テーマ:論語

人智を開発するとは… 【西郷南洲遺訓解説】 第十条

人智を開発するとは、愛国忠孝の心を開くなり。国に尽くし、家に勤むるの道明らかならば、百般の事業は従て進歩すべし。あるいは耳目を開発せんとて、電信を懸け、鉄道を敷き、蒸気仕掛けの器械を造立し、人の耳目を聳動すれども、何故、電信鉄道のなくては叶わぬぞ、欠くべからざるものぞ、というところに目を注がず、みだりに外国の盛大を羨み、利害得失を論ぜず…
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忠孝仁愛教化の道は… 【西郷南洲翁遺訓解説】 第九条

忠孝仁愛教化の道は政事の大本にして、万世に亘り宇宙に弥(わた)り易(か)うべからざるの要道なり。道は天地自然の物なれば、西洋と雖も決して別なし。 (大意)人々を忠孝、そして仁愛の道に教え導くことは政事の大本であり、永遠にして普遍の人間秩序の要(かなめ)となる道である。道は天地とともにある自然のものであるから、西洋においても同じ…
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広く各国の制度を採り、開明に進まんとならば… 【西郷南洲翁遺訓解説】 第八条

 広く各国の制度を採り、開明に進まんとならば、先ず我国の本体をすえ、風教を張り、然して後、徐(しず)かに彼の長所を斟酌するものぞ。否(しか)らずして彼に倣いなば、國體は衰頽し、風教は萎靡して匡救(きょうきゅう)すべからず。遂に彼の制を受くるに至らんとす。 (大意)広く各国の制度を採用し、開明に進もうとするならば、先ずは我が国の体(…
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事大小となく、正道を踏み、至誠を推し… 【西郷南洲遺訓解説】 第七条

 事大小となく、正道を踏み、至誠を推し、一時の詐謀を用うべからず。人多くは事の差し支ゆる時に臨み、作略を用いて、一旦その差し支えを通せば、跡は時宜次第工夫の出来る様に思えども、作略の煩いきっと生じ、事必ず敗るるものぞ。正道を以てこれを行えば、目前には迂遠なる様なれども、先に行けば成功は早きものなり。 (大意)どんな事でも、正道…
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人材を採用するに、君子小人の弁、酷に過ぐる時は… 【西郷南洲翁遺訓解説】第六条

人材を採用するに、君子小人の弁、酷に過ぐる時は却って害を引き起こすものなり。その故は開闢以来世上一般、十に七八は小人なれば、能く小人の情を察し、その長所を取り、これを小職に用い、その才芸を尽くさしむるなり。東湖先生申されしは「小人ほど才芸ありて用便なれば、用いざればならぬものなり。さりとて長官にすえ重職を授くれば、必ず邦家を覆すものゆえ…
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幾たびか辛酸を歴て志始めて堅し… 【西郷南洲翁遺訓解説】第五条

或る時、「幾歴辛酸志初堅 丈夫玉砕愧甎全 一家遺事人知否 不為児孫買美田(幾たびか辛酸を歴て志始めて堅し、丈夫玉砕して甎全を愧ず、一家の遺事人知るや否や、児孫の為に美田を買わず)」との七絶を示されて、若しこの言に違いなば、西郷は言行反したるとて見限られよ、と申されける。 (大意)ある時、翁は「幾たびか辛く苦しい思いをして始め…
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万民の上に位する者… 【西郷南洲翁遺訓解説】第四条

万民の上に位する者、己を慎み、品行を正しくし、驕奢を戒め、節倹を勉め、職事に勤労して人民の標準となり、下民その勤労を気の毒に思う様ならでは、政令は行われ難し。然るに草創の始めに立ちながら、家屋を飾り、衣服を文(かざ)り、美妾を抱え、蓄財を謀りなば、維新の功業は遂げられまじきなり。今となりては、戊辰の義戦も偏に私を営みたる姿に成り行き、天…
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西郷隆盛の命日 (平成二十八年九月二十四日)

現在、何か一巡したような気がしている。 本日は西郷南洲翁の命日である。 二〇〇六年に『(新)西郷南洲伝』の上巻を出版してからちょうど十年。 下巻の出版はその二年後の二〇〇八年だったが、それ以降、維新回天の前提となった日本の伝統について掘り下げて考え始めて、先月末にようやく江戸時代の学問の大河を書き終えた。  後期水戸学と…
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国体論者としての山陽…頼山陽 ② (「江戸期の学問の大河」 その十三)

 頼山陽の代表的二著作『日本外史』『日本政記』は後世に大きな影響を及ぼした。  維新回天に大きく貢献するのみならず、彼の国体観から導かれた統帥権の問題は日清、日露と続く、明治日本の軍事的成功に大きく貢献し、明治憲法に規定された統帥権理解・運用の前提知識となっていたし、これを忘れた昭和の指導者たちの「統帥権干犯」問題という混乱を引き起…
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名文家としての山陽…頼山陽 ① (「江戸期の学問の大河」 その十三)

老中を辞した松平定信は、白河藩の藩政に専念し、善政を行って領民に名君として慕われたが、文化九年(一八一二)、家督を長男に譲って、隠居生活に入ってからは、藩政を掌握しつつも、楽翁と称し、文芸を愛し、花鳥風月を楽しみながら悠々自適の生活を行っていた。  文政十年(一八二七)、六十八歳の時、ある文士の名声を耳にし て、その著作を求めた。 …
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藤田東湖…後期水戸学 ③ (「江戸期の学問の大河」 その十二)

 藤田東湖は幕末、水戸藩公の懐刀として活躍し、戸田篷軒と並んで水戸の両田と称された。幕末の水戸藩を代表する人物の一人である。  東湖は幽谷の次男であるが、長男が早世したため、嗣子として育てられ、この偉大な父からは大きな学問的影響を受けた。文政七年、イギリスの捕鯨船員が大津浜に上陸した際には、父からイギリス兵を斬るよう密命を受け、死を…
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会沢正志斎…後期水戸学 ② (「江戸期の学問の大河」 その十二)

 藤田幽谷は水戸学中興の人物であった。  われわれが幕末を動かした尊王攘夷運動の源泉としての水戸学として想起する思想内容は、幽谷とその弟子たちによって作られたものを指すが、その代表的なものが会沢正志斎『新論』であり、徳川斉昭『弘道館記』であり、これを説明補足した藤田東湖『弘道館記述義』である。これらの書物は志士たちに広く読まれた。 …
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藤田幽谷…後期水戸学 ①(「江戸期の学問の大河」 その十二)

 定信が幕政改革に従事した頃の水戸学の質的変化について話を移していきたい。  光圀の死後、正徳五年(一七一五)に「本紀」七三巻・「列伝」一七〇巻が脱稿し、光圀以来の彰考館員で、その死後中心的役割を担ってきた、「格さん」のモデルとされる安積澹泊が元文二年(一七三七)に死去すると、修史事業は休止状態に陥った。しかし、第六代藩主治保(は…
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定信の出処進退…松平定信の異端禁制 ④ (「江戸期の学問の大河」 その十一)

 これまで見てきたように、尊号事件は、すでに家康以来二百年近い徳川家の学問的伝統を背景に持つ定信の徹底した朱子学的リゴリズムが、儒学を大らかに受容してきた、徳川家よりはるかに長い歴史と伝統を持つ朝廷を咎めた事件であった。  一方で目を転じてみると、幕府自身を粛正する作用を持つ事件でもあった。  将軍は当時十八歳で、三卿の一つ、一…
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高山彦九郎の場合…松平定信の異端禁制 ③  (「江戸期の学問の大河」 その十一)

尊号事件の処分が終わった頃、一人の草莽の尊王家が自害を遂げている。  林子平、蒲生君平と並んで、寛政三奇士と称された高山彦九郎である。  彦九郎は上野国新田郡細谷村の郷士の家に生まれた。新田十六騎の一人高山重栄の末裔と伝えられている。   十三歳の時に『太平記』を読んで感銘を受け、長じては勤皇家として諸国を遊歴した。 …
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尊号事件…松平定信の異端禁制 ② (「江戸期の学問の大河」 その十一)

定信が非常の覚悟を以て幕政を根本から正す政策に取り組んだ矢先に持ち上がったのが、いわゆる尊号宣下の問題であった。  問題は、光格天皇が実父閑院宮典仁親王に「太上天皇」の尊号を贈りたいと言い出したことからはじまった。光格天皇は、二十二歳の若さで崩御された先代後桃園天皇にその年に生まれたばかりの皇女しかいなかったため、急遽、閑院宮か…
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松平定信の異端禁制 ①(「江戸期の学問の大河」 その十一)

 松平定信が老中主席に抜擢される以前、幕政を牛耳ったのは、あの金権政治で悪名高い田沼意次であった。  田沼時代は幕府の財政再建を課題とする時代で、重商政策を取ったことから贈収賄が横行したとされる。が、これは幕府保守派から見ての批判で、政治家としては開明的な政策を採用した一種の豪傑であった。彼の父は紀州藩の足軽で吉宗が部屋住みだった時代…
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宝暦事件顛末…朝廷の異端排除  (「江戸期の学問の大河」 その九)  

 山崎闇斎は江戸初期の民間儒者である。  彼はその学問を禅からスタートしたが、朱子学に接するに及んで、これを棄て、「朱子を学んで謬(あやま)らば、朱子とともに謬るなり。何の遺憾かこれあらん」とまで言って、朱子に傾倒していった。朱子学を批判した仁斎の住居、後の古義堂の、堀川を挟んで対岸側に塾を開き、学問的に対峙したのは象徴的である。 …
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異端の禁制へ (「江戸期の学問の大河」 その八)

 朱子学を根底から批判した古義学・古文辞学、儒学そのものを根底から批判した国学の盛行は、ニーチェが「ルターは教会を再興したのであった、つまり彼は教会を攻撃したからだ」と喝破したように、朱子学を再興し、学問新展開の契機となっていくことになる。  その意味ではカトリックとプロテスタントの関係に似ている。 また次のような比較も可能…
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「やまとごころ」の極北 本居宣長 (「江戸期の学問の大河」 その七)

 しき嶋の やまとごころを 人とはば 朝日ににほふ 山ざくら花   国学史上、後世に最も影響を及ぼした人物といえばやはり、賀茂真淵の弟子で、この有名な和歌の作者である本居宣長であろう。  その宣長の養子大平の書いた「恩頼図(みたまのふゆず)」というものがある。  大平が養父にして師である宣長の学問をある人に説明するため…
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豪傑儒・荻生徂徠 (「江戸期の学問の大河」 その六)

 徳川綱吉が抜擢した学者の中に、側近柳沢吉保の家来であった荻生徂徠がいる。まだ朱子学の影響下にあった徂徠だが、綱吉の在職中に起きた赤穂浪士の処分には徂徠の意見が採用されるなど、学者としての見識にはすでにただならぬものがあった。綱吉の死後、藩命により綱吉の伝記『憲廟実録』の編纂に関わっている。  徂徠は幼少の頃、林羅山の三男春斎、そ…
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犬公方・徳川綱吉の仁政 (「江戸期の学問の大河」その五)

 伊藤仁斎(寛永4年から宝永2年【1627-1705】)の思索が最も充実した時期は、「犬公方」こと、五代将軍徳川綱吉の治世(延宝8年から宝永6年まで在職【1680―1709】)に大きく重なる。  実は、江戸にいるこの特異な天下人は、仁斎と同じ観点から、すなわち仁義、慈愛の観点から天下を変えようと大胆な改革に臨もうとしていたのである。 …
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伊藤仁斎の国体観 (「江戸期の学問の大河」その四)

 朱子学に対する批判から興ったいわゆる陽明学への傾倒から、林家から異端視されるに至った人物として、「近江聖人」こと中江藤樹や熊沢蕃山がいる。彼らは自立的な学問の道を切り拓いた人たちであるが、より徹底して、後世に大きな影響を与えた人物として、ここでは伊藤仁斎を取り上げたい。    仁斎は京都の材木商の息子で、終生、京都を離れず、市井に…
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水戸学の源流 光圀の屈折 (「江戸期の学問の大河」その三)

 全てが全てというわけではないが、シナの学問である朱子学に傾倒した儒者が神道的なものと習合していくのは不思議といえば不思議である。  朱子は文弱で知られた宋朝の学者。  宋王朝は満州地方より興った金の圧迫を受け、南方に逼塞し(南宋)、ついでモンゴル地方より興った元に攻め滅ぼされた王朝だった。文化の中心、世界の中心である中華が野蛮…
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徳川家康の側近が遺した思想書 (「江戸期の学問の大河」その二)

 江戸時代初期には、家康のブレーンが著したとされる書物が、世間に流布した。豊国廟の社僧にして吉田神道との関係も深い神龍院梵舜が著したと推定される『心学五倫書』、藤原惺窩(梵舜の実兄・吉田兼見の猶子であった)が著したとされる『仮名性理』、家康の政治面における顧問であった本田佐渡守正信が二代将軍秀忠の求めに応じて著したとされる『本佐録』など…
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徳の川の源流 (「江戸期の学問の大河」 その一)

 政治学者渡辺浩氏の『日本政治思想史[十七~十九世紀]』によれば、「儒学は、人類がこれまで築いた、おそらく最強の体系的政治イデオロギーである」という。 氏は続ける。 「それは、孔子によって大成されて以後、他の諸思想潮流との抗争に徐々に勝利し、紀元前から二千年以上の永きにわたり、ほぼ一貫して、世界屈指の大帝国の正統思想として君…
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ニーチェが登った階段

西尾幹二氏によると 「最近の世の中は余りにも物事を簡単に考える人が多くなっている。ニーチェはニーチェを読む人に自らの体験を求めている。ニーチェはまず自分の読者であることを止めよと言っている。読者はニーチェを読解するのではなく、ニーチェを読むことを通じて、自分自身とは何であるかを再体験せよと言っている。」 ということだ…
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皇室と『論語』 【五】   (「西尾幹二氏への数言 (六)」)

紀貫之は「仮名序」で、和歌の作用の一つに、鬼神をあはれと思わせる、つまり鬼神を感動せしむる、と述べたわけだが、『論語』にはこの鬼神について孔子が論じた数条がある。  ある弟子が孔子に知を問うた。  子曰く、民の義を務め、鬼神を敬して之を遠ざく、知と謂うべし。  「義務」「敬遠」の出典である。  ま…
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日本文明の二重性

 西尾幹二氏を中心とする現代史研究会メンバーによる討論を見て、興味深いことが語られていたので紹介したい。  西尾氏自身、歴史は未来から来るものであり、我々が動けば歴史は動く、というだけあって、現在の国際政治を意識しながら、歴史を深く掘り下げた内容の濃い討論となっている。 1/3【現代史研究会SP】「反日の米中連携」その実態と…
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転がらぬ岩

 西尾幹二氏の一言に端を発して書き始めた「皇室と『論語』」はようやく核心に入ろうとしているが、文章がなかなかまとまらない。  この内容は『西郷南州伝』を書いているうちに、すなわち明治維新という故き事を温めるうちに心の中に醸成されてきた日本の国体観、文明観であって、いずれ書かなければならないと思ってはいたものの、まだまだ先のつもりで…
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