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zoom RSS 西洋の刑法は… 【西郷南洲翁遺訓解説】 第一二条

<<   作成日時 : 2016/12/30 17:39   >>

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西洋の刑法は専ら懲戒を主として苛酷を戒め、人を善良に導くに注意深し。故に囚獄中の罪人をも、如何に緩やかにして鑒戒となるべき書籍を与え、事に因りては親族朋友の面会をも許すと聞けり。尤も聖人の刑を設けられしも、忠孝仁愛の心より鰥寡(かんか)孤独を愍(あわれ)み、人の罪に陥るを恤(うれ)い給いしは深けれども、実地手の届きたる今の西洋の如くにありしにや、書籍の上には見え渡らず、実に文明じゃと感ずるなり。

(大意)西洋の刑罰の与え方はもっぱら懲らしめて戒めることを主旨としていて、苛酷に当たることを戒め、人を善良に導くことに注意深い。それゆえ、獄中の罪人であっても、どのように緩やかにして、手本や戒めとなる書物を与え、場合によっては親族や朋友の面会をも許すと聞いている。もっともわが東洋における聖人が刑罰を設けられたのも、忠孝仁愛の心より伴侶を失った老人や孤独な者を憐み、人が罪に陥るのを心配する心は深かったけれども、実地に手が届いている現在の西洋のようであったとは、書物を読む限りでは見当たらず、実に文明だと感じ入るのだ。

【解説】前条、文明とは道が普く行われているのを称賛した言葉である、との翁の思想からはこう言った発言が出てきても不思議ではない。西洋の為すことが何から何まで野蛮だと決めつけているわけではなく、文明(道)という尺度で測れば、西洋でもわが国でも未完成な発展途上状態にあるに過ぎず、ある面ではこちらが一歩進んであちらが遅れていても、別の面ではこちらが遅れてあちらが一歩進んでいるという事態は当然ありうることである。ともに文明に進む国同士という点で、西洋は相対化されている。
 西洋諸国を実見した大久保がまるで天を見上げるかのように、英仏を開化上ること数層で、それより下る独露を標準としようと期待したのと比較して、翁の西洋批判は冷静沈着にとらえられたという点で開化一層ではないだろうか。科学や技術面における文明という面では、ナンバー1を目指さなければナンバー2にさえなることができず、オンリー1の個性も保守することができないというのは確かにそうであるが、もし大久保が驚嘆した西洋の文明装置の盛大さが、翁が指摘したような未開国への過酷な取扱いによって、すなわち植民地からの過酷な収奪によって、支えられていると認識していたら、どう言っただろう。少なくとも彼の意識は、西洋の文明装置の盛大さに目が眩んで、この意識がまったく後退していたのは間違いない。彼が、西洋人のインドにおける、オーストラリアにおける、またアメリカにおける、現地人への過酷な扱いを知って、なおこれを見習うべきだと考えたとは思えないが、この西洋視察から以降の大久保は翁に対し何か非常に意固地な態度のみせるようになっている。西洋視察において新たな認識を共有したことが、人事に拘泥しがちな彼の中で、王政復古維新における過去の経験や人間関係を相対化させるとともに、新たな党派意識を芽生えさせたように思えるのだ。廃藩置県を経て洋行直前まで兄事してきた大久保は、この党派意識、ともに西洋を実見してきたという党派意識によって、翁という、郷党の大きな存在を相対化したのではなかっただろうか。

 未開野蛮国への扱いで西洋は野蛮であると決めつけた翁であるが、日本はまだ開国して外国との交際を再開したばかりであり、新政日本がその点で必ずしも文明であると考えていたわけではない。これから開かれていく交際において、文明として振る舞おうと期したのだ。李氏朝鮮問題を含む東アジア外交はその試金石としてとらえられた。福沢諭吉が論じたように、翁は真に文明の精神を慕う者であったと言ってよい。その点、外務卿副島種臣の儒教王道思想に基づく対清外交は翁の期待を満足させるに十分な内容であった。翁はそれを土台に文明外交を一歩進めようとした。それがいわゆる朝鮮に対する大使派遣論なのである。

 さて、話を刑罰の問題に絞ることにしよう。
 確かに幕末の日本の獄舎における罪人の扱いは酷いものであったらしいが、そんな罪人の中にも大した奴らがいた、と面白いことを言っているのが勝海舟である。
 彼は幕末の最後の段階で幕府の最高責任者であったから、獄舎の管理責任も彼にあり、たかが五十や六十の罪人を斬ったところで盗賊の種が尽きることはないということで、無罪放免にしてやった。その頃彼が出会った罪人の中にも胆略のある人間がいて、彼が出会い、感心した三人の盗賊や殺人犯を挙げて、次のように語っている。

「すべて、こんな奴は、みな生まれつきなので、適宜に教育でもしたなら、それはえらいものになったのであろうに、惜しいことには卑賤の身分に生れ、生涯衣食に追われて十分に腕を伸ばすことができなかったのだ。しかしそれがため国家とか政治とかいう小理屈を並べながら、大層な悪事をやらなかったのは、世間のためにはかえって幸いだったかも知れないよ。ともかくおれも彼らにはかなわない。」(『氷川清話』)

 後半は彼一流の皮肉、特に明治政府の顕職にあって今を時めいている人物に対する当てこすりと受け止めておくべきだが、ともかくつまらない小悪党の中にも、大胆不敵な人物もいると感心するのである。
 忠孝仁愛教化という政事の大本はこういった犯罪に対する予防となるが、不幸な境遇に生まれ教育を受ける機会に恵まれなかった子供はどうしても出てくる。幕末に比べ豊かになった現代でさえも、教育の中味は変わったとはいえ、それをなくすことはできていないし、教育者そのものに不適格な者も多いうえ、明らかに間違った教育方針が掲げられていたりする。日教組はその代表であろう。彼らには人を教え育むだけの道徳に欠けている。すべてを物とみなす間違った思想で単なる物ではない人間を教え育むことなどできるはずないのである。

 では、そういった境遇に育って、罪を犯してしまったものをどう扱えばよいのか。
 勝の発言は、適宜に教育を与えればよい、という答えのヒントになっている。
 もちろん勝の教養は、江戸時代の武士の御多分に漏れず、禅と儒学が基本となっているから、その方針は忠孝仁愛教化の道と言っていいだろう。

 小悪党ではないが、幕末、政治犯として囚獄経験のある吉田松陰は、獄中、囚人同士で自分の得意なものを教え合おうということで講習会のようなものを開いた。彼が入れられた野山獄は武士階級の獄舎で、犯罪者よりも、家族の申告で借牢として入っている言わば世間の厄介者の方が多く、比較的自由の許された穏やかな環境にあった。一方、道路を挟んで向かい側にある、士分以下の者が入る岩倉牢における囚人への扱いは過酷で、松陰の弟子で、同じく黒船密航の罪で入獄した足軽身分の金子重輔は病死をしている。もっとも金子の場合、江戸で入獄したときから病で衰弱していたから、岩倉獄の過酷さが死の原因とはいえないかもしれないが、少なくとも野山獄と比べて劣悪な環境であったことは確かである。

 松陰はその野山獄を「福堂」と呼んで、大変な量の書籍を読破し、彼が好むところの四書のひとつ『孟子』の講釈を行った。その草稿をまとめたものが現在岩波文庫に入っている『講孟余話』、あるいは講談社学術文庫に入っている『講孟箚記』である。藩の重鎮儒官山懸太華との間に激しい論争を巻き起こした書物だ。
 松陰もまた、同じ囚人の立場ながら、実地に忠孝仁愛教化という文明行為を行ったことになる。だが、それがどのような効果があったかはよくわからない。

 さて翁に関しては自らが獄中の人になった経験がある。文久二年(一八六二)のことだ。藩父島津久光の逆鱗に触れた翁は、本来なら切腹のところ一等罪を減じて、沖永良部島への遠島処分に処された。当初はさらに檻に入れられての厳重なものであった。
 翁はこの檻の中で学問に精を出した。当時の翁の最大の関心は、忠義とはどうあるべきか、ということであったらしい。やがて檻から出ることを許された翁は、島の子供たちに学問を教えるようになった。その中の一人に与えた教戒を読むと、翁は『大学』『孟子』を朱子の注によって講じたことがわかる。『中庸』はともかく、この二書を講じた以上は『論語』も講じただろう。朱子学では初学の者が学ぶべきは、『大学』『論語』『孟子』『中庸』の順序とされているのだ。もちろん相手はおそらく大半は衣食に追われる家庭環境にあったであろう(薩摩藩が搾取していたからだが)島の子供たちであり、罪人ではないが、服役中に忠孝仁愛教化を実地に行ったという点では松陰と同じである。
 しかし、これは制度的なものではなく、個人的な行為として行われたに過ぎなかった。この経験から、おそらくキリスト教の影響だと思われるが、西洋においてそれが実地に行われているのは学ぶべき点だと翁は考えていたのであろう。
 もちろん、日本においては忠孝仁愛教化がその根本方針になる。
 しかし、翁は参議職にあった時でも、この刑法の問題に自ら積極的に取り組んだ形跡がない。司法の改革は江藤新平を抜擢し、これを庇護することで進めようと考えていたらしい。実は司法改革を提議したのは翁の子分のひとりで、当時司法省に所属していた有馬藤太とその同志たちであった。江藤を推薦したのも彼らである。翁はこれに賛同した。
 江藤は民権論者で、民権保護の立場から司法改革に鋭意取り組んだのであるが、それが鋭すぎたと言えるかもしれない。当時、地方の裁判権は大蔵省に属し、地方人民の権利を侵害すること甚だしく、尾去沢銅山事件などはその最たる事例であった。江藤は大蔵省から独立した司法省管轄の地方裁判所の設置を進めようとした。しかし、これは多大な予算を必要とし、権限の縮小を嫌った大蔵省はこれを拒んだ。
 この時、大蔵省の権限はあまりにも大きく、この司法改革を含めて、諸改革に必要な予算をめぐっての他省との対立は深刻で、政府の屋台骨を揺るがしかねないものを持っていたのである。これは新政府創立以来の大きな課題の一つと言ってよく、大久保の洋行目的の一つは、先進国がこの諸省庁間の対立をどのように調整しているかを視察することにあった。その答えが内務省の設立だったわけだが、留守内閣が人事における改革を凍結する約定を洋行閣僚との間で交わしていたのも、大久保が帰ってきてそれに着手するまで、問題をこじれさせないようにするという政事的配慮からであった。
 実はやかまし屋の木戸孝允を海外に連れ出す事にもそういった意味合いがあったようだ。彼が大隈や井上と言った、品行に問題はあるが優れた能力を持つ官吏を庇うことで、明治四年政府改革は頓挫する寸前まで行き、このまま崩壊するならいっそのこと、ということで廃藩置県の断行に飛躍した経緯があったのである。木戸は大蔵省の問題児、大隈重信や井上馨の擁護者であり、特に井上は三井財閥との癒着がささやかれる人物で、民間商人から財産を強奪しこれを私物化するという尾去沢銅山事件というとんでもない汚職事件を起こした張本人だった。大久保と親しかった五代友厚などは「今清盛」などと言っていて、非常に評判が悪かった。
 司法卿江藤新平は汚職の疑いが濃厚な長州系官吏の追及に乗り出した。藩閥政治打破の信念から、この司法改革を好機として長州閥退治に全力を挙げたのである。明治五年十一月、やり玉に挙げられた井上は出仕を拒むようになり、大蔵省は機能停止状態になった。省費を削減された司法省の方も職員の給与も滞る有様で機能停止状態になるなど、事態は泥沼化する一方であった。これが遣欧使節の帰国が予定より遅延している時期に起こったことで、大蔵省の後見役を大久保から託されていた翁は、旧主島津久光の問題で鹿児島にくぎ付けで、調整役を欠いた政府はこれを解決し得なかったのである。事態は深刻化する一方で、鹿児島から翁が戻るのを待って、政府は改革を行わざるを得なくなった。彼らは、同意もなく勝手に改革はしないということになっていたので、これを「政体潤飾」と言ったが、いよいよ迫った遣欧使節団帰国前の地ならしと言ってよい改革を行ったのであった。
 問題は、各省の対立を会議によって調整するとの趣旨から各省長官(卿)が参議を兼ねることになり、たまたま長州出身の参議がいなくなってしまったことである。当時、井上や山縣有朋は卿ではなく、本来なら参議である木戸がまだ帰国していなかったので、これで参議は薩摩1(翁)、土佐2(板垣退助と後藤象二郎)、肥前佐賀3(大隈、大木、江藤)の布陣となって、たまたま江藤の望んだ長州閥退治は成功してしまった。大蔵省の権限は縮小され、予算決定権は参議の会議である正院に移譲されることになった。これに反発した井上は、辞表を提出し、守秘義務を放棄して、政府財政が毎年一千万円の赤字であることを新聞紙上に公表した。これは守秘義務を定めた律に違反する違法行為であったから司法卿の江藤が動き、またさらに、井上の辞職に伴って、大蔵卿である大久保が帰国するまで臨時的に大蔵省事務総裁に就任した参議大隈重信が、独自に算定した予算を新聞に公表して火消しに努めるなど、泥試合の様相を呈した。
 大久保が政府改革のため、大使一行より一足早く帰国したのはそのさなかであり、彼は一行の帰国まで政府から距離を置くことにした。それには前回紹介した、帰国直後に文明論をめぐって大久保と翁の間に生じた確執が大きく作用していたことは間違いない。これまでの経緯を考えれば、大久保は翁に協力して政府の立て直しに尽力する義務があったはずである。
 そして、この確執が数か月後に起こる政変、いわゆる征韓論破裂の隠れた一大要因になってしまうのである。

 このように政府自体が深刻な危機的状況である上に、内政外政難問山積状態で、この時期翁自身が刑法の文明化に取り組めなかったのは無理がない。期待し、委ねたはずの江藤の司法改革が愚直に過ぎて、政府の屋台骨を揺るがす一要因になっていて、その対処に精いっぱいの状況であった。それでも翁は江藤の改革をとどめるようなことはしていない。
 この政府の危機は諸問題と結合して、火だるまとなって、まずは江藤を手始めに、最終的には西南戦争に行きつき、翁は焼き尽くされる。
 その西南戦争の原因の一つとなった、政府が送り込んだ警察官よりなる鹿児島視察団は諜報活動に従事する中、翁暗殺の容疑で捕らえられ、拷問を受けた。翁は彼らが口裏を併せぬよう、別々の獄舎に入れるよう指示を出しているくらいで、拷問を禁止するような指示を出していない。私学校徒が激怒のあまり、これまでの慣習から容疑者を拷問するくらいのことは想像できたのではないかとも思われるが、道の実践を指導してきた私学校徒がそんなことをするはずがないと信じていたのかもしれない。拷問は西南戦争における西郷軍の汚点の一つだが、切迫した非常時の出来事で、後世のわれわれは文明への発展途上で起きた鑑戒となすべき事件と捉えておくべきだろう。

 この条は、江戸時代を通じて儒教によって陶冶されてきた武士道――日本の文明精神が、優れた海外の文明的制度に触れて、敏感に反応したその機微が窺える一つの事例と理解することができる。もちろん、そういった敏感な反応は科学や技術文明に対しても十二分に発揮されたのであるが、それが翁の言う文明精神を圧倒する勢いになった。近代日本の課題である。

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