『孔子とイエス』…「敗戦時の記憶 【その五】」

 もうひとりの知識人の敗戦経験を紹介しておきたい。

 その知識人は次のように書いている。


…私が『論語』を、教室の講義のためでなく、自らのために読んだのは、敗戦後のことであった。あの敗戦のあとの、やるせないような虚脱を味わわれた方には、理解していただけることかと思う。私の机辺には、いつとはなく、『論語』と『聖書』とがあった。別に思想としての要求や、入信を求めてのことではない。暗い海の上をひとりただようて、何かに手をふれておりたいという衝動があった。それには、どのような角度からでも接近できるものが、よかったのであろう。それで順序も立てず、ながめるようにして読んだ。そして読むうちに、この二つの書が、敗北者のための思想であり、文章であると思うようになった。読んでいると、自然に深い観想の世界に導かれてゆくような思いであった。…


 これは漢字の碩学・白川静博士の『孔子伝』の文庫版あとがきにある一節である。
 敗戦時の具体的体験はここでは語られていないが、彼もまた、多くの国民と同様に、虚無を見つめた経験を持ったようだ。その心にぽっかりとあいた深淵を埋めたのが、『論語』と『聖書』であった、というのはそれなりの必然性があったに違いない。
 暗い海の上を進路を見失ってひとりで漂っている時、自己の位置を把握し、進路を指し示すのは天と己との位置関係である。それはいわば垂直方向の精神運動であり、『論語』にせよ、『聖書』にせよ、どこから読んでも、天と己との関係が語られている。

 これらが敗北者のための思想なのか、どうか分らない。が、挫折を経験して初めて深く理解できる面があることは否定できないだろう。
 確かに現実的な面からいえば、孔子も敗北者であったし、ユダヤ人も、イエスもまた敗北者であった。が、その思想は生き続け、いわば聖なる書として、現代人にまで伝えられて、こうして人びとを感化し続けていることを思えば、同時代のいかなる現実的成功者よりも大きな影響を後世に及ぼしている。

 やがて虚脱の時期は過ぎ、秩序は徐々に回復して、博士は漢字の起源である甲骨文・金文の研究に没頭していった。
 しかし、敗戦-占領を経て思想的免疫力の低下した日本では、昭和に入ってから徐々に浸潤してきた共産主義運動が、占領期初期に続けて再び猛威を振るうことになる。

 博士に伝統というものを深く考えるきっかけを与えたのが、昭和四十三年暮れから四十四年にかけて起きた、自身が勤める立命館大学における大学紛争であり、また、専門の対象である支那で荒れ狂っていた文化大革命であった。
 これも昭和四十一年より十年間に亘って、中国全土を蔽った、紅衛兵と呼ばれる学生の運動であった。背後にいたのは権力奪還を狙う毛沢東である。
 この騒乱によって、日本人が有史以来大きな影響を受けてきた、支那のある種の良き伝統は無残に破壊されたが、これは秦の始皇帝に始まる、独裁者による専制への回帰という点で、復古的側面があった。
 この東アジアの伝統に対する危惧から白川博士の、日本の伝統的視点による画期的名著『孔子伝』(中公文庫)は生まれたのである。

 この名著誕生の経緯は、これもまた文庫版のあとがきに書き記されている。


…(昭和)四十三年の暮近く、私の大学では、両派の学生の間に機関紙の争奪をめぐる闘争があり、前後二回に、約九十名の負傷者が出た。それを合図とするように、紛争は燃え上がった。
 紛争は数ヶ月で一おう終熄したが、教育の場における亀裂は、容易に埋めうるものではない。特に一党支配の体制がもたらす荒廃は、如何ともしがたいもののようである。私はこのとき、敗戦後によんだ『論語』の諸章を、思い起していた。そして、あの決定的な敗北のなかにあって、心許した弟子たちを伴いながら、老衰の身で十数年も漂泊の旅をつづけた孔子のことを、考えてみようと思った。…



 敗戦時、彼は折口信夫同様に、日本の神々がキリスト教の神に敗れたと捉えていて、無意識に『聖書』を紐解いたのかもしれない。
 一方で、折口信夫が伝統に回帰して、新たな神学をうちたてようとしたのと同じ方向で、わが国の別種の伝統、すなわち漢学の伝統の、その核心として『論語』を手に取ったように思われる。
 しかし、戦後二十余年を経た今度の精神秩序の危機においては、明確に『論語』の方を向いた。そして、それはわが国の歴史を考えた時、また彼が自己を形成した戦前の精神秩序を振り返ったとき、至って自然な選択であったと思われる。
 山本七平が見抜いた日本人の価値規範には、その核心となる神道的世界観をしっくりと取り巻く形で、その表層を『論語』的世界観が蔽って、これを守っているのである。自己の思想形成の過程を忘れた一般日本人の意識は、このさらに表層を漂っている。

 
 
 長谷川三千子氏が漢学の伝統をさらりと通り過ぎて、日本語の、大和言葉の哲学を志向するには、それなりの根拠がある。
 彼女がバベルの塔の物語の裂け目に着目したのは、これを書いた「ヤハウェスト」(いわゆるJ資料の作者)が目指した、言葉を通じての「神人対晤」のための、人と大地を切り離す試みが、この物語に至って破綻を来たしているのを看破したからである。
 『聖書』の最も古い部分を構想した「ヤハウェスト」が物語をここに至って語りそこなった要因は、言葉そのものが大地に根ざすものであるという本質に気づいたから、というのが長谷川氏の洞察である。
 いずれにしても「ヤハウェスト」が構想した絶対神ヤハウェは、一つ言葉で一つとなり、高い塔を建設しはじめた民の言葉を乱し、全地表に散らばらせた。

 ここで思うのは、日本を叩いたキリスト教国アメリカには、バベルの塔の物語の原イメージがあって、知らず識らず、彼らを日本つぶしの戦争に駆り立てていったのではないか。これはいまだに日米関係に影響を及ぼしているように思われる。
 彼らの、一つ言語一つ民の近代国家・日本に対する潜在的な反感、警戒心、これとは対照をなす、未開な多言語・多民族文明である支那に対する上から目線の親近感、同情心は、ここまで掘り下げてみて初めて理解できるものではないだろうか。

 長谷川氏もまた、そういった視点をお持ちのようで、「バベルの謎」のまえがきで、ヨーロッパの言語思想の伝統を「ただ一つの言葉」という強迫観念(オブセッション)が支配しており、その起源をこの物語に見る、という趣旨のことを述べていて、その強迫観念がいかに直接・間接にわれわれ自身に影響を及ぼしているか、という問題意識を持っていることを明らかにしている。
 だからこそ、敗戦で背骨を折られた日本人の精神秩序の再建に、日本語による哲学は避けて通れない、と哲学者たる氏は考えておられるように思われる。
 

 氏はその後『日本語の哲学へ』という興味深い試みをしておられるが、その中でわれわれが、知らず識らずの内に使い分けて頻繁に使用している「もの」「こと」という言葉を哲学的に捉えなおそうとしている。これは非常に興味深い研究だ。

 長谷川氏は、「もの」という言葉の〈意味の水深〉はおそろしく深い、といっているが、これはそのとおりで、わが国の思考の原型を神話に求めるなら、葦原中国(あしはらのなかつくに)の国作りを行ったとされる、出雲の国譲りで有名な大国主命は、同時に多くの名を持ち(おおなむぢ、大名持神とも)、そのうちの一つを大物主(おおものぬし)とも言い(『日本書紀』)、事代主命(ことしろぬし)はその子とされるのである。
 「ことしろ」とは「事・知る」「言・知る」に由来する名で、古代人がこれらの名に根源的なつながりを観取していたことが窺えるのである。
 我々の言語生活は出雲大社で幽事の主宰者として祀られているこの神によって、いまだに幽玄に支配されている。

 出雲の国譲りはわが国のあり方を考える上でも、非常に象徴的な神話で、明治人は明治維新を振り返って、国譲りの神話の再現と見る論調もあったのである。最後の将軍・徳川慶喜の訃報を報じた「東京朝日新聞」「讀賣新聞」は明確に彼の大政奉還と朝廷への恭順を大国主命の国譲りと結びつけて論じている。

 長谷川氏の試みはそこまで行っていないが、これを突き詰めていけば、神話の哲学的検証に行き着くほかないと思われるが、それは哲学の領域を踏み越えてしまう危険がある。それこそが、折口信夫がなそうとしてなしえなかった日本の新たな神学の領域であっただろう。

 ともかく『神やぶれたまふ』もそういった日本語による哲学の延長線上に捉えられるべき試みで、『バベルの謎 ヤハウェストの冒険』が第一章、『日本語の哲学へ』が第二章とするなら、『神やぶれたまはず』は第三章とすべきだろう。ならば、なおさら、この視点から「われわれの神を得た」ということの真意が問われなければならない。

 
 長谷川氏は「もの」「こと」という言葉の意味を、古今の用法のみならず、「物」「事・言」という漢字との出会いという点にも着目して、論を進めるのであるが、白川博士にも同様の視点があり、いや、むしろ、それをさらに徹底するために、漢字の起源を突き詰めた学者であったのだ。
 その業績は、古言を明らかにすることに精魂を傾けた荻生徂徠の業績の延長線上に捉えることも出来るだろう。『孔子伝』はスタイルは違えど、現代の『論語徴』と言っていいかもしれない。
 本居宣長はこの『論語徴』その他、『弁名』『弁道』などの徂徠学から大きな影響を受けて、「やまとごころ」の探究に漕ぎだして行ったことを思えば、白川博士の言語学も新たな「やまとごころ」探究への道を拓くかもしれない。

 その博士は『孔子伝』の中で、孔子の死とイエスの死を結び付けて、次のように書いている。


 …二人の使徒(顔回・子路)の死を追うようにして、その偉大なる師(孔子)もまた世を去った。漂白のうちに亡命の生活をつづけたこの師弟によって、中国における精神の伝統は生まれたが、それはふしぎなほど、ナザレ人イエスとその使徒たちの姿に似ている。…


 博士は続けて

ただ孔子の場合、その死によって、真の伝統は失われた。

と意味深なことを言っている。

 孔子によってある精神の伝統は生まれたが、彼が目指した所の伝統の真の再生は失敗した。
 確かに、支那において周王朝は亡び、春秋戦国の世は、『韓非子』に代表される法家の思想を採用した秦の始皇帝の統一によって終焉を迎えた。博士の言う「真の伝統」とは周王朝で花開いた礼楽文化の伝統のことである。これを先王の道という。
 その再生を望んだ孔子は、自らが聖人となって、皇帝専制国家の官僚制度の守護神となることなど夢にも思っていなかっただろう。
 『韓非子』は必ずしも孔子を否定していたわけではない。孔子の孫・子思に礼楽を学んだ彼に言わせれば、孔子は確かに聖人であるが、これを理解するものは世に稀である。いや、ほとんどいないと言っていい。ならば世の乱を収めるには別の方法が必要である。それがすなわち、法による君主の一元的支配、というところに行き着いたのである。
 続く漢の時代になって儒教は皇帝による一元的支配の道具として、言わば法の一種として、取り入れられた。
 まさに孔子が求めた真の伝統は死んだのである。
 『韓非子』を読んでいた毛沢東は、孔子が残したその精神の伝統までも根絶やしにしようとした。それが文化大革命の批林批孔運動となった。博士の『孔子伝』はそれに触発されたものだ。

 白川博士はまた、別の所では、

 …孔子の死は平穏であり、平凡であった。…(中略)…ソクラテスやキリストにおける死は、死することが生きることであった。

 とも言っていて、イエスの死と復活とは、聖書的伝統の復活であった、と言ってよいように思われる。
 神と人が旧くから取り交わしてきた契約(旧約)は、神の子・イエスの死と復活によって、新しい契約(新約)となって甦ったのである。伝統はイエスの死によって復活した。しかし、その伝統は、ローマ、ついでヨーロッパに伝播して生き残っていった。それがいわゆるピルグリム・ファザーズによって新大陸に持ち込まれ、マニフェスト・ディスタニー(明白なる使命)の伝統となってアメリカを突き動かしている。
 われわれが対決を強いられたのはこれである。

 ならば、長谷川氏の「われわれの神を得た」という結語を敷衍すると次のようにいえるだろう。
 
 日本国民は天皇を中心とする国のあり方を守るために命を捧げたが、神の子孫(これを日本では「現人神」という)であらせられる昭和天皇は、皇室の伝統に則って大宝(おおみたから)である国民を守るために命を投げ出された。
 それは敵の神に対してであったが、昭和天皇の「皇祖皇宗に対して申し訳が立たない」との御言葉からも拝察されるように、どこまでもわれわれの伝統的な神を意識したものである。
 結局、天皇が処刑されることはなかったが、われわれは長い年月を掛けて培われてきた伝統が正真正銘の本物であることを証明した。

 何に対して?

 これは伝統的な次の言葉で表されるべきだろう。
 
 天地神明に誓って
  

 われわれの真の伝統は、その死に直面して、復活したのである。

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