明治維新の日

 本日は「王政復古の大号令」が煥発され、その精神に則って「小御所会議」が開かれた、我々日本人が忘れてはならない一日である。

「日本を取り戻す」なら、大東亜戦争も含めて、こういった深い所に埋もれてしまった歴史認識が、掘り起こされて、その基盤とならなければ、取り戻したところで、それは足腰のしっかりと定まったものとはならないはずだ。

 その意味で、対米戦争宣戦布告の日である前日の十二月八日とこの九日は、重要な意義を持つ日付となる。



 一年前の今日、公開した記事を再掲載しておく。


(引用開始)

 本日十二月九日は、記念すべき、王政復古の大号令が煥発された日付である。慶応三年十二月九日、王政復古の大号令は煥発された。

 もっとも、これは太陰暦によるもので、現在使用されている太陽暦に直せば、年が明けた正月三日ということになる。この政変の中心となった王政復古派の計画では、当初正月元旦が予定されていたが(この日、初めて正式に勅許を得た条約により、京に比較的近い兵庫港の開港が決まっていた)、土佐の殿様・山内容堂公の出京が遅れたために、延期を余儀なくされたのである。
 本来なら、開港と同時に王政復古の大宣言がなされるはずだった、ということになる。

 この号令は、近代日本出発の基となった、重要な宣言としてもっと知られていてしかるべきものだろう。
 「五箇条の御誓文」も重要だが、こちらの号令の方が、明治維新の精神としては、より本質的である。
 というのは、「五箇条の御誓文」は、鳥羽伏見の戦いにおける東軍の駆逐と将軍の大阪城退去がなされた後に発せられたものであり、王政復古の意義が文言において後退してしまっているからである。

 これは「五箇条の御誓文」起草の過程を追って行けば明らかだが、王政復古の政変を推進した人々はご誓文の発布に関与していない。
 起草者の越前藩士・三岡八郎(後の由利公正)、育成者の土佐藩士・福岡孝弟、完成者の長州藩士・木戸孝允、儀式を取り仕切った三条実美、皆、王政復古の政変以後に朝廷に参与した人々だ。
 王政復古の大号令が持つ、緊張感や天皇親政の大義が文言の上で後退しているのはそのためである。
 簡単に言えば、「王政復古の大号令」は、王政復古の大義を柱に据えたもの、「五箇条の御誓文」は王政復古を前提に据えたもの、ということが出来る。

 王政復古の大号令もまた、「維新」という言葉に「御一新」以上の意味を、すなわち革命とか革新とかの意味しか、汲み取れない人々からすれば、彼らがそうと認識するしないは別として、前回触れたような歴史の碑文の如き性質を持っているだろう。

 もう一度小林秀雄の文章を引用しておこう。

「例えば、岩に刻まれた意味不明の碑文でも現れたら、これに対し、誰でも見るともなく、読むともない態度を取らざるを得まい。見えているのは岩ではなく、精神の印しに違いない。だが、印しは読めない。だが、又、読む事を私達に要求している事は確かである。言葉は日常の使用を脱し、私達から離れて生きる存在となり、私達に謎をかけて来る物となる。」(『考えるヒント2』所収「弁名」)

 西郷南洲翁の事跡を追いながら、王政復古の大号令煥発までの経緯を辿った経験から言えば、王政復古の大号令、という文言に刻まれた精神、歴史的背景はあまりに豊かで、これを述べようとすれば、簡単に語りつくせぬ思いがするのであるが、この文言に精神の印を認めないものには、ただの厳しい顔つきの言葉の羅列に過ぎまい。

 「王政復古の大号令」である。


『徳川内府従前御委任の大政返上(大政奉還を指す)、将軍職辞退の両条、今般断然聞し食され候。

 そもそも癸丑以来未曽有の国難、先帝(孝明天皇)頻年宸襟を悩され候次第、衆庶の知る所に候。これによって叡慮を決せられ、王政復古、国威挽回の御基立てさせられ候間、自今、摂関・幕府等廃絶、即今、先ず仮に、総裁議定参与の三職を置かれ、万機行はせらるべし。諸事神武創業の始めに原(もとづ)き、縉紳・武弁・堂上・地下の別なく、至当の公議を竭(つく)し、天下と休戚を同じく遊さる叡慮に付き、各勉励、旧来驕惰の汚習を洗ひ、尽忠報国の誠を以て奉公致すべく候事。

一、内覧、勅問御人数、国事御用掛、議奏、武家伝奏、守護職、所司代、総て 廃せされ候事。

一、三職人体

  (省略)

一、太政官始、追々興させらるべく候間、其の旨心得居るべく候事。

一、朝廷礼式、追々御改正在らせらるべく候得共、先ず摂□・門流の儀止めら れ候事。

一、旧弊御一洗に付、言語の道洞開せられ候間、見込之れ有る向は貴賎に拘ら ず忌憚無く献言致すべし、且人材登庸第一の御急務に候故、心当の仁之れ有 り候はば、早々言上有るべく候事。

一、近年物価格別騰貴、如何共すべからざる勢、富者は益富を累ね、貧者は益 窘急に至り候趣、畢竟政令不正より致す所、民は王者の大宝、百事御一新の 折柄、旁宸衷を悩ませられ候。智謀遠救弊の策これ有り候はゞ、誰彼無く申 出づべく候事。

一、和宮御方、先年関東へ降嫁あらせられ候得共、その後将軍薨去、且つ先帝攘夷成功の叡願より許され候処、始終奸吏の詐謀に出で、御無詮の上は旁一日も早く御還京促されたく、近日御迎え公卿差し立てられ候間、その旨心得居るべく候事。

右の通り御確定、一紙を以て仰出だされ候事。

  慶応三年十二月九日』


(引用終了)


 なお、この王政復古の宣言に則って開催された、最初の会議である、いわゆる「小御所会議」の詳細については、最近公開した『西郷南洲伝』「維新初政編」サンプル号に詳述したのでそちらをご覧頂きたい。

 http://p.booklog.jp/users/yamatogokoro

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