安倍首相への御忠言

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 安倍首相が靖国神社における秋の例大祭の参拝を見合わせた。
 痛恨の極みである。

 かつて首相は別の問題でだが、『孟子』の言葉を引用して「千万人といえどもわれ往かん」と自身の覚悟を述べたことがある。
 だが、千人、万人まではオーケーでも、桁が違えば、見合わせるということであろうか。首相の靖国公式参拝の問題はわが国の「神」の問題であり、「仁」の問題である。これを牽制してくる隣国の「不仁」の背後には、かの国の、万とは桁違いの反日教育を受けた大衆が控えている。
 今回はそれに屈したことになる。
 いずれ首相自身が再び「痛恨の極み」を痛感させられることになろう。

 この参拝見合わせの報道を受けて、小堀桂一郎氏が、前政権時代の不参拝時に、天罰が下らなければいいのですが、と述べていて、その心配が的中し、今回もそうなることを心配しておられた。
 水島総氏は、再就任前の主張と異なる言動をなすようになった首相が、フランシス・フォード・コッポラ監督の名作「ゴッド・ファーザー」のマイケル・コルレオーネに自身を重ね合わせて、自己陶酔に浸っている、と指摘している。

 そこで二十年ぶりぐらいだろうか、かつて繰返し見、小説まで手にしたこの名作を久しぶりに観直した。
 そして、改めてこの作品のできばえに感心し、その感動を新たにした。
 まさに古典的名作といっていいだろう。

 かつての感動は主に情緒的なものだったが、今回はその内容の深さに感動したように思える。
 そして、感動ばかりでなく、さらに批判的な視点で見ることができたことが新たな収穫であった。

 結論から先に言えば、安倍首相の自己の立場のマイケル・コルレオーネへの重ね合わせは、見当違い、お門違いであり、彼の目的である「戦後レジュームからの脱却」「美しい日本」「日本を取り戻す」ことも、すべてを失わせかねない錯誤であり、自己陶酔である、ということである。


 「ゴッド・ファーザー」は三部作で、パートⅠは、幼少の身で単身イタリアからアメリカに渡ってきて、悲惨な境遇から苦労を重ねて大マフィアを一代で築き上げたドン・ビトー・コルレオーネの事業を、ファミリー存続の危機の中で、三男のマイケルが継ぐ話である。パートⅡでは、ドンとしてのマイケルの奮闘と、若き日の父・ビトーの苦労が交互に重ねあわされ、いわば創業と守成の対比がストーリーの根幹をなしている。

 安倍首相は日本という国家を守るために、国民の意に反する増税や新自由主義的経済政策を行う自分を、ファミリーを守るために犯罪に手を染めていくマイケル・コルレオーネに重ね合わせているらしい。
 安倍首相がこの作品をどこまで理解しているか分らないが、もしそうだとしたら、かれの掲げた美しいスローガンは看板倒れで終ることは間違いないだろう。
 映画に教訓を探し出すことは愚かなことかもしれないが、それでもこの映画を支えているのは何も、俳優陣の名演やニーノ・ロータの名曲ばかりではない。テーマの普遍性とリアリティーである。だからこそ、マフィア映画の枠を超えて、多くのフォロワーを生む大人の名作であり続けているのだろう。
 その古典的名作が、登場人物への自己投影を通じて、その自己投影者自身のリアリティを支えているとしたら、映画のリアリティは現実にも大きな影響を及ぼす。もし、安倍首相が現在の自身の立場を、マイケル・コルレオーネに重ね合わせているとしたら、日本社会のリアリティにも大きな影響力を及ぼしていることになるのである。

 政治家は現実と戦わなければならない仕事だ。特に理想を抱き。それを掲げる政治家ほどそうである。

 マイケル・コルレオーネという明晰な頭脳と決断力に富んだ沈毅な人物はそもそも、父のマフィアの仕事を嫌い、大学に進学し、ワスプ(WASP;ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント)の女性と付き合い、アメリカ人としてまっとうな人生を歩もうとしていた人物である。移民二世として、その国のまっとうな国民になりきろうと努める典型的な人物として描かれている。父ビトーもこの三男には、長男・次男と違って、表の世界での成功を望んでいる。

 そんな彼が、大日本帝国の真珠湾攻撃に義憤を感じ、海軍に志願し、その勇敢な行動で英雄となって帰ってきた。
 パートⅡの最後は非常に印象的な回想で終るのだが、国というものに対し不信で、ファミリーというものを大事にしてきたビトーは外出中、子供達は父の誕生パーティーをこっそり準備して驚かしてやろうという趣向で家に集まり、父の帰りを待っている。その時、テーブルでは日本の真珠湾攻撃が話題になる。長男ソニーは日本を馬鹿呼ばわりし、次男フレドは石油を止めたからだろうと理解を示す。これに対し、マイケルは、自ら軍に志願したことを打ち明ける。これを聞いた短気なソニーは、オヤジの気持ちを無駄にしやがって、とマイケルにつかみかかり、フレドがこれを止めに入る。そこにビトーが帰ってきて、家族皆で出迎えに玄関に向かうが、マイケルだけは一人取り残されて、物思いに沈んでいる。
 そういうエンディングである。

 マイケルは終始、愛情深く、決断力に富み、正義感・義務感の強い人物として描かれている。政治家に踊らされるのを厭い、ファミリーのために戦ってきた父からすれば、赤の他人のために戦って英雄となって帰ってきたマイケルが理解できない。確かに、現在判明している史実に照らして、マイケルは、共産シンパで「戦争屋」と呼ばれたフランクリン・ルーズベルト大統領に踊らされた「善良な」アメリカ国民であったといえるだろう。

 その彼が、ソロッツォという麻薬密売人の登場が発端となったニューヨーク五大マフィアの抗争に巻き込まれていくことになるのだが、このソロッツォによる父ビトーの暗殺未遂事件に直面し、マイケルは父への愛に目覚め、ファミリーを守るために立ち上がることを決意する。そして、ソロッツォ殺害という犯罪行為に手を染めることになるのだ。

 物語は輻輳するが、要するにマイケルはドンの地位を継ぎ、「神」を欺き、自分を欺き、擬似血縁関係としての犯罪組織コルレオーネ・ファミリーの敵を抹殺していくことでこれを守り、発展させていく。裏切り者もまた血の掟によって殺される。その過程で、敵に寝返った妹コニーの夫カルロを消し、裏切る気はなかったにせよ、弱さゆえ敵に利用され、結果的にマイケルを危機に陥れた兄フレドをも消す。
 そのことによって、マイケルは本当のファミリー(家族)を失っていくことになるのである。

 彼はファミリーのドンとして、古代ローマの皇帝のような非寛容のカリスマとしての独裁権力を築き上げたが、そのことによって、マフィアという擬似血縁組織としてのファミリーと真の血縁関係としてのファミリーに心を引き裂かれることになったのだ。
 もちろん、イタリア移民としてにせよ、アメリカ国民としてにせよ、彼らの家庭を成立せしめている価値規範は、キリスト教である。彼はそれに背いた。
 彼は抜け目なく利巧であったが、自分が裏社会の人間であることをわきまえていた父ビトーと違って、賢明とはいえなかったのである。

 パートⅢは名作とはされていない。
 テーマがマイケルの老衰であり、贖罪である以上、パートⅠ、パートⅡに漲る緊張感がみられるはずもなく、無理もないが、それでもテーマは継続している。
 パートⅢにおいて、それまで孤独と矛盾にじっと耐えてきたマイケルは自らが犯した罪に苛まれるのだ。そして、神への贖罪を願うようになる。
 
 彼が生涯をかけて目指した上の表世界は、近づけば近づくほど汚れた世界であることを思い知らされ、一方足元を見れば、自らが手を切ろうとした裏社会はその足首を強くつかんで離さない。
 マイケルはふとしたことから懺悔を行い、ドンの地位を、長兄ソニーの遺児ヴィンセントに譲り渡し、引退する。
 しかし、大きな代償を払わされる事になる。
 息子はアメリカの表社会での成功ではなく、イタリアでオペラ歌手としての成功への道をつかむが、その初舞台のオペラハウスで、自分の身代わりとして娘を暗殺者に殺されるはめになるのである。
 そして、数年後、父ビトーとは違い、マイケルは孤独な死を迎えることになる。
 それがこの映画のエンディングである。

 簡単に言えば、マイケルはファミリーの危機に直面し、イタリア人としてのアイデンティティに目覚め、ファミリーを守るという目的のために、手段を択ばぬマフィアの流儀に遵った。そして、そのために、その守るべき最も大事なファミリーを失い、目指した理想さえ達成できないのである。
 強者であるはずの彼の苦悩はそこにある。
 彼は父ビトーが彼に望んだごとく、また若かった彼が目指し、妻に約束したごとく、日の当る表社会での成功を目指し、マフィアの影を振り払おうと勉めるが、影は彼に付きまとい、離れようとはしない。
 これは当然で、彼の犯した罪であり、それは彼自身の影であるからだ。


 安倍首相が祖父・岸信介の志を継いで、戦後レジュームの打破を目指し、その目的のために手段を択ばない。それが政治だ。そういいたくなるのは分る気がする。

 しかし、おそらくそういったやり方では達成できまい。
 なぜなら、日本は犯罪国家の濡れ衣を着せられたのであって、犯罪国家ではなかったからだ。奇しくもイタリア・フィレンツエの外交官にして政治思想家のニコロ・マキャヴェッリが説いた「目的は手段を正当化する」という、いわゆるマキャベリズムではだめである。彼が一つの理想を見出した、マキャベリズムの実践者、政治家のチェーザレ・ヴォルジアがイタリア統一の夢に敗れたように。
 むしろ、正しい手段によってこそ目的は正当化されるのである。

 本来なら、安倍首相がやるべきことは衆参両院の選挙に勝って、国民の支持を得たものとして、それで満足し、官僚や諸外国と繋がった勢力と妥協することではなく、国民の支持を背景に、戦後レジュームと対決することだろう。そうでなければ、「美しい日本」を取り戻すことなど覚束ない。
 靖国参拝の問題はその試金石となるものであったが、彼は「知」に、利巧な振る舞いに走ってしまったようである。

 マイケルに「神」罰が下ったように、安倍首相にも再び「天」罰が下るのだろうか。

 今度「ゴッド・ファーザー」の沈毅で怜悧なマイケル・コルレーネを見ていて、外遊以後の明治国家の重鎮・大久保利通を連想してしまった。もちろん大久保利通は家族のためにではなく、公のために命を投げ出した、義務感の強い人間であり、犯罪組織の一員でも、暗殺を行うような人物ではない。いざというとき、堂々と戦える人物である。しかも家庭では良き父であった。
 しかし、見方を変えれば、幕末の幕府や会津にとっては、藩の治外法権を隠れ蓑に、討幕を推し進めた政治犯罪者であった。罪に問われることがなかったのは、幕府の転覆に成功したからである。この点は西郷南洲も木戸孝允も変わらない。

 ではその尊皇討幕運動は正しい手段、手続きによってなされたのか。『(新)西郷南洲伝(上)』、続く未刊の中巻で考えたのはそのことである。
 それを踏まえた上でなければ、いわゆる征韓論破裂、西南戦争の意義は問えないからである。

 明治になり、新生日本の建設に取り組むなかで、外遊以後の大久保はやや変貌を遂げた。明治六年の政変で、彼は非常に陰険な策謀を仕掛け、政敵を排除した。
 そのことで公論となっていた李氏朝鮮への勅使派遣の決定を覆したため、征韓論者の怒りをかってしまった。
 彼の言うところの「一の秘策」と強い責任感からくるその後の断固とした態度こそが、明治七年から明治十年までつづく、内乱の導火線となったのである。
 彼は政府を、延いては明治維新によって再生に向かい始めた日本を守るためだったというだろう。
 その目的の為には、手段を選んでいられなかったのだ、と。

 しかし、そのことでどれだけ国家にとって有為の人材を失い、日本を傷つけることになったか計り知れない。そして、彼自身もまた、そのリアクションとしての暗殺に斃れることになった。明治十一年、いわゆる紀尾井坂の変である。
 大久保の喪失もまた、日本にとって大きな損失であった。

 西郷南洲の死が、天、われを喪ぼせり、というものだったとしたら、大久保甲東の死はやはり、天罰が下った、と表現すべきものだっただろう。
 目的は必ずしも手段を正当化しないのである。

 西郷南洲が行ったのは政治である。人望を得、心をまとめた。
 大久保が行ったのは政事である。
 彼は世事、人事に拘泥して、政治を見失った。


 事大小となく、正道を踏み、至誠を推し、一事の詐謀を用いるべからず。人多くは事の差し支える時に臨み、作略を用いて一旦その差支えを通せば、跡は時宜次第工夫の出来るように思えども、作略の煩いきっと生じ、事必ず敗れるものぞ。正道を以てこれを行えば、目前には、迂遠なる様なれども、先に行けば成功は早きものなり。

 (遺訓七条)

 
 
 マイケルは金も、地位も、名誉も、権力も得、長寿をまっとうしたが、人生における最も重要なものを守ることは出来なかったのである。
 
 政治家としての資質にあふれる安倍首相の歴史的役割は、やはり世間から「百才あって一誠なし」とみられた最後の将軍・徳川慶喜に似ている。
 もちろん彼に「一誠」がなかったわけではなく、行き詰まった段階で見せた「一誠」が大政奉還であり、江戸帰還後の恭順であった。彼の勤皇の「一誠」は時勢に余儀なくされる形でしか現すことができなかったのである。
 彼がこの天命を受け入れることが出来たのは、ようやく江戸城に赴くことを許された、明治三十一年の明治天皇への拝謁の時であった。

 慶喜は参内の翌日、勝海舟の元を訪れて、次のように語った。

「どこまでも天恩の辱(かたじけな)きに酬(むく)い奉り、祖宗の祀りを絶やさないように勉むる故、この絖(ぬめ)へ『楽天理』と書いてくだされ。」(『氷川清話』)


 これを聞いて喜んだ勝もまた、自分の歴史的使命(天命)は終わったと感じたのである。維新の主役達は日本の過去を背負い、日本の未来のために広い意味での「天道」を行ったのであった。

 安倍首相が何に自己陶酔するにしてもそれは自由だが、素晴らしいスローガンを掲げている以上は、イタリアン・マフィアのドンではなく、せめて日本の伝統の中に自身を位置づけてもらいたいものだ。

 
 古の賢人は言った。


 政治においては、必ず名を正すことだ。
 名が正しくなければ、言葉が適当でなくなり、言葉が適当でなければ事が成らない。事が成らなければ、礼楽(文化)が興らず、礼楽が興らなければ、刑罰が適当でなくなり、人民は安心して暮らせなくなる。
 だから君子はこれに名づければ必ず言うべきであり、言えば必ず行うべきである。君子はその言において苟(いやし)くする所があってはならない。


 安倍首相の選挙公約において正しい名を掲げた。「日本を取り戻す」がそれである。
 しかし、今の安倍氏は言葉において後退するばかりである。これは事の成否に拘泥しているからだろう。彼が行っているのは政事である、とする所以はここにある。これは日本のあり方、古い言葉で言えば「国體」を考えた時に、むしろ事を失敗させるやり方だ。
 首相の歴史的使命の重さを考えた時、日本の歴史は氏に、政事家としてではなく、政治家としての強い自覚を求めているのではないだろうか。

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