる」(『孟子』)、すなわち俯仰天地に愧じざる境地であったことを筆者は疑わない。
 一方、大久保にとって、西南戦争における翁の没落はあくまでも翁自身の過ちによるものであり、この惨劇を演出した自己の側の過ちについては覚るところがなかったのではないかと思われる。道義面においては少なくとも「人に怍じざる」ぐらいの境地にはあったであろう。

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