西郷隆盛

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zoom RSS 異端の禁制へ (「江戸期の学問の大河」 その八)

<<   作成日時 : 2016/07/06 16:27   >>

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 朱子学を根底から批判した古義学・古文辞学、儒学そのものを根底から批判した国学の盛行は、ニーチェが「ルターは教会を再興したのであった、つまり彼は教会を攻撃したからだ」と喝破したように、朱子学を再興し、学問新展開の契機となっていくことになる。
 その意味ではカトリックとプロテスタントの関係に似ている。

また次のような比較も可能だろう。
徂徠や宣長の認識論は究極のところで不可知論である。
礼楽文化を創造した古の聖人の智ははかり知ることができないとした徂徠。
神代の伝説はすべて真実であるが、そこに含まれる理は人知でははかり知ることができないとした宣長。
 絶対的価値は人知でははかり知ることはできないから不可知論である。

 一方、江戸時代の官学であった朱子学はすべてを理に還元できるとし、だれでも努力次第で聖人になることができるとする。
 この人間の理性に対する信頼は、近代西欧における構成的主知主義を連想させる。ルソーの思想に大きな影響を受けたフランス革命に象徴される頭の中で描かれた理想の社会建設のために暴力革命を肯定する思想は、のちの共産主義やファシズムやソーシャリズムに受け継がれて、レーニンやスターリンなどの共産圏の独裁者やヒトラーを生み、現在のグローバリズムにも受け継がれて、世界中に惨禍をまき散らし続けているが、現代でも優勢なこの思潮に対し、最初に懐疑を突き付けた人物が、ルソーの友人で、のちに袂を分かつことになった、スコットランド人哲学者デイヴィッド・ヒューム(1711―1776)であった。
 ヒュームはイギリス経験論を代表する思想家であり、徹底した懐疑主義者であり、不可知論の立場に立つ。かのイマヌエル・カントをして、独断のまどろみからわれを揺り起こした、と告白せしめたことで有名だ。 

 ヒュームの思想はT・H・ハクスレーやアダム・スミスやハイエクに受け継がれて、構成的主知主義に対する有力な批判であり続けているのであるが、一方で、彼は『英国史』の著者でもあり、英国の国体を明らかにし、これが知識階層にすでに浸透していたおかげで、英国における主知構成主義の席捲―革命―を未然に防ぎ、大英帝国における二大政党による議会制民主主義の発展を支えることにも寄与している。

 朱子学に対する批判者であった徂徠や儒学そのものの批判者であった宣長の登場は、西欧におけるこういった現象と並行する画期的事件であり、その批判や国体論の深化発展は、西洋から現代でも装いも新たに輸入され続ける構成的主知主義思潮に対する、わが文明内の有力な免疫力となっているのである。

その免疫力が低下したのは、漢学や国学の素養を持つ世代が社会の一線から退きつつあった大正時代であり、大正デモクラシーや大正教養主義の流行はこの構成的主知主義に大きく門戸を開く契機となったのである。デモクラシーや教養主義の負の側面にも目を向ける必要があろう。

 このデモクラシーの中で、二十世紀を代表する構成的主知主義であるコミュニズムが、民主主義の仮面をかぶって日本の知的エリート層に浸潤し、当局による一斉摘発となり、国体明徴運動へと進んでいくのである。暴力革命により君主制を破壊してきた共産主義勢力の伸張に、天皇を戴く日本の当局者が過敏に反応したのは当然である。国体を明徴するにあたって、江戸時代以来の学問の成果が活かされた。

 この強い免疫力に決定的打撃を与えたのは、この国体を守るために国民の総力を挙げて戦った大東亜戦争の敗戦であり、降伏に始まるアメリカの占領政策であった。
 GHQが神道令を発して、「国体」「大東亜戦争」という言葉の使用を禁ずるのみならず、水戸学に関する書籍の焚書を命じたのは、なにも偶然ではないのである。
 これは、近代国家日本の背骨となってきた価値規範をへし折ることを目的とした戦争行為の継続だった。日本人の戦争継続の意志と国力をくじくために、日本本土への無差別爆撃、そしてその極め付けとして原爆の投下を行ったように、降伏後は、日本人の精神への攻撃を続行したのである。
 日本人はまずそのことを認識しなければならないが、それを取り戻すための一つの試みとして、この地味な「江戸時代の学問の大河」を書いている。


 その国体論に大きな影響を与えた後期水戸学に進む前に、江戸時代の官学である朱子学を異端であると断じた仁斎や徂徠の学派に対し、官学の側から起こった反撃について触れておきたい。
 それが老中・松平定信が始めた「寛政異学の禁」であるが、この異学禁制の先鞭をつけたのは、実は京の朝廷だった。

 朝廷の儒学受容の在り方は根本的に不可知論的立場に立っていたといっていいだろう。皇室における神々の存在は自明の事であり、その神々、特に皇祖神の祭祀は朝廷の第一義とされてきたのである。
 祭祀の意義に合理性を読み取ることは可能であるが、根本的にそういった側面だけで割り切れるような行為ではない。その核心には神霊の問題があり、人間存在の根源にかかわる神聖な行為なのである。

 一方、江戸幕府のほうは、これまで見てきたように、天下統治の思想として朱子学を採用したが、開祖の家康が東照大権現という関東鎮護の神になることで、究極的には不可知論の立場に立っていたといえる。江戸幕府は祭祀を重んじる政府であった。
 
 家康は京都を軽んずることはなかったが、熱心な尊王家であったとも言い切れないところがある。
 彼がひたすら畏れた存在は、不義を為した者に必ず災いをもって報いる天道であって、京に在す天子様ではなかった。彼の思想から考えると、源氏を称した徳川家の宗家として、また天を敬う天子としての皇室を敬いはしたが、法度を別に定めたことからも分かるように、基本的に武家と朝廷(公家)を別物ととらえており、足利尊氏ではなく、源頼朝に倣って、関東に幕府を開いたのも、それが理由だった。

 家康は幸いにして、孫の光圀が設定した問題、幕府と朝廷が弓矢を交えるような決定的対立に直面することはなかったから、プラグマティストである彼としては、そういった究極のところまで「天道応報の理」に関する考察を煮詰めることはなかったであろう。彼の生涯は、天下の乱を鎮めて、天道に報いることで手一杯で、そこまで配慮が及ばなかったし、朝廷を重んじ、協調することでそこまで心配する必要もなかったのである。
 家康の政策が朝幕の大きな対立に至ったのは、家康亡き後の秀忠の時代であり、それは秀忠の娘和子を後水尾天皇に入内させるという、家康が遺した婚姻融和政策が後水尾天皇の突然の譲位となって表出した時のことであった。

 朝幕双方が不可知論的立場に立つといっても、その内容は異なる。「天」と「高天原」という表現に象徴的に表れているように、根本的なところで、双方が拠って立つ世界観は異なっていた。それが様々な軋轢を生むことになったが、それでも一応幕府は、天下泰平のため、朝廷との融和を目指していたといえるだろう。
 しかし、依拠する思想が異なっていたため、様々な軋轢を生じた。

 学問についても、朱子学を官学として採用した幕府に対し、朝廷は基本的に漢唐の古注を採用してきた。これは『論語』渡来の経緯からも自然の流れであった。
 江戸時代の天皇で、最初に朱子の新注を採用したのは、後水尾天皇の第四皇子で、明正天皇の跡を継いだ第百十代の後光明天皇であったと伝えられている。天皇は十八歳の時、日本朱子学の開祖として藤原惺窩の文集『惺窩先生文集』に序文を下賜されたが、これは、天皇が民間の書に序文を賜った最初の例であるという。さらに孔子を祭る釈奠を大学寮で行おうとされたが、二十二歳の若さで夭折されたため志を果たせなかった。
 また更に、剣術を好まれたというから、古代はともかく、当時の皇室の伝統からは大きく外れた天皇であった。

 次に朱子の新注を採用したのは第百十六代 桃園天皇【在位;延享四年(一七四二)から宝暦十二年(一七六二)】である。七歳で即位した天皇は幼少の時から学問を好み、十五歳になって、朱子学、それも山崎闇斎の学説を採用されたのである。
 このことがのちに朝廷を揺るがす大事件へと発展していくことになるが、ここにも朝廷伝統の不可知論的立場に立つか、朱子学的な全ての物事を理に還元する「格物窮理」的立場に立つかという、本質問題が垣間見えるのである。
 

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