『天道』…「敗戦時の記憶 【その弐】」

 桶谷秀昭氏は、『荘子』にある「天籟」という言葉によって、玉音放送を聴いたときのシーンとした国民の心の一瞬の謎を解く手がかりを得た。

 しかし、この事を世に問うたものの、反応は

「だから、どうしたといふのか。そんな怪訝をともなふ反感あるいは薄ら笑ひを、私はたびたび経験したが、賛意をつたへてくれた人はひとりもゐなかった」

という。

 中でも最も深切な反応を示してくれた司馬遼太郎でさえ、はがきの中で

「荘子の『天籟』久しぶりでこのことばに接しました。『天籟』、大切なような、大切でないような、知らずとも生涯、知っても何程もなき生涯、これは一体何でしょう。」

という、無理解な反応を示す程度だった。

 あの瞬間を見失ったか、経験していない、水平方向の運動のみに目を奪われるようになった戦後日本人に、この垂直方向の精神運動に関する問題提議は、大した意味を持たないように思われるのだろう。
 歴史に関する知識では該博な司馬遼太郎の歴史小説や随筆は、今思い返せば、確かに水平方向の運動で歴史上の人物や事象を捉えていたように思われる。
 彼の歴史小説では、登場人物の発する垂直方向の精神運動を表す言葉も扱われているが、やはり大切なような、大切でないような、そういった素通りの仕方であったように記憶している。少なくとも、史料に出てくるから登場人物にそのようなセリフを言わせたまでで、そこにその人物を深く理解する鍵がある、という扱いではなかった。

 逆に言えば、だからこそ彼の歴史小説は垂直方向の視点を欠いた大衆に受け入れられて、国民作家と呼ばれるにまでなった、とも言えるだろう。しかし、それはあくまでも戦後国民作家であって、戦前・戦中の日本人が読めば違和感を感じたのではあるまいか。

 思えば、自分が「敬天愛人」という言葉でその精神性が表されることが多い西郷南洲翁の史伝を世に問うたのも、『翔ぶが如く』を読み込む内に、南洲翁や明治日本を揺るがした、いわゆる征韓論破裂や西南戦争をちゃんと描けていないのは、ここに含まれた垂直方向の精神運動に対する考察が欠けているからだ、ということに気づいたからであった。
 「敬天愛人」とは、垂直方向の精神運動を表す「敬天」と、水平方向の精神運動を表す「愛人」とから成り立っている。南洲翁の言動、事跡は、この二つの方向性を持つ精神運動が生んだものだ。
 そこで自分は、未熟ながらも、「天」「道」という言葉をキーワードに、南洲翁の生涯を手探りで検証しつつ叙述した。本に対する反応はほとんどなかったが、それは水平方向の運動を二次元で見ることに慣らされた戦後社会では当然の反応だったと、今となっては合点がいく。

 南洲翁の精神運動は英雄の名にふさわしく、垂直方向、水平方向の双方において、大きな幅と力強さを持っていたが、よく対比される大久保利通の思想は、その双方において、力量に欠ける。大久保を政治家として高く評価する人の論評を読むと、大抵は、水平方向でしか見ていないことに改めて気づかされる。
 最近の織田信長・豊臣秀吉・徳川家康に関する論考も垂直方向の精神運動に眼を凝らして叙述したものだが、応答がないのはやはり同じ理由からだろう。

 しかし、今の日本に求められているのは、垂直方向の精神運動を取り戻すことだろう。それは歴史認識に最も求められているはずだ。なぜなら歴史認識、歴史観とは、世界認識、世界観の表現に他ならないからだ。自虐的歴史観は自虐的世界観しか生まない。隣国の顔色を窺うばかりの萎縮した歴史観は、隣国の顔色を窺うばかりの萎縮した世界観しか生まない。

 二〇〇六年に出版した拙著『(新)西郷南洲伝(上)』(高城書房)の前書きの最後に次のように書いた。

「…私は現在の混迷する日本の再生の鍵はそこにあると考えている。
 なぜなら西郷南洲を問うことは、日本人とは何か、日本の歩んできた道とは何か、これから日本が進むべき道は何か、これら日本文明の縦軸を問うことに他ならないからである。」


 もちろん、この縦軸の指し示す方向にあるのは「天」である。
 だからこそ、桶谷氏や長谷川氏の試みには共鳴するところがあるのであろう。

 長谷川氏は次のように書いている。


「その意味で、あの八月十五日正午の瞬間を『天籟』を聴いた瞬間、ととらえた桶谷氏の発想は、正しい方向をむいてゐたと言へる。そこに何か真理が語られてゐたとしても、それは決してあからさまな宣言などではなく、どこまでも音なき音の語りかけなのである。
 ただし、やがて明らかになるとほり、桶谷氏の見出した『天籟』といふ言葉には、或る種の限界があった。そこに、古代中国の戦国時代に生きた思想家の深い思想が含まれてゐることは事実としても、わが国の古来の思想には、それとはまた異なる位相がある。ぎりぎりのところまで押しつめていったとき、そこにはどうしても超えがたいずれが生じてくるのである。」



 これもその通りだろう。
 このずれを認識しておくことは確かに重要である。長谷川氏には『からごころ』という名著があって、こういった認識に行き着くのは至って自然に思える。

 しかし、戦前・戦後を通じて、濃淡の差はあっても、日本人の言語生活の基本は、やまと言葉と漢語で成り立っている。戦前の日本人はそれがより濃厚であった。知識人や指導層ほどそうであろう。
 麻生太郎元総理が総理時代、漢字が読めない、と非難を受けていたことを思い出せば、それは未だに残っていると言える。

 我々の言語生活は、やまと言葉にその痕跡を残している日本古来の思想「やまとごころ」「やまとだましい」という、この地上からは窺い知れぬほど大地の深くに根を張った思想だけで割り切ろうとすれば、どうしてもずれが生じ、どうしてもそこに収まりきれぬものが出てくる。逆に、長谷川氏が指摘しているように、漢語でその由来を知ることができる支那伝来の思想「からごころ」だけで我々の言語生活を割り切ろうとすれば、どうしてもそこに収まりきらないものが出てくる。

 それはそれぞれの思想の豊かさと異質性を物語っているが、もちろん我々の文明を特徴づけているのは、わが国固有の「やまとごころ」「やまとだましい」の方である。そこに軸足を置けば、当然、支那思想とのずれが強く意識されるだろう。そのずれを強く意識し、これを突き詰めて偉大な思想を展開した本居宣長のような人物もいる。
 儒教という「からごころ」優勢の江戸時代において、宣長がこのずれを強く意識し、これを排撃することで、大地に深く根を張って、我々の意識の表面から見えにくくなっていた「やまとごころ」を再発掘しようとしたのはよく理解できる。

 しかし、我々は現代に生きているのであり、既に本居宣長の偉業を保有している。現代は明治維新以来、十分な西洋文明受容の歴史を有し、「からごころ」とあわせて、外来の二つの思想的軸足を持っている。二つの軸足で、フットワークも軽く、それぞれの動きを相対化し、十分に使いこなすこともできよう。現にそれに近いことをやっている人がいる。
 長谷川氏は『神やぶれたまはず』で旧約聖書を取り上げて、そのシーンとした国民の心の一瞬を理解するための補助線を示して、次に国體の思想やその精華である「五箇条の御誓文」を取り上げるわけだが、氏には『バベルの謎、ヤハウィストの冒険』という非常にユニークな旧約聖書研究の著作があるのだ。そして、後期水戸学の泰斗・藤田東湖の「弘道館述義」に集約される国體論や『五箇条の御誓文』は、わが国古来の思想と支那伝来の思想の習合の産物にして、結晶である。

 長谷川氏は一応保守論壇に属する人であるが、こういった思想径路でわが国の伝統を保守する人が多い。例えば、西尾幹二氏は元々ドイツ文学を専攻した人物で、特に「言語学徒(フィロローゲン)」と自ら称したニーチェの研究者としてその影響を強く受け、わが国のフィロローゲン、荻生徂徠や本居宣長を世界史的視点から見た『江戸のダイナミズム』という著作を物しておられる。
 また、小堀桂一郎氏は同じドイツ文学研究から出発し、比較文化論の立場から日本の伝統の研究を深く進めた人物だ。渡部昇一氏は、カソリックの信者だが、ドイツや英国への留学経験を持つ英文学者にして、日本史の著述家でもある。
 他にも多くいるが、こういった保守論壇の重鎮達の日本の歴史・伝統に関する論いには大変優れたものが多い。

 以上の人々は大東亜戦争に前後してこの世に生を享けた人々だが、完全な戦後の生まれの自分には、また別の態度があってもいいように思える。
 彼らが自然にそうしているように、また我々一般の日本人が無意識にそうした言語空間で生活を営んでいるように、西洋由来の思想(洋心)も、支那由来の思想(漢心)も、日本古来の思想(和心)もありのままに受け入れていきていく、という態度である。

 日本人の「和心」は賀茂真淵が「異朝の道は方なり、皇朝の道は円なり」と表現したように、また日の丸に表彰されるように、円い。これとずれを生ずる「漢心」は、その境界は曖昧ながら、総じてこの円に外接する方形である。その外を取り巻く「洋心」は、多角形だが、その重心は「和心」の外に位置し、外接もしていない。そういった世界観をありのままに受け入れていけばいいと思う。
 現に我々一般の日本人の言語生活は、これらの境界を自由に逍遥し、そこに遊ぶことで成り立っている。
 
 「逍遥遊」は、『荘子』の精髄を表すと言われる「内篇」の第一篇の篇名で、「天籟」の語は第二篇「斉物論」篇に出てくる。
 我々日本人の精神世界は、「和心」「漢心」「洋心」で成り立ち、その世界を逍遥遊、すなわち何ものにも拘束されず自由自在の境地に遊ぶことで形成されて、それが人籟となる。
 しかし、それが水平方向の精神運動のみで成り立っている内は、深みも高みも重みも厚みも生じない。それを生じるには垂直方向の精神運動が必要であり、戦前の人びとが吹く「人籟」にはそういった精神の方向性を表す言葉があったのだ。
 大東亜戦争の意義を理解し共有していた人が使った「悠久の大義」という言葉は、大地に根付き、天に向かう言葉であるが、その起点には、国體の核心となるものとして、戦前・戦中の日本人では知らぬ者のなかった「天壌無窮(てんじょうむきゅう)」の神勅が存在し、この神勅と当時の日本の延長線上に未来を見据え、そういった時間の縦軸の中に現在の自己の生を位置づけ、明日もなき我が命を惜しむ感情も消え失せたのである。それは漢語で言えば、「安心立命」の境地とも言うべきものであった。

 また長谷川氏が折口信夫を扱った第一章「神 やぶれたまふ」で奇しくも表現しているように、神風が吹くと信じた日本人の凄絶な戦いざまは、信仰の欠けた他力本願といったものではなく、「人事を尽して天命を待つ」という、支那伝来の思想で表現すればむしろ理解しやすいものであった。
 もちろん、そこには当時の人々の内面とずれはある。しかし、ずれのみに着目していては我々の精神世界の全体像はみえないだろう。

 我々日本人の思考は古来からいくつかの軸(この場合、やまと言葉で表される日本古来の思想「和心」と漢語で表現される支那伝来の思想「漢心」)で支えられてきたのであり、自然、それを「天籟」と表現するにしても、「天命」と表現するにしても、その「天」とは、支那大陸の「天」と繋がった一つの広大な「天」であっても、我々の頭上にあってはその様相を異にし、違う表情を見せる「天」であり、「あま」とも、「あめ」とも、やまと言葉で訓じられる二面性を持つものだ。
 支那の万物の主宰者は「天」かもしれないが、日本の神々も「高天原(たかまがはら)」という一種の天界にいる。そして神々の多くに「天(あめの)」という御名が冠せられている。

 『古事記』を紐解けば神話は次の一文で始まる。


「天地初発之時於高天原成神名天之御中主神」


 岩波文庫版『古事記』に倣えば、この一文は

「あめつちはじめてひらけしときたかまのはらになれるかみのなはあめのみなかぬしのかみ」

と訓じられることになる。

 ちなみに、この一文の直後にはわざわざ注が挿入されていて、「訓高下天云阿麻下此效」すなわち「高下『天』訓じて阿麻(あま)と云う、下此れに效う」となっている。

 ご覧のように、大和言葉を仮名だけで表記しようとすると長くなって読みづらい。『古事記』が記された当時、まだ仮名は発明されていなかったが、『万葉集』がそうであるように、漢字の音を利用して表記することはできた。しかし、これは仮名以上に読みづらい。そこで音訓併用で漢字表記しようとしたのが『古事記』の表記であり、その趣旨は序文にちゃんと記されている。
 このことが、後世、便利な仮名を使用するようになった日本人に、この古典の読解を困難なものにさせてしまった。そして、これが再びちゃんと読めるようになるには、本居宣長の登場を待たねばならなかったのである。

 先の「天壌無窮」は、『古事記』ではなく、『日本書紀』に出てくる言葉だが、音読みで「てんじょうむきゅう」と読まれることもあれば、「あめつち(天壌)ときわ(窮)まりな(無)けむ」と訓じられることもある。

 これらの例は我々の日常生活からは何か遠い話のようだが、身近な話をすれば、自己の姓名を表記するに際して、漢字を使用して、そこに音読み訓読みを交え用いていることからも理解が可能だ。我々の文化は漢字の音訓併用を自家薬籠中のものとし、幼い時からの学習によって、その困難な離れ業を困難と感じぬほどのものにしてしまっているのである。

 これは神話が文字化された時よりの日本人の負うべき宿命であったといってよく、ずれがあるからと言って、我々が大和言葉のみで高度な自己表現、意思伝達を行うことができず、また、ましてや中国に侵略されて、チベットやウィグルのように、漢語を強制されない限り、漢語のみ(しかもそれは簡体字)の意志伝達はありえない以上、この宿命に眼をそむけていては、本当の意味での民族的発展はありえないはずである。
 

 この日本語という文字言語に刻印された精神の二重性は、最初は神仏習合という形に現れたが(仏典もまた漢籍を通じて学ばれた)、室町期の戦乱を通じて、神儒習合を軸とする「天道」思想を生んで、ようやく秩序の安定を見る。この経緯は織田信長・豊臣秀吉・徳川家康に関する論考でみた所だ。
 江戸時代はこの「天道」思想をさらに深めた時代であったといえる。
 明治維新とは、その思想展開の帰結として起こった文明再生の偉業である。「維新」とは天命が新たになるという意味であるし、だからこそ維新回天という言葉がある。維新の指導者は漢学の影響を強く受け、「天」を奉じ「天命」を信じて回天の偉業に尽力し、「天子」としての天皇、「天神」の子孫としての「現人神」であらせられる天皇を戴いた。
 そもそも「天皇」という大御号自体が、「天」という自然的超越概念との結びつきを表しており、これは道教に由来し、天体運動の中心点である北辰、すなわち北極星を意味しているという。

 我々は、その名からして「天(あま)」との関係性で表される天照大神が登場する、「高天原」を舞台とする神話を土壌に、日月、星辰を含む「天」という存在を、儒教のみならず、老荘、仏教などの漢籍を通じて考えてきたのであり、それに帰依して安心立命の境地を得たのが、日本固有の「天道」の求道者たちであった。人生の深淵を覗き込んだ彼らの多くは、各時代それぞれの言語生活を営む中で、垂直方向を示す言葉にとらわれ、それを問い、それに忠実に生きようとしたのである。

 その精神運動が分りにくいのは、彼自身「天道」の求道者のひとりである荻生徂徠の次の言葉がよく表しているだろう。


「世は言を載せて以て遷り、言は道を載せて以て遷る、道の明らかならざるは、職として之に由る。」(『学則』)


 世の遷り変わりとともに言葉も遷り変わり、言葉の遷り変わりとともに道も遷り変わる。道というものが明らかでないのは、主としてここに原因がある。

 徂徠は支那の儒学の伝統について語ったまでだが、これは日本における道の探求にも応用できるだろう。事実、これに則ってわが国の道を探究した人物が本居宣長である。彼は果敢にも、古言という、いわば言葉の海の深海に飛びこんだ。
 ところがこの道の探求の先には、意外なものが待ち受けていた。あるところまで、時代を遡った時、わが国古来の道は忽然とその痕跡を消すのである。彼はそこで日の光を見出した。

 宣長はその逆説を次のように表現している。


「…皇国の古へは、さる言痛(こちた)き教へも何もなかりしかど、下が下までみだるることなく、天ノ下は穏(オダヒ)に治まりて、天津日嗣いや遠長(トホナガ)に伝はり来坐(キマセ)り、さればかの異国の名にならひていはば、是れぞ上もなき優(スグレ)たる大き道にして、実(マコト)は道あるが故に道てふ言(コト)なく、道てふことなけれど、道ありしなりけり。…」(『直毘霊』)


 事々しく、道を説くようになるのは道が行われていない証拠である。わが国の古は、道あるが故に道という言葉はなかった。

 確かに最も世が乱れた戦国時代の指導者は事あるごとに「天道」という言葉を口に出し、この時代の反省に立った江戸時代は、漢学に学んだ「言痛き教え」を説く学者が活躍した時代である。それに批判精神を持って立ち向かったのが宣長であり、確信に満ちたその主張は逆説的であった。そこにも江戸時代の精神秩序の二重性は確認できる。
 その江戸文化を発展継承した明治国家、すなわち大日本帝国は、この二重性によって精神秩序を成り立たせるはずであったが、明治六年のいわゆる征韓論破裂から西南戦争までの一連の事件によって、西洋文明の過剰摂取の時代に入り、精神秩序は混乱していく。それが、大正、昭和と遷り行くにしたがって、危機的状況を迎え、再び本来的自己を取り戻そうという強い動きが起きる。その精神運動が生んだもの、それが桶谷氏が大きな影響を受けたいわゆる皇国史観なのである。

 それは確かに強力な史観、優勢な時代精神であった。しかし、その裂け目を垣間見た原体験を独立した価値を有するものとするなら、そこに何を見出すかが問われなければならない。
 長谷川氏は、桶谷氏のその試みを継承し、そこにわが国の強固なある伝統、国體思想を見たのである。

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