詩楽の伝統から維新へ (その二)

 話を宝暦事件に戻そう。
 竹内式部は先の孔子の言葉を引いて、幕府もそろそろ十世だから(徳川幕府は、諸侯中の大なるものであり、盟主である)、秩序が失われる、だから、朝廷に礼楽征伐を主宰出来るように、主な権力を奉還すべし、という趣旨のことを説いて、少壮の公家を感奮させた。
 困惑した朝廷は、京都所司代に訴えた。竹内式部は、取調べに際し、『論語』の先の条を述べ、これは幕府のためでもあると言ったため、幕府のほうでも困惑せざるを得なかった。
 結局、彼は京都を追放されることになるのだが、尊皇思想に火をつけた点で、彼に冠される「勤皇の魁」という言葉は決して過賞ではない。その志は確実に明治維新に繋がっていくのである。

 この宝暦事件に連座して、辞官落飾に処された公家の一人に岩倉尚具(ひさとも)がいた。
 岩倉家は村上源氏である。
 村上源氏は、村上天皇の第七皇子具平(ともひら)親王の子師房に源氏の姓が下賜されて、始まっている。その嫡流が久我家である。岩倉家はこの久我家を宗家としていた。

 村上天皇は、先代の醍醐天皇とともに、中世の公家社会において、天皇親政の理想時代とされてきた延喜天暦の治を推し進めた天皇であった。 
 そういった由来もあって、代々、村上源氏は天皇親政の志を持ち、摂関政治を執り行ってきた藤原氏には傍流に追いやられてきたのであった。
 『神皇正統記』の著者として有名な北畠親房も村上源氏であるが、やはり彼も、延喜天暦の治を慕って、天皇親政を理想として、討幕に邁進した後醍醐・後村上の両天皇に忠義を尽くしている。
 ちなみに後醍醐・後村上両天皇のおくりなは、醍醐・村上天皇の跡を追おうとの志に由来していている。

 その村上源氏の傍流岩倉家に尚具は生まれた。
 そして、桃園天皇に近習として仕え、竹内式部の説くところによって先祖代々の志を行おうしたが、幕府と通じてその権勢を維持している摂関家に阻まれて、落飾の憂き目にあったのである。
 この尚具の二代後の具選(ともかず)は、寛政の三奇人の一人で勤皇の志士として高名な高山彦九郎と親交があった人物で、その三代後の当主に維新の功臣岩倉具視がいる。

 岩倉具視は十四歳の時に、下級の堂上家堀河家から岩倉家に養子に入った人物だが、実際の血のつながりがない分、より一層岩倉家の家訓を肝に銘じて育った。
 その家訓とは、尚具の「よく余が微衷を察し、忠孝の二字を心肝に刻銘し、奮励奉公して、村上源氏の名声をけがすことなかれ」というものであった。
 尚具は、後三条天皇が摂関家の権勢を削り、天皇親政の実を挙げようとされたときに、これを支えた村上源氏の遠祖源師房の名声をけがすな、と子孫に言い残していたのである。
 岩倉具視の、時に剛腹な王政復古活動を支えてきたのはこの訓戒だったと見ていい。
 このことは彼が、大政奉還の直前の九月まで、これから為すべき事業を建武の中興に範をとろうとしてきたことからもわかろうというものだ。
 岩倉は慶応三年九月に国学者の玉松操に会って、神武の創業に則れという卓論に服すまでは、建武の中興の偉業に復せんとの宿望を抱いていたのである。建武の中興こそは、延喜天暦の天皇親政の理想時代に返ろうとの目的で、王政復古までは成功しなかったが、討幕までは成功を収めた歴史的先蹤だったのである。討幕を控えたこの時期(大政奉還の一月ほど前)、彼が建武の中興を意識したのは、彼の出自から考えて、自然だったといってよい。

 その岩倉が慶応三年十二月九日の王政復古のクーデターの際、王政復古の大策断行を奏した文書は残っていないが、同十月に草した王政復古の奏聞書なる文書がある。
 この文書は日付が記されていないところから見て、提出されたこと自体疑わしいのであるが、当時の事情をよく汲めば、その性格を確定することは困難ではない。それにはまず、大政奉還の建白提出前後の薩長の挙兵計画を見ていく必要がある。
 王政復古討幕派の指導者達の見るところ、土佐藩から大政奉還の建白が為されれば、幕府が先に、反幕的的態度の明らかな藩に対し強権を発動するのは必至であったから、彼らは建白提出より先に、すなわち九月中には、挙兵することを申し合わせていた。
 結局、この義挙の計画は薩摩藩兵の上京が遅れたため、練り直されることになったのだが(十月九から十日にかけての出来事)、その直前の七日付大久保宛岩倉書簡から、岩倉から大久保に閲覧および加筆修正を依頼した文書があったことが窺われ、それに当たるのがこの奏聞書ではないかと思う。
 つまり、薩長の挙兵とともに、岩倉が天皇に密奏するつもりの文書であったが、計画の練り直しとともにお蔵入りになった文書ではなかったか、ということである。

 ここに彼の王政復古の趣意は明確に現れているが、ここでの主題に関連している箇所を抜き出すことにしよう。(全文は後に掲げることにする。)


「そもそも皇家は連綿として万世一系、礼楽征伐、朝廷より出で候て、純正淳朴の御美政、万国に冠絶たり。」


 ここで特筆しておきたいのは、岩倉がここで述べている文明観である。
 礼楽征伐の根源が朝廷にあり、それが天子たる天皇から出ている、というのが万国に冠絶たる美政、というのは、もちろん『論語』の「天下道あれば、礼楽征伐、天子より出ず」云々から来ている。(万世一系を理想とする点についても、江戸期の和儒学が到達した、『論語』に対する深い読みがあったのだが、そのことはしばらく措いておく。)
 すなわち岩倉にとっては、日本ではかつて道が行われていた時代があったということである。
 もちろん、彼にとって、その理想時代が醍醐・村上両天皇の、いわゆる延喜天暦の治にあったことは、これまでの記述から明らかであろう。
 そして、わざわざそれを『論語』の文言を以て表したということは、例の詩学に始まり、礼楽を以て成る、教養の伝統があり、そこに備わった、まことの心に支えられた、深くて豊かな言語経験に基づく政治が行われていた、というイメージがあった、ということなのである。
 岩倉にとって、古代日本とはまさに、柿本人麻呂や山上憶良といった万葉の歌人が詠んだような、言霊の幸ふ国だったわけだ。
  
 このような文明観があったから、当然、武こそがその正当性の根源である、武家政治というものは否定されなければならなかった。

 だから岩倉は先の奏聞書の続くくだりにおいて次のように書いている。


「然るに、中葉以降、覇府大柄を掌握し、文武分岐し、天下の大勢、古代とは一変し、朝廷は全く虚器を擁せらるるの姿にて、万民は上に天子あるを知らざるの陋習と相成り、愧ずべく、歎ずべきの甚だしきものに候。」

 武家が台頭してきて政治権力を握ったについては、朝廷がもっぱら言霊の政(まつりごと)にとらわれて、独特の宗教感覚から血の穢れを遠ざけて、征伐を疎かにするなど、さまざまな要因があった訳で、岩倉の武家政治批判をそのまま受け取るわけには行かないが、少なくとも武家が専横を極めたように勤皇家の眼に映った幕末には、実感のあるものだったといえよう。だからこそ閉塞感漂う現実を動かしえたのだ。

 確かに、朝廷の意見を質して、勅許を得ることを重視し、朝廷の権威を高めたのは幕府でもあったわけだが、一方で自己の政治的立場を貫こうとしたゆえに、いっそう彼らの専横振りを世間に際立たせた、という一面もあったのである。
 歴史を近視眼的に見れば、確かに、朝廷は当時の困難な政治を担う能力を欠いた虚器であったが、一方で、江戸時代という長いスパンで歴史を眺めてみれば、朝廷を虚器にしてきたのは、神祖家康以来の徳川幕府の伝統的政策だったことを考えれば、どちらに根本的原因があったかは明瞭だろう。(さらにもっと長いスパンで見れば、もう一つ違った見方が可能であるが。)

 天皇親政の志を代々温め続けてきた村上源氏の、その傍流に位置していた岩倉には、その根本要因がよく見えていたのだろう。
 朝廷においては、その幕府の伝統的政策と通じて、権威を維持してきたのが摂関家だったのであり、だからこそ王政復古の大号令とともに、摂関政治は廃されなければならなかったのである。

 しかし、それは村上源氏を傍流に追いやってきた摂関家に対するルサンチマンに終わるものではなかった。
  そこには、日本本来の姿である、言霊の幸ふ国という文明観の体現者にして保持者たる天皇に、礼楽征伐の権限を返させることで、日本文明本来の姿を再生させようとの意が含まれていた。彼が中葉以来の日本の歴史を、「文武分岐」と表現した時に、そこに含まれた慨歎は、そのように大変深い意義を潜めているのである。 



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