西郷隆盛

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zoom RSS 広く各国の制度を採り、開明に進まんとならば… 【西郷南洲翁遺訓解説】 第八条

<<   作成日時 : 2016/12/02 17:06   >>

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 広く各国の制度を採り、開明に進まんとならば、先ず我国の本体をすえ、風教を張り、然して後、徐(しず)かに彼の長所を斟酌するものぞ。否(しか)らずして彼に倣いなば、國體は衰頽し、風教は萎靡して匡救(きょうきゅう)すべからず。遂に彼の制を受くるに至らんとす。

(大意)広く各国の制度を採用し、開明に進もうとするならば、先ずは我が国の体(國體)をしっかりと据え、風紀を正し、教育を行き渡らせ、そうしてから、徐々に彼の長所を斟酌して取り入れていくものである。そうではなくて、西洋の文物制度を模倣するだけでは、國體は衰頽し、わが国本来の節義や気風は委縮衰頽して救いようがなくなるであろう。そして、遂には物心両面において彼らの制を受けることになるだろう。

【解説】模倣は創造の母、という言葉がある。新しいものは模倣から生まれる、ということだ。「学習」とは『論語』に由来する言葉だが、「学」は大和言葉で「まねぶ」から転訛した「まなぶ」と訓じられ、一方「習」は同様に「ならう」と訓じられ、「倣」の訓と通じている。真似てみて、時に応じてこれを行うことで、自己の慣習(ならい)となすことをもって「学習」という。
 同じく『論語』にあるよく知られた「温故知新」という言葉も、同じことを言っている。故きを温めて(朱子の注では「たずねて」)新しきを知る。故きを温めるなかで、あるいはたずねる中で生まれたその新しい認識の表現こそ創造に他ならない。
 和歌にも本歌取りの伝統があって、これによって文化の命脈は新しい時代に適応発展しながら保たれてきた。松尾芭蕉の不易と流行という考えも基本的には同じものだろう。

 維新元勲が元勲たり得たのは、幕末維新の混乱の中、文明の危機にあって、國體を守るために戦い、これに功があったからである。彼らは儒教を軸に展開した江戸時代の学問を通じて形成された國體観が共有されていた。新しい時代への対応を迫られる中で、その國體観が創造的に発露したものが、幕末から明治にかけての事件の数々の中に見出すことができるのである。

翁の言う「國體」は、藤田幽谷の「正名論」、会沢正志斎の「新論」、藤田東湖「弘道館述義」に代表される後期水戸学や頼山陽『日本外史』『日本政記』に由来している。
特に若い時代その謦咳に接した藤田東湖の思想や愛読していた頼山陽の両著作の影響は大きかったはずである。
その國體観の大体は「弘道館記」にある次の一節が端的に表していよう。

「…上古、神聖極を立て、統を垂れたまいて、天地位し、万物育す。その六合に照臨し、宇内を統御したまいし所以のもの、未だ嘗て斯の道に由らずんばあらざるなり。宝祚、之を以て無窮。国体、これを以て尊厳。蒼生、これを以て安寧。蛮夷戎狄、之を以て率服す。」

 記紀や漢籍からの引用で成っていて難しいが、大意は次のようになる。

 上古、天照大神を中心とする高天原の神々が守るべき至高の価値基軸を立てて(天壌無窮の神勅や鏡などを指すのであろう)、代々子孫に受け継がせた。そのことで、天地は位置が定まったのをはじめとして秩序が生まれ、万物が育まれてきた。歴代天皇が天地四方を照らしながら君臨し、天下を統御し続けてこられたその根拠は、この皇祖神の定めた道に由るほかに存在しない。天皇の御位はこの道によって無窮であったし、國體はこの無窮の皇位によって尊厳となり、民はこれを以て安心して暮らすことができ、四方の蛮族たちは王化に服してきた。

 これに加えて、歴代天皇が人に学んで善を為すを楽しみとして、特に儒教を取り入れたことがこの道を行うことを大いに援けた。そういう趣旨のことが述べられている。
そして、「弘道館」という学校は、『論語』に「人、よく道を弘む」とあるに由来し、その道とは天地の大経にして、すべての人が一時も離れては生きていくことができないものであるから、これを学び、自ら弘めることで、國體の尊厳を守ろう、と謳われている。もちろん、その國體が危機にさらされている、という切実な認識があったからこそ、この道を意識的に行っていかなければならない、ということで学校の設立とあいなったのだ。水戸光圀公の創業以来、水戸学の発展継承から幕末の藩校設立まで、それは藩財政を傾けての大事業であった。その精神は諸藩の尊王攘夷の志士に受け継がれて、明治政府の成立という形で発露した。

 一方、これもまた当時の識者によく読まれた頼山陽は、思想的には前期水戸学の影響をよく受けた朱子学者にして文人だが、有名な『日本外史』の冒頭で、特に軍事の側面に関して、次のような國體観を表わしている。これは『弘道館記』に比べればよほど読みやすいので、注を付して、そのまま引用することにする。

「蓋し(思うに)、我が朝の初め国を建つるや、政体簡易、文武一途、海内を挙げて皆兵にして、天子これが元帥となり、大臣・大連これが偏裨(副将)となる。未だかつて別に将帥を置かざるなり。あにまたいわゆる武門・武士なるものあらんや。故に天下事なければすなわち已む。事あればすなわち必ず征伐の労を親(みずから)す。しからざれば、すなわち皇子・皇后これに代り、敢てこれを臣下に委ねざるなり。ここを以て大権上に在って、能く海内を制服し、施いて三韓・粛慎に及ぶまで来王せざるなきなり。」(「源氏前記・平氏・序論」)

山陽は、時代が変遷し、大化の改新以降、当時の超大国であった唐の制度を取り入れ、文官武官を分かち、将帥を置いた際の軍制については次のように述べている。

「大将の出征するには必ず節刀を授け、軍に臨み、敵に対して、首領の約束に従わざる者は皆専決を聴(ゆる)し、還るの日に状を具して以て聞せしむ(委任して事後承認で済ませた)。勲位十二等を建て、功を論じ、賞を酬いてその兵を罷む。凡そその器仗(武器)は兵庫に蔵し、出納時を以てし、皆これを兵部に管せしむ。中朝兵を制すること大略かくの如し。上世の旨に及ばずと雖も、その乱を防ぎ、禍を慮ること密なりと謂うべし。この故に、事あらばすなわち尺一の符(徴兵の詔)を下して数十万の兵馬立ちどころに具わる。而して平時は散じて卒伍に帰す。これが将帥となる者は、或いは文吏より出でて、兵陣に臨み、事畢(おわ)って帰り、介冑を脱して衣冠を襲(かさ)ぬ。未だ嘗て所謂武門・武士なるものあらざるなり。」

以上が、山陽が説くところの元帥たる天皇と兵の本来あるべき統帥の姿である。文官優位の思想であり、これを踏襲した明治憲法からは本来なら統帥権干犯などという問題は生じようもなかったが、大正に入って維新の元勲が次々と政治の舞台から退場し、昭和の政党政事家が憲法の文言の下敷きとなっているこの國體観を忘れ明確に反論できなかったところから、いわゆる軍部の独走は歯止めが利かなくなったのである。

薩摩人・高島鞆之助の談話によれば「当時の翁は史書―マア、日本外史や日本政記の様なものを、好んで読んで居られたようぢゃ。…」とのことだ。これがいつの頃かはっきりとわからないが、話の流れからすると、戊辰の時のようでもあり、明治五年頃のことのようでもある。

 彼はさらに次のようにも言っている。

「…(翁は)磊々落々たる裏面において、非常に厳正な所も有ったのじゃ。一例を挙げると、翁は元帥だったのじゃが、その後、陛下が大元帥で御居でになるという事を知られてからは、決して元帥の称号を用いず、いつも陸軍大将だけで済まされたのじゃ。」(『大西郷秘史』)

これは頼山陽の著作を読んで知ったということだろう。

國體論はそれを語りだせばきりがないので、このくらいの引用にとどめるが、少なくとも後期水戸学に関しては、皇室の御存在を軸に、古神道と伊藤仁斎の古義学を基軸にした儒学を融合したものであり、それが「王政復古の大号令」「五箇条の御誓文」や「大日本帝国憲法」「教育勅語」の背骨となっていくのである。これは思想の大きな流れでいえば非常に自然な発展である。

しかし、頭脳明晰なはずの維新の元勲の中に思想の混乱と迷走が起こる。
翁の批判はそれに対するものと言って差し支えあるまい。
その混乱と迷走を象徴する人物として、ここはやはり、かつては同じ政治的立場にありながらやがて対立するようになった大久保利通を引き合いに出すのが適当だろう。
明治四から六年にかけ、岩倉遣欧使節団の一員と西洋文明を実見した大久保は彼我の文明進歩の格差に衝撃を受ける。そこで次のような改革の方針を抱くようになるのだ。 

「今日の時勢にては取り込むだけ取り込み、その弊害は十年か二十年かの後には、必ずその人出候て改正いたすべく…」

これは木戸孝允の井上馨宛書簡に報じられた、明治五年に木戸と大久保が今後の新政府の方針について話し合った際の大久保の意見である。
木戸は「政府の組み立てを初めとし、百事務その限り分明に相成らずては」と考え、大久保に相談したのである。大久保の意見は見ようによっては進取の精神に富んでいるといえるが、改革においては、過ぎたるは及ばざるに如かず(行き過ぎは行き足らないよりよくない)、といった大久保にしては拙速的にして冒険的で、見方によっては後世に対し無責任である。これと同じ考えは紀尾井坂における彼の突然の死の直前でも語られていて、彼自ら内政の整理と殖産にあたるつもりであった。そういった政事的責任という点では決して無責任であったというわけではない。
では、これに対する木戸の意見はどうかというと、「今後は何分にも日本は日本だけの法も條立て仕らずては、行くに道なく、渡るに橋なき様なるもの」で、要は日本には日本の憲法を頂点とする法体系を持つ必要がある、というものであった。
國體を据え、風教を張る、と言った翁の考えはむしろこちらに近いだろう。何といっても、「國體」も「憲法」も英訳すれば同一単語「コンスティチュション」であり、國體を成文化したものこそ憲法に他ならないからである。その意味で、大日本帝国憲法は「憲法」の名に値するが、GHQが一週間で作成し、押し付けた現在のわれわれが奉ずる日本国憲法は「憲法」の名に値しない。天皇を日本国民統合の「象徴」とする思想は新渡戸稲造などすでにあったが、GHQに潜り込んだ社会主義者の秀才が考えたのっぺりとした「象徴天皇制」は必ずしも日本の國體ではない。明治天皇以来の立憲君主としての御立場を固く継承してこられた今上陛下が御公務を完璧にこなそうとされる大御心は国民としてありがたいが、一方で御労しい。天皇の象徴行為として最も重要で、天皇親(みずか)ら為されなければならないのは宮中祭祀、つまり「まつりごと」であり、いわゆる御公務は他の皇族が陛下の代わりをなさっても差し支えがないのであるから。御譲位を思い詰めるところまで御負担をおかけしつづけてきた政事家の罪は重いとしなければならない。しかし、彼らを選んだのは国民であるから、その責任は国民が背負わなければならない。

前述「弘道館記」の言葉を借りれば、上古に神聖が立てた極を奉じ、これを祭祀・祭礼を以て祀るのが、皇位にある御方、すなわち天皇陛下によってこそなされなければならない象徴行為である。しかも、それは日本国民の象徴というものではなく、日本という国の歴史や伝統や文化を祭祀祭礼における行為を以て象徴するのであり、日々世俗の生活に追われている一般国民が国民としての感性で、祭祀、そしてこれを執り行う天皇陛下の一挙手一投足に、わが国の在り方、国民の在り方、すなわち國體を感じ取り、これを見習う。本来なら、そうあるべきなのだ。
国学者折口信夫によれば、「まつり」「まつりごと」とは「政」ということではなく、朝廷の公事全体を指して言い、昔から為来(しきた)りある行事の意味であるという。「まつる」「まつらふ」という語には服従の意味があり、上の者の命令通りに執り行うことが「まつる」、人をして命令通り執り行わせることが「またす」である。
日本の太古の考えでは、この国の為事(しごと)は、すべて天つ国の為事を、天つ神の命令通りにそのまま行っているのであって、神事以外には何もない。本来は、この、天つ神の命令を伝え、命令通り執り行うことを「まつる」というのである。これが後に、意味が少し変化して、天つ神の命令通り執り行ったことを神に復奏することも「まつる」というようになった。これが「祭り」の本質である。
この「祭り」を執り行い、天下を治めるのが「まつりごと」すなわち「政治」であり、これを守り行っていくためのもろもろの具体的行為を「政事」というのだ。この「政事」には「まつりごと」を行うための事務や、究極的にはこれを守るための軍事なども含む。現代的には多様化していて、もっと範囲を拡大できるだろう。
こういった思想内容を含んで、明治維新において天皇親政の実現が課題とされたことを深く理解しなければならない。「天皇親政」の「親政」はどこまでもこの意味での「まつりごと」なのである。「天皇親政」を天皇独裁制と誤解するおっちょこちょいは自分の知性をよく反省した方がよい。
翁の本質をあえて「政治家」、大久保の本質をあえて「政事家」とするのは、この、前提となる伝統認識があるからである。もちろん、「政治家」と「政事家」の境界線はあいまいで、藤田東湖が、君子と小人の弁が酷に過ぎる時は害がある、と言ったように、あまり厳格に考える必要はないかもしれない。しかし、両者の本質的な違いを知的に認識するためには一度は通過しておかなければならないのだ。

話を元に戻す。
大久保の考えは、極端に言えば、斟酌などというまどろっこしいことはすっ飛ばして、よいと思うもの、先進的なものは学べるだけ学んで取り込めということであって、それに当たるものはとにかく模倣せよ、ということである。模倣を徹底するということは無心にまねをしてならうということで、これは己を虚しくしなくてはなかなか進まない。
確かに効率的で、政事の当局においてはそうあるべきだ。
こういった態度の場合、その取り込んだものに対する真の理解は、模倣し、完全にならいと化した後にやってくる。つまり本来の己に立ち返って、弊害を認識するのは弊害が生じて以降なのである。これを整理、修飾する後進の賢者を期待するのが大久保の考えであった。彼はそれを明治二十年代の十年間に想定していた。
しかし、それは西洋文明に日本が遅れていること数十年という認識に基づく、焦りの感情に突き動かされた、前のめりの知性であって、冷静沈着な真の知的態度とはいいがたい。日本の知的エリート、秀才にはこういった前のめりの知的態度を真の知性と勘違いしている人が多い。それに比べれば、弊害が生じることを見越している大久保の知性がすぐれていることは明らかである。彼は内政に関しては優れた政事家であった。ただし、鎖国時代のように外交が凍結された状態であればの話だが。

西洋は地理的には遠い国である。西洋の東アジア侵略は一八四〇年の阿片戦争の勃発によって幕を上げたばかりで、明治維新の頃は、西洋諸国はまだまだ本腰を入れて侵略していたわけではなかった。彼らが国力を全力投入して、東アジアで日本と対峙できる状況ではまだなかった。こういった見切りをつけて、富国強兵を進めつつ、東アジアの国々との外交関係の基礎を築き上げていくことは是非とも必要なことであった。実はこのことを真剣に考えていたのがいわゆる征韓派なのである。
その中でも白眉は副島種臣であろう。彼は儒教を軸にした折衷学を身につけ、万国公法も身につけていた当時一流の知識人にして人格者でもあった。尊大な清国と対等な外交関係を結ぶという未曽有の外交成果も上げた。その上で、道義に基づく、台湾征伐と李氏朝鮮開国の端緒をつけようとしていたのである。翁はそのさらに上を行く、道義と大陸政策を目指し、大使派遣論を唱えたのであったが、これについてはまた触れる機会があるだろう。詳細はかつて『(新)西郷南洲伝』という本の「征韓論政変」篇で書いたことがある。
これを封じ込めた大久保や岩倉を中心とする非征韓派は、西洋文明を意識するばかりで、東アジアの情勢の変化とそれに基づく外交関係の構築という視点は一切持ち合わせずに、薩長閥を守るためにこれを潰し、慌てて拙速にこれを埋め合わせるための外交を行ったのである。その代償が大きくつくことになるのはすでに触れたとおりである。
当時世界は戦国時代であったことをわすれてはならない。主役は西洋列強であり、その争いに世界は巻き込まれ、そのどさくさに紛れて、弱小国は植民地に組み込まれていった。万国対峙の国際情勢下にあっては、彼を知り、己を知るという知的緊張感は維持されてなければならない。彼を知るには己を知ることが不可欠であるし、己を知るには彼を知ることが不可欠である。その緊張感の中で己を見失わぬ知的緊張に耐え抜くのが、困難な時代の政治家である。そして、政治家が決して忘れてはならない政治の本質的意味である「まつりごと」とは祭祀であり、すでに触れた國體なのである。その国の目に見えぬ神聖な存在、精神性、そういったものを自らも持して、政治家はこれを守らなければならない。そして、これを継承維持するためにあらゆる努力を払うのが本来の政事であり、官僚の務めである。

翁の遺訓は一言でいえばこの意味での「政治」を行えというに尽きる。
しかし、征韓論破裂以後、明治政府の主流は、翁が批判したような人々が多数であり、敗戦後の日本はまさにこのような人々が絶対多数である。

「広く各国の制度を採り、開明に進まんとならば、先ず我国の本体をすえ、風教を張り、然して後、しずかに彼の長所を斟酌するものぞ。しからずして彼に倣いなば、國體は衰頽し、風教は萎靡して匡救(きょうきゅう)すべからず。遂に彼の制を受くるに至らんとす。」

まるで現在の日本の姿を予言しているかのようだ。
今でもこの訓戒は生きている。

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コメント(7件)

内 容 ニックネーム/日時
いつもお世話になっています。
今までの國體観をまとめた記事素晴らしかったです。

思いますに、現在は大正、戦前の昭和の問題(過剰な西洋思想の流入による伝統の断絶、新聞の商業主義•左翼化、帝国大学を筆頭に大学は左傾化してしまい官僚、政治家が無能になる、そのため国民は政治に飽き飽きするなど)を繰り返していると思います。
我が国は再び西洋思想を見直すとともに、そのために國體観を取り戻す必要があると思います。

特に左翼思想(人権思想、平等主義、政教分離)、自由主義、民主制を我が国に合わせた形で受け入れるか排除するべきです。
人権思想は伊藤博文が「権利は秩序ある社会にて発生するもので、フランス革命の人権宣言は妄言である」、「臣民の権利は(人間だからではなく)天下公民に由来する」姿勢を受け継ぐべきだと思います。

政教分離は、我が国の國體である祭政一致に対立していると思います。だからこそ、左翼はこれを根拠に皇室の祭祀を潰しているのだと思います(確かに我が国には宗教と政治を近づけない伝統が織田信長の時代からありますが、これは所謂政教分離とは異なり違う名を付け日本的に解釈するべきです)。
維新に興味がある日本人
2016/12/04 16:01
平等主義は、法の下の平等までなら良いですが、左翼が唱える悪平等は排除するべきです(同時にゴールするなど)。我が国には仏教上の平等や村社会での同質性(村八分されなければ平等に扱われるなど)はあったと思いますが、左翼の唱える人を堕落させるような扱いはなかったと思います。

自由主義は、小堀桂一郎の書物に由りますと我が国では元々自由は狼藉という悪い意味や自分のあるがままに成る、などの様々な意味が形成された経歴を教えると共に自由を多少警戒する西洋の保守主義(バークの「美徳のない自由は最悪」など)を紹介するべきだと思います。

民主制は我が国含め世界中の国における民主制の堕落や大日本帝国憲法制定時における民主制の暴走を止めようとする努力、西洋での民主制を警戒する本(ザ•フェデラリストやハイエクの本など)を示すべきです。

語り忘れましたが、今上陛下への御意見は全面的に賛成です。しかし報道によりますと宮内庁は公務を減らすことを検討したが陛下に却下されたとのことです(勿論今まで公務を減らさなかった政事家は愚かでしたが)。正直、私にはなぜ陛下が公務をあそこまで重視なされるかわかりません。国事行為は最悪摂政でも対処可能ですし、その他の公務は平成から増えたものなので譲位しなければならないほど重要とも思えません。仰られたように祭祀こそが最も大事なのであり、公務は二次的なものでしょう。尊皇心、愛国心に溢れた明治ですら譲位は危険と考えたのですから、末世の如き平成で陛下の御心のままに譲位を恒久化してしまえば恐らく伊藤が危惧した事態が(左翼のせいで)発生すると思います(陛下を非難奉っているようで気が引けますが、臣下は君主を諌めるべきだと思いますので敢えて言います)。

長文失礼しました、我が国のことを考えると問題が多すぎてついつい語ってしまいます。



維新に興味がある日本人
2016/12/04 16:50
こちらこそ、お世話になっております。

問題が多岐にわたるので簡単にお答えします。
人間は何かを信じなければ生きていくことはできません。
そこで信仰というものが生じるわけですが、いわゆる左翼も例外ではありません。

だから左翼思想信仰は、聖書の思想を土壌に生まれた、西欧由来の近代主義、科学万能主義と結びついた新興宗教です。異教を邪教と断じて攻撃排除しようとするのもそれが本質だからです。
 信仰を守るための神学の伝統も継承していますので、言いくるめるのが得意です。

 彼らは自由や平等をスローガンに掲げながら、「異教徒」の自由や平等を侵害することを屁とも思っていない偽善者です。彼らは差別撤廃を訴えますが、彼ら自身が差別主義者であることに無自覚です。
差別は物事の差や別を認識することですから、社会的動物としての人間に具わった、生きていくうえで身につけて行くべき認識力であり、知性の源です。本来なら主義主張と言ったものではありませんが、差別主義者である彼らは、人間本来の差別の能力により、彼らの標榜する偽善を見抜かれることを恐れて、それを未然に防ぐために、差別を攻撃して、この能力を麻痺させておくのでしょう。

同じように自由、平等という言葉にも、人間の認識能力を麻痺させてしまう力があります。

西洋の保守思想というのは、伝統や経験に基づいて、こういったイデオロギーがまき散らす毒に対する解毒作用を持っているのでしょうね。 
哲舟
2016/12/05 14:49
日本に目を向けると、織田信長もまた強烈な個性を持った一種の信仰者です。彼は鋭い知性、理性の持ち主でしたから、言葉と行動の矛盾に峻厳で、これが既成宗教に向けられた時、彼らが説く教義と実際の行動、教団の在り方に矛盾がある場合、彼ら特に旧来の仏教勢力を政事的に徹底排除しました。

一方で、古来の神道に教義はありませんから、これらに手を付けておりません。むしろ皇室を中心とする神道祭祀の復興には協力的でした。私が調べた限りでは、信長は日本の伝統に基づくラジカルな宗教者だったと思います。

 今上陛下の御公務に対する御心に関しては御意志を忖度することになり大変恐縮ですが、敗戦のトラウマと反省、それと伝統を受け継いだ忠臣が近侍していないことが要因かと拝察しております。

伊藤博文の國體観は頼山陽の『日本政記』に基づくものだったようですね。国史、国学の再興、そしてそれらに基づく國體論が今の日本に求められているものだと思います。

いろいろ勉強になりますので、これからもご意見お聞かせください。
哲舟
2016/12/05 15:22
ご返事ありがとうございます。
多岐にわたる意見を提案してしまい申し訳ありませんでした。しかし、左翼思想(平等主義、人権思想、政教分離など)、自由主義、民主制は我が国の伝統やそれから生まれる國體を破壊していると昔から考えていましたので、國體を語る上で外せないものと思いつい長く話してしまいました。

仰ることに同意いたします。人為的な自由や平等は人間の自然な感情や本能などを破壊する部分があり、国学風に言えば「さかしらなからごころ」です。ですが厄介なことに西洋人はこれらを「普遍的絶対的な概念であり、信じなければ野蛮である」と信じ広めています(これは聖書•キリスト教の根底にある独善性に由来していると思います)。皮肉なことに聖書の「言葉(理性)は神」を信じて理性を徹底化させた結果、過去から進歩したと思い込んでいる西洋人は過去と変わらず独善的です。我々の先祖が非白人地域の独立を先導したように、日本人が思想的にも世界を西洋から独立させる秋だと思います。

織田信長は何故か戦後革命家とされましたが、実はそんなことはないことを貴ブログから学びました(坂本龍馬も同様だと思います、確かに進取の精神はあったと思いますがドラマに出てくる坂本龍馬像は実像をねじ曲げています)。実は皇国史観と非難されている戦前の史観の方が事実に近く、戦後こそ左翼バイアスのかかった「左翼史観」が存在するような気がします(まだ全て読んでいないのですが、今年建武の中興に関する書物が出ました。その見出しに由ると戦後の研究と異なり建武の中興は言われているほど酷くはなく清水澄の史観こそあたからず遠からずのようです)。
維新に興味がある日本人
2016/12/05 20:12
神道に教義が存在しない点は非常に素晴らしいと私は考えています。何故なら、教義が存在している一神教はドグマに陥り災厄をもたらすことを人類史が現在進行形で示しています。小堀桂一郎氏の書物によると日本人は民衆レベルではキリスト教の教えに対し先祖信仰などを根拠に違和感を覚え、仏教徒•新井白石等の知識人は合理的に否定したそうです。これは日本人に一神経が根付かないことこととキリスト教などの一神教の教えは人為的なものなので否定でき(日本人にとって)信じるに値しないことを示す素晴らしい史実だと思います。さらに、日本人は神道のおかげで外国由来の宗教を日本化、非宗教化•世俗化させる天才的な伝統を持っており他宗教の悪の面を抑える英知があります。我々は神道を信長のように守るべきであると思います。

陛下に関しては確かに戦前に対するトラウマに似た感情を抱いているように感じられます。これは戦後教育が皇族にも及んでいる例かもしれません。先日薨去された三笠宮殿下も「自由に退位できないのは人権上問題はないか?」と仰せになられたこともこれを裏付けていると思います。確かに忠臣がいないのは問題だと思います。よりにもよって陛下を輔弼すべき宮内庁が外務省からの天下り先となっており、忠臣が生まれない組織になっています。やはり、教育と國體観がしっかりしていなければ忠臣は誕生しないのだと思います。加えて戦前のような皇室を守るような体制(皇室典範を帝国憲法と同等にする、成人皇族による皇族会議、宮内府の独立、華族の存在など)も奸臣の暴走を食い止める制度であり、國體観の復活と共に必要だと思います。

こちらこそ、これからもよろしくお願いします。
維新に興味がある日本人
2016/12/05 20:52
ありがとうございます。

返信はいずれ記事などをもってかえさせていただくことはあるかもしれませんが、コメントは必ず読みますので、思うまま、感じるままにお考えをお書込みください。

宜しくお願い致します。
哲舟
2016/12/06 18:49

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