西郷隆盛

アクセスカウンタ

zoom RSS 会沢正志斎…後期水戸学 A (「江戸期の学問の大河」 その十二)

<<   作成日時 : 2016/08/16 16:44   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

 藤田幽谷は水戸学中興の人物であった。
 われわれが幕末を動かした尊王攘夷運動の源泉としての水戸学として想起する思想内容は、幽谷とその弟子たちによって作られたものを指すが、その代表的なものが会沢正志斎『新論』であり、徳川斉昭『弘道館記』であり、これを説明補足した藤田東湖『弘道館記述義』である。これらの書物は志士たちに広く読まれた。

 幽谷が「正名論」を書いた十八歳の時、彼に弟子入りしたのが、同じ町内に育った少年、まだ十歳の会沢正志斎であった。寛政三年(一七九一)のことである。翌寛政四年にはロシア皇帝の使節ラクスマンが根室に来航して、彼らに対外危機意識を植え付けた。

 会沢が、後期水戸学を象徴する著作とされる『新論』を書いたのは文政八年(一八二五)三月のことで、その前年には領内の大津浜にイギリス人十二名が上陸するという事件があり、会沢は臨時の筆談役に命ぜられて、事件に関わった経験があった。
 実はこの事件により、数年前から水戸の漁民三百名が 沖合いにやってくる欧米の捕鯨船乗組員と物々交換をしていた事実が発覚して、藩や幕府を大いに狼狽させたのである。
 幕府はこれらの事件を受けて、異国船打払い令を出した。

 会沢が藩主に提出するため『新論』を書いたのはこれら一連の事件に触発されてのことだった。彼は江戸在勤の幽谷に『新論』を送り、藩主への献呈を依頼した。
 『新論』を一読した幽谷は「痛快至極」との感想を伝え、後に藩主への献呈を果たした。論文はこれ以降幕末にいたるまで三十余年に亘り、有志の間で筆写され広く読まれたが、藩主の配慮から、筆者名は伏せられての伝播となった。
 幕末における幕臣中随一の切れ者であった川路聖謨は、神武天皇稜の探索報告書である『神武御陵孝』を著した奈良奉行時代に、これを入手一読し、感動する一方で、この書が天下の人心に与える影響に不安を覚えつつ、これはおそらく藤田東湖であろう、これほどの著述をなす者は藤田ほどの漢(おとこ)でなければならぬ、と当たらずとも遠からぬ見解をその日記に書き残している。

 『新論』は五論からなっていて、第一論文は「国体」である。国体という言葉が使われた最初の論文だといわれているが、言葉の使用は定信にもあったし、思想そのものは江戸初期以来の儒者の議論の中にみることはできる。

 『大日本史』では神武天皇から叙述が始まって神話時代がはずされているが、ここでは神話と儒学の表現が融合するような形で積極的に語られているところがまず目を引く。幽谷自身の著作には見られないが、会沢の回想によると、神、天を別とする殷周と違って、天神一致、すなわち神州日本では「天祖天孫、固より天と一なり」が幽谷の考えであったという。会沢は第一論文「国体」で、この師の教えを引き継いで、やたら「天」という言葉を使って神儒習合の国体観を述べている。

例えば次の個所


「昔者(むかし)天祖(天照大神)肇(はじ)めて鴻基を建てたまうや、位はすなわち天位、徳はすなわち天徳にして、以て天業を経綸し、細大のこと一つも天にあらざるものなし。徳を玉に比し、明を鏡に比し、威を剣に比して、天の仁を体し、天の明に則り、天の威を奮いて、以て万邦に照臨したまえり。天下を以て皇孫に伝えたまうにおよんで、手づから三器を授けて、以て天位の信(あかし)となし、以て天徳に象(かたど)りて、天工(天のしごと)に代り、天職を治めしめ、然る後にこれを千万世に伝えたまう。天胤の尊きこと、厳乎としてそれ犯すべからず。君臣の分定まりて、大義以て明らかなり。天祖の神器を伝えたまうや、特に宝鏡を執り、祝(ほ)ぎて曰く、『これを視ること、なお吾を視るがごとくせよ』と。而して万世奉祀して、以て天祖の神となし、聖子神孫、宝鏡を仰ぎて、影をその中に見たまう。見るところのものは、すなわち天祖の遺体にして、視ることなお天祖を視るがごとし。…」


 これは彼の国体論の核心となるところだろう。
 大和言葉の「高天原」あるいは「天(あめ)」と儒教の「天」が習合しているのが見て取れるのだが、少し後には次のようなくだりがあって、徂徠的視点、宣長的視点の導入が見られる。


「天祖(天照大神)は天に在りて、下土に照臨したまい、天孫は誠敬を下に尽くして、以て天祖に報じたまい、祭政これ一つ。治むるところの天職、代わるところの天工は一つとして天祖に事うる所以にあらざるものなし。祖を尊びて民に臨めばすでに天と一つたり。故に天と悠久を同じくするも、また勢のよろしく然るべきなり。故に列聖の大孝を申(の)べたまふや、山陵を秩(まつ)り、祀典を崇(たっと)ぶは、その誠敬を尽くす所以のものにして、礼制大いに備わりて、その本に報い、祖を尊ぶの義は、大嘗に至りて極まれり。(以下大嘗祭の説明、省略)…」

 
 祭政、礼制の極まるところとして古式を遺した大嘗(祭)を挙げているところなどは、聖人の定めた礼楽刑政などの政治制度を「道」として重んずる徂徠学と神代の伝説の中に「道」があるとする本居宣長の主張の折衷のようにも映る。
 彼の論に荻生徂徠や本居宣長の学の影響が見られることは、「日本思想体系 53」『水戸学』の尾藤正英の解説に詳しいが、朱子学的な道義的基準に基づく「紀」「伝」の作成が一段落し、制度史的な「志」「表」の作成段階に入った水戸藩の史業が、徂徠学の影響を受け、しかも宣長の根源的な儒学批判を意識せざるを得なかったことがここにも窺えるのである。
 
 それが日本史における「志」「表」である以上、蒐集した史料の考証には国学の知識も欠かせなかったはずで、神話にまで視野を広げるなら、なおさら国学者の知見に基づく儒学批判は無視できるはずもなかったのである。
 
 特にわが国固有の秘儀である大嘗祭は国学的知見の蓄積無しでは解き得ないものだ。現に初めて大嘗祭の意義を世に明らかにしたのは、桜町天皇の大嘗祭に際し、有職故事に多大な関心を寄せていた、定信の父田安宗武の命で、京に赴き、その盛儀を記録し、研究を『大嘗会具釈』『大嘗会便蒙』にまとめ、後者を出版した荷田在満(かだありまろ、国学四大人の一人荷田東満の養子)であった。
 会沢はその晩年になって儒者の見地から宣長の儒学批判書「直毘霊」を批判した「読直毘霊」を著しているから、かなり国学を意識していたことは明らかなのである。

 彼は徂徠や宣長を批判し、むしろ仁斎の古義学を高く評価していたから、仁斎学を軸にして、そこに欠けている視点を、徂徠や宣長から適宜取捨して取り入れたようだ。
 当時の武士の教養が再び正学の地位を勝ち取った朱子学にその基礎を置いていたことを思えば、会沢の視点は、彼らの見識を、朱子学的なドグマから解き放つ上で大きな効果を発揮したことであろう。
 日本の国体が持つ特異性と普遍性を明らかにし、皇室の重要性を深く認識させることに成功したのである。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
会沢正志斎…後期水戸学 A (「江戸期の学問の大河」 その十二) 西郷隆盛/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる