テーマ:伝統

西部邁氏の自決

 去る一月二十一日、保守思想家にして評論家の西部邁氏が多摩川に投身自殺されました。昨年の渡部昇一氏に続き、戦後保守の重鎮がまた一人亡くなられたことになります。  慎んで御冥福をお祈りするとともに、筆者が氏の言論から受けた学恩についてここで少し触れてみたいと思います。  氏の自殺については、かなり前から自説として述べておられて…
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「徳川家康の天下取り【二】大坂の陣」(再掲載)

 徳川家康は豊臣秀吉のよき理解者ではなかった。  彼の才気に満ちた天下への仕置きの多くを、物好きから来る私的行為とみなしていたらしく思える。  例えば、方広寺の大仏建立である。  この事業は、井沢元彦氏が説いておられるように、織田信長が摠見寺を建立して、あらゆる宗派を統合しようとしたのと同じ趣旨で建立されたものだ。だから…
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今上陛下の「生前退位」報道

 今上陛下の「生前退位」報道が大手主要メディアを通じて一斉に報道されたのが、7月13日のこと。  報道を最初に読んだ時、衝撃を感じたのだが、陛下の高齢を思えば無理もないと思った。ほとんどの国民がそう思ったのではなかっただろうか。  一つ引っかかったのはNHKの報道が最初であったということである。  情報そのものの信ぴょう性が疑…
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明和事件 (「江戸期の学問の大河」 その十)

京都を追放された竹内式部は、伊勢内宮の権禰宜・蓬莱尚賢を頼って伊勢宇治に赴き、家来の鵜飼又太夫宅に寄寓した。  蓬莱尚賢は和漢の学問に造詣深く、賀茂真淵や本居宣長に師事した人物で、のちに(安永二年、一七七二)『古事記伝』を精読して感銘を受けている。彼はまた、宣長の思想への影響を図示した「恩頼図」にあった、伊勢の垂加神道系国学者・…
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宝暦事件顛末…朝廷の異端排除  (「江戸期の学問の大河」 その九)  

 山崎闇斎は江戸初期の民間儒者である。  彼はその学問を禅からスタートしたが、朱子学に接するに及んで、これを棄て、「朱子を学んで謬(あやま)らば、朱子とともに謬るなり。何の遺憾かこれあらん」とまで言って、朱子に傾倒していった。朱子学を批判した仁斎の住居、後の古義堂の、堀川を挟んで対岸側に塾を開き、学問的に対峙したのは象徴的である。 …
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異端の禁制へ (「江戸期の学問の大河」 その八)

 朱子学を根底から批判した古義学・古文辞学、儒学そのものを根底から批判した国学の盛行は、ニーチェが「ルターは教会を再興したのであった、つまり彼は教会を攻撃したからだ」と喝破したように、朱子学を再興し、学問新展開の契機となっていくことになる。  その意味ではカトリックとプロテスタントの関係に似ている。 また次のような比較も可能…
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伊藤仁斎の国体観 (「江戸期の学問の大河」その四)

 朱子学に対する批判から興ったいわゆる陽明学への傾倒から、林家から異端視されるに至った人物として、「近江聖人」こと中江藤樹や熊沢蕃山がいる。彼らは自立的な学問の道を切り拓いた人たちであるが、より徹底して、後世に大きな影響を与えた人物として、ここでは伊藤仁斎を取り上げたい。    仁斎は京都の材木商の息子で、終生、京都を離れず、市井に…
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江戸時代の学問の大河

昨年末に更新した記事「ニーチェが登った階段」に次のように書いた。 「しかし、われわれにとって、あちらより、こちらの階段のほうが重要である。  遠くに霞む山々へと続く尾根に築かれた、あるいはこれから築かれようとしている階段である。  これはおのおのが自分の足で歩いて築くほかない階段であるが、われわれはあくまでも歩いて築く…
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皇室の秘儀中の秘儀 大嘗祭

 ここのところ、ブログの更新を怠っているが、執筆活動を休止しているわけではない。  現在、数年前に書き始めた「皇室と『論語』」の仕上げで手一杯で、ブログの更新まで手が廻らないからである。  「皇室と『論語』」は、このブログに書き始めた西尾幹二氏への批判を、発展深化させたもので、皇室と『論語』の思想のかかわりを歴史的にたどるこ…
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思想問題としての開国、そして文明開化 (その一)

  西洋諸国への「開国」は「外圧」によって強いられたものだ。従来、しばしばそう語られてきた。一時声高に「攘夷」を叫んで徳川政権を苦しめ、その後一転して「開国」を容認した明治新政府の指導者にとっても、それが自己正当化しやすい物語だったからであろう。しかし、それは、歴史の一面でしかない。「開港」「開国」は、ペリー来航の遥か以前から、強…
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昭和の日

 四月二十九日は「昭和の日」と呼ばれる祝日である。  この祝日の意義は、昭和天皇の御誕生日であるくらいのことは誰でも知っているが、過ぎ去りし昭和の御代を偲ぶ、くらいの意義しか、多くの人は感じていないのではないだろうか。  戦前、天皇の御誕生日は「天長節」として祝われた。  「天長節」の名は、天子の誕生日を意味し、『老子…
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儒学 ―― 最強の体系的政治イデオロギー

 「儒学は、人類がこれまで築いた、おそらく最強の体系的政治イデオロギーである。それは、孔子によって大成されて以後、他の諸思想潮流との抗争に徐々に勝利し、紀元前から二千年以上の永きにわたり、ほぼ一貫して、世界屈指の大帝国の正統思想として君臨した。そして、とりわけ近代に直接先立つ時期の東アジアにおいて、圧倒的な権威を持つ倫理哲学・政治哲学と…
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尾崎秀実の根っこ

尾崎の言う「八紘一宇」の内容についてもう少し。 「…私の考えでは、日本文化は前述のごとく、あくまで日本の国土に生れ国体そのものに深く結びついたものであって、これはあくまで日本民族だけに許された特典であると考えます。したがって我が日本文化は、これを地域的に拡散するのではなくして、日本民族、日本自体の内でますます内的にこれを深め、…
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むしろ被差別、被侵略国であった日本 尾崎秀実の「八紘一宇」 (四)

 今年で戦後七十年。  あの戦争の意義を正確に知らずに、戦勝国の言い分を安易に受け入れてペコペコ謝るばかりでは、英霊はもちろん、犠牲者の霊も浮かばれない。  自民党の高村正彦副総裁は三月下旬の訪米時にブリンケン国務副長官と会談し、慰安婦問題に関して「韓国とは法的にも政治的にも決着をつけたが、何度も蒸し返され、日韓関係が大切だと思…
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日本は世界のアンパンマン

   以前『朝日新聞』に、『アンパンマン』の原作者で先年亡くなられたやなせたかし氏の戦争体験が掲載されていた。 (「やなせたかし」ウィキ解説;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%84%E3%81%AA%E3%81%9B%E3%81%9F%E3%81%8B%E3%81%97) …
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侵略のスローガンではなかった「八紘一宇」  尾崎秀実の「八紘一宇」 (三)

尾崎は言う。 「ところが日本が決然立って英米を敵とし、たちまちにして東亜の諸地域から英米の勢力を破砕し去るにいたって、日本の前述のごとき理想は現実性を顕し来り、従来の日本の宣言が驚くべき魅力をもって東亜十億の民衆に呼びかけこれを招くこととなったのであります。・・・(中略)・・・  だが何よりも私にとって重大な意義ありと思われ…
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他国侵略のスローガンというのは本当か 尾崎秀実の「八紘一宇」 (二) 

 戦後日本のぬるま湯に浸かってきた日本の共産主義者たちが、尾崎の転向文書とちゃんと向き合えずにきたのもむべなるかなという気がする。  三原じゅん子氏は「この言葉(八紘一宇)が、戦前の日本で、他国への侵略を正当化する原理やスローガンとして使われた」とのご理解(誤理解)を示しているが、支那問題の専門家を自負していた尾崎はどういってい…
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尾崎秀実の「八紘一宇」 (一)

「八紘一宇」という価値観を大切にしてきたと意外なことを告白した三原じゅん子氏と言えば、われわれの世代にとっては金八先生担任・三年B組の不良少女としてのイメージが強くこびりついていて、彼女のこの発言に関しては懐疑的にならざるを得ないのだが、金八先生の「贈る言葉」が効いたのであろうか。  ところで、戦前の日本における不良中の不良の一人…
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「八紘一宇」

 自民党所属の参議院議員・三原じゅん子氏が参議院予算委員における質疑の中で、「八紘一宇」という言葉を取り上げて、ネット上ではちょっとした話題になっている。  氏は質疑の中で麻生太郎財務相に対し、「八紘一宇の理念のもとに、世界が一つの家族のようにむつみあい、助け合えるような経済、税の仕組みを運用することを確認する崇高な政治的合意文書…
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安倍首相への御忠言

 安倍首相が靖国神社における秋の例大祭の参拝を見合わせた。  痛恨の極みである。  かつて首相は別の問題でだが、『孟子』の言葉を引用して「千万人といえどもわれ往かん」と自身の覚悟を述べたことがある。  だが、千人、万人まではオーケーでも、桁が違えば、見合わせるということであろうか。首相の靖国公式参拝の問題はわが国の「神…
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『仁‐JIN‐』…「敗戦時の記憶 【七】」

主君・烈公の『弘道館記』を敷衍した藤田東湖の『弘道館記述義』は、本居宣長の「からごころ」批判を意識し、これを克服したものとなっている。それは後期水戸学の特徴でもある。  東湖は言う。  上古は世質に人朴にして、未だ書契あらず。所謂道なるものも、また寞然として聞くことなし。然らばすなわち道は、固より、上古に原(もと)づかざ…
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『国體』…「敗戦時の記憶 【その六】」

 大東亜戦争末期、日本国民は皇室を中心とする国体を守るために命を投げ出し、天皇はこの国民(おおみたから)を守るために、命を投げ出された。そのことによって、わが国の国体はぎりぎりのところで守られた。 われわれの先人は、天地神明を前にして、その伝統が本物であることを証明したのである。  それは旧い伝統の死であると同時に、新たな復…
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西郷隆盛の命日

 人皆、事を成すに、己が事はこの位の事は宜しきものと恕(ゆる)し、人の事は責むるなり。総ベて己に恕するだけは人をも恕し、人を責むるだけは己をも責むべし。畢竟、恕は人に帰し、責は己に帰すべし。因りて人を容れ、人に容れられては済まぬものなり。    忠孝は根本なるも、これを行うところを究むれば、天を敬し人を愛すは第一の目的なり。…
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『孔子とイエス』…「敗戦時の記憶 【その五】」

 もうひとりの知識人の敗戦経験を紹介しておきたい。  その知識人は次のように書いている。 …私が『論語』を、教室の講義のためでなく、自らのために読んだのは、敗戦後のことであった。あの敗戦のあとの、やるせないような虚脱を味わわれた方には、理解していただけることかと思う。私の机辺には、いつとはなく、『論語』と『聖書』とがあっ…
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『神』・・・「敗戦時の記憶 【その四】」

 長谷川三千子氏は『神やぶれたまはず』の結語として、玉音放送を聴いたときの国民が経験したシーンとした心の一瞬を「神人対晤」の瞬間であったと表現している。その一瞬、日本国民全員の命と天皇陛下の命とは、相並んでホロコースト(いけにえを丸焼きにして神に捧げるユダヤ教における儀式〈燔祭〉)のたきぎの上に横たわっていた、というのである。  これ…
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『国体護持』…「敗戦時の記憶 【その参】」

 長谷川氏は『神やぶれたまはず』の最終章で、戦争末期に現れた「国體護持」の思想を議論の俎上に上げている。  国體思想が本格的に時代を動かしたのは幕末・維新期にまで溯る。  氏が国體思想の代表例として挙げているのが、藤田東湖の『弘道館述義』であるが、次のように要約されている。  そこでの東湖は、まづ(ヨーロッパの「自然…
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『天道』…「敗戦時の記憶 【その弐】」

 桶谷秀昭氏は、『荘子』にある「天籟」という言葉によって、玉音放送を聴いたときのシーンとした国民の心の一瞬の謎を解く手がかりを得た。  しかし、この事を世に問うたものの、反応は 「だから、どうしたといふのか。そんな怪訝をともなふ反感あるいは薄ら笑ひを、私はたびたび経験したが、賛意をつたへてくれた人はひとりもゐなかった」 …
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『天籟』…「敗戦時の記憶 【その壱】」

 八月に入って、十五日までは、蝉しぐれの中、毎年、我々日本人がかつて経験した異常な民族的記憶が甦る期間である。  相変わらずマスコミでは、戦前・戦中の日本を悪に仕立て上げての反省ごっこが繰り返されるが、こういった真の反省から程遠い欺瞞的態度が物事の発展を阻害するのは、昨今の隣国との関係を見れば分るだろう。  お隣の国々、中国や北…
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徳川家康の天下取り 【三】 中庸および湯武放伐論

 天下分け目の関ヶ原、大坂冬の陣、夏の陣。  二度あることは三度あると言うが、太閤恩顧の大名が秀頼を担ぎ上げて、家康に敵対する事件もやはり三度出来した。  家康はこれに対し、仏の顔も三度までと、三度目の反逆行為に及んだ秀頼をついには許さなかった。家康も秀頼本人に反逆の意図があるとまでは思っていなかったらしく、よく事情を汲んで、何度も…
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この人を見よ!織田信長の正気と狂気

 『信長公記』によれば、天正七年五月十一日、織田信長は安土城天主に移り、まさに天主として降臨した。これは同時に神仏の影向でもあった。  この翌十二日は信長の誕生日とされている。  (フロイスの記述からの逆算による通説。井沢元彦氏は十一日説を主張。私もこちらだと思う。)  ところで最近、古書店で、西尾幹二氏が翻訳と解説を行ってい…
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