征韓論 【西郷南洲翁遺訓解説】 第十八条 ③

③征韓論  道理に基づく一致一和を目指すという、島津斉彬より継承された政治方針は、文明開化、明治の御代となっても変わっていない。  明治四年七月に廃藩置県が行われたが、これは王土王民思想に基づいてなされた明治二年の版籍奉還の徹底化であり、かなり急進的な改革であったが、薩長を中心とする兵の睨みが効いただけではなく、道理であるからこそ、…
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談、国事に及びし時… 【西郷南洲翁遺訓解説】 第十八条 ②

【遺訓第十八条】解説②「幕末の王政復古倒幕運動」  江戸時代の國體論の精髄ともいえる島津斉彬の、皇室を中心にした道理に基づく「和」の政治・政事は、島津久光や南洲翁によってそれぞれに継承された。ここで一言付け加えておかなければならないのは、現代の一般的日本人が「和」という言葉で連想することの内容は、実は「同」であって「和」ではないこ…
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国の凌辱せらるるに当りては… 【西郷南洲翁遺訓解説】 第十八条 ①

談、国事に及びし時、慨然として申されけるは、国の凌辱せらるるに当りては、たとえ国を以て斃るるとも、正道を踏み、義を尽くすは政府の本務なり。然るに平日金穀理財の事を議するを聞けば、如何なる英雄豪傑かと見ゆれども、血の出る事に臨めば、頭を一処に集め、ただ目前の苟安を謀るのみ。戦の一字を恐れ、政府の本務を堕しなば、商法支配所と申すものにて、さ…
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正道を踏み、国を以て斃るる・・・ 【西郷南洲翁遺訓】 第十七条

正道を踏み、国を以て斃るるの精神なくば、外国交際は全かるべからず。彼の強大に畏縮し、円滑を主として、曲げて彼の意に順従する時は、軽侮を招き、交親却って破れ、終に彼の制を受くるに至らん。 (大意)正しい道を踏み、いざとなれば国の命運を賭して戦うぐらいの覚悟がなければ、外国との対等の交際関係を維持することはできない。相手国の強大さ…
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節義廉恥を失いて、国を維持するの道決してあらず 【西郷南洲翁遺訓解説】 第十六条

節義廉恥を失いて、国を維持するの道決してあらず、西洋各国同然なり。上に立つ者下に臨みて利を争い義を忘るる時は、下皆これに倣い、人心忽ち財利にはしり、卑吝の情日々長じ、節義廉恥の志操を失い、父子兄弟の間も銭財を争い、相讐視するに至るなり。かくの如く成り行かば、何を以て国家を維持すべきぞ。  徳川氏は将士の猛き心を殺ぎて世を治めしかども、…
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常備の兵数もまた… 【西郷南洲翁遺訓】 第十五条

常備の兵数もまた、会計の制限に由る。決して無根の虚勢を張るべからず。兵気を鼓舞して精兵を仕立てなば、兵数は寡(すくな)くとも、折衝禦侮ともに事欠くまじくなり。 (大意)常備軍の兵数も、他の事業同様、予算の制限を超えてはならない。虚勢を張って、根拠のない軍備の拡張をしてはならない。兵の正気を鼓舞して精兵に育て上げれば、兵数は少な…
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会計出納は制度の由って立つ所… 【西郷南洲翁遺訓】 第十四条

会計出納は制度の由って立つ所、百般の事業皆これより生じ、経綸中の枢要なれば、慎まずばならぬなり。その大体を申さば、入るを量りて出ずるを制するほか更に術数なし。一歳の入るを以て百般の制限を定め、会計を総理する者、身を以て制を守り、定制を超過せしむべからず。しからずして時勢に制せられ、制限を慢(みだり)にし、出ずるを見て入るを量りなば、民の…
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租税を薄くして、民をゆたかにするは… 【西郷南洲翁遺訓解説】 第十三条

租税を薄くして、民を裕(ゆたか)にするは、すなわち国力を養成するなり。故に国家多端にして財用の足らざるを苦しむとも、租税の定制を確守し、上を損じて下を虐げぬものなり。よく古今の事跡を見よ。道の明かならざる世にして、財用の不足を苦しむ時は、必ず曲知小慧の俗吏を用い、巧みに聚斂(しゅうれん)して一時の欠乏に給するを理財に長ぜる良臣となし、…
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謹賀新年

 新年あけましておめでとうございます。  本年が、日本にとって、また皆様にとって、実多き年となりますように。  本年中には、鋭意執筆に取り組んできた、ここ数年の論考の集大成である『日本人と論語』もいよいよ完成できるかと思います。  戦後生まれの新たな視点からの國體論として、できるだけ読みやすく、と考えて、まとめておりますの…
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西洋の刑法は… 【西郷南洲翁遺訓解説】 第一二条

西洋の刑法は専ら懲戒を主として苛酷を戒め、人を善良に導くに注意深し。故に囚獄中の罪人をも、如何に緩やかにして鑒戒となるべき書籍を与え、事に因りては親族朋友の面会をも許すと聞けり。尤も聖人の刑を設けられしも、忠孝仁愛の心より鰥寡(かんか)孤独を愍(あわれ)み、人の罪に陥るを恤(うれ)い給いしは深けれども、実地手の届きたる今の西洋の如くに…
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文明とは… 【西郷南洲翁遺訓解説】 十一条

文明とは道の普く行わるるを賛称せる言にして、宮室の荘厳、衣服の美麗、外観の浮華を言うには非ず。世人の唱うる所、何が文明やら、何が野蛮やらちっとも分からぬぞ。予嘗て或人と議論せしこと有り。西洋は野蛮じゃと云いしかば、否文明ぞと争う。否野蛮じゃと畳みかけしに、何とてそれ程に申すにやと推せしゆえ、実に文明ならば、未開の国に対しなば、慈愛を本と…
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人智を開発するとは… 【西郷南洲遺訓解説】 第十条

人智を開発するとは、愛国忠孝の心を開くなり。国に尽くし、家に勤むるの道明らかならば、百般の事業は従て進歩すべし。あるいは耳目を開発せんとて、電信を懸け、鉄道を敷き、蒸気仕掛けの器械を造立し、人の耳目を聳動すれども、何故、電信鉄道のなくては叶わぬぞ、欠くべからざるものぞ、というところに目を注がず、みだりに外国の盛大を羨み、利害得失を論ぜず…
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忠孝仁愛教化の道は… 【西郷南洲翁遺訓解説】 第九条

忠孝仁愛教化の道は政事の大本にして、万世に亘り宇宙に弥(わた)り易(か)うべからざるの要道なり。道は天地自然の物なれば、西洋と雖も決して別なし。 (大意)人々を忠孝、そして仁愛の道に教え導くことは政事の大本であり、永遠にして普遍の人間秩序の要(かなめ)となる道である。道は天地とともにある自然のものであるから、西洋においても同じ…
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広く各国の制度を採り、開明に進まんとならば… 【西郷南洲翁遺訓解説】 第八条

 広く各国の制度を採り、開明に進まんとならば、先ず我国の本体をすえ、風教を張り、然して後、徐(しず)かに彼の長所を斟酌するものぞ。否(しか)らずして彼に倣いなば、國體は衰頽し、風教は萎靡して匡救(きょうきゅう)すべからず。遂に彼の制を受くるに至らんとす。 (大意)広く各国の制度を採用し、開明に進もうとするならば、先ずは我が国の体(…
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事大小となく、正道を踏み、至誠を推し… 【西郷南洲遺訓解説】 第七条

 事大小となく、正道を踏み、至誠を推し、一時の詐謀を用うべからず。人多くは事の差し支ゆる時に臨み、作略を用いて、一旦その差し支えを通せば、跡は時宜次第工夫の出来る様に思えども、作略の煩いきっと生じ、事必ず敗るるものぞ。正道を以てこれを行えば、目前には迂遠なる様なれども、先に行けば成功は早きものなり。 (大意)どんな事でも、正道…
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人材を採用するに、君子小人の弁、酷に過ぐる時は… 【西郷南洲翁遺訓解説】第六条

人材を採用するに、君子小人の弁、酷に過ぐる時は却って害を引き起こすものなり。その故は開闢以来世上一般、十に七八は小人なれば、能く小人の情を察し、その長所を取り、これを小職に用い、その才芸を尽くさしむるなり。東湖先生申されしは「小人ほど才芸ありて用便なれば、用いざればならぬものなり。さりとて長官にすえ重職を授くれば、必ず邦家を覆すものゆえ…
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幾たびか辛酸を歴て志始めて堅し… 【西郷南洲翁遺訓解説】第五条

或る時、「幾歴辛酸志初堅 丈夫玉砕愧甎全 一家遺事人知否 不為児孫買美田(幾たびか辛酸を歴て志始めて堅し、丈夫玉砕して甎全を愧ず、一家の遺事人知るや否や、児孫の為に美田を買わず)」との七絶を示されて、若しこの言に違いなば、西郷は言行反したるとて見限られよ、と申されける。 (大意)ある時、翁は「幾たびか辛く苦しい思いをして始め…
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万民の上に位する者… 【西郷南洲翁遺訓解説】第四条

万民の上に位する者、己を慎み、品行を正しくし、驕奢を戒め、節倹を勉め、職事に勤労して人民の標準となり、下民その勤労を気の毒に思う様ならでは、政令は行われ難し。然るに草創の始めに立ちながら、家屋を飾り、衣服を文(かざ)り、美妾を抱え、蓄財を謀りなば、維新の功業は遂げられまじきなり。今となりては、戊辰の義戦も偏に私を営みたる姿に成り行き、天…
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政の大体は、文を興し、武を振るい・・・ 【西郷南洲翁遺訓解説】第三条

政の大体は、文を興し、武を振るい、農を励ますの三つにあり。その他百般の事務は、皆この三つの物を助くるの具なり。この三つの物の中において、時に従い、勢いに因り、施行先後の順序はあれど、この三つの物を後にして他を先にするは更になし。 (大意)政治の根幹は、文(学問・教育)を奨励して盛んにし、軍備を整えて精強な軍隊を作り、農業を奨励して…
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賢人百官を総べ… 【西郷南洲翁遺訓解説】第二条

賢人百官を総べ、政権一途に帰し、一格の国体定制なければ、縦令(たとえ)人材を登用し、言路を開き、衆説を容るる共、取捨方向なく、事業雑駁にして成功あるべからず。昨日出でし命令の、今日たちまち引き易(か)うるという様なるも、皆統轄する所一ならずして、施政の方針一定せざるの致す所なり。 (大意)賢人が多くの官吏を総べ、政治権力が一つとな…
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廟堂に立ちて大政を為すは… 【西郷南洲翁遺訓解説】第一条

廟堂に立ちて大政を為すは天道を行うものなれば、いささかとも私を挟みては済まぬものなり。いかにも心を公平に操り、正道を踏み、広く賢人を選挙し、能くその職に任(た)ゆる人を挙げて政柄を執らしむるは即ち天意なり。それゆえ真に賢人と認むる以上は、直ちに我が職を譲る程ならでは叶わぬものぞ。故に何程国家に勲労あるとも、その職に任(た)えぬ人を官職を…
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西郷隆盛の命日 (平成二十八年九月二十四日)

現在、何か一巡したような気がしている。 本日は西郷南洲翁の命日である。 二〇〇六年に『(新)西郷南洲伝』の上巻を出版してからちょうど十年。 下巻の出版はその二年後の二〇〇八年だったが、それ以降、維新回天の前提となった日本の伝統について掘り下げて考え始めて、先月末にようやく江戸時代の学問の大河を書き終えた。  後期水戸学と…
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国体論者としての山陽…頼山陽 ② (「江戸期の学問の大河」 その十三)

 頼山陽の代表的二著作『日本外史』『日本政記』は後世に大きな影響を及ぼした。  維新回天に大きく貢献するのみならず、彼の国体観から導かれた統帥権の問題は日清、日露と続く、明治日本の軍事的成功に大きく貢献し、明治憲法に規定された統帥権理解・運用の前提知識となっていたし、これを忘れた昭和の指導者たちの「統帥権干犯」問題という混乱を引き起…
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名文家としての山陽…頼山陽 ① (「江戸期の学問の大河」 その十三)

老中を辞した松平定信は、白河藩の藩政に専念し、善政を行って領民に名君として慕われたが、文化九年(一八一二)、家督を長男に譲って、隠居生活に入ってからは、藩政を掌握しつつも、楽翁と称し、文芸を愛し、花鳥風月を楽しみながら悠々自適の生活を行っていた。  文政十年(一八二七)、六十八歳の時、ある文士の名声を耳にし て、その著作を求めた。 …
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藤田東湖…後期水戸学 ③ (「江戸期の学問の大河」 その十二)

 藤田東湖は幕末、水戸藩公の懐刀として活躍し、戸田篷軒と並んで水戸の両田と称された。幕末の水戸藩を代表する人物の一人である。  東湖は幽谷の次男であるが、長男が早世したため、嗣子として育てられ、この偉大な父からは大きな学問的影響を受けた。文政七年、イギリスの捕鯨船員が大津浜に上陸した際には、父からイギリス兵を斬るよう密命を受け、死を…
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会沢正志斎…後期水戸学 ② (「江戸期の学問の大河」 その十二)

 藤田幽谷は水戸学中興の人物であった。  われわれが幕末を動かした尊王攘夷運動の源泉としての水戸学として想起する思想内容は、幽谷とその弟子たちによって作られたものを指すが、その代表的なものが会沢正志斎『新論』であり、徳川斉昭『弘道館記』であり、これを説明補足した藤田東湖『弘道館記述義』である。これらの書物は志士たちに広く読まれた。 …
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藤田幽谷…後期水戸学 ①(「江戸期の学問の大河」 その十二)

 定信が幕政改革に従事した頃の水戸学の質的変化について話を移していきたい。  光圀の死後、正徳五年(一七一五)に「本紀」七三巻・「列伝」一七〇巻が脱稿し、光圀以来の彰考館員で、その死後中心的役割を担ってきた、「格さん」のモデルとされる安積澹泊が元文二年(一七三七)に死去すると、修史事業は休止状態に陥った。しかし、第六代藩主治保(は…
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定信の出処進退…松平定信の異端禁制 ④ (「江戸期の学問の大河」 その十一)

 これまで見てきたように、尊号事件は、すでに家康以来二百年近い徳川家の学問的伝統を背景に持つ定信の徹底した朱子学的リゴリズムが、儒学を大らかに受容してきた、徳川家よりはるかに長い歴史と伝統を持つ朝廷を咎めた事件であった。  一方で目を転じてみると、幕府自身を粛正する作用を持つ事件でもあった。  将軍は当時十八歳で、三卿の一つ、一…
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高山彦九郎の場合…松平定信の異端禁制 ③  (「江戸期の学問の大河」 その十一)

尊号事件の処分が終わった頃、一人の草莽の尊王家が自害を遂げている。  林子平、蒲生君平と並んで、寛政三奇士と称された高山彦九郎である。  彦九郎は上野国新田郡細谷村の郷士の家に生まれた。新田十六騎の一人高山重栄の末裔と伝えられている。   十三歳の時に『太平記』を読んで感銘を受け、長じては勤皇家として諸国を遊歴した。 …
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今上陛下の「生前退位」報道

 今上陛下の「生前退位」報道が大手主要メディアを通じて一斉に報道されたのが、7月13日のこと。  報道を最初に読んだ時、衝撃を感じたのだが、陛下の高齢を思えば無理もないと思った。ほとんどの国民がそう思ったのではなかっただろうか。  一つ引っかかったのはNHKの報道が最初であったということである。  情報そのものの信ぴょう性が疑…
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尊号事件…松平定信の異端禁制 ② (「江戸期の学問の大河」 その十一)

定信が非常の覚悟を以て幕政を根本から正す政策に取り組んだ矢先に持ち上がったのが、いわゆる尊号宣下の問題であった。  問題は、光格天皇が実父閑院宮典仁親王に「太上天皇」の尊号を贈りたいと言い出したことからはじまった。光格天皇は、二十二歳の若さで崩御された先代後桃園天皇にその年に生まれたばかりの皇女しかいなかったため、急遽、閑院宮か…
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松平定信の異端禁制 ①(「江戸期の学問の大河」 その十一)

 松平定信が老中主席に抜擢される以前、幕政を牛耳ったのは、あの金権政治で悪名高い田沼意次であった。  田沼時代は幕府の財政再建を課題とする時代で、重商政策を取ったことから贈収賄が横行したとされる。が、これは幕府保守派から見ての批判で、政治家としては開明的な政策を採用した一種の豪傑であった。彼の父は紀州藩の足軽で吉宗が部屋住みだった時代…
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明和事件 (「江戸期の学問の大河」 その十)

京都を追放された竹内式部は、伊勢内宮の権禰宜・蓬莱尚賢を頼って伊勢宇治に赴き、家来の鵜飼又太夫宅に寄寓した。  蓬莱尚賢は和漢の学問に造詣深く、賀茂真淵や本居宣長に師事した人物で、のちに(安永二年、一七七二)『古事記伝』を精読して感銘を受けている。彼はまた、宣長の思想への影響を図示した「恩頼図」にあった、伊勢の垂加神道系国学者・…
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宝暦事件顛末…朝廷の異端排除  (「江戸期の学問の大河」 その九)  

 山崎闇斎は江戸初期の民間儒者である。  彼はその学問を禅からスタートしたが、朱子学に接するに及んで、これを棄て、「朱子を学んで謬(あやま)らば、朱子とともに謬るなり。何の遺憾かこれあらん」とまで言って、朱子に傾倒していった。朱子学を批判した仁斎の住居、後の古義堂の、堀川を挟んで対岸側に塾を開き、学問的に対峙したのは象徴的である。 …
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異端の禁制へ (「江戸期の学問の大河」 その八)

 朱子学を根底から批判した古義学・古文辞学、儒学そのものを根底から批判した国学の盛行は、ニーチェが「ルターは教会を再興したのであった、つまり彼は教会を攻撃したからだ」と喝破したように、朱子学を再興し、学問新展開の契機となっていくことになる。  その意味ではカトリックとプロテスタントの関係に似ている。 また次のような比較も可能…
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「やまとごころ」の極北 本居宣長 (「江戸期の学問の大河」 その七)

 しき嶋の やまとごころを 人とはば 朝日ににほふ 山ざくら花   国学史上、後世に最も影響を及ぼした人物といえばやはり、賀茂真淵の弟子で、この有名な和歌の作者である本居宣長であろう。  その宣長の養子大平の書いた「恩頼図(みたまのふゆず)」というものがある。  大平が養父にして師である宣長の学問をある人に説明するため…
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豪傑儒・荻生徂徠 (「江戸期の学問の大河」 その六)

 徳川綱吉が抜擢した学者の中に、側近柳沢吉保の家来であった荻生徂徠がいる。まだ朱子学の影響下にあった徂徠だが、綱吉の在職中に起きた赤穂浪士の処分には徂徠の意見が採用されるなど、学者としての見識にはすでにただならぬものがあった。綱吉の死後、藩命により綱吉の伝記『憲廟実録』の編纂に関わっている。  徂徠は幼少の頃、林羅山の三男春斎、そ…
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犬公方・徳川綱吉の仁政 (「江戸期の学問の大河」その五)

 伊藤仁斎(寛永4年から宝永2年【1627-1705】)の思索が最も充実した時期は、「犬公方」こと、五代将軍徳川綱吉の治世(延宝8年から宝永6年まで在職【1680―1709】)に大きく重なる。  実は、江戸にいるこの特異な天下人は、仁斎と同じ観点から、すなわち仁義、慈愛の観点から天下を変えようと大胆な改革に臨もうとしていたのである。 …
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伊藤仁斎の国体観 (「江戸期の学問の大河」その四)

 朱子学に対する批判から興ったいわゆる陽明学への傾倒から、林家から異端視されるに至った人物として、「近江聖人」こと中江藤樹や熊沢蕃山がいる。彼らは自立的な学問の道を切り拓いた人たちであるが、より徹底して、後世に大きな影響を与えた人物として、ここでは伊藤仁斎を取り上げたい。    仁斎は京都の材木商の息子で、終生、京都を離れず、市井に…
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大東亜戦争と「宋襄の仁」

「端的に言えば、大東亜戦争は罪悪なのではなく、失敗だった」 保守思想家の福田恒存はそう言った。  大東亜戦争の道義性についてはすでに触れたが、一方で、当時の世界が、列強が生き残りを懸けて合従連衡を行い、サバイバルを展開する、いわば戦国時代であった、という見方をするならば、日本は降伏した以上、敗北したわけだから、戦略的には過…
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「硫黄島からの手紙」と「父親たちの日章旗」

 世界を驚愕させた日露戦争における日本の勝利。  これは、有色人種の全ての奴隷化を目指す、白色人種の社会を震撼させた。  彼らは日本を脅威視するようになった。  それは特にアメリカにおいて著しかったのである。  硫黄島における抗戦において、市丸利之助海軍中将は、玉砕を前にして、ルーズベルトに手紙を書いて次のように言っ…
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市丸利之助海軍中将の「ルーズベルトに与うる書」

 大東亜戦争は、アメリカが悪い。  戦争勃発の要因を探っていって、「えんだんじ」先生はそういった結論を出された。  もちろん、戦争である以上、双方にお国の事情があり、双方の正義が掲げられることになる。  アメリカが掲げる大義名分はいつの時代の戦争でも大体想像がつく。  自由・平等・人権や民主主義といった価値である。 …
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書評 『大東亜戦争は、アメリカが悪い』 鈴木敏明著 (勉誠出版)  (その壱)

 『大東亜戦争は、アメリカが悪い』の著者・鈴木敏明氏は日本の再生に執念を燃やす、先輩にして同志の「えんだんじ(炎男爺)」である。  そんじょそこらの壮年、青年よりよほど熱い。  「えんだんじ」先生は一九三八年生まれの外資系の定年サラリーマン。  私の父と同年代である。  三十を過ぎた頃から、戦前・戦中の日本のすべてが…
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書評 鈴木敏明 『えんだんじ 戦後昭和の一匹狼』

 最近体調を崩していて、自分のテーマを追い続ける気力を失っていたこともあって、気分転換に鈴木敏明氏の自伝小説『えんだんじ 戦後昭和の一匹狼』(文芸社)を読んだ。昨年の夏に贈呈されて、読まなければと思いつつ、なかなか読めないでいた本だ。  興味もあったこともあって、360ページの長編にもかかわらず、二日の内に読み終えることができた。…
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水戸学の源流 光圀の屈折 (「江戸期の学問の大河」その三)

 全てが全てというわけではないが、シナの学問である朱子学に傾倒した儒者が神道的なものと習合していくのは不思議といえば不思議である。  朱子は文弱で知られた宋朝の学者。  宋王朝は満州地方より興った金の圧迫を受け、南方に逼塞し(南宋)、ついでモンゴル地方より興った元に攻め滅ぼされた王朝だった。文化の中心、世界の中心である中華が野蛮…
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徳川家康の側近が遺した思想書 (「江戸期の学問の大河」その二)

 江戸時代初期には、家康のブレーンが著したとされる書物が、世間に流布した。豊国廟の社僧にして吉田神道との関係も深い神龍院梵舜が著したと推定される『心学五倫書』、藤原惺窩(梵舜の実兄・吉田兼見の猶子であった)が著したとされる『仮名性理』、家康の政治面における顧問であった本田佐渡守正信が二代将軍秀忠の求めに応じて著したとされる『本佐録』など…
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徳の川の源流 (「江戸期の学問の大河」 その一)

 政治学者渡辺浩氏の『日本政治思想史[十七~十九世紀]』によれば、「儒学は、人類がこれまで築いた、おそらく最強の体系的政治イデオロギーである」という。 氏は続ける。 「それは、孔子によって大成されて以後、他の諸思想潮流との抗争に徐々に勝利し、紀元前から二千年以上の永きにわたり、ほぼ一貫して、世界屈指の大帝国の正統思想として君…
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江戸時代の学問の大河

昨年末に更新した記事「ニーチェが登った階段」に次のように書いた。 「しかし、われわれにとって、あちらより、こちらの階段のほうが重要である。  遠くに霞む山々へと続く尾根に築かれた、あるいはこれから築かれようとしている階段である。  これはおのおのが自分の足で歩いて築くほかない階段であるが、われわれはあくまでも歩いて築く…
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ニーチェが登った階段

西尾幹二氏によると 「最近の世の中は余りにも物事を簡単に考える人が多くなっている。ニーチェはニーチェを読む人に自らの体験を求めている。ニーチェはまず自分の読者であることを止めよと言っている。読者はニーチェを読解するのではなく、ニーチェを読むことを通じて、自分自身とは何であるかを再体験せよと言っている。」 ということだ…
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本当の意味での日本の復興

 出典を明らかに出来ないが、昭和天皇は戦後日本の復興は250年かかるといわれたという。  戦後70年の今日、安倍首相が様々な牽制を受けながらようやく公表した談話を読むと、昭和天皇のご心配は決して杞憂ではなかった。そんな気にさせられる。  昭和天皇の御心を忖度するのは本来なら慎むべきことであるが、やはり重大な予言であることには変わ…
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