西郷隆盛

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zoom RSS 国体論者としての山陽…頼山陽 A (「江戸期の学問の大河」 その十三)

<<   作成日時 : 2016/08/30 17:21   >>

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 頼山陽の代表的二著作『日本外史』『日本政記』は後世に大きな影響を及ぼした。
 維新回天に大きく貢献するのみならず、彼の国体観から導かれた統帥権の問題は日清、日露と続く、明治日本の軍事的成功に大きく貢献し、明治憲法に規定された統帥権理解・運用の前提知識となっていたし、これを忘れた昭和の指導者たちの「統帥権干犯」問題という混乱を引き起こす基となった。

 この問題は深刻な内憂外患に直面している現代日本にとっての課題でもある。
 現在の憲法には国軍の規定がない。
 その空白を令外官である自衛隊が埋めてきたのだが、国軍が存在しない憲法上の建前があって、統帥権の問題はいわば宙に浮いてしまっている。

最近の報道で、中国政府により尖閣諸島周辺に大量に動員された漁船の中に、海上民兵、いわばゲリラ兵(かつてのシナではこれを便衣兵といった)が紛れ込んで、これを指揮していたことが明らかになったばかりだが、わが国土が中国により奪われようとしている今日、戦前より問題はさらに深刻化しているといっていいだろう。

 近日アメリカのバイデン副大統領がヒラリー・クリントンの応援演説の中で、日本や韓国の核武装を容認する発言をしているドナルド・トランプに対する批判の文脈で、中国におもねる意図からか、「我々が(日本を)核武装させないための日本国憲法を書いた」と、大東亜戦争における自国の非を頑なに認めないかの国のエスタブリッシュメントには珍しく、あからさまに歴史的事実を述べたばかりだが、改憲の必要に迫られているわが国では、この統帥の問題を考えるうえで明治憲法は十分念入りに参照されなければならないし、その統帥権規定の前提をなした山陽の、定信をして正理にして中庸を得ている、と評さしめた国体観はもう一度見直される必要がある。


 頼山陽の徳川家の統治に対する考えはすでに触れた。
 建武の中興における新田氏の勤皇の功を嘉した天が末裔である徳川氏に天下を与えたとする思想である。だから徳川氏は朝廷を尊び、民の安寧を図る限りは天下を失うことはない、とする思想である。
 この朝廷を介して天道応報を受け止める思想は開祖の家康には存在しなかった。彼にあったのは民を直接的に治める力を持ち、これを安んずる政治を行うものが、天道応報の理により、天下を与えられるとする思想である。朝廷はこの事業に益する限りにおいて、尊ばれることになる。もちろん、当時、朝廷の民の安寧を図る政治的実力は失われていたが、それを祈るのは歴代天皇の大御心でもあり続けていた。だから家康はその限りにおいて皇室を尊んだし、朝廷がその本質を逸脱せぬよう法度を定め、京都所司代を通じて監視したのである。

 これが変質したのは、ひとえに、家康が開いた太平の世に盛行した学問の深化発展による。これまで追ってきた学問の滔々たる流れは様々な分岐を経て平野を走り、また合流して大河を形成し、ある地点を経て海に到達しようとしていた。
 山陽の著作『日本外史』はこの流れの中にあって、勢いを加速するうえで貢献するところ大であった。『日本政記』はこの流れをまとめ上げるうえで貢献するところ大であった。

 例えば、元勲の一人伊藤博文は回顧録の中で、再三、『日本政記』が座右の銘であることを告白している。
 『日本政記』は伊藤の子供の時から唯一の愛読書で、幕末の西欧への密航の際も日本人が最初に作った不完全な英語の辞書とともに携行した。
 彼は明治元年五月にいち早く廃藩置県の建議をしているが、鳥羽伏見の戦いが一段落した正月下旬にはその意見を木戸孝允に開陳していたという。

「予がこの言をなしたるは大いに理由がある。予は少時より山陽の『日本政記』を愛読し、彼の勤皇論に感激するとともに、わが王朝の盛時は今日のいわゆる郡県の制がおこなわれ、この制度はすなわち王朝の生命であったことを深く心に感じ、その後、留学のため英国に赴き、欧州諸国また郡県の制を実施して、国家の隆盛を来しているのを目撃し、ますます封建を廃止しなければならぬ必要を確信した。」(『伊藤博文直話』)

 
 後に憲法を起草することになる伊藤は憲法の前提となる国体(英語では憲法、国体ともに同一単語[constitution]である)を、『日本政記』から学んだというのである。


 さらに維新最大の功臣の一人であり、軍事面での功績の大きかった西郷隆盛は、後に参議でありながら史上初の陸軍大将と近衛都督を兼任することになるが、『日本外史』『日本政記』の愛読者であった。

 薩摩人・高島鞆之助の談話に、彼が大西郷のそばにいた頃の思い出として、

「当時の翁は史書―マア、日本外史や日本政記の様なものを、好んで読んで居られたようぢゃ。…」

とある。
 これがいつの頃かはっきりとわからないが、話の流れからすると、戊辰の時のようでもあり、明治五年頃のことのようでもある。

 彼はさらに次のようにも言っている。

「…(翁は)磊々落々たる裏面において、非常に厳正な所も有ったのじゃ。一例を挙げると、翁は元帥だったのじゃが、その後、陛下が大元帥で御居でになるという事を知られてからは、決して元帥の称号を用いず、いつも陸軍大将だけで済まされたのじゃ。」(『大西郷秘史』)

 とあるが、これは『日本外史』や『日本政記』を読んで知ってから、ということだろう。おそらく『日本外史』にある国体観が念頭にあって、名を正して、陸軍大将だけで済ました、ということだろう。

 西郷隆盛の脳裏に『日本外史』や『日本政記』の国体観があったとすれば、いわゆる征韓論に敗れて以降の彼の態度はかなり理解しやすくなる。彼はある面、確実にそれに則って行動していた。
 これが西南戦争に至った経緯については複雑微妙であり、また別に機会があれば論ずることにしたいが、拙著『(新)西郷南洲伝(下)』でできる限り詳細に論じているので、興味のある方はそちらを参照されたい。

 一つ言えることは、そのことをむしろ閑却していたのは、この問題で西郷と敵対することになった大久保利通の方であり、伝統的な国体観から逸脱しがちであったのは、彼を中心とする、いわゆる征韓論破裂後の政府を牛耳った政治グループの方であった。彼らは政権維持のためには、自ら立てた法を自らが破って恥ずることがなかったのである。

 

 「統帥権」という観点から見た山陽の国体観を『日本外史』から引用すると次のようになる。(原漢文)

「蓋し(思うに)、我が朝の初め国を建つるや、政体簡易、文武一途、海内を挙げて皆兵にして、天子これが元帥となり、大臣・大連これが偏裨(副将)となる。未だかつて別に将帥を置かざるなり。あにまたいわゆる武門・武士なるものあらんや。故に天下事なければすなわち已む。事あればすなわち必ず征伐の労を親(みずから)す。しからざれば、すなわち皇子・皇后これに代り、敢てこれを臣下に委ねざるなり。ここを以て大権上に在って、能く海内を制服し、施いて三韓・粛慎に及ぶまで来王せざるなきなり。」(「源氏前記・平氏・序論」)

 これが統帥面から見た天皇親政の本来のあるべき姿である。 

 山陽は次いで、大化の改新以降、当時の超大国であった唐の制度を取り入れ、文官武官を分かち、将帥を置いた際の軍制について述べ、次のように述べている。

「大将の出征するには必ず節刀を授け、軍に臨み、敵に対して、首領の約束に従わざる者は皆専決を聴(ゆる)し、還るの日に状を具して以て聞せしむ。勲位十二等を建て、功を論じ、賞を酬いてその兵を罷む。凡そその器仗(武器)は兵庫に蔵し、出納時を以てし、皆これを兵部に管せしむ。中朝兵を制すること大略かくの如し。上世の旨に及ばずと雖も、その乱を防ぎ、禍を慮ること密なりと謂うべし。この故に、事あらばすなわち尺一の符(徴兵の詔)を下して数十万の兵馬立ちどころに具わる。而して平時は散じて卒伍に帰す。これが将帥となる者は、或いは文吏より出でて、兵陣に臨み、事畢(おわ)って帰り、介冑を脱して衣冠を襲(かさ)ぬ。未だ嘗て所謂武門・武士なるものあらざるなり。」

 ここまでが時代が下って、海外の最先端の制度を取り入れて整備が進んでからの統帥の在り方であり、有事の際は文官が天皇の統帥権を代行するという、いわば、今の言葉でいうところのシヴィリアン・コントロール(文民統制)の思想が述べられている。

 ところが藤原氏が外戚を以て世々政権を執るに至って、その一族でなければ卿や相の地位に就くことはできず、官は序列や家柄ばかりを論じ、何事も因習や世襲によって物事が運ばれるようになってしまった。そして、ついには将帥の任は源氏か平氏に委ねられる慣習が出来上がってしまった、と山陽は言う。
 彼はさらに、源頼朝が征夷大将軍に任ぜられるまでの沿革を述べ、朝廷が統帥の権をそれまで奴僕視していたはずの武門に奪われてしまったことを慨嘆するのである。

 小堀桂一郎氏は『「國家理性」考―國家學の拐~史的側面」』において、『大日本帝国憲法』の立法者意志を著わした、憲法の逐条解説書である、伊藤博文名義の『憲法義解』において、憲法第十一条「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」の、いわゆる天皇の統帥大権について定めた条項についての解説について、

「『義解』と『外史』の当該部はよく似ているというよりも、特徴的な字句と発想の契合からして、そこに原典と翻訳との関係が存することは、どんな読者にも一目瞭然の事実である。」

と述べておられる。

次に大日本帝国憲法第十一条の義解における解説を見てみよう。

「恭て按ずるに、太祖実に神武を以て帝国を肇造し、物部、靱負部、来目部を統率し、嗣後歴代の天子内外事あれば自ら元戎を帥(ひき)い、征討の労を親らし、或は皇子・皇孫をして代り行かしめ、而して臣連二造はその偏裨たり。天武天皇兵政官長を置き、文武天皇大(おおい)に軍令を修め、三軍を総ぶることに大将軍一人あり。大将の出征には必ず節刀を授く。兵馬の権は依って朝廷に在り。其の後兵柄一度武門に帰して政綱従て衰えたり。」

 大幅な翻訳がなされているが、確かに原典と翻訳の関係にあるともいえ、思想的に同じことが述べられているのは確かである。『憲法義解』の実質的著作者である井上毅は、憲法制定過程において、実に多くのわが国の古典を研究している。これまで取り上げてきた江戸期の学問の成果は十分取り込まれているといっていい。つまり、「帝国憲法」「皇室典範」およびそれらの「義解」は、江戸期の学問の大河が大海に注ぎ込んだところで生まれた集大成的な記念碑的作品ということである。
 「アメ公」が、しかもそこに紛れ込んだ共産主義の一派フランクフルト学派が一週間で作り上げた、日本らしさを封印するための憲法とは、比較するのもおこがましいほどに、われわれ日本国民―世界市民ではない―にとって、大日本帝国憲法は貴重な意義を持つである。

 ともかく井上毅には国典の研究から得た重厚深沈な国体観が脳裏にあり、それが統帥大権の意義を要約して解説するにあたって、明治国家を支える人士の教養をなした書物であり、思想的にも、また文学的にも優れた山陽の文章を借用することになったのだろう。


 ならば、大日本帝国憲法における統帥大権は当然のことながら、次の第一二条に定められたいわゆる編成大権(「天皇ハ陸海軍ノ編成及ヒ常備兵額ヲ定ム」)についても、国務である以上は国務大臣の責任の範疇に含まれるという思想も受け継いでいるわけで、山陽や著作やその基となった水戸学を学んで坂の上の雲をつかもうとした明治の元勲にとって、立憲君主制における天皇の統帥権が内閣の輔弼を待って行われることは自明の事であり、統帥権の干犯などという批判は起こりようもなかったのである。しかも統帥権干犯問題が議会で起こった時代の憲法学会の主流に、すなわち東京帝国大学の美濃部達吉や京都帝国大学の佐々木惣一らの学説においても、統帥権は内閣の輔弼に含まれるものと考えられていた。

 ではなぜ、統帥権の独立というような妄論が世を覆ったのかというと、憲法の起草に当たった明治の元勲が、当然の前提として説明を省いた共通の教養であった『日本外史』『日本政記』、あるいはその背景をなした江戸期の学問の伝統が、次の世代の教養として受け継がれなかったからである。

 西郷隆盛が統帥権の問題を先取りしていたことはすでに述べたが、彼は何の弁解の機会も与えられることもなく、かつての仲間によって葬り去られた。西南戦争は様々な教訓を政府に与えたが、統帥権の問題もその一つであった。
 西南戦争直後、明治一一年の官制改革によって参謀本部は独立するが、伊藤博文が改革を主導したことでも明らかなように、これはあくまでも、それまであまり有効に機能してこなかった参謀部の充実のためであり、統帥権の政府からの独立 という発想はなかった。
 ところが独立した組織の権力拡張の論理により、統帥権の解釈がひそかに独り歩きを始める。その点、明治憲法の統帥大権の規定にはあいまいなところがあったし、その立法意志を著わした『憲法義解』の解説にもややあいまいなところがあり、そこに統帥権独立論者のつけこむ余地があった。

 昭和に入って統帥権干犯問題が起きたとき、明治の元勲たちで健在であったのは西園寺公望ぐらいであり、知識人の間にも、その論の過ちを明確に指摘し、世論を形成できる人間はいなくなっていた。


 その意味で、明治と昭和のはざま、大正時代の知識人にあったいわゆる大正教養主義というのは、その膨大な知識と幅広い教養にもかかわらず、中身は虚ろであったといえる。

 例えば、その代表的人物の一人である和辻哲郎は戦後の大著『日本倫理思想史』の頼山陽を論じた章の冒頭で次のように述べている。

「われわれのように明治中期に生まれたものは(和辻は明治三二年の生まれ)、もはや右のような漢文漢詩の味わい方を身につけていない。従って日本人の書いた漢文や漢詩から強い魅力を感ずるということはない。しかしわれわれの前の世代の人々は、そうではなかった。彼らはそういう漢文や漢詩の内容に着目する前に、その表現の形式からして異様に強い魅力を感じたようである。われわれはそういう例を身近に、親や親類や先輩などにおいて見て来た…」

 この引用個所は原著に当たる、大東亜戦争中に書かれた『尊王思想とその伝統』の当該箇所にはない文章であって、敗戦後、新たに加筆された文章である。戦時中の和辻は頼山陽の思想に近いところ、すなわち「尊王思想とその伝統」の中に自己を位置付けて、『尊王思想とその伝統』という大著を著わしたはずであったが、ここでこのような文章をあえて加筆しているところを見ると、その伝統とは少し距離を置こうとの心理的傾向が生じていたことを表しているように思える。

 変節とまではいわなくとも、敗戦が和辻に与えた心理的影響であるが、それはともかく、幕末維新期に青春を過ごした世代の退潮とともに、その教養も失われたことは世代間の継承がうまくいかなかったという事であり、それが昭和期の内政面における混乱を招いた要因の一つであった。大正時代はその過渡期にあたり、伝統の束縛から自由になった半面、逸脱も見られるようになったのである。進歩的な大正デモクラシーの負の側面として、その孫世代に当たる平成の御代を生きるわれわれはデモクラシーが持つ負の側面も強く認識しておく必要があろう。

 大正期の知識階層における共産主義思想の浸透はその後の日本の針路に深刻な影響をもたらしたが、敗戦はそれをさらに推し進め、護憲勢力の運動が特にマスメディアにおいて活発であることからも分かるように、教養の真贋を見抜く眼力が求められるのは、現在でも同じなのである。(「江戸期の学問の大河」終わり)


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