西郷隆盛

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zoom RSS 宝暦事件顛末…朝廷の異端排除  (「江戸期の学問の大河」 その九)  

<<   作成日時 : 2016/07/11 16:59   >>

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 山崎闇斎は江戸初期の民間儒者である。
 彼はその学問を禅からスタートしたが、朱子学に接するに及んで、これを棄て、「朱子を学んで謬(あやま)らば、朱子とともに謬るなり。何の遺憾かこれあらん」とまで言って、朱子に傾倒していった。朱子学を批判した仁斎の住居、後の古義堂の、堀川を挟んで対岸側に塾を開き、学問的に対峙したのは象徴的である。

 三代将軍家光の弟で会津侯の保科正之が彼に師事したことで、門弟は六千を数えるまでに膨らんだといわれる。その代表的な弟子として崎門三傑と言われた佐藤直方・三宅尚斎・浅見絅斎らがいる。浅見絅斎の著したシナの忠臣列伝である『靖献遺言』は幕末、志士たちの忠義心を奮い立たせたことで有名な書物だ。

 闇斎は、会津侯との交わりの中で、神道家・吉川惟足の影響を受けて、神道に深く傾倒し、晩年はこれを朱子学で理論付けたいわゆる垂加神道を唱え、日本における易姓革命を否定し、激烈なる尊王思想を鼓吹して、後世に大きな影響を及ぼした。しかし、この神道への傾斜により崎門三傑は闇斎のもとを去っていった。
 ここでは早くも、幕府中枢では肯定的に捉えられ、援用されていた易姓革命の思想が否定されていることが後の儒学の展開にとって重要だ。

 浅見絅斎の弟子筋に竹内式部という儒者がいた。彼は新潟から上京して、徳大寺家に仕えた。徂徠学が一世を風靡する中で、彼は崎門学を修め、公家社会に弟子を扶植していった。
 その弟子たちである徳大寺公城(きんむら)・久我敏通・東久世通積らは君徳培養の必要から、時の若き天皇、桃園天皇に山崎闇斎の学説を学ばれるよう言上した。天皇はこれを聞し召され、侍読伏原宣條(ふせはらのぶえだ)を通じて、彼らの師である竹内式部の説に依拠して、『大学章句』『孟子集註』の進講を受けられた。近習らは、朱子の新注を学んで、我より古を為す、と侍読に宣言された後光明天皇以来のこと、と欣喜雀躍したという。
 天皇はまた蹴鞠に堪能で、その優美さは後鳥羽院この方と評されたという。後鳥羽院とは後鳥羽上皇のことで、天皇親政を志し、討幕の兵を挙げた事件(承久の変、武家側から見れば承久の乱)の主役である。
 近習たちはこの若き天皇に王政復古の夢を見たのだ。

 彼らは勢いづき、さらに神書『日本書紀』を学ばれるよう言上し、天皇の許可を得た。もちろん、竹内式部の学説、ひいては山崎闇斎の学説すなわち垂加神道による進講である。式部は何ら独創的見解を創建した学者ではなかったが、感化力の非常に大きい教育者であったらしく、その学説はたちまち若き桃園天皇を虜にした。宝暦六年には式部の直接進講が実現したという。

朝廷において竹内式部に警戒の眼が注がれ始めたのは宝暦六年暮れのことであるが、朝廷の神道をつかさどっていた吉田家の当主、従二位神祇権大副吉田兼雄が彼を警戒し、時の関白一条道香に注進に及んだことがきっかけであった。彼は竹内式部を邪説を講ずる者と訴えたのである。もちろん吉田流神道こそ正説であるとの立場である。

 内偵は追々進められたが、いずれも風聞の域を出なかった。しかし、近習衆が武術の稽古を行っているとの噂が立ち、体制側にとってはいよいよ由々しき事態となってきた。さらに翌七年の六月から七月にかけて桃園天皇が神書の進講を受けていることを探知した一条道香、および三月に関白職を引き継いだ近衛内前らは、垂加流神書の進講に反対であった桃園天皇の嫡母・青綺門院を味方につけ、いよいよ阻止行動に出ることを決意したのである。

 青綺門院が反対した理由は明快で、垂加流は仏道を排斥し、仏道を重んじてきた歴代天皇の伝統的な道に反するというところにあった。これは青綺門院の実弟・二条宗熈およびその養子宗基がこの学流にかぶれて、取り扱いに難儀した経験からくる、実感のこもった反対だった。
 主上がこれを学べばどうなるか。
 確かに朝廷が代々重んじてきた吉田流神道は天台の教えによる神書解釈で、垂加流とは相容れない関係であり、幕府統治下の安定期を過ごしてきた公家社会が、この事件に危機感を感じ、拒絶反応を示したのも無理はなかったであろう。

 ここで面白いのは、朝議を提議する役職である議奏衆は温度の差はあれ、賛成の意を示し、幕府との折衝役である伝奏衆は反対の意を表したことである。議奏は摂関や伝奏より地位は低かったが、近習経験者から選ばれ、天皇に密接した役職であることから、幕府への政治的配慮で左右されることが比較的少なかった。

 天皇への垂加流神書の進講はいったん阻止されたが、天皇の向学の志はやみがたく、青綺門院に初志貫徹の意を漏らされ、同志たちは神代卷上下の抄や初重二重の伝書などの写しを献上するに及んだ。
 しかし、天皇はこの程度では満足されなかったようで、翌宝暦八年になって、正親町三条公績(きみのり)など一派の度々の献言もあって、関白近衛内前に対して、垂加流神書を何とか学びたいとの御意を漏らされたのである。
 関白はやむを得ず、青綺門院の許可を得たうえで、関白陪席の条件付きで、西洞院時名の進講によって実現した。三月二十五日より始まった進講は六月五日まで断続的に十二回行われた。ことは極秘の内に行われたが、やがてどこからか漏れ、前関白一条道香や右大臣九条尚実・内大臣鷹司輔平の横槍が入り、中止のやむなきに至ったのである。

 中止を受け入れた日の夜、天皇は、夢に日輪がまさしく現れ、日輪かと思えば人体のようでもあった、と翌日関白に告白されているから、天照大神のことが気にかかって仕方なかったと拝察される。これも垂加流の神書を学ばれたからであろうか。

垂加流は御為ならず、との関白らの言い分に納得いかない天皇は、概ね次のような大御心を述べて、関白や大臣からの率直な意見を求めた。

 神道はわが大祖や汝らの大祖が万世のために心をあわせ、天地自然の道を考えて、立て置かせられた我が国の大道であり、朕はもちろん、政を執る人が必ず学ぶべきよき道である。しかるに、従来の神道家には学ぶべき人材は見当たらず、これまで垂加流こそが正しい道であるように思ってきた。
 もし汝らが申すように、義理に叶い、神慮に叶うと納得すれば、汝らの申すとおりにして、彼の流は決して用いまい。しかし、愚存が神慮義理に叶うなら、これまで通り、彼の流を学ばなければならない。
 女院(青綺門院)には内密に、また相互に相談することなく、それぞれの所存を聞かせよ。

 この聡明な若き天皇の純粋な大御心に対し、前関白らは、申し合わせの上で諮問に答えた。

 関白の返答内容は要約するとつぎのようなものであった。

 垂加流とは野卑の新流であり、竹内式部の学問はこれにさらに独自の見解を加えた、新流の中のまたさらに新流であり、このような曲説を信じ遊ばされては御一代の傷になりかねない。吉田流こそ、まずは学ぶべきである。その上で、各流の説を斟酌勘弁し、正しき説を窮められては如何。

 江戸時代の朝廷の伝統を考えれば、関白の言い分はもっともであろう。
 朱子学と習合した垂加の神道説は確かに新説であり、当時まだ異端であったのだ。
 とはいえ、天台宗の教義と結びついた吉田神道も戦国以来であり、その勢力の扶植の仕方にははなはだいかがわしいところがあったのだが。

 そもそも摂関家においては各流の神道説を学ぶことがあっても、関白に就任すれば、公には名門である神祇伯白川家の説(伯家神道)に則ることが慣例となっていた。しかし、いつのころからか、近衛・九条においては吉田流、鷹司においては藤波流、二条・一条のみが白川流を守る習いとなっていたという。そういった公家社会において、関白がここで述べたような、神道に対する成熟した態度が天皇に望まれるのはいたって自然である。

 家康の元和偃武事業によって、権力は統一されたが、思想や信仰における戦国乱世はまだまだ続いたといっていいし、むしろ秩序の安定したこの時から思想・信仰上の戦いは激しさを増したといっていいかもしれない。

 ともかく関白は若き天皇を宥めるため、異端の進講を絶対拒否するのではなく、まずは正統の説を学んだ上で、異端の説もお学びになられればよい、と大人の返答をしたのである。
 
 若いということは性急であるということだ。
 天皇は式部の流を学ぶことが必ず許されるというなら、すぐ吉田を召そう、と言われた。
 
 ここで関白が説くのは道理だ。

 貴方様は君たる御方にて在らせられます。君はとかく万事弘く、善きも悪しきも聞し召し、その上で御自身で御心を窮められなければ、善悪理非の分別は出来かねます。神道と申しますは、異国の道とは違い、十分に義理も聞こえず、少々おぼろげなものです。その所を結局は信じるものなのです。ところが垂加流においては、経書の義理を以て一々解釈し、はっきりとわからないものをわかるものであるかのように説きなします。このことによって垂加流が正しくないことは明白なのであります。

 概ね、このように説得したのだが、垂加流の進講に陪席した彼だからこそ言えることだろう。本居宣長の「からごころ」批判に通ずる見解だ。垂加一本やりの天皇は不服ながらこれに反論できず、結局吉田を召さざるを得なかったのである。

 
 前関白らはこれを機に、明白な罪もなき、竹内式部門弟らを朝廷から一掃する決意を固めていた。 
 彼らはまず京都所司代を動かして、異端の首魁である式部を捕らえ、その門弟ということで彼らを一掃しようと企て、ほとんど天皇に強要する形で処分を求めたのである。
 
(ちなみに関白近衛内前は天皇が忠臣として最も信頼していた西洞院時名を最も憎んだ。実は時名は近衛の門流であり、その長として、彼は事をできるだけ穏便に収めるために、時名の毒殺か呪殺を企てている。表向きの大人な態度とのギャップには驚き入るばかりだが、現代社会の常識を江戸時代の公家社会に当てはめることのほうが無理があるのである。)

 関白が諜報により入手し、天皇に訴えた竹内式部の思想の問題点をまとめると次のようになる。

天子を尊敬するあまり、大義名分を論ずる時など、幕府に対する批判が過激になりがちである。その内容は、近代は武家が天下を領しているので、万民将軍あるを知って、天子あることを忘れる輩が多い。現在堂上に学ぶ人が増えているこの垂加流の学説を、上は天子から下は万民に至るまで浸透させれば、自然に天下は天子様のものとなり、将軍より天下政道の義も返還するようになり、誠の復古となるだろう。

 この思想は維新回天を経て、正学の地位を獲得するが、以外にもこの時点では、朝廷自身に過激な危険思想とみなされたのである。
 訴えの最後には、近習たちが主上の寵をいいことに、朝廷の権力を取る趣意と思われる、としているから、禁中並公家諸法度に規制された朝幕の安定関係こそ、朝廷の御為であるとする体制派が、体制を守ろうとして一致団結し、危険思想を朝廷より一掃しようとした、というのがこの事件の構図であるようだ。
 朝廷はこの安定体制を守るために、異端の学問を実質的に禁じたのである。

 関白は天皇に対し、そもそも天下の政道を武家が掌るようになったのは、、中古、後鳥羽院の文治二年三月に源頼朝が六十六ヶ国の総追捕使に補せられてから数百年来のことで、当将軍家(徳川家)に至るまで連綿と続けられてきたことであり、武家が朝廷の政務を奪ったわけではなく、決して朝廷の御恥とはならない云々、と現状肯定の論陣を張っている。

 天皇親政の正統性を信仰する側から見ればこれは堕落以外の何物でもないだろう。そもそも後鳥羽院御自身がこの武家に与えた権限を取り戻そうと挙兵されているわけであるから、関白の言い分は詭弁というものである。

 家康以来の朝幕の安定関係が朝廷の再興に寄与すること大であったのは関白らの言うとおりであるが、まるで、戦後、国民の反米感情を抑えるため、アメリカへの批判を封じようとしてきた親米保守派の論調のようだ。そこから対米従属を克服する論理は生まれてこず、それに飽き足らぬ忠義者が出てくるのは必然だろう。ましてや、当時は忠孝を眼目とする学問が盛行した時代であったのである。
 
 とはいえ、信頼する近習を遠ざけられた若き天皇に何ができるわけではない。
関白には「せう事がない、どふなりとも宜しく申し付ける」と仰せられたという。
門弟らは各々処分され、師と絶交の上、その証拠として伝授書などは没収された。
 門弟らは無念ながらも、これを受け入れた。
 反抗するものが一人もいなかったのは不甲斐ないようでもあるが、まだ機が熟していなかったのだろう。
 関白らの処置を何とか覆そうとしたのは桃園天皇ただお一人であった。

 師の式部に関して、関白らは京都から追放するつもりであった。 
 所司代の松平輝高にとって近臣らの一斉処分は寝耳に水の話で、幕府への相談もなく、朝廷の評議だけで行われたことについて苦情を申し入れたぐらいであった。

 所司代は式部の尋問を繰り返した。彼らは、正親町三条公績が天皇に献上した師式部の神書講義録の抄写を関白らを通じて入手していて、式部はその存在を知って初めて、門弟らが処分された由来を知ったのであった。

 この講義録の抄写を読めば、関白らの式部の学説に対する訴えは、当たらずとも遠からずであり、思想的また政治的に対立するものであったことがわかる。
 彼が目指していたのはいうなれば、徳化、 教化による王政復古であった。

 彼は奉行所の尋問時、今の天下は危うき天下と思うか、心底を申すように、と言われて、式部は流罪を覚悟して、次のように答えている。

 なるほど危うき世の中と存じます。聖人(孔子を指す)の言葉に、「天下道なければ、すなわち礼楽征伐諸侯より出ず、諸侯より出れば、すなわち十世にして衰えざること少なし」とあります。只今関東より政事が出ていますから、諸侯から出ていることになります。ならば、危ういとしか申しようがありません。(当時は九代将軍家重の時代であった。)
 私は儒者であり、道を解することを任としているので、聖人がそうおっしゃるなら、その通りに危ういと申し上げるのであります。

 尋問官は国典には暗かったが、『論語』は学んでいて理解できたから、反論を試みた。

 古より天下に限らず、一国(藩を指す)にても一人で治められるものではなく、それぞれの職分があってようやく治まるものであるから、関東にて政務を執り行うことがあっても、何の問題もない。ならばその治世を危ういと申すのはいかがなものか。

 式部は答える。

 もちろん、関東の政、一条一条朝廷の三公へ相談あそばれ、勅命にてとりおこなわれているのか存じませんが、そのようには見受けられません。もちろん些細のことまでそこまでするには及びませんが、大事件に関しては、三公へご相談の上で、勅命を請けて取り行うようにすれば、礼楽征伐天子より出ると申すもので、危うきも安くなる仕方と思います。

 これを聞いていた奉行衆は、式部の感触では、甚だ感じ入っている様子で、後々までこの件でのお咎めはなかったという。
 しかし、幕府は門弟の処罰を断行した朝廷の手前、式部を無罪放免にするわけにはいかず、罪ならぬ罪をこじつけて、追放処分となしたのである。その中には、四書五経のみならず『靖献遺言』を講じた、というものまであったが、そのことの真の意義を幕府が認識していたかどうか。
 
 式部の処分が決定したのは、宝暦九年五月のことであった。
 尋問を終えてから処分まで半年以上何の沙汰もなかったのは、所司代の松平輝高が更迭され、代わりの所司代が赴任するまで時間がかかったからであるが、更迭はこの事件における輝高の処置が手ぬるいと幕閣に判断されたからであったかもしれない。だとすれば、幕閣は調書類を読んで、式部の思想が孕む危険性と事件の重大さに気づいていたということになる。後の明和事件における竹内式部に対する幕府の態度をみても、十分それは推察されることだ。

 翌十年四月、堂上門弟らの最終処分は行われ、事件は落着した。
 そのさらに二年後の宝暦十二年七月二十一日、桃園天皇は失意のうちに崩御された。宝算二十二歳の若さであった。

 以上が幕府に先んずる形でなされた、朝廷における実質的な異学禁制事件の概要である。

 奇しくも、もう一つの神書『古事記』を解読することになる本居宣長が、京に留学し、自由な学問の空気を胸一杯吸い込んだのが宝暦二年から七年にかけてのこと。その学問を土台に、『古事記』の解明にその生涯を捧げようとしている矢先に、天照大神の子孫の学問の在り方、本質的には朝廷の在り方を巡って事件は起きたのであった。
 宣長は知る由もなかったであろうが、事件の進展を予知したかのように、京を去っている。後世に残る彼の学問の深化はそこから始まった。

 体制にとっての異端はいくら弾圧したところで、もはやとどまる勢いではなかったのである。
 この事件で異学として抑圧され、排除された王政復古思想は近習の家系において内々に継承され、やがて草莽の異学の流れと合して、幕末の混乱の中で盛り返し、朝廷の権力にとって代わり、正学の地位を得ることになる。

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