『国體』…「敗戦時の記憶 【その六】」

 大東亜戦争末期、日本国民は皇室を中心とする国体を守るために命を投げ出し、天皇はこの国民(おおみたから)を守るために、命を投げ出された。そのことによって、わが国の国体はぎりぎりのところで守られた。
われわれの先人は、天地神明を前にして、その伝統が本物であることを証明したのである。

 それは旧い伝統の死であると同時に、新たな復活でもあった。それも、「神」と人が神の子・イエスを介して契約を新たに結びなおすという、聖書的なものではなく、伝統を背景にした黙契とでも言うべきものである。ゆえにそれは自覚されなければ、積極的な行動規範にはなりにくい。
 

 玉音放送は本来なら、昭和天皇の遺言とでも言うべき意味を持つべきものだった。もし昭和天皇が連合国によって処刑されていれば、この詔は、伝統に自覚的な人々にとって皇室とわが国民との間の新たな契約となったかもしれない。いや、その意味を自覚した人には既にそうなっているだろう。


 敗戦後、昭和天皇は、それまで祭り上げられていた神棚から降りられて、親(みずか)らこの大御心を実践なさっておられる。その現われが、敗戦後間もなく行われた御巡幸である。
 
 昭和天皇が御巡幸の御決意を述べられたのは、マッカーサーとの初会見後の昭和二十年十月のことだが、行幸の重要性を再認識されたのは三月にまで溯る。
 この三月、東京大空襲があった。九日深夜のことである。
 天皇はアメリカによって行われたこの国際法違反のホロコーストの被害状況をその眼で確かめるために、軍部の強い反対を押し切って、行幸を行われた。十八日のことである。天皇が、このまま戦争を続ければ日本が滅ぶとの実感を強く抱かれたのはその惨状を眼にされた時がはじめてではないかと拝察されるが、時機を待たねばならなかった。

 やがて御聖断を経て日本が降伏し、マッカーサーとの会見を経て、彼らの了解を取り付けて、天皇の日本全国の御巡幸は実施され、多くの国民の心の傷を癒し、励ました。 
 
 一方で、敗戦に直面しての国民の感情はさまざまだったが、この戦争の意義を理解している人ほど、敗戦の事実は衝撃的だったようである。
 当時、国民学校(小学校)四年生で、茨城県の山村に疎開していた西尾幹二氏の『国民の歴史』第二十七章「終戦の日」によれば、氏は玉音放送があると聞いて、一億玉砕するまで戦おう、という趣旨の放送だろうと思ったという。ところが降伏であると知って、子供心に、敗者は殺されるか、奴隷にされるかだという、強い不安と恐怖に襲われた。
 西尾少年がシ接に見た農村社会では、丹精して育てていた稲を未成熟のまま大急ぎで刈り入れたり、当時農家では大事にされていた牛馬を殺戮し、村人に分配するなどした。下流の川面が紅い血に染まる現象を何日にもわたって目撃したそうである。
 西尾氏はこれを農民の敗戦という事実に対する不服従の表れであり、「自己破壊の衝動」「未来への拒絶」であったという。


 …玉音放送の日に「天皇陛下は一億玉砕してほしいとわしらに言うのだとばかり思っていた。どうして最後まで竹槍で戦うように命じて下さらなかったのか」と悲憤慷慨の面持ちで口惜しがっていた隣家の老主人のことを私は今、思い出す。やがて、あの放送は天皇のご意志で行われたのではない、陛下は一部の軟弱分子に強制されたのではないか、そういう流言が広がり、米軍を迎え撃つ決死隊が同じ茨城県の筑波山に立て籠ったという噂が人びとを昂奮させた。…


 そして、玉音放送の数日後、子供達は学校の指令で山の上の鎮守の森に集められ、神社の境内で、米英への復讐を誓う式典が行われた。西尾少年は、皆の前で暗誦してきた終戦の詔勅(玉音放送)を大声で朗誦したのだという。その後、校長の訓示が行わている最中に、米軍機が鎮守の森をかすめるような低空で飛行していった。操縦士の顔がくっきり見えるほどの近さだったというから、屈辱的な光景である。
 この経験が西尾氏の反骨精神の根源となっているのかもしれない。

 これが聖書の「神」に一つ言葉を乱される前の、国民の素直な感情のひニつであった。
 ここでわれわれは『聖書』を引用しての比喩を離れ、もう少し当時の人々の内面に分け入って、伝統に即して、この経験を理解しておかなければならない。
 
 茨城県の農村地帯では、米軍を迎え撃つ決死隊が筑波山に立てこもったという噂が流れ、人々を興奮させたという。これは単に決死隊が現れたからという理由だけでは説明ができないだろう。
 彼らの脳裏には一つの歴史的記憶があったに違いなく、それがあるからこそ、この噂が彼らに異常な昂奮を巻き起こしたのだろう。
 
 幕末、この地は尊皇攘夷の総本山、水戸藩の領地であり、武田耕雲斎率いる天狗党(農民を多数含む)が挙兵したのが筑波山であった。
 尊皇攘夷を掲げる天狗党の末路は悲惨なものであったが、土地の人びとには、これらに象徴される尊王攘夷運動が維新回天の導火線となった、との共通の歴史認識が誇りとともにあったのだろう。あるいは水戸藩の尊王攘夷運動が内部抗争で消耗しつくし、維新の主役たりえなかった、という悔恨の感情も伴っていたかもしれない。
 筑波山の決死隊は米軍を迎え撃つ以上、悲惨な結末を迎えるかもしれないが、日本再生への導火線となって尊皇攘夷の彼岸は達成されるかもしれない。
 そのイメージが絶望の淵を漂っていた彼らを昂奮させたに違いない。茨城において、それは幻想であったかもしれないが、幻想だけになお一層、その時の彼らを屹立せしめていた精神を際立たせているように思われる。

 ただ、このことを幻想とばかり言っていられないのは、水戸教導航空通信師団が現実に決起行動を起こしていることである。
 発作的に決起した彼らは、筑波山ではなく、上京して上野公園を占拠して、四方に檄を飛ばそうとした。だが皇居前広場での東部軍司令部派遣将校の説得により決起は未遂に終っている。
この事件に水戸固有の歴史的背景はなさそうだが、その風聞が農民達の歴史的感情を刺激したのではないかと思われるのである。

 天狗党の決起は元治元年(1864)のことだから、敗戦時から見て八十年ほど前の出来事、つまり、祖父か曽祖父の時代の出来事で、そう遠くはない昔の出来事である。現在よりあの戦争を振り返るほどの時しか隔てていない。
 歴史意識とは重層的に折り重なっていくものだ。歴史証言の表層のさらに下にある古層まで掘り下げてみなければ、その言葉の重みが実感として伝わりにくいことが多いのである。
 大東亜戦争を振り返るという事は、戦後という地表の一つ下の地層を掘り下げる行為であるが、さらに、そのもう一つ下の古層まで掘り下げてみなければ、そこに生きた人びとの切迫した事情なり、それに対処した精神までを理解することは難しい。
 茨城の例で言えば、筑波山に決死隊が立てこもったという風聞に昂奮した茨城の人々の意識の下層には、幕末の天狗党決起の歴史的記憶があり、そのさらに下層には、水戸光圀公以来の、いわゆる水戸学の伝統がある。

 
 さて、天狗党の首領格の一人に藤田小四郎がいる。
 幕末史に大きな影響を及ぼした人脈に連なる人物である。
 『弘道館記述義』を著した藤田東湖はこの小四郎の父だ。小四郎は少年期に父を失った後、弘道館館長を務めていた原市之進に師事した。
 原は後に、征夷大将軍に就任した徳川慶喜の懐刀として活躍した人物で、慶応三年八月に幕臣に暗殺されている。彼を失った慶喜は打つ手を失って、大政奉還へ傾くことになった。

 ここで長谷川三千子氏がその趣旨を取り上げただけで、さらりと流した『弘道館記述義』に戻ることにする。

 氏の『弘道館記述義』の要約をもう一度引用しておく。


 そこでの東湖は、まづ(ヨーロッパの「自然法」の考へにきはめて近い)「弘道」といふものを考へ、その「弘道」にもとづいて日本には、「宝祚無窮」(皇室がきはまりなく続きさかへること)「国体尊厳」「蒼生安寧」(天皇が民の安寧を第一の事として常に心がけられること)「蛮夷戎狄率服」(周辺諸国が自づから日本に従ひ服すること)の四つが実現されてゐる、と説く。さらに、そこで重要なのは、これら四つの事柄が互ひに循環し、つながり合つてゐる、といふことである。東湖はそれをこんな言ひ方で語つてゐる。

「蓋し蒼生安寧、是を以て宝祚窮まりなく、宝祚窮まりなし是を以て国体尊厳なり。国体尊厳なり是を以て蛮夷戎狄率服す。四者循環して一の如く各々相須(ま)つて美を済(な)す。」

 すなはち、天皇が民を「おほみたから」として、その安寧をなによりも大切になさることが皇統の無窮の所以であり、だからこそ国体は尊厳である。そしてさういふ立派な国柄であればこそ、周辺諸国も自づからわが国につき従ふ。これらはすべて一つながりの循環をなしてわが国の美を実現してゐるのだ、といふことである。この全体が、いはば広義の「国体」であると言ふことができて、いはゆる「国体思想」と呼ばれるものは、この全体的な広義の〈わが国の国がら〉を指してゐると考へてよいだろう。



 氏はここで「弘道」という言葉を「ヨーロッパの『自然法』の考へにきはめて近い」と言っているが、「弘道」は実は『論語』「衛霊公」篇の言葉である。


 子曰く、人能く道を弘む。道、人を弘むるに非ず。

 
 やはり、山本七平がいうところの、江戸時代の日本人にとっての『聖書』、『論語』を中心とする四書が『弘道館記述義』の思想的背骨となっている。

 「弘道館」は水戸藩の藩校の名だが、その藩校の設立趣旨を書いたのが、烈公と呼ばれた水戸斉昭の書いた『弘道館記』だ。その主君の『弘道館記』を敷衍したものが東湖の『弘道館記述義』である。これらは水戸学の一つの結晶といっていい文章だろう。

 ヨーロッパの「自然法」の法源は彼らの、すなわち『聖書』の「神」であるが、水戸の君臣の説く「道」の源もやはりわれわれの「神」で、彼我の「神」概念が違う以上、当然、そこから導き出される人としてのあり方、国体も似て異なるものにならざるを得ない。

 烈公は「弘道館記」を次のように書き出している。(原漢文)


 弘道とは何ぞ。人、能く道を弘むるなり。道とは何ぞ。天地の大経にして、生民の須臾(しゅゆ…少しの間も)も離るべからざるものなり。弘道の館は、何のためにして設けたるや。恭しく惟(おもん)みるに、上古、神聖(神話の神々)、極を立て、統を垂れたまひて、天地位し、万物育す。その六合(りくごう)に照臨し、宇内を統御したまひし所以のもの、未だ嘗て斯道(この道)に由らずんばあらざるなり。宝祚、これを以て無窮。国体、これを以て尊厳。蒼生、これを以て安寧。蛮夷戎狄、これを以て率服す。しかも聖子神孫(歴代天皇を指す)、なほ肯(あ)えて自ら足れりとせず、人に取りて以て善を成すことを楽しみたまふ。…


 岩波書店「日本思想体系53 『水戸学』」のこのくだりの註を読むと、その出典がぎっしり記されているが、この短い文章の基調をなすのは、一つは記紀であり、もう一つは『論語』『孟子』『中庸』である。つまり、神儒習合の思想がここで展開されているのだ。東湖の文章は言わば、西洋人が神話・歴史と「聖書」を縦横に引用しながら、自己のお国柄【国體思想】を語っているようなものなのだ。もちろん西洋人にとっての『聖書』に当るのが、わが国の場合「四書」であり、その起源をたどれば、それぞれにとって外来の思想である。

長谷川氏がヨーロッパの自然法に近いものとしたのは、「天地自然の道」という言葉があるように、「弘道」というよりもむしろ、烈公が「天地の大経」といった「道」のほうであり、儒教的批判と結びついた「先王の道」(日本では「先皇の道」というべきだろう)である。
 この「道」を明らかにして、自ら踏み行うことを「弘道」という。
 その「弘道」という、人としての歩き方の教科書こそが『論語』を中心とする「四書」に他ならない。 
 
 

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