西尾幹二氏へのもう数言

「皇室と『論語』」はまだ終っていないが、急がずにまとめていくことにして、西尾幹二氏が五月九日付のブログ記事「もうひとこと申し上げる」で次のような問題提議を行っておられるので紹介したい。

http://www.nishiokanji.jp/blog/?p=1290

「…最近、皇室問題がしきりに論じられるが、皇室が危機にあるからだと思う。私は日本文化の柱に皇室への崇敬があると信じているが、ここからだけでは普遍性は出てこない。「神仏信仰」という言葉があるように、日本人の信仰は「神」と「仏」の二重性によって支えられてきた。天皇もまた歴代仏教の信徒だった。地上の神と超越神との二重性である。後者は見えない遠い異国の唐天竺に浄土を求める心事にも発している。
 日本人が古代中国や近代西欧に理想のモデルを求めたのは、超越信仰の一種ではないだろうか。これがないと皇室も危うくなる信仰のパラドックスがあるのではないだろうか。アメリカは「見えない遠い異国の唐天竺」の代用になり得ないことが最近明らかになったわけだ。
 ならば何が「超越神」となるのであろうか。すぐには答の出てこない難問で、今の日本はその未解決の混迷の只中にある。皇室問題がしきりに取沙汰されるのもその不安の表現である。」



 古代からの日本人の信仰は混沌、曖昧模糊としていて、西尾氏が言うように、「神」と「仏」の二重性で割り切ってしまえるようなものなのだろうか。
 確かに「本地垂迹説」という言葉があるように、神仏習合は日本文明を成り立たせてきた重要な信仰の一つであろう。
 本地垂迹説とは、神とはインドの仏(本地)が衆生済度(しゅじょうさいど)のためにその迹(あと)を日本に垂れたものとする説で、平安時代末期に仏教側が神道を取り込むために唱えた説である。
 ところが、この発想を逆転させたのが伊勢神道で、本地が日本の神で、その迹をインドに垂れたのが仏であるとする考え方だ。
 これを継承して発展させたのが、応仁の乱に始まる戦乱の時代に「唯一宗源神道」を唱えた卜部兼倶で、彼は日本に根ざした古来からの神の道が、まず隣国支那に枝葉を伸ばし、インドに花開き、その実が落ちて日本に帰ってきたのが、儒教や仏教であるとした。彼は本来融通無碍で受身の宗教である神道の生命力を回復させ、伊勢神道から神敵と非難されつつも、日本全国の神祇を強引にその支配下に収めていったのである。

 戦国時代、仏教勢力は、殺生を戒められながら、城塞を構え、兵を養い、他宗派を焼討ちするほど荒廃していた。これを明確に敵視したのが織田信長で、彼は仏教勢力の毒を抜こうと非情の決断を下したが、信仰そのものを根絶しようとしたわけではない。以後の支配者、すなわち秀吉・家康にとって、仏教をいかに政治の支配の下に飼い慣らしていくかが大きな政治課題となっていく。
 その際、徳川家康が活用したのが、朱子学であり、神仏を敬して遠ざけるという政策であった。
 そして、自らも、東照大権現という、天照大神を模した神となり、言わば「鬼神(神霊)」となって徳川家の繁栄を見守るという方法を採った。
 家康が皇室に倣った面があることは江戸城自体が京都御所に倣って風水に則って建設されたことからも明らかだろう。京都御所の鬼門方向である東北に比叡山延暦寺を置いて守護と為したように、江戸では城の鬼門方向の守護として東叡山寛永寺が建立された。
 
 徳川幕府の政策は、朱子学のプラグマティズムに則って、皇室を含む「鬼神」を敬して遠ざけるものであったが、皇室は「鬼神」を祭る存在であって、「鬼神」そのものではない。
 その学問的反省が明治維新の王政復古に活かされたのである。
 森鴎外の『かのやうに』の主人公秀麿の父の葛藤はこの江戸時代の慣習を引きずったものだが、秀麿が西欧の哲学から学んで持ち帰った「かのやうに」の哲学は、この葛藤に答えを与えるものではなく、むしろ後退であったように思われる。
 

 以上のように単純に割り切れるものではないが、日本の近代化の歩みには、その内側に沿うように、混沌とはしていても、一つの大きな思想的流れがみて取れるのであり、神仏の二重性に限定して、日本文明は説明しきれるものではないだろう。

 西尾氏は日本文明を地上神と超越神の二つの軸でとらえようとしておられるようだが、そのこと自体、キリスト教との対決を強く意識し、反映した捉え方ではないだろうか。
 そもそも、戦国時代、一般庶民はキリスト教に出会ったとき、これを仏教の一宗派と捉えていた節がある。
 そもそも「宗教」という言葉自体が、仏教の宗派を意味していたのであるから、明治以後、国際社会で隆盛を極めているように映ったキリスト教を念頭において、[religion]を「宗教」と訳した歴史を振り返れば、儒教や神道がこの概念で扱われるべきものか否かが問題になるのも当然の成り行きであろう。
 ここでふと思うのは、ニーチェが仏教を高く評価していたことであるが、仏教についても、ニーチェについても、自分は詳しくはないので、深入りしないことにする。


 神仏に加えて儒の混沌状態は、明文としては聖徳太子の「十七条憲法」にまで溯ることができるだろう。
 梅原猛氏は「仏教を中心として儒教、道教を加えた三教一致の道徳を確立」したとしているが、どうも読みが浅い。
 確かに聖徳太子は仏の信者であったが、十七条をよく読むと、そうであるにもかかわらず、統治・統合の観点から見て、仏教は敬して遠ざけられ、政治には儒教を中心とする漢学が採用されていることが分かるだろう。

 第一条は有名な「和を以て貴しと為す」であるが、この思想の起源は、仏教に好意的な人は仏教に、儒教に好意的な人は『論語』に、神道に好意的な人は「神道」的なものに由来、と考えがちであるようだから、一まず脇においておくことにしよう。
 ただ一つだけいえることは、だからこそ、聖徳太子は各党派がそれぞれの主張を満足させつつ、皇室の下で「和」することができるよう、この言葉を第一条に持ってきたのだろう、ということだ。多面的な解釈を可能にしているところを見ると、真に「和」を重んじたであろう太子の智慧は深く、そして大きい。

 第二条で、太子は、仏・法・僧の三宝を敬え、なぜなら人の心をまっすぐ正しくするには仏教を措いて他にないからだ、との趣旨が述べている。
 以下の条は、ところどころ、その心的態度を語るに際して、仏教的な言葉・発想が見えるが、概ね、儒教に依拠したものである。

 そもそも我々の先人は梵語によって仏教の原典を学んできたわけではない。 支那経由である。
 つまり、漢字を通じて学んできたのであって、誤解を恐れず言うなら、総じて漢学といってもいい。太子にしても、三宝を三国の極宗と言っているあたり、後世のように、儒教と仏教を明確に截然と分けて考えていたとは考えにくい。全ては漢字を通じて学んだのだ。
 総合的に、その長ずるところを分別選択しながら自己の思想を形成した、と考えた方が常識にかなっている。

 それは太子以後も継承されて、仏僧にして『論語』を読む者多く、管見の範囲内では、鎌倉時代の明恵上人や親鸞などは明らかに『論語』を読んでいた。
 新儒教と呼ばれる朱子学(宋学)はそもそも、同じ鎌倉時代に禅宗の付属物として渡来した学問であり、ようやく儒者として独立した活動を行ったのは、戦国末期の藤原惺窩まで待たねばならない。家康に御用学者として仕えた林羅山はこの惺窩の弟子である。

 西尾氏の発言中にある唐・天竺という言葉にしても、そもそも古代支那において、インドに対しては、司馬遷の『史記』に見られる最も古い呼称である「身毒」(いつの時代も支那人は悪い意味の漢字を他文明に当てて蔑んでいる)、インダス川に由来する「印度」という呼称、そして「天竺」の三つがあり、主に「天竺」の呼称が用いられるようになったのは唐の時代で、支那人が「天」という言葉を好んだからという。
 日本人の仏教受容は、幾分、支那人のフィルターがかかっているのである。

 全ては混沌とした中での、精神文化の推移の話である。後世の目で全てを割り切ることだけは戒めなければならない。が、全ての文献に目を通し、正確に真実をつかむのは不可能である以上、少ない手がかりを灯火にして、推し進んでいくほかはない。

 戦国時代、わが民族がキリスト教に出逢った際、最初に敏感に反応したのは仏教勢力であったが、その後の接触の中で、我々に特に意識されるようになったのが「天道」という観念である。

 小堀桂一郎氏の労作『日本に於ける理性の傳統』(中公叢書)は、日本に於ける超越者の思想の系譜を明らかにしようとしたものだが、本書の字眼は「道理」「天道」といった言葉となっている。
 その中で、戦国時代、キリスト教に邂逅した日本人がどのように反応したかが、フランシスコ・ザビエルと日本人の出会いと理性の発見、そして、仏僧から熱心なキリスト教徒になり、やがて、これに反発して棄教、キリスト教を明確に邪教視するに至った不干斎ハビアンの思想遍歴を見ることによって検証されている。
 そして、彼の思想が後世に影響を及ぼし、どのようにキリスト教の「神」に対抗する形而上の観念としての「天道」というものが意識されるに至ったかが、徳川家康のブレーンが書いたとされた書物、すなわち本多正信の『本佐録』、神龍院梵舜の『心学五倫書』、林羅山の師である藤原惺窩の「仮名性理」の三書の比較を通じて検証されている。
 『本佐録』などはかの近代的知性の持ち主である朱子学者・新井白石が「天下第一の書なり」と絶賛した書物である。
 実際に彼ら家康のブレーンが書いたものと確定されているわけではないが、少なくとも、そのようなものとして流布したことは確かである。

 それらの書物が実際に彼らの著述したものであるかどうか検証するのも歴史の領分であるが、それらの書物が誤解も含めて、そのようなものとして流布し、後世に影響を及ぼしたとするなら、それを検証するのもどこまでも歴史の領分である。
 偽物と断定して悦に入っている歴史ほど子供っぽいものはない。
 歴史はどこまでも大人の営為でなければならないはずである。

 小堀氏は前掲の三書を取り上げて、江戸時代の学問の検証に入るのだが、それは西尾氏の労作『江戸のダイナミズム』と視点は異なりながらも、題材が重なるところも多く、伊藤仁斎や荻生徂徠を中心とする儒学、その影響下に興った本居宣長を中心とする国学が論じられていく。
 そして、次に国学による儒教批判を取り込んだ後期水戸学を検証し、最後に、明治初期の啓蒙思想家、中村敬宇・福沢諭吉、そして西郷隆盛の『敬天愛人』の思想で締めくくられている。
 西郷隆盛は著作を残さなかったが、庄内藩士が翁の聞き書きをまとめた『西郷南洲遺訓』が存在して、これが一般に流布し、影響も大きく、一つの思想書として検証に値するからであろう。

 以上が小堀氏の検証するところの、キリスト教との邂逅以後の『天道』思想の変遷である。
 

 そもそも「天道思想」とは神道・儒教・仏教の三教が一致した道徳観をさすが、これが盛んになったのは室町時代であった。旧秩序の混乱、崩壊と相関関係があるのであろう。戦国時代を『韓非子』に代表される法家の思想で収攬した支那と日本の決定的違いはここにある。

 小堀氏の労作は思想史的性格を持つ以上、文献の検証が必須で、無理もないことながら、文書を残さなかったことで、そこから漏れざるを得なかった重要人物がいる。
 織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の戦国三大覇者であるが、もっとも根源的に大きな影響を日本文明に及ぼした人物として信長について次回特に取り上げたい。

 西尾氏の上記発言は日本文明の二元素をひとまずそのまま認め、そして一つの柱である皇室への信仰ともう一つの超越絶対神への信仰が、今後、何で、どのように展開されるか、と問題提議されているように読めるが、ここで私が述べているのは、日本が文明の本質的危機に際して、しばしば見せてきた、対立する二元素の統合、日本統合の原理に関する話である。いわば日本文明のダイナミズムの話である。

 それはすでにわが文明の内に用意されている。
 それは外からの眼では見えない、内からの眼で見なければ見えない潜在的な伝統である。
 江戸文明の二元素がいかに対立しながら独自に展開し、やがて統合する運動になったのか。そのダイナミズムの検証は現在の思想的混迷を収拾する鍵となると思われるのである。
 今、日本に発動されるべきは、その伝統ではあるまいか。
 それが私の問題提議である。

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